編集部から集会報告の記事を依頼されていたので、1時前には会場に着くべく家を出たのだが、滅多にないことに京浜急行が信号機点検とかで途中ストップ。焦る思いで千駄ヶ谷駅に降り立つと、ホームは満杯、改札を抜けるのに何分かかっただろう。明治公園まで途切れることない人の波が続く。立錐の余地ない状態の公園内に入り、仲間の待ち合わせ目印の組合旗を探すが、余りの旗の多さにとても、とあきらめる。
発言の内容をきちんとメモせねば、とステージ近くに移動しようとするのだが、人をかき分けかき分けにじり寄るしかない。ようやくステージまで数10メートルのところまでたどりついてそれ以上は断念。まだ夏のギラギラした日差しが照りつけ、周辺の人々の体熱にのぼせてめまいがするようだ。それでも時折一陣の秋風がサッと吹いて生気を取り戻す。集会が始まった。
呼びかけ人の方々からの挨拶が始まる。必死にメモを取るのだが、スピーカーの調子が悪いのかしばしば聴き取れない。それでも熱い思いのこもった言葉が胸に沁みこんでくる。
ルポライターの鎌田慧さん・・・。「今日の集会は一つの結節点、これからの運動の出発点にしよう。全国署名はすでに100万人を突破した、目標の1000万人を達成しよう。原発の安全性・信頼性はすでに破綻した、8割の人が原発はもうイヤと言っている。どれだけの人々が被曝しているのか、どれだけの原発労働者が被曝しているのか?
私たちの意識を変えていく運動を進めなくてはならない。核と人類は共存できない。これ以上犠牲者を出さない。子どもたちに平和で安心な社会を残そう。3月24日、日比谷野音で署名運動集約の集会をやる。命がけで署名を頑張ろう!」
作家の大江健三郎さん・・・。「恩師渡辺一夫さんの言葉『狂気なしでは偉大な事業が成し遂げられないと申す人々もいられます。それは嘘であります。真に偉大な事業は狂気に捉えられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって誠実に地道になされるものです』の『狂気』は『原発の電気エネルギー』に置き換えることができる。イタリアの原発国民投票について自民党の幹事長は集団ヒステリーと言った、なんとエラそうな。イタリアの人々がチェルノブイリ事故以来25年間考え続けてきた上での国民投票、そこで福島の事故が起こった。放射能汚染された土をどうはぎ取るのか、子どもたちの健康をどう守るか。イタリアの人々はもう原発で命を奪われる心配をしなくていい。私たちはこれからも怯え続けなくてはならない。想像力をもたない政治家・経団連の実力者たちに思い知らせなくてはならない。私たちには民主主義の集会・デモしかない、しっかり頑張ろう!」
経済評論家内橋克人さん・・・。「これから生まれてくる人の分も含めて日本中から、世界中から結集した皆さんに感謝する。新たな『原発神話』が登場していることに注意を払わなければならない。技術が進めば安全な原発が可能だという。性懲りない原発推進の背景には核兵器を作る能力を持ち続けようという意図がある。さようなら原発、こんにちは命輝く国、その第1歩を歩き出そう!」
作家の落合恵子さん・・・「ここであなたに会えてよかった、しかし会うことになったきっかけを考えると腹立たしい、この腹立たしさを力に変えたい。青春時代ビートルズのイマジンを聴いた。想像してください、福島の子どもたちの今を。スリーマイル、チェルノブイリ、そしてフクシマ、何時、何処で次の犠牲者が出るのか心配しながら生きるストレスフルな生活は嫌だ。放射性廃棄物の処理技術も持たないのに原発を進める国は犯罪国家だ。まだ平仮名も書けない子どもが夜中に起きて、『ほうしゃのう、こないで』と泣き叫ぶような社会を続けさせてはならない。暴力に対し私たちは非暴力を貫く、決してあきらめない。熱中症ゼロ、逮捕者ゼロで歩き通そう!」
作家澤地久枝さん・・・。「膝の骨折と手術で療養していた。今日は這ってでも参加しようと思った、その思いがここに立たせてくれている。原爆の実験場にされた日本は原発を持ってはいけない国だったはず。核が暴走したら制御できない。何百億円もお金をばらまいて安全神話を作り上げてきた東電が役所に提出した資料は墨塗りだった。こんな傲慢な連中に私たちの命を預けてきたのかと思うと寒気がする。新しい国づくり、世直しの運動に私も連なっていく。加藤周一さんは『老若同盟』と言った。老若男女を問わない人間の砦をつくっていこう!」
国際環境NGO・FoEドイツ代表のフーベルト・ワイガーさん・・・。「フクシマの事故に衝撃を受けた。数十年来反原発を闘ってきた数百万のドイツ人から連帯の挨拶を送る。原発が制御できないものであることがはっきりとした。企業・政府もなす術がない。チェルノブイリ事故の真実も今に至るまで隠され続けている。ドイツは2022年に脱原発する。脱原発はできるかどうかでなく政治的に決断するかどうかの問題だ。今、私たちは民主主義のもとで脱原発を声高く訴えていくべき、共に闘っていこう!」
俳優の山本太郎さん・・・。「生きていたい、命を守ろうという気持がここに溢れている。自分の人生も3/11で変わった。目の前の利益を守りたい者には目障りだろうが。マスコミは金で去勢され骨抜きになっている。高濃度汚染区域から人々を逃がす、原発を一斉に止める、それしか生き伸びる途はない。河野太郎議員が言っていた、選挙区の議員に働きかけることが大事だと」
福島ハイロアクションの武藤類子さんは、時折声を詰まらせながら訴えた、「原発事故で受けた悲しみを伝えたい、その思いで福島から声掛け合って参加した。福島県民に暖かい援助の手を差し伸べてくださった皆さんに感謝する。大変な荷物を背負わせてしまった子どもたち、若い皆さんにこのような現実を生み出してしまった者としてお詫びする、ごめんなさい、本当に申し訳ない。美しい郷土福島。しかし福島県民は被曝者となってしまった。私たちは実験台なのだ、私たちは見捨てられたのだ、その思いが募る、私たちをバカにするなと言いたい。私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼なのです。私たちは東電・政府の責任を追及し出来ることは何でもする。福島を忘れないでほしい、私たちに繋がってください。美しい星地球と調和したまっとうな生き物としてありたい。私たちは変わることができる、奪われた勇気を取り戻そう。軽やかにのびのびと生きていこう!」
ノーム・チョムスキーさん、スーザン・ジョーンズさんら海外からの連帯のメッセージが寄せられていることが紹介された。全員でシュプレヒコーgou ルを挙げデモに出発。私ははぐれて一人自分の組合の旗を掲げて行進した。携帯電話で連絡を取り、解散地点で仲間を待つことにする。目の前の信号待ちのタクシーの窓から身を乗り出して「原発いらない」のプラカードを掲げる人がいる。何と大胆な!と思ったら大江健三郎さんだった。周りの人も気がついて、「解散地点に行かれるのですか?」「いえ、帰宅するところです」の会話。私も何か声をかけたかったが、咄嗟のことで「頑張りましょう!」と言うのが精いっぱい。通過するデモ隊列、解散して戻ってくる参加者にプラカードを振り続ける大江さんの真剣な表情を、私は忘れることはないだろう。(池上 仁)
福島のみなさん、どうぞ一緒に立ち上がってください。
みなさんこんにちは。福島から参りました。
今日は、福島県内から、それから避難先から何台ものバスを連ねて、たくさんの仲間と一緒に参りました。初めて集会やデモに参加する人もたくさんいます。それでも福島で起きた原発事故の悲しみを伝えよう、私たちこそが「原発いらない」の声をあげようと、声をかけ合いさそい合ってやってきました。
はじめに申し上げたい事があります。
3.11からの大変な毎日を、命を守るためにあらゆる事に取り組んできたみなさんひとりひとりを、深く尊敬いたします。
それから、福島県民に温かい手を差し伸べ、つながり、様々な支援をしてくださった方々にお礼を申し上げます。ありがとうございます。
そして、この事故によって、大きな荷物を背負わせることになってしまった子供たち、若い人々に、このような現実を作ってしまった世代として、心からあやまりたいと思います。本当にごめんなさい。
さて、みなさん、福島はとても美しいところです。
東に紺碧の太平洋を臨む浜通り。もも・なし・りんごと、くだものの宝庫の中通り。
猪苗代湖と磐梯山のまわりに黄金色の稲穂が垂れる会津平野。
そのむこうを深い山々がふちどっています。
山は青く、水は清らかな、私たちのふるさとです。
3.11原発事故を境に、その風景に、目には見えない放射能が降りそそぎ、私たちはヒバクシャとなりました。
大混乱の中で、私たちには様々なことが起こりました。
すばやく張りめぐらされた「安全キャンペーン」と不安のはざまで、引き裂かれていく人と人とのつながり。地域で、職場で、学校で、家庭の中で、どれだけの人々が悩み悲しんだことでしょう。
毎日、毎日、否応なくせまられる決断。逃げる、逃げない? 食べる、食べない? 子どもにマスクをさせる、させない? 洗濯物を外に干す、干さない? 畑をたがやす、たがやさない? なにかに物申す、だまる? さまざまな苦渋の選択がありました。
そして、いま、半年という月日の中で、次第に鮮明になってきたことは、事実は隠されるのだ。
国は国民を守らないのだ。
事故はいまだに終わらないのだ。
福島県民は核の実験材料にされるのだ。
ばくだいな放射性のゴミは残るのだ。
大きな犠牲の上になお、原発を推進しようとする勢力があるのだ。
私たちは棄てられたのだ。
私たちは疲れとやりきれない悲しみに深いため息をつきます。
でも、口をついて出てくる言葉は、「私たちをばかにするな」「私たちの命を奪うな」です。
福島県民は今、怒りと悲しみの中から静かに立ち上がっています。
子どもたちを守ろうと、母親が、父親が、おばあちゃんが、おじいちゃんが……。
自分たちの未来を奪われまいと若い世代が……。
大量の被曝にさらされながら、事故処理にたずさわる原発従事者を助けようと、労働者たちが……。
土地を汚された絶望の中から農民たちが……。
放射能によるあらたな差別と分断を生むまいと、障がいを持った人々が……。
ひとりひとりの市民が……。
国と東電の責任を問い続けています。
そして、原発はもういらないと声をあげています。
私たちは静かに怒りを燃やす東北の「鬼」です。
私たち福島県民は、故郷を離れる者も、福島の地にとどまり生きる者も、苦悩と責任と希望を分かち合い、支えあって生きていこうと思っています。
私たちとつながってください。私たちが起こしているアクションに注目してください。
政府交渉、疎開裁判、避難、雇用、除染、測定、原発・放射能についての学び。そして、どこにでも出かけ、福島を語ります。
今日は遠くニューヨークでスピーチをしている仲間もいます。思いつく限りのあらゆることに取り組んでいます。
私たちを助けてください。どうか福島を忘れないでください。
もうひとつ、お話したいことがあります。
それは私たち自身の生き方、暮らし方です。
私たちは、なにげなく差し込むコンセントのむこう側を、想像しなければなりません。便利さや発展が、差別と犠牲の上に成り立っている事に思いをはせなければなりません。原発はその向こうにあるのです。
人類は、地球に生きるただ一種類の生き物にすぎません。自らの種族の未来を奪う生き物がほかにいるでしょうか。
私はこの地球という美しい星と調和した、まっとうな生き物として生きたいです。ささやかでも、エネルギーを大事に使い、工夫に満ちた、豊かで創造的な暮らしを紡いでいきたいです。
どうしたら原発と対極にある新しい世界を作っていけるのか。誰にも明確な答えはわかりません。
できうることは、誰かが決めた事に従うのではなく、ひとりひとりが、本当に、本当に本気で、自分の頭で考え、確かに目を見開き、自分ができることを決断し、行動することだと思うのです。ひとりひとりにその力があることを思いだしましょう。
私たちは誰でも変わる勇気を持っています。奪われてきた自信を取り戻しましょう。
原発をなお進めようとする力が、垂直にそびえる壁ならば、限りなく横にひろがり、つながり続けていくことが、私たちの力です。
たったいま、隣にいる人と、そっと手をつないでみてください。見つめあい、お互いのつらさを聞きあいましょう。涙と怒りを許しあいましょう。今つないでいるその手のぬくもりを、日本中に、世界中に広げていきましょう。
私たちひとりひとりの、背負っていかなければならない荷物が途方もなく重く、道のりがどんなに過酷であっても、目をそらさずに支えあい、軽やかに、ほがらかに生き延びていきましょう。
ありがとうございました。(文責・編集部)
高田 健
菅直人首相が辞職し、2009年の政権交代以来、民主党政権で3代目、野田佳彦政権が誕生した。
13日からは臨時国会が開かれ、両院で首相の所信表明演説が行われた。私たちは「5・3憲法集会実行委員会」の各団体と共に、この日、「憲法審査会を始動させるな、憲法を震災復興に生かせ! 9・13緊急院内集会」を開催し、「○全ての原発からの撤退を! 全ての大震災被災者の救援を! ○普天間基地即時撤去! 辺野古新基地建設反対! 南西諸島への自衛隊基地建設反対! ○国会議員の比例区定数削減反対! 増税反対!」のスローガンを掲げて、野田新政権に対決する立場を明らかにした。
この日の院内集会をまえに、臨時国会初日の「院の構成」の協議にむけて、自民、公明の要求に応えて民主党からも憲法審査会の委員名簿を提出するという動きがあった。結局、参院民主党が委員名簿の提出が間に合わないということで、今国会では見送りになった。しかし、民主党新執行部は9月5日の時点で、衆院憲法審査会長に大畠章宏前国土交通相を内定していた。このことは、野田政権のもとでの憲法審査会の始動が、今後、予断を許さない情勢になったことを意味している。
2009年の総選挙で、積年の自公政権による悪政を批判し、「国民の生活が第一」というマニフェストを掲げて政権交代を実現した民主党は、民主・社民・国民新の3党合意政策を掲げて出発したが、とりわけ「県外移設」を約束した普天間基地撤去の問題で、米国・財界・官僚などの圧力によって、まもなく鳩山首相が腰砕けとなり、「普天間の名護移設の日米合意」を結んだことで社民党の政権離脱をまねき、連立政権が崩壊した。鳩山辞任のあとをついだ菅内閣は外交、内政の両面で自公政権時代への逆走を露わにした。「3・11」を経て、東日本大震災と原発震災への対応の不手際から退陣に追い込まれた菅首相に野田佳彦が取って代わった。野田新首相は、最初の所信表明演説や、雑誌への論文などで、安保・原発・増税など重要政策でいっそうの右派シフトが目立つ政治姿勢を露わにしている。
政調会長という民主党新執行部でのキーマンの位置に就いた前原誠司は就任後、ただちに訪米して、日米同盟深化、普天間の辺野古移設の推進、武器輸出3原則の緩和、PKO5原則の緩和などを米国に約束して見せた。また、前原民主党憲法調査会会長の意を呈して、前述のように民主党は憲法審査会の始動への動きも始めた。
政治家・野田佳彦の政治思想を見る上で、材料とすべき文書は4つある。この臨時国会冒頭における「所信表明演説」、2009年に新潮新書から出した著作「民主の敵~政権交代に大義あり」、雑誌『文藝春秋』9月号の論文「わが政権構想」、同じく雑誌『Voice』10月号の論文「わが政治哲学」だ。「所信表明演説」や「Voice」論文は首相就任後の発言でもあり、政治的配慮から、多少、他の文書から見れば主張があいまいになっているきらいがあるが、これら4つの文書を中心に分析しておきたい。
【歴史認識】まだ菅内閣の財務大臣だったころの8月15日、野田佳彦はかつて野党時代に提出した首相の靖国参拝に関する質問主意書で「戦犯の名誉は回復されており、『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」として、参拝は問題ないとしていた認識について「基本的に考えは変わらない」と述べ、その立場を再確認した。この野田財務相の極めて反動的な「歴史認識」は中国や韓国など、東アジアの国々から厳しい批判をあびた。その後、首相に就任するや「私は政府の立場なので(政府の)答弁書を踏まえて対応したい」(8月30日)、「これまでの内閣の路線を継承して、首相、閣僚は公式参拝はしないようにしていきたい」(9月2日)と軌道修正したが、この靖国参拝に関する発言に、野田という保守タカ派的政治家の本質が現れていると見るべきだ。
【大連立志向・民自公協調路線】野田は『文春』9月号論文のなかで「与野党の連立政権か閣外協力か、協力の形はともかく」「国全体の統治機能の再構築」の「最大の課題は与野党の協力です」とのべ、「特に自民党、公明党との合意、協力なしに、法案を成立させ、政策を実行するのは非常に困難です」と主張している。そして彼は首相になるや旧政権の「民自公3党合意」の尊重をくりかえし確認した。この点は著書「民主の敵」で非自民の保守の立場を強調しながらも「大連立」を拒否しているのとは大きく異なっている。しかし、民主党新執行部は自公両党との協議を優先し、その密室協議によって重要課題の全てをきめ、国会での審議を軽視するという反民主主義的姿勢を露わにしている。
【大増税】野田は『文春』論文で、「最大の危機は財政」と言い、「税制抜本改革」を主張し、持論である消費税増税などを正当化している。「Voice」の論文でも増税による財政再建が急務であることを強調している。臨時国会でも早速「復興増税」に着手し、将来の財政再建を名目にした消費税増税に道を開いた。
【原発維持・再稼働】「文春」論文では「電力を安定的に供給する体制をつくる責任」から「安全性を徹底的に検証した原発」の再稼働と、原発の輸出の継続を主張、「原発の依存度を減らす方向を目指しながらも、少なくとも2030年までは、一定割合は既存の発電所を活用する、原子力技術を蓄積する」ことを訴えている。「所信表明演説」では原発災害への具体的な救済施策には触れないままで、2012年夏に新しいエネルギー戦略と計画の策定を主張、「『脱原発』と『推進』という2項対立」でなく、「中長期的には、原発への依存度を可能な限り引き下げていく」などと言い、「安全性が検証・確認された原発」の再稼働推進を主張した。9月20日、野田は米紙ウォールストリートジャーナルのインタビューで「来年夏に向けて、できるものは再稼働しなければ、電力不足になった場合には日本経済の足を引っ張る。きちんとやらなければならない」などと語った。そして22日の「原子力安全首脳会合」では「日本は原発の安全性を世界最高水準に高める」「原子力を利用する国々の関心に応える」と原発の継続を表明した。
また菅内閣の外相としてベトナムなどへの原発輸出を推進した前原・民主党政調会長は21日、記者会見で「日本の原発の安全性に対する信頼は揺らいでいない。輸出はしっかりやるべきだ」と語った。
さらに、自民党の石破茂政調会長は雑誌「SAPIO」10月5日号で、あからさまに「私は核兵器を持つべきだとは思っていませんが、原発を維持するということは、核兵器を作ろうと思えば一定期間のうちに作れるという『核の潜在的抑止力』になっていると思っています。逆に言えば、原発をなくすということはその潜在的抑止力をも放棄することになる、という点を問いたい」と発言した。
この人びとは本当に懲りない人びとだ。「さようなら原発 1000万人アクション」など、脱原発・持続可能で平和な社会をめざす運動の強化が求められている。
【「日米同盟」】「日米同盟」は、「(日本のみならず)アジア太平洋地域、更には世界の安定と平和のための『国際公共財』」だとして、今後とも「日米同盟を深める」と強調しているのは文春論文も所信表明演説も同じだが、特に文春論文は、大震災で「米軍と自衛隊の共同オペレーションが成功した」ことを「大きな成果」とまで踏み込んで評価した。今回の米軍の「トモダチ作戦」が日米軍事共同作戦という側面を持っていた事への積極的評価だ。特に文春論文では、中国を「地域における最大の懸念材料」、北朝鮮を「北東アジアにおけるもっとも深刻な不安定要因の一つ」と規定し、昨年末の「防衛大綱」の「動的防衛力構想」を積極的に評価した。また所信表明演説では「普天間移設の日米合意継承」を強調した。「Voice」論文では「東アジア共同体などといった大ビジョンを打ち出す必要はない」とのべて、米国に配慮して、鳩山元首相が打ち出した同構想を棚上げした。
沖縄の普天間基地撤去、辺野古・高江での新基地建設反対などの課題や、南西諸島での自衛隊配備強化、基地建設に反対する課題はとりわけ重要になっている。
【憲法改悪】憲法に関しては他の論文では直接の言及はないが、「民主の敵」で集団的自衛権を認める時期だ、派兵恒久法を作るべきだ、9条と自衛隊の関係などをあげ、「解釈で問題をしのぐやり方は危ない」「護憲か改憲かという紋切り型の議論ではダメ」でそれゆえ「私は新憲法制定論者だ」などと言っている。野田首相は9月15日の参院本会議で、憲法改正について自民党の中曽根参院議員会長に「新憲法制定論者」と自称していたことをただされると、「政治家個人としての持論はあるが、首相の立場として憲法を順守し、現行憲法下で最善を尽くす」「震災復興など喫緊の課題が山積し、憲法改正が優先課題とは考えていない」と答えた。
野田は2002年の衆院選の際の野田氏の公約では「一切の侵略戦争を放棄した上で、自衛隊の存在を憲法に明確に位置づけ、有事への対応やシビリアンコントロールに万全を期す」と述べ、第9条に自衛隊を明記する明文改憲を主張した。また2009年衆院選の際の「毎日新聞」による「候補者アンケート」では「9条改憲に賛成」「集団的自衛権の行使に関する政府の憲法解釈」の見直しなどを主張しており、北朝鮮に対しては「圧力をかける」を選択している。
緊急の課題になりつつある憲法審査会の始動を許さない運動の強化に加えて、野田首相が国連総会への出席に際して表明した「自衛隊の南スーダンへの派兵」の動きは見逃すことはできない。
【国会議員の定数削減】野田は「民主の敵」では「(民主党では比例代表を80人削減しようというコンセンサスがあるが)私個人としては、小選挙区300人だけでいいと思っています」といっている。この臨時国会では首相は「議員の歳費やボーナスだけでなく、定数削減という大きな問題もあるので、与野党協議で具体的に詰めるため、協議のテーブルにつくことを強く期待している」と定数削減への意欲を示した。民主党の藤井税調会長は「国会議員の定数削減は増税と同じ次元で考えないといけない」と主張している。野田は「定数削減とコストカットはイコールではない」(民主の敵)などと言っているが、実際には一部メディアなどの論調に乗じて、増税と歳出削減の議論と抱き合わせで、議員定数削減を論じている。
これらをみても明らかなように、野田新政権の政治路線は菅前内閣にもまして、従米路線と財界癒着の新自由主義路線に逆走する危険な内閣であることはあきらかだ。今後、私たちは野田内閣が進める政治路線を注視し、その危険性に警鐘をならし、東日本大震災と原発震災の被災者の復興・復旧の努力への全力をあげた支援と脱原発社会の実現をめざすたたかい最優先して活動しよう。合わせて憲法改悪に反対する運動、自衛隊の海外派兵に反対する運動など、さまざまな分野での政治的・大衆的な運動を強めなくてはならない。
大江健三郎、鎌田慧氏ら著名な知識人9人の呼びかけによる「9・19さようなら原発大集会」の6万人を結集した大集会の成功と、これにつづく「1000万人アクション」の署名運動は、従来の運動の幅を超えた新たな広範な共同の可能性への端緒を生み出した。この集会が9氏の呼びかけに始まって、いわゆる「原水禁」系の人びとによって準備され、広範な市民団体が実行委員会に結集する過程で、いわゆる「共産党系」と呼ばれる全労連や民医連などが参加して、幅広く取り組まれたことは、画期的なことだ。
こうした共同行動をさらに大きく発展させ、逆流と闘いながら前進しよう。
講演録:2011年5月21日 三鷹市「新川9条の会」で
蓑輪喜作
みなさんこんにちは。私が小金井から来ました蓑輪喜作です。
半生は16歳の時より44年間、故里新潟の山村の学校の用務員でしたので、おしゃべりは大好きですが、こういう場所でのあらたまっての話は不得意であるのに加えて、やがて82歳になりますので最近では物忘れや人の名前も出てこないことも多く、大変お聞き苦しい話になろうと思いますがよろしくお願いいたします。
それではまずはじめに3月11日午後2時46分、突然この日本列島を襲った東日本大震災のことから話させていただきます。みなさんもそれぞれの体験をされたと思いますが、あの日本中が廃墟と化した昭和20年の敗戦以来の国難というべきもので、この5年と半年「戦争をしない憲法9条を守って下さい」という署名を続けてきた者として、最近では地震と津波は天災だが原発は人間の作ってきたものと訴えています。
この地震国の日本列島に17の原発があって54基の原子炉があるということを今回はじめて知って驚いています。選挙中は菅さんはもたもたしているが原発を作って来たのは歴代の自民党で、その点の共産党も社民党も追求が弱いと言って下さいという声もありました。そんなことで最近ようやく東海地震の想定源域の真上にある浜岡原発を当分の間中止するということになりましたが危険度は世界一といわれており、私のやっている9条署名でもいろいろとその話も出て来ます。
桜の季節は自粛ムードで公園もあまり人が来ませんでしたが5月の連休には人も多く、バーベキュー広場での署名も沢山いただき、今日現在は45300になりました。この5月の連休中ですが、1日73、2日33、3日88、5日60、6日79、9日66、10日45とすっかり署名にのめりこんでしまいました。
さて今回特に力を入れて話したいことですが、3日の日は今日は憲法の日で都心では「憲法9条を守ろう」という集会と、「9条をなくして戦争もできるように」という集会と2つの大きな集会が行われています。しかも震災のどさくさにまぎれて、いまの憲法を変えるには国会の3分の2の賛成がなければ変えられないが、それを2分の1で変えられるようにしたいと自民党だけでなく民主党までまきこんでと言うとみんな驚きます。
いろいろの方とお話ししましたが、マスコミ関係の方で原発問題のデモにも参加された方のお話を聞くことが出来ました。
また親が子どもの教育の場にと遊んでいたのを呼んできて署名をさせたグループ、また高校生の女の子が私を追ってきて自分が署名し、家族やグループ全員に署名させたものもあります。またあなたには5年間毎年お会いしますと署名板は自分たちで廻してくれたグループ、新緑の中で楽しいやりがいのある日々が続きました。
さて、いまでは土地の人には「九条おじさん」と呼ばれて気がるに声をかけ、またバーベキュー広場などでは「ごめいわくでしょうが大切なことなので一言」などと言って声をかけていますが、いつの間にこんな人間になってしまったのだろうかと、しみじみ思うこともあります。
昨年はそんなことで人生を書けと言われて、その用務員人生を書き、本を出していただきました。「九条おじさんがゆく 署名は愛だ」という本で、この世でいちばん大切なのは人の命であり、私はその命を守る現行憲法を守る運動をやっているのだと。
この連休にも前回は署名しなかったのですが今回はすすんでやりますと言ってくれた人も何人かおりました。笑顔で誠実に接していく。決しておしつけない。いま個人情報にこだわる人が大変多いです。気が進まなかったらご無理なさらないように。しかし国民投票ということになりましたら、あなたの命のことになりますので守ってくださいと言うと、ハイという答えが返ってきます。
いろいろ話しこんでくる若者。どうもこの82歳という顔が効いているようです。3分でいいですからそこに座って下さいと、バス停のベンチに私を座らせて手を合わせてくれた人。また暑かった8月の月には、今日も蓑輪さんが無事でありますようにとお祈りをしてくれていた人。署名している私に寄って来て、黙ってアメ玉を握らせる人。実にいろいろの人に支えられての5年5ヶ月だったと思います。
しかしこの署名も2005年11月、小金井の9条の会が出来てから始めたのですが、今回はじめて言わせていただきます。それよりも半年前に私の友人でもあるここ三鷹市の佐藤八重子さんと斗光なほ子さんが、井の頭公園で9条を守る署名を始めたことをお聞きし、またその頃、いま90歳になる歌友で大先輩の青梅市の近藤幸男さんとその友人が、駅頭で9条の大宣伝をやっていることを知りました。加えて小金井での会設立では、1人で100名の会員を集めた女性の大健闘を目の前にして、私の若き日の故里での虫が体の中で動き出し、それまでの坂下にもミニバスを通して下さいという運動とタイアップしてはじめたのが私の九条署名の始まりです。
バスの運動は7年間続き、この間2回にわたって請願者の一人として議会で発言もさせていただき、ついに実現し今ではみなさんに喜ばれています。そういうこともあって昨年11月には「お年寄りが杖をつきながらでも近くに集まれるところを」の請願もし、議会で採択されました。その他、野川の遊歩道に休むところをということも実現しました。もう歳をとりましたので私自身は長く続かないと思いますが、若い人たちがひきついで下さるものと思っています。そんなことで新川では校区を中心にやっておられるということで、大変大切なことではないかと思っています。
次に昨年出した本以外のことですが、署名が3万になったときの西東京市の青年のインターネットを紹介します。
今週水曜日、免許の更新に行きました。無事更新できたわけですが、その帰りのバス停で署名を頼まれました。僕は普段は街頭募金や署名は断っているのだけれど、今回だけは賛同することにしました。その理由は「(1)活動団体が実在で既知」「(2)署名の意図が明確」というのを前提にしてその基準をクリアしたからです。
ご存じの方も多いでしょうが、九条の会(こがねい支部)の「憲法九条の保護」なので、まあ名前と住所が悪用されることはないだろうと。
さてそんな前置きで突然バス停の高齢の方に声をかけられてびっくりしたのですが、その高齢の方が「あなたが丁度4万人目です」と言うわけです。「なんと、それはすごいですね」なんて言いつつ、「さらに3年半でようやくです」と「なんと」さらにびっくり--。
そうして「九条の会こがねい署名」でPCで検索したら「九条おじさん」として有名人物で、どんなことかと言えば「公園などで特に若者を対象にして一人で署名活動を。
この人は大学の哲学科の卒業生で、私の聞き違いかなあとも言っていますが、3万人を聞き違えて4万人と思ったのだそうです。
それからいつも公園で会うスケートボードの青年もインターネットのブログに次のような文章を載せました。
Tの日記「蓑輪喜作氏」
今日も元気に熱中症一歩手前スケートを満喫したTです。Tシャツがね、汗吸いきれないで、表面からにじみ出た汗が滴るんです。そんないつものノガワスケートを楽しんでいると、名物じいさんの蓑輪喜作氏が登場☆
署名のおじいさんと僕らは呼んでいるけど、憲法九条の大切さを訴え、徒歩で署名を集めて歩き回り、今までに3万5千筆以上を集めたパワフルな方。ゆだるような暑さの中を81歳とは思えないしっかりした足取りで、署名を集める姿はマジすごいと思う。そんな蓑輪さんの本『九条おじさんが行く』が8月31日に出るらしい。九条がどうこうとか、政治的な話は置いておいて、自分の思いを多くの人に届けようとするその姿勢に感銘した1日でした。
これからも元気に署名活動を続けてほしいですね!
ある意味、蓑輪喜作氏もノガワローカルですから☆この記事へのコメント
1.自分もあのおじさんに以前、本をもらった事がありますよ。
がんばってますよね、あのおじさん。2.昨日も全員だくだくだったね!
あのおじさんも本をだせば後継者でてくるかな?3.ほんと、みならわなきゃですよね~。
我々も頑張らねば!
以上のような、若い人のインターネットをいただくこともありますが、今度は本当に4万人目です。
それは2010年11月27日午後、バス停から公園のバーベキュー広場に廻るところでした。快晴で土曜日でもあったことでかなりの人がいて、あるグループから突然「あなたは松代の人ではないですか」と声をかけられて驚く。そして「私は松之山の水梨出身です。蓑輪さんでないですか」と言われる。中年の女性で府中の浅間町に住んでいるのだが、体調を崩していままで入院していたのだが、気晴らしにみなさんと来ているのだと、私の本も買ってくれて署名板をみなさんに廻してくれる。農村労働組合のはなやかなりし頃も知っていて話がはずみ、いただいた署名もかなりになった。あと2名で4万ということになり、4万人目は小金井の若い女性がしてくれた。
さて、秋になると私の新潟をはじめいろいろと地方から採れたての野菜やお米を持って都会の娘さんや息子さんのところに来られる方も多く、バーベキュー広場では私もよく山形のいも煮です、福島のいも煮などといただくこともありあます。そして新潟の人とはよく故里の十日町小唄など唄うこともあります。昨年は新潟も上越出身という私と同姓の方ともお会いしました。
それから、自動車運転免許試験場のバス停では、外国の方の署名も多いということです。ワールドピースと言えばおおかた通じ、5大陸の沢山の人からの署名をいただいております。私の本もガーナの方が娘に読ませるからと買ってくれ、今年もフランスの方が買ってくれました。また、1バスぐらい送っていろいろと話をする方もおりますが、南米の方で日本人はいまのようだと駄目になってしまう、と言われました。中国や韓国人のようにねばり強さがないということです。このことはアメリカのシアトルにいるという中年の日本人も言っておられました。日本人は頭はよいし手先は器用だが、外国人のようなたくましさや粘りがないと。
それから中国、韓国の人には、「かつての日の軍国少年の一人としてかならず謝罪させていただきます」と言います。感激してくれるようです。ベトナム人などには、あの枯れ葉剤にも負けないでアメリカに勝った国ですねと言うとニッとほほえみます。
最初の1、2年は右翼らしき人に署名板を取り上げられたこともありました。その後も中国が、北朝鮮が、と言う人もありますが、なるべく柔らかに対応しています。
韓国の方には、道を歩いていてそのまま日本の炭鉱などに連行された話も聞きます。また昨年は、私は右翼だが戦争はきらいだと言って署名した人もおります。その頃、「赤旗まつり」で私の本のサインセールもあって参加したのですが、そのときは今までと違って右翼の車はおらず静かだった。私の前を歩いていた埼玉のおばちゃん達が、「共産党も右翼にまで見放されたのか」と言った。情勢は変わるもので、私は右翼の人にも九条の署名をいただいていると言ったらびっくりしていました。
また年配者の中には、いまの若者は駄目だと言う人もおりますが、署名の半分近くは若者でケイタイやインターネットにこもっています。話してみるとしっかりした者が多く、私はよく次のようなことを言っております。それは、私たちが大変な時代を生きて来たので、せめて子どもや孫には自分たちのような苦労を味あわせたくないとソフトに育てて来たからではないでしょうかと言いますと、うなずく人が多いです。年配者はもっと自分たちの生きてきた時代を語るべきだと思っておいます。
ホームレスのことですが、一昨年の年末には大変多く、それなりに各地に電話したり励ましたりしましたが、昨年は少なくほっとしておりました。最近になって身なりのきちんとした人で、どうやら一冬を越せたから、という人にお会いしました。まだ60代の方でしたが、いろいろと窓口もありますので困ったら遠慮なく申し出て下さいと言っておきました。
さて私の本のことですが、署名でもかなり買っていただきました。驚いたのは発売日が丁度お盆だったことで小金井の書店にまだなく、そのまま渋谷まで行き買ってきたという人もおります。今回は出版社が力を入れてくれて前回のものより広がったのですが、2003年に出しました「山間豪雪地帯に生きる」という光陽出版発行の本が残っていないかという者が多いので、いまの署名の出来る力の一つとして、当時故里の新潟日報の書評と「出稼ぎのうた」-出稼ぎ農民の手記-第1集の中の一人の青年の分を紹介したいと思います。
村山 幸一(24才)
新潟県くびき郡松代町にあるおれたちの部落は、高い山と深い谷の中で、わずかばかりの平地にしがみついて生きている。平均4反から5反だ。最高で1町3反だから全国平均からみたら全部落が貧農だ。山はあるが、もともと鉄道まで遠く、ろくな道路もなかったので金になる山じゃない。だから冬場は村中出稼ぎだ。娘っこたちはみんな年頃になると村をでてしまう。そんな部落におれたちは生まれ「中学出たら出稼ぎはあてりまえ」として育ってきた。
出かせぎはつらかった。仕事もきつかったが、何よりもつらいのは「百姓」とバカにされることだった。だから、はじめは東京の労働者がおれたちの仲間だなんて考えてもみなかった。だが、何年かの出かせぎの中で「たたかっている労働者」のなかに親切な人がいること、とくに東京争議団の労働者にあってから、おれたちの見方はいっぺんに変わった。
おれたちも「何でも他人まかせ」の考えから、「おれたちがやらなければ、一家の、村の、ほんとうの人間らしい生活なんかぶんどられてしまう。おれたちも、自分たちの要求をたたかう労働者のように団結してがんばろう」と身体でうけとめ、それを自らもとめていくようになった。争議団の労働者やそれといっしょにたたかっている労働者が、たくさんの経験や一人ひとりの生いたちや、どうしてたたかうようになったか、どうして団結したかを話してくれた。
村にかえった俺たちは、おやじ連中と酒をのみかわしながら、野良仕事にいく途中で、機会のあるごとに話しあった。「イモチ病がどうだ」とか、「昨日のみすぎて体のぐあいがわるい」とか、「子供の学校給食がはじまったら、金がいっそう忙しくなった」とか、「買う肉はけっこう高いが、おらたちの飼っている豚は値があがらん」「餌代がかかって、どうももうかっているんか、損してるんかわからん」とか、いろんな話しあいを深めていくようになってきた。
若いもんの集まりに、年配者がかならず加わってくるのも、あたりまえになってきた。やはり俺たちがおやじ連中のなかに入ってからだ。そしておやじたちは「このごろの若いもんは若いのか、年をとってるのか、どうもわからん」「しかし、若いもんが村のことをホントに心配してくれてる」というふうに、俺たちを信頼の目でみてくれるようになった。
そのなかから、あちこちで「村を守っていくためにどうしたらいいのか」「出かせぎしなくても生活できる村にするには、どうするのか」「職業安定所が失業保険受給のとき、おらたちを人間あつかいしない。もっと労働者としてみてくれ」「地元の土方賃金がやすい」「道路が悪くて耕運機がとおれない」「農協がこの頃すごくつきあいが悪い。押売り屋のもうけ農協だ」など、たくさんの不安、不満と、どうにもならないような問題が山ほどでてきた。俺たちは、しんぼう強く考え、話し合った。
そして、「百姓でもあり、労働者でもある俺たちも、東京の労働者のように労働組合をつくってたたかおう」ということになり、農村労働組合の県連に指導をたのみこんだ。それまで俺たちのなかには、いろんな意見があった。「おかみにはだまっていた方がいい」「とことんまでやってみろ」「めんどくさい」など。しかし、「俺たちは出かせぎにいって、労働者が自分たちの要求を団結してたたかっているのをみてきた。俺たちも労働者なんだからやろう」となって、労働者と交流した青年を中心に、組合づくりがきまった。
村のなかにでっかいポスターをはり、ビラをくばった。「俺たちの生活を、村を守るために組合に入ろう」と、ダンナ衆だけをのぞいてよびかけていった。あるおやじさんは、「若い衆が先頭にたってやるんなら、おらも応援しよう」と加入を申しこんできた。また「こういうのがはじまるのを待っていた」人もいた。しかし「入るとひとにヘンな眼でみられる。ダンナ衆につつかれる」「農協にタテつくと、あとでいじめられるから」といって加入をしぶる人もいた。それでも、村の歴史はじまっていらいの「たたかう組織」農村労働組合が約60人を結集して生まれたのだった。そして、組合が、いつでもみんなで話しあって要求をきめ、運営していることがわかり、よろこんで加入してくる人もでてきた。
ダンナ衆に、むかしからおさえられていたいわゆる5反百姓が元気よくたちあがったのだ。
さっそく職業安定所へいき、「就職あっせんは責任をもってしろ」「強制的な就職あっせんはやめてほしい」「職員のことばづかいやたいどがらんぼうだ。もっと親切に求職者おうじてほしい」。これらの要求をもって代表6人で交渉した。いろいろ安定所からのいやがらせもあったが、ここで敗けるかと、こりずに俺たちは交渉をつづけ、いやがらせを一つひとつうちくだいていった。
村の中の問題も、労組は先頭にたってがんばった。大型車通行止めの道路に、町長が勝手にとおることを許して、俺たちの部落はそのためにすっかり道がこわされ、とても耕運機が荷物をつんでとおれなくなってしまったが、俺たち部落と労組は、町当局におしかけ「どうしてくれるんだ。もとどおりにしないなら役場にすわりこみをしてでも抗議するぞ」としんけんに訴え、とうとう砂利と人夫賃40人分をかちとることができた。
また農協で、押売り的な販売や、有効期限のきれた農薬などを売りつけていたこともとりあげ、このことを町中にバクロして、悪質な農協のやり方、百姓のための農協でなくなってきたことをチラシにして、1戸1戸配布する活動もやった。
最初は「とんでもないことをしてくれるな。もうあなたたちの部落は農協はめんどうをみない」といって、酒をのんだいきおいでどなりこんできたこともあったが、しんぼうづよく、大量に訴えていくなかで、部落中の怒りとなって、とうとう農協組合長以下3役が、わざわざ俺たちの村と労組のところに詫びにきたものだった。そして村中の怒りの声につきさされたのだ。
「肥料や飼料が高すぎる」「農機具を売ることばかりに熱心にならないで、修理やサービスの方にも力をいれろ」「売りっぱなしであとはなにもしてくれない」「貯金だ、それ共済だとあおりたてるが、俺たちには金はないぞ」「農協はどうもこのごろ商人になってしまった。オラたちとつきあいにくい」などと、村中が農協3役の前に不満をぶつけ、いっぺんに爆発した。
この力なのだ。町の中を、村の中を一つひとつ変えてゆくのは、誰でもない俺たち百姓や、農村労働者自身なんだということを、ハチの巣をつついたようなにぎやかさのなかでしっかりとにぎりしめることができた。
追伸
そして一夏に8回の職安交渉を。やがてその波は全国に広がり国会をも動かしていった。
次にそのとき私の本に寄せていただいた、いまは亡き農村労働組合の全国連の委員長だった藤の木利一さんの息子さんのお嫁さんの義枝さん(新潟県十日町市)の一文を紹介しておきます。
――当時10年近く続いた農村労働組合ですが、あの頃の運動の成果は受けつがれ、いまの農村のくらしに役立っています。例えば冬季保安要員制度によってどんな僻地でも冬でも車の入らない部落はなくなりました。また短期特例の雇用保険制度は冬期に仕事がなくなる寒い地方の住民にとって生活資金のつなぎが出来てありがたいです。建設業退職金制度はこんな人たちが退職金をもらえる制度です。どの制度を取ってみても生活実態の中からつくりあげられ、勝ち取っていった制度だと思います。
「人間らしく生きたい」何よりも農村に民主主義を、たたかいを通じ、根づかせてくれた意義は大きいと思います。誰もが「この国の主人公は私たちだ、この村の主人公は私たちだ」との思いを言えるようになりました。時代の変革者であったあなたたちは、すばらしい青年期を過ごし、有意義な人生を生きたと思います。それは過去ではなくて今でも青春の時の思いを脳裏に日々生きている人々なのです。――
以上ですが、この頃は出稼者も多く労働者の呼びかけで出稼ぎ者を励ます「東京交流集会」も開かれるようになり、ここ小金井でも長く市議会議員をやり平和運動家である大鳥龍夫さんがまだ「現代座」にいたころで、その出稼ぎ者を励ます集会に太鼓叩きに行ったと聞いております。
さて最後にいつも言うことですが、「政治は下から身近から」変えてゆくもので、私はよく「人が好きだ」と言いますが、とくにこの頃その思いが強くなっています。敵も味方にという言葉がありますが、誠実に愛情を持って接すれば時間がかかっても必ず応えてくれるものです。用務員時代は40代に入ってからは若い教師だけでなく、校長、教頭を含めて私が聞き役でした。奥さんに言えないことでも沢山聞かせていただきました。ただ一つひとつうなずき聞いてやるだけでしたが、みんな聞いてくれて有難うと笑顔で帰ってゆく姿がいまも忘れません。いまも現職の教師とも交流がありまして昨年本が出版されたときにも、ここ小金井まで来てくれた方もおります。
また、お名前は出せませんが、こちらに来てからもいつも聞き役になっている人もいます。
人、人です。地下水がしみ通ってゆくようにという言葉がありますが、憲法9条を守る運動は今年あたりが、いよいよ正念場でないかと思っています。と言うのは、先ほども申しましたが震災のどさくさにまぎれて憲法をかえやすくする動き、戦時中の翼賛政治のようにだけはしないよう、戦争を体で知っている世代として最後まで健康に気をつけて署名は続けてゆきたいものだと思っています。
大変まとまりのない話になってしまいましたが、長い間、ご静聴有難うございました。
土井とみえ
「第九条の会ヒロシマ」の藤井純子さんほか5名の方々が、福島のいわき市に行くという連絡をいただき、私は無理をお願いして同行させていただいた。8月6日、広島の集会に招かれた佐藤和良・いわき市議が、福島の実情を見てほしいということから実現した話だ。機会があれば被災地へ一度は行って見なければと願っていた私は、是非ともとお願いし、8月26日から3日間、震災後半年のいわき市を訪問することができた。
いわき市は、福島県の海側の南部に位置している。東京から常磐線で約2時間、茨城県の日立市を過ぎるともういわき市だ。夕方到着したからなのか、酷暑の東京とはちがい、海沿いの町の風は涼しく心地よかった。駅前はにぎやかで、原発事故を感じさせない。
いわき市は、一時は市の面積が日本一だったそうで、東京都よりも広い。人口は34万人ほどだが、原発事故の復旧工事関連のためにミニバブル状態となっていて、人口流入も2万人ほどになるのではないかという。警戒区域などから避難を強いられた人たちの需要も重なって、古いアパートなども空き家がほとんどなくなっているようだ。
8月26日の夕刻には、佐藤和良さんから福島県の県民健康調査について次のような話を聞くことが出来た。
まず、200万人の福島県民全員に、継続して実施するという健康調査がどのように行われようとしているかについてだ。福島県は県民1人ひとりに問診票を送りはじめている。県民のそれぞれが問診票に書き入れた3月11日以降の行動記録をもとにして被曝線量を推定し、放射線量の高い人から20万人を選び出して詳細調査を追跡して行う。この健康調査には、国と県をあわせて900億円が準備されていて、福島県立医科大学が委託事業として受注した。この事業に山下俊一(福島県放射線健康リスクアドバイザー)と神谷研二(同)がかかわって調査がはじまっている。
記入するにあたって、半年も前の混乱している中での3・11の前後の行動記録を書くことが出来る県民がどれほどいるだろうか? うろ覚えの行動記録で、しかも地域についても推定による線量によって判断し、20万人を選ぼうとしている。20万人のうち警戒区域に住んでいた8万人は全員が詳細調査対象になっている。しかし線量の高い地域である福島市や郡山市などに住む70万人が詳細調査の対象になってはいない。チェルノブイリの例を見ても、はじめから対象にしていないのはおかしい。200万人のうち20万人を選ぶ根拠は何かが示されていない。はじめからデータを取るための調査ではないのか。
健康調査というなら、まず1人ひとりに「健康手帳」を作ることからはじめるべきなのに、作らない。手帳にもとづいて「原発被曝者援護法」を作って救済すべきだ。政府が基準にしているICRP(国際放射線防護委員会)の1msv以上の人には、すべて医療と生活の保障をすべきだ。まったく不十分におわっている原爆被爆者保障の教訓を生かして、原発被曝者の保障は切り縮められないようにしたい。そのためにも、いわき市民放射能測定室をつくろうと準備している。そこに1台300万円するベクレルモニターを揃えたいので支援もお願いしたい。
8月27日は、いわき市役所にほど近い「ギャラリー界隈」で食事をとりながら女性たちのお話を聞くことができた。「ギャラリー界隈」は緑に囲まれていて、レストランでもあり、また陶器などのアート作品もあり、またちょっとしたたまり場でもあるようなスペースだ。ここで佐藤さんのお世話で、「脱原発福島ネット」や「いわきアクション!ママの会」などのみなさんと交流することができた。途中から福嶋あずさ・いわき市議もはなしの輪に加わっていただいた。女性たちは、つぎつぎ今の思いを語ってくれた。
28日の午後は佐藤和良さんと、お子さんを預けている立場でもある福嶋あずささんの両市議に案内をしていただき、好間保育園(社会福祉法人さくらんぼ会)を訪問した。いわき市の中心地から山側に車で20分ほどの、田んぼや畑と住宅、工場が混在している地域だ。好間保育園は放射能対策を頑張っている保育園で、すでに園庭表土のはぎ取りを園の努力で行っている。保育主任の遠藤さんから、次のような震災後のお話を聞くことができた。
3月11日は、園児にけがはなかったが、最終的に親が迎えに来ることができない2人の園児が、保母とともに保育所に宿泊することになった。次の日は、それぞれ自分の家のこともあるのに、保母全員が出勤した。幸いライフラインは無事だったが、しばらく休園して準備し、3月28日から開園にこぎつけた。再開の日から給食も行うことができたが、食材の調達は難しかった。しかし86人在籍していたがこの時点では半分も集まらず、全員が戻ってきたのは5月の連休あけだった。退所者もあったが、南相馬などから避難してきた方のお子さんが入所したりして、いまでは震災当時より園児は増えている。
4月には新年度の入所式ができた。前年度の卒園式は、園児の転居や避難のためにようやく4月24日に全員が出席して行うことができた。困難はあったけれどお赤飯を出すことができて、子どもも親も職員もともにうれしい卒園式ができた。
放射能への対策は、目に見えず体にも感じないものなので、線量計がほんとうに欲しかった。行くことができる講演会にはすべて参加して放射能のことを学習した。しかし行政の呼んだ講師は「大丈夫」と言い、反対側の講師は「危険」と言う。ここで生活していくにはどうしたらいいのかと悩んでいた。保育園の窓は全部締め切り、空気清浄機を導入した。
4月は園児を部屋の中で過ごさせた。この保育園は、もともと朝から晩まで子供たちが素足で土の園庭を走り回っていた。子どもの体をつくることを目標の一つにしているのに、室内で過ごさせるのはこの目標を大きく欠くことになる。そこでリズム遊びを重視したり、モップを使った遊びなど、使えるものを何でも使って体をつくる遊びを工夫した。園児の親には「子どもが夜寝てますか?」と声かけをして、園での運動が足りているかを確かめたりもした。このころ高圧洗浄機を借りて窓や雨どいなどを洗浄したあと線量を計測したら、あまり変化はなく高くはなかった。
プールを使えるようにするためにもいろんなことをした。地震でプールにひびが入ったので、まず直した。親と相談しながら希望を持ってプールの洗浄をすすめていって、7月5日から子どもたちはプールに入った。その後、いわき市が各地区ごとに使えるように高圧洗浄機を買ったので、親と相談して8月11~13日にかけて園の建物を洗浄した。
園庭の表土はぎはやりたかったが、はいだ土をどこに置くかも課題だった。この園は2年前にいわき市から民営化され、園の土地は市のものなので承諾がないと実施はできない。市は低い線量の場合は費用を負担するが、高い場合は補償の対象になるからと負担したがらず、なかなか返事が返ってこなかった。表土はぎを実施できないでいたが、県が負担するということで、8月16~17日のお盆中に表土をはいだ。こうして8月25日にはじめて園児を外に出せた。3歳の子は、ただ外で遊ぶだけなのに、楽しいね、愉しいね、という。0歳児はまだ歩くだけなのに、たのしそうだ。私たちも愉しかった。今後は砂場の入れ替えをしたい。
食べ物はまだ怖いと思っている。地産地消ということもあるが、給食の食材はまだ県産でない食材を納品してくれるよう頼んでいる。赤ちゃんのミルクの水も取り寄せているし、水道水もそのまま飲ませてはいない。外遊びができるようになって、だんだん「さくらんぼ保育園」らしくなっているが、いまは給食用の食材の入手が一番難しい。
28日の午前中は、長谷川秀雄さん(NPO法人「いわき自立生活センター」理事長)の車で、いわき駅から津波被災地区と、緊急時避難準備区域にあたる広野町を経て、第1原発から20キロの立入禁止区域入り口まで北上し、引き返していわき市にある仮設住宅を案内してもらった。
いわき市の長い海岸に沿って走る国道6号線の両側は、まもなく空き地が広がり、家の2階はしっかりしているのに1階部分は柱を残して後ろの景色が透けて見えてしまうという、異様な光景が次々に現れる。空き地と思ったところには家の土台のコンクリの跡が続いている。津波で生活をすべてもっていかれた空間が続く。広い空間も、透けて見えるのも、人の力でやっとここまで片付けた中間点だ。
四ツ倉では車を降りる。すでに相当の片づけが進んでいる地区だが、日曜日とあってボランティアが作業をすすめていた。火災の跡が残るコンクリートの建物には、赤字で「解体処分」が大書されている。浜に広がるこの地区に、どんなに多くの人々の営みがあったことか。隣接する久ノ浜もほとんどの家がなくなり、金融機関のビルは大きく傾いている。いま常磐線は「久ノ浜駅」が南の終点で、ここから北は「亘理駅」まで第1原発をはさんで途切れている。
いわき市の北に位置する広野町は、原発から30~20キロ圏の緊急時避難準備区域となり、国道の交通量は一気に減る。いまは使えない広野駅の駅前商店街でもシャッターが下りていて、歩いている人はまったく見かけなかった。ガラス戸が空いている、または洗濯物が干してある住宅もあったが、ごくごく少ない。人の気配はあっても締め切っているほうが多い。住人が激減した街ではパトカーや警備会社の車を度々見かけた。
緑の木々の向こうに、突然セピア色の大きな煙突が何本か現れた。出力380万KWの東電広野火力発電所だ。ここを過ぎるとまもなく警戒区域の20キロ圏入り口になる。警察のバス数台とパトカー、それにたくさんの警官。立ち入り禁止の馬鹿でかい看板が何枚も立ててある。すかさず車に警官が近づいてきて、実にソフトな語り口で「通れない」旨を言ってくる。この若い警官は、防護服も着せてもらえないでいいんだろうかと考えてしまった。車はここでUターンして戻ることとした。緑の森の上から、Jビレッジの大きな銀色の屋根が光って見えた。Jビレッジは豪華なサッカー場を作って地域に東電が寄付したものだが、今は第1原発事故の復旧に当たっている労働者の宿舎になっている。ざこ寝をしているそうで、生活環境は劣悪だといわれている。国道沿いの食堂前にある開店祝いの花輪が奇妙だ。震災後に集まった労働者のささやかないこいの場として利用されているのかもしれない。
20キロ地点から、海岸沿いに仮設住宅が作られているニュータウンへ向かった。津波の被害にあった海沿いの街を、いくつもいくつも通った。海沿いの道路は各所で壊れて、車は上下に大きく揺れた。橋が使えなかったり道路が壊れていて、迂回することもあった。住んでいた家をなかなか探せずに、曲がってしまった庭の囲いが残っていたのでやっと確認したという、長谷川さんの友人の家の跡の近くも通った。塩屋崎の近くの学校の校庭には、校舎の2階よりも高く瓦礫が積み上げられていた。浜沿いの空き地には各所でがれきが積み上げられていた。厚い防波堤が津波で壊されて、巨大なコンクリートの塊になって、海岸だけでなく陸地の奥まで散乱していた。
ニュータウンはいわき市の中心地より南に位置する人口15000人の大きな街だ。ここに相当数の仮設住宅が建てられている。建設業者の発案で再生の利く木造の仮設住宅も作られていた。ここに長谷川さんが建設中の「いわき自立センター」がある。長谷川さんは、センターの前に花壇やちょっと立ち寄れる場所をつくりはじめている。被災者どうし、また地域住民との交流の場になればという願いからだ。
午後は「さようなら原発 子供たちと私たちの未来を作るパレード」に参加した(「いわきアクション!ママの会」「NO NUKES MORE HEART(東京)」共催)。市役所の前の公園で集会のあと、いわき駅前を通って市の中心地を1周するパレードだ。参加者は120人ほどで、にぎやかな音楽、それに子どもたちも多い。すずなりの駅前テラスでは手を振って共感が寄せられた。ママたちの思い切った2回目のパレードでだとという。
佐藤さんは震災と原発震災への対応や9月議会を前にした忙しい中にもかかわらず、多くの人たちとの交流や、津波被災地と警戒区域の20キロ地点までの行程を準備していただいた。ほんとうに大切なものにたくさん触れさせていただき、感謝一杯です。大変おせわになりました。
角田京子
7月9日(土)から日立駅前、原子カ発電タービンのモニュメントの見える所に立って、署名活動をはじめました。
昨年11月13日(土)より「憲法九条を守り生かすことこそが乎和への道!!」といったプラカ一ドを持って、可能な限り土曜日ごとに立ち宣伝してきました。そこに今年の3月11日の原発事故「レベル7」という大惨事が。常磐線も東日本大震災により被災して不通となり、開通するまでの間にと思って脱原発のプラカ一ドを作りました。常磐線が開通しての4月16日(土)からは、9条と原発をセットにしての立ち宣伝を、7月9日(土)からは「さようなら原発」の全国署名活動もはじめたのでした。
ところが……デス。通行人には何も目に入らない、耳にも入らないようなのです。関心もないようにまっすぐ前を見て歩く人、下向きに、横向きに、歩いていく人……チラッと見ても、「あのオバサン。何やってんの?」といった様子のオバサン、オジサン達。目立つ所に立っているのに、皆さん、署名活動をしている私が見えないのか、通り過ぎていくのでした。とにかく、だれ1人署名してくれる人はいませんでした。日立の城下町だからかなあ、あんなタービンを飾ってある位の所だし、たった1人で駅頭に立っていたって疑心暗鬼で署名なんてできないのかも……。
AKB48とか、吉永さゆりとか、超有名人が立っていたら、もう署名したい人の行列だろうに……なんて思っていたら、黒いスーツをバシッと着込んだ4人の紳士たちが駅コンコース通路でチランを配り始めました。こちらはチラシはない、ただ署名を集めたいだけで……。よし、と思って、そのチラシをもらいに行きました。するとそのチラシは「日帰り入浴半額サービス券」つきで「8月だけの震災復興イベント」の案内。五浦のホテルの宣伝だったのです。聞いてみると、どうにか震災の復興は遂げたものの、原発事故による「風評被害」で客が来ない、ということなのです。「ワァ~そうですか、大変ですね。こちら、その原発が問題と思って、さよなら原発の署名活動してるんですよ。ぜひご協カ下さい」と言いましたら、1人の方が「そうすか、書きます」と言って書いてくれました。4人中2人が書いてくれました。そうしたら続くんですね。てさげ袋のオバサンが「えっ? 原発さようならね」と言って近づいて署名してくれました。ホテルマンの署名がこの第1日目の突破口になり、この日は17名の方々に署名をもらいました。
その後も土曜日に他に予定が入っていない日は必ず日立駅に行っています。署名活動は8時50分位から10時半まで。ライフワーク、といったかんじで取り組み続けたいと決意していまして、声を出す、話すのは楽しいです。
「僕は原発賛成なんです」と言って来た高校生がいました。素通りせずに、ちゃんと私に声をかけてきた、もうそれだけで立派な高校生です。「えっ、そうですか。今の福島原発事故があってもですか」というと、「しかたないと思います」。で、じっくりと話してみました。社会問題を織り交ぜて、そして先ほど、飯舘から避難してきたという人が署名してくれたことも。結局、高校生は私の説明をしっかり聞いてくれて、目に涙を浮かべ、署名してくれたのでした。
「うちの主人は日立で働いているんです。原発は問題あると思いますが、それで食べてきましたから、ちょっと……」
「うちの主人は東京電力で働いていたので、絶対、そういう署名はダメだといっています。私もできません」
「原発で働き、これで食べているんですが、やっぱりいけないよね、書こう!!」
生活基盤を考えて署名しない人、する人、いろいろです。
ただで800円くらいの本を配っていた統一教会のオバサンは「電力が足りないから原発利用するしかないっしょ」と言っていましたが、節電して、つましくくらしましょうとかいったら署名してくれました。
「東海原発も危ないとこでしたからねえ。私らも避難しなくちゃなんねがった!!」
足の悪いご老人、署名してくれたので、待っている奥様にも御願いしようとしましたら、「カアチャン、脳梗塞でよう、歩げっからいいけんど、署名はむりだなあ」
中学生も、高校生も、けっこう署名してくれます。自分の住所がわからないという中学生もいて、「アレ困った。こんど覚えておいてね」ってこともありました。障がいを持った若い子も署名してくれました。
毎回、この署名活動では20人前後の人が応じてくれ、いろんな話ができます。
「ごくろうさまです。だれかがこうして集めなくちゃね」と声をかけてくれるなじみの人もでてきました。
「あきらめない、つづけること」が道を造り、道が人をつなげると思います。
「九条の会」はこの秋、第4回目の全国交流集会を開催します。
同会のウェブサイトから、その実施要項を転載します。全国交流集会の成功のため、各地の「九条の会」会員の方々はできる限りのご協力をお願い致します。(編集部)
一、開催日時 2011年11月19日(土)午前10時30分~午後4時30分
二、会場 日本教育会館(東京都千代田区一ツ橋2-6-2)
三、主催 「九条の会」全国交流集会運営委員会
四、主な時間の流れ(予定)
9:45 受付開始
10:30 全体会(ホール)
開会あいさつ/よびかけ人の発言/地域・分野の「会」からの報告(大震災、原発震災の被災地から、住民過半数署名の経験、宗教者のネットワークの経験など)
12:30 昼食・休憩
13:30 特別分散会(ホールにて開催)、分散会・分科会(会議室を使用)
16:00 特別分散会・分散会・分科会終了(ホールに集合)
16:15 全体会(ホール)まとめのあいさつ
(1)北海道と九州ブロックの参加者は、12:30~の昼食時に交流できる場を設定します。
(2)分科会は「女性の会」を設けます。開催趣旨は以下をご参照下さい。
<開催趣旨> 分科会「女性の会」では、各地域の分野別「九条の会」としての女性「九条の会」の活動の交流を行います。つきましては、女性「九条の会」がまだ結成されていない地域、これから結成しようとしている地域の方々も、ふるってご参加ください。
(3)ホールで開催する特別分散会は、「各地の経験をじっくり聞く会」として、震災被災地、基地問題、原発事故 被災についてなど8名程度の発言者の話を聞いた上で、若干の質疑をまじえて運営します。
(4)ホール以外の分散会と分科会での発言はあらかじめ準備して、5分以内に収めてください(厳守・ただし発 言希望数によって変動あり)
(5)発言は、下記の2点をメインテーマに、それぞれの会の取り組みを踏まえた具体的な発言にしてください。
イ.今日の情勢の下での九条の会の意義や活動の方向性について。
ロ.九条の会の活動を地域、次世代にいかに広げていくか。
(6)16:15~の全体会は、各分散会報告は行わず、まとめの報告のみ行います。
五、参加申し込み
(1)参加者は、いずれかの「会」に所属していて、所属する「会」で相談のうえ、参加すること。
(2)参加希望者は、所定の参加申込書(1人1枚)および別紙のアンケート(1つの「会」1枚)を提出(郵送・ファクス・メール)し、参加証の交付を受ける。
参加申し込み、アンケート送付は九条の会事務局。
〒101-0065 東京都千代田区西神田2-5-7-303
FAX03-3221-5076
Eメール mail@9jounokai.jp
分科会「女性の会」、特別分散会「各地の経験をじっくり聞く会」の参加希望は、申込書の該当項目に○を、その他は一般に○をつけてください。
参加希望が定員を超えた場合には事務局で調整させていただきます。参加取りやめ、または参加者交代の場合は、すみやかに事務局に連絡してください。
(3)集会の参加者全員に配布を希望する資料は、A4判1枚(両面印刷可)、またはA3判1枚を必ず2つ折りしたもの(両面印刷可)を1000部印刷して11月12日までに事務局に届ける(必着)。規格に合わない場合は配布できない場合がありますのでご注意下さい。
(4)運営経費として、参加費1000円(学生は300円)を当日受付で納めてください。
六、その他
物品販売、展示は、「会」作成のものに限り、希望者はあらかじめ事務局に届け出て当日持参してください(販売は、休憩時間及び交流会終了後~17:30に、交流集会参加者自らが行う)。
不明の点は九条の会事務局
TEL03-3221-5075へ
GHQのケージス氏が亡くなって埋葬されたとき、ベアテ・シロタさんが棺に蔽いかけたと米紙で報道された「伝説!」の人気9条グッズ=「9条スカーフ」が以下の種類と枚数、市民連絡会の事務所に入荷しております。
1m×1m版は41言語で9条を書き込んでいます。
必要な方は生地と大きさ、色、枚数を指定して、メール(kenpou@annie.ne.jp)かFAX(03-3221-2558)で市民連絡会にお申込下さい。これが販売できる最後かと思います。
●もめん1m×1m、オレンジ11枚、各@1000円
●レーヨン1m×1m、(あづき色)8枚、(薄紫)9枚、(オレンジ)10枚、(オリーブ)8枚、各@1600円
●レーヨン150cm×50cm、(紺色)1枚、各@1200円
以下はスカーフ(1m×1m)にプリントされている言語の一覧です。