私と憲法121号(2011年5月25日号)


ちょっと待ってください、「原発国民投票」論

(1)はじめに

3月11日の東日本大震災の中で発生した福島第一原発の未曾有の事故は、被災地の東日本をはじめ、全国、全世界を震撼させています。遅まきながら政府も認めたように、この事故はチェルノブイリに並ぶ「レベル7」という原発事故であり、現在も収束することなく、進行中の歴史的な大災害です。

いま多くの市民がさまざまな形で被災者救援に立ち上がっています。国際的にも多くの努力があります。その連帯感に基づく市民の行動は感動的でさえあります。そのなかで原子力発電所についての議論が研究者や市民の間で積極的に展開され、それらの人びとは原発の延命、維持にきゅうきゅうとする政財界、学会、メディアなどへの批判をくり広げています。また全国各地で多くの市民たちが街頭に出て、「原発なしで暮らしたい」「原発を止めよう」「危険な原発を廃炉に」「エネルギー政策の転換を」などと叫んで、脱原発のデモをくり広げています。いま日本社会に市民運動のあらたな高揚の局面が生まれています。

私たちにとって、いままずもって必要なことは東日本大震災の被災者の救援と、なかでも放射能の被災にさらされている子どもたちをはじめ福島第一原発の被災者の救援です。そして、こうした災害を再び引き起こさせないために、なんとしても「脱原発社会」を実現することです。そのためには、山口県上関などをはじめ新たな原発建設計画の中止と、既存の全ての原発の廃炉を計画的に実現することであり、福島県の被災者や原発作業員の被曝の救済です。

そして自然エネルギーの推進を中心とした、大量生産・大量浪費の社会的価値観の変革によるエネルギー政策の転換の実現です。私たちの市民運動は、これから、この課題を背負って、長くきびしい運動に全力で取り組んで行かなくてはなりません。

こうした課題に直面する私たち市民運動の一部から、いま「原発国民投票」を要求する運動の提起があります。また、それでなくても一般的に言って、こうした「国民投票を」という期待は少なからず市民の中に存在するとおもわれます。この危険な原発に対して、自らの意志を何らかのかたちで表明したいという願いは健全で、ごく当然なことでしょう。

しかし、私たちが脱原発をめざして「国民投票」という手段をとるように運動することが正当かどうかの判断は慎重さを要することがらであり、それは重大な危険性をはらんでいます。取り急ぎ、この問題について検討しておきたいとおもいます。

(2)原発国民投票運動提唱者が主張しているもの

原発国民投票の提唱はいくつか聞こえて来ますが、今のところまとまったものとしては4月20日に、ある市民のメーリングリストに東京の河内謙策弁護士が提起した「原発国民投票」の提案(以下、河内提案)以外に知りません。失礼をかえりみず、河内提案を勝手に取り上げ、議論の都合上、筆者が要約して紹介し、これに添って問題点を検討することをお許し下さい。


私たちは、「このままでは日本は亡びる」「脱原発の国民投票を成功させるしかない」という思いから結成された、政党から独立した、小さな法律家・市民の団体です。

私たちは、日本の原発政策の根本的転換を実現するための最も確実な道は、脱原発の国民投票を成功させ、それを背景に脱原発の法律を制定し、その法律の力で原発企業や原発関係者の行動をコントロールする以外ないと考えます。
  しかし、日本で国民投票を実現するには、多くの国民が国民投票を望んでいるということを国会に分かってもらい、そのための法律を制定してもらわなければなりません。それゆえ、私たちは圧倒的多数の国会請願署名を皆様と一緒に集めたいと思っています。今こそ日本国民の“原発NO!”の意思を総結集しましょう。

署名をする人:[請願事項]と[請願の趣旨]に賛成であれば、思想・信条を問いません。個人でも団体でも可。個人の場合は未成年でも可。日本在住であれば国籍は問わない(ただし、国民投票の投票権者は、日本人に限定していることをご理解ください)。

署名の期限:当面、本年5月末を第1次集約、7月末を第2次集約、9月末を第3次集約とします(それ以降のことは、後日発表します。)集約後、適切な時期に衆議院議長・参議院議長に請願する予定です。
1 日本の原発政策の転換の是非を問う、以下の事項を主たる内容とする国民投票を実施するための法律を制定してください。

(1) 国民投票の内容は、以下の2項目のそれぞれにつき、賛成、反対、保留を意思表示するものとする。
1)新たな国民投票で原発の安全が確認されるまでの間、原発の増設・新設を一切禁止する。
2)日本に存在する既存の原発については、危険性の高いものから段階的に廃止する。
(2) 投票権者は18歳以上の日本国民とし、1国民投票事項につき1票の権利を有するものとする。
(3) 投票期日は、福島第一原子力発電所のすべての原子炉がいわゆる冷温停止状態に入った後、なるべく早い期日とする。

2 上記立法と同時に、国会は、国民投票に示された国民の総意に従う旨を決議してください。


では、以上の「河内提案」を順次、検討してみたいと思います。 

(3)原発問題は国民投票にふさわしいかどうか

日本国憲法には第96条で、国会で憲法改正の発議がされたら、国民にそれを問うための国民投票を行うことが書いてあります。憲法改正以外の課題に関する国民投票の規定は憲法にはありません。

この間、憲法調査会設置以降の国会での憲法改正国民投票をめぐる議論の中で、憲法以外の重要問題についても国民投票ができるようにすべきだとの意見が、とりわけ民主党のなかからあり、参議院での改憲手続法の議決の際にはこの問題は検討課題として「附帯決議」に加えられました。日本は他の多くの国々と同様に代表民主制を基本にして、補完的に憲法改正問題では直接の国民投票を想定しています。私は主権在民の立場から、重要な課題について国民に直接、投票の形で信を問うべきだとする主張一般には反対しませんし、できるだけそうした国民の意志表明の機会の拡大をめざすことに賛成です。しかしそれは無条件、無前提ではありません。国民投票制度には慎重に検討すべき多くの問題があり、国民投票のやり方、国民投票法の中身によっては民主主義に全く逆行するようなものになる可能性があるからです。

憲法第95条には「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない」とあります。95条が認めているのは特定地域に限られた立法における住民投票です。法律は建前上、全国民に平等に適用されるものですが、一地方にのみに適用される法律が作られると、その地域の住民だけが特別の制約や不利益を受けることになりかねないため、その是非を判断する権利を保障するために住民投票を規定したものです。しかし、この規定による住民投票は一度も実施されたことがありません。実際には沖縄への基地の集中とか、特定の農漁村への原発の押しつけが狙いであり内容であっても、法律の建前では『全国の不特定の地域』とされてきたからです。

また92条には「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」とあり、94条には「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる」とあります。これまで、原発や基地やダムなどで住民投票が行なわれたのも、これらによる条例制定に基づいて行われてきたもので、住民投票それ自体は法的な強制力を持たないが、地方公共団体の首長や議会の判断に対する「政治的な力」としての効果を持ってきました。これも当事者住民に意見表明の場を保障したもので、民主主義の実現にとって重要な規定でした。

これらの主旨からみても、ある地方の課題について他の地方の人が国民投票の形で賛否の投票をするのが妥当かどうかは、重要な問題です。とりわけ、ある地方と他の地方とが対等・平等の関係になく、一方の犠牲の上に他方の利益が成り立っているような関係のもとでしたら、どうでしょうか。

つまり、一国のエネルギー政策について国民投票で、直接、全主権者から意見を聴こうというのは、一見すると主権在民の原則に則っているように見えますが、原発が立地された「過疎地」の犠牲の上に、大都会の消費・浪費生活が成り立っている構造を放置したまま、大票田の都市も、「過疎」の地方も「同じ一票」で投票を行なうことを要求することが本当に公正・平等なのか、大いに疑問が残ります。この問題の正当性を、ヨーロッパのいくつかの国々で国民投票が行われているからとの例示だけで説明するのはあまりに乱暴すぎます。

今回のように、多くの死傷者や避難民を出した東日本大震災に伴う福島第一原発事故のあと、多大な放射能被災に苦しんでいる福島県のひとびとと、首都圏や関西の大都市の住民とは、果たして「対等」なのでしょうか。このところのいくつかのマスメディアの世論調査の結果で「原発現状維持」が多数との結果が出ていることも、この問題との関係でゆえなしとしないのです。

(5)で述べますが、どのような国民投票法なのかによって、さらにこの問題は不平等きわまりないものとなります。

結論をいいますと、「原発国民投票」は「原発住民投票」とは似て非なる、真の民主主義とはいえない不公正・不平等を前提にした提起なのです。

(4)脱原発をめざす国民投票法は可能か

上記の立場から、私は原発国民投票法案を作ること自体に賛成できないので、作られる法案の内容に全面的に詳細に立ち入る立場にありません。以下、国民投票法案の提起がいかに問題であるかを証明する範囲に限って、論じることにします(同様の問題を、私はかつて「改憲手続法」の議論のなかで、いくつかの文章に書いたことがあります)。

この河内提案でも自覚されているように、原発問題を問う国民投票を実現するには国会でまず原発国民投票法を制定させるしかありません。そして、提案は「(国民投票で脱原発が多数を占めることで)それを背景に脱原発の法律を制定し、その法律の力で原発企業や原発関係者の行動をコントロールする以外ない」と言っています。

ですから河内提案はたくさんの署名を集めて、「日本で国民投票を実現するには、多くの国民が国民投票を望んでいるということを国会に分かってもらい、そのための法律を制定してもらわなければなりません」という「国民投票法制定の請願署名運動」になります。言うまでもないですが、こうした法律を作るには国会の多数派の同意がいります。河内さんはその多数の議員を動かすために「圧倒的多数」の署名を集めるのだといいます。この国会の多数を獲得できるような「圧倒的多数」の署名の可能性の問題があります。

考えてもみてください。今回の福島第一原発の事故で、世論を前に動揺しているとはいえ、いまの国会は原発の「安全神話」を前提に永年にわたって原発政策を積極的に推進してきた自民党や、民主党、公明党の議員によって圧倒的多数が占められているのです。これが財界や官僚や、原発推進の御用学者や、メディアと癒着して、今日の政治を司っているのが永田町の実際です。これがいま大きく動揺しているのは事実ですが、これらの政治家の原発に対する基本的立場が変わるというほどのためには、よほどの動機が必要でしょう。決して楽観できません。

提案者の河内さんは「署名の期限」について「当面、本年5月末を第1次集約、7月末を第2次集約、9月末を第3次集約とします(それ以降のことは、後日発表します)」(河内提案を支持するある人は「脱原発に向けて国民投票を求めてゆく運動は必要だし、それをやるとしたら今を置いてないことも事実です」とその緊急性を指摘しています)と言い、その後「適切な時期に衆議院議長・参議院議長に請願する予定」ですと述べています。

ほんとうでしょうか。もとより、これは議長に請願してことが終わるわけではありません。国会に請願し、そのあと、署名に表現されたような「国民の意志を尊重する」国会議員たちが国民投票法案を起草して、議会にかけ、採択してもらうという計画です。

さてこの国民投票法案が起草されて国会にかけられなければ、ことは始まりません。民主党、自民党、公明党、その他が賛成したくなるほどの署名を一体、何筆集めるつもりでしょうか。おそらく、この場合は数十万や数百万単位の署名では話になりません。私の記憶では、かつて国鉄の分割民営化に反対する課題で「国民の足を守る」という3000万署名がありましたし、教職員組合の皆さんも1千万単位の署名運動に取り組んだことが何度かあります。このような規模の請願署名が実現したとしても、いまの国会で市民が要求するような脱原発を可能にする過半数の国会議員の支持を得るのは容易ではないと思います。残念ながら、今のままではほとんど不可能だという以外にありません。

立法運動はそれを実現することが獲得目標であり、間違っても「運動自体に意義がある」などというオリンピックのような話ではないはずです。河内さんは実現にどのような「保障」があると考えているのでしょうか。

(5)どのような国民投票法なのか

万が一、国会の多数派が「原発国民投票法」策定に取り組むとしても、難問山積です。すでに述べましたが、国民投票法は国会の多数派がつくるのです。国会の多数派に有利な、多数派が認める、国民投票法でしかありえません。

河内提案は原発危機が進行中の「いま、なぜ国民投票ですか」という批判を考慮し、福島第一原発が「冷温停止状態に入った後、なるべくはやい期日」と述べています。

原発災害は目下進行中であり、「冷温停止状態」を実現するには大変な努力と幸運が必要です。そしてこれでは「冷温停止状態後」もひきつづき放射能「汚染地域」で暮らす住民にとっては「国民投票」への参加など、たいへん過酷な話です。まずこうした前提が問題なのです。

仮に投票法案を作ることになったとして、国民投票法案の選択肢はどうするか。河内提案は3択ですが、この間の憲法国民投票で国会の多数派が考えてきたのは、一般的には○、×の二択です。選択肢は市民の提案そのままを受け入れるのではなく、国会の多数派が自分に都合の良いように、周到に準備してつくることができます。河内提案では、「原発の増設・新設を一切禁止」「既存の原発の段階的廃止」を賛成・反対・保留の三択になっていますが、こういう選択肢を今の国会の多数派が果たしてつくるでしょうか。例えば投票する事項を「国民に必要な電力の保持のために必要最小限の原発を維持する」などとして、これに○か、×か、を選択させるなどという選択肢のほうがありそうです。

さらに河内提案では投票権者は18歳以上、日本国籍を持つ者としています。民主主義についての理解が全く不十分です。原発の被害をもっとも受ける者は若者です。若者は長期にわたって被害を受けます。この人びとが意志表明できない国民投票はまやかしです。憲法の国民投票問題で、18歳投票権が議論の中心を占めましたが、私たち市民の側は、15歳、義務教育年齢終了後と主張したことがあります。日本でも過去に地域の住民投票の年齢制限ではまれにこうした場合がありました。できるだけ若者に開放すべきですし、最低限でもこのようにすべきです。国籍も問題です。放射能被害は国籍にかかわりなく受けるものですから、日本に一定期間居住する人すべてに権利が認められるべきです。河内案が国会の多数派の受けを狙って、日本国籍保有者に限定しているのは問題です。

国民投票運動にしても、国民投票期間(数ヶ月なのか、半年なのか、1年なのかは大組織と市民の力量の違いから、市民の意見を浸透させる上で見逃せない問題です)の問題、国民投票運動(宣伝・広告の公営部分と自主部分の割合と量の限度。公務員の投票運動参加の制限問題)などなどの問題があります。煩雑になりますから、詳細に展開するのは省きますが、財界や電気関係の組織(企業、組合)などは組織力も資金力も、権力もあります。広告・宣伝や広報期間などを自由にするのは一見公平ですが、もともと組織的・資金的ハンディを背負っている市民には不利なしくみです。こうした点で、財界、権力、マスメディアなどと癒着した原発保持派と、脱原発を願う市民とのたたかいでの平等性、公正性、等々を国民投票法でどのように制度的に保障するのか、そもそもそれができるのかが問題です。

これは一定の狭い地域で行う住民投票と、全国規模の国民投票との決定的な違いになります。くり返しますが、国会の多数派が定める法律ということを忘れてはなりません。

(6)この国民投票の有効性の問題

河内提案の「上記立法と同時に、国会は、国民投票に示された国民の総意に従う旨を決議してください」という箇所は極めて楽観的すぎます。

仮に原発国民投票が実現したとしても、憲法第96条で規定されている憲法改正国民投票とは異なり、憲法に規定されていない原発国民投票には国会に対する強制力がありません。多数派の国会議員は、憲法を盾にとり、自らの意志に反する可能性のある、立法権の制限につながる要求を容易に認めないでしょう。

この間の地方自治をめぐる住民投票のさまざまな場でも類推できる事例が少なくありませんでした。万が一、「国民投票がうまくいった」としても、あれこれの口実を設けて、「参考にする」程度におとしめるのが関の山ではないでしょうか。沖縄の県民投票に対する国の態度を思い出してください。

河内提案は「それ(国民投票)を背景に脱原発の法律を制定し、その法律の力で原発企業や原発関係者の行動をコントロールする以外ないと考えます」と述べていますが、現在の国会の多数派が「原発企業や原発関係者の行動をコントロール」できる法律をつくると考えるのは、残念ながらほとんど幻想だと思います。

(7)真に脱原発を実現する道は「国民投票運動」ではない

河内さんの「このままでは日本は滅びる」という危機感に、私は直感的に違和感があるのですが、ここでは論じません。

周知のように、多くの自覚的市民が脱原発に賛同しつつあるにもかかわらず、「世論」は必ずしも、脱原発に有利ではありません。それはこれだけの原発震災に直面してもなお、菅内閣・民主党があいかわらず、あいまいな姿勢をとり続け、これまで推進してきた自民党や公明党も同様で、永田町全体の空気が脱原発になっていないことと合わせ、電力業界をはじめ財界、官僚機構、マスメディア、学会などが従来の立場から脱しきれていないことによるものです。そしてこれらの人びとが、電力不足を大手メディアなどを使って大々的に宣伝し、脱原発の危険性を植え付けているからです。

私たちにいま求められていることは、国民投票を実施せよと主張することではなく、この世論の状況を変える運動をつくることだと思います。

そのためには、直面する被災者の救援と合わせて、大量生産、大量浪費の従来型社会と価値観を変え、自然エネルギー中心のエネルギー政策への転換をめざすオルタナティブの提起と、その政策実現のための努力が求められています。

そして原発新設の停止と既存の原発の廃炉に向けて、段階的・計画的な原発の停止と廃炉を実現しなくてはなりません。

そのためにも、地域に密着した脱原発運動をつよめ、住民運動の力で自治体行政を変革し、緊急に危険な原発からひとつひとつ止めていく闘いが求められています。先の菅直人首相による「浜岡原発の全炉停止」は永年にわたる市民や研究者の運動が、政府をそこに追い込んだことを想起すべきです。

これと合わせて、国際連帯を含めた全国的な市民運動の展開が必要であり、脱原発のデモや署名運動等による世論の形成が肝要です。そして、これと結合した政策実現のための国会への働きかけが必要で、これらこそ脱原発にすすむもっとも確実な道だと思います。
2011年5月13日
(事務局 高田 健)

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原爆/原発/軍事的自衛

落合栄一郎(カナダ,バンークーバー9条の会)

日本は、第2次世界大戦の最後に原爆を二つ落とされ、アメリカの水爆実験では漁船第5福竜丸乗組員が被曝、そして今回の原発の事故による放射性物質の拡散と様々な放射能被害に遭ってきた。

人類は、放射性元素の発見(有名なキューリー夫人が最初)に始まり、核分裂反応を発見した。第2次大戦後期には、核分裂を応用した大量破壊兵器を、ドイツが開発していると言うウワサに基づき、それに負けじと、アメリカが原子爆弾開発を急いだ結果、実用可能なものが、1945年始めに完成した。人類というものは、可能だとなるとそれを実現しなければならない(科学・技術段階)、そして、それを完成したとなると、それを使用しなければならないという衝動を抑えるのがむずかしいようである。原爆はちょうど大平洋戦争が、最終段階に入る時にできたので、それを使いたい。原爆を使わずとも、日本が降伏することは、かなりの正確度で予想されていたにもかかわらず、原爆使用を正当化するシナリオを作り上げて,原爆を1つならず2つも落とした。1つ落とせば十分なのに、どうして2つ落としたか、それは、原爆といえ、2つは別のモノを使って作った(ウランとプルトニウーム)ので、2つとも実験してみたかったようである。

戦後、対立するソ連が、原爆開発に乗り出し、西欧諸国もそれに参加、アメリカは、さらに強力な大量殺人兵器-水爆を開発,実験を行って、それに日本人がまたも巻き添えをくってしまった。これらの原爆開発国は、その「悪魔」性を少しでも軽減させる(自分達自身も他の人をも納得させる)ために、この原理は平和的目的にも使えるのだということを世界に知らせるために、原子力発電なるものを開発しだした。そして、原爆の被害を受けた日本でこそ、原子力の平和利用を促進することは、宣伝効果(悪魔性収縮効果)があるというわけで、日本へ原発開発を持ち掛けた。日本側には、それによって利益を受ける集団が進んで、原発開発に乗り出した。その結果が現在日本全国に分布する54基の原子炉である。

さて,原爆では、瞬時に莫大な熱が発生し、強風を引き起こした結果、瞬時に多数の死者を出した。その上に、原爆が放出した放射性物質が、生き残った人々の体内に入り込み、放射線による内部被曝の結果、様々な後遺症、健康障害を引き起こし、生き残った人々を苦しめた。

原発の問題は、これと同様に、(この場合には事故により)放射性物質が原発施設外に出てしまうことによる。それが、人々に原爆の後遺症と同様な被害を及ぼすことにある。それがどの程度になるかは、今後放射性物質の漏出をどの程度うまく抑えられるかによる。さてこれが、日本人の被曝の第4回目である。

今ある原発を停止して放射性物質(燃料棒)を安定な状態に持って行かずに、運転を継続したら、どうなるかを考えてみよう。日本は、地震多発地帯に位置しており、いつまたかなり大きな地震が襲わないとは限らない。これは誰もが,予想していることである。そして、原発は、海岸沿いに造られていて,地震ばかりでなく津波の影響を受けることは必定である。福島原発は設計の段階で、十分な津波対策は考慮されていなかったらしいし、これ以外の現在稼働中の原発がどの程度災害対策ができているか、非常に疑問である。その上、プルサーマルや、高速増殖炉のような、より危険な炉も稼働している。次の地震・津波では、さらに大きな危険が予想される。それは、現在よりも苛烈な放射能被害をもたらすかもしれない-これは日本の被曝第5回目ということになる。

もう一つ、現在、東アジアの国際間が緊張しており、日本国内では、自衛力強化を促進している。ということは、いざという場合、武力による対応を考慮しているのであろう。現在の国際間の武力衝突では、長距離からのミサイル攻撃が先制するであろう。敵は何をターゲットにするだろうか。軍事基地が先ず最初であろう。2番目は、おそらく日本全土にある原発であろう。これにミサイルが打ち込まれて、原子炉が一部でも破損したらどうなるか。放射性物質の漏出である。日本中がこれにより放射能で汚染されることになる。このあと、(この間、日本側も相手側をかなり破壊することはできたとしても)日本は数世紀は人間が住めなくなる。これが日本の第6番目のそして最後の被曝になるであろう。
(2011.04.19)
こんな未来図は、望ましいことなのであろうか。このような未来を避けるためには、(1)原発廃棄,(2)武力に依存しない国際間の軋轢回避(平和憲法を堅持し、世界各国に原爆・その他の兵器放棄を呼びかける)しかない。

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参院憲法審査会「規程」の強行採決と各種の改憲の動き

高田健

東電福島第一原発事故の収束すらままならない未曾有の複合震災による緊張がつづく中で、国会では与党と野党の一部(自民、公明など)の取り引きで、5月18日の参院本会議で、参院憲法審査会「規程」の制定が、社民党、共産党などの反対にもかかわらず、強行された(本会議で民主党会派から5人の棄権者がでた)。

安倍内閣当時、憲法審査会設置を決めた改憲手続法は民主党も反対していたもので、民主党にとってこの採決は全く筋がとおらないもの。

民主党幹部は「委員の選出にまで踏み込まないので、ただちに審査会が始動することはない」と釈明しているが、始動に向けて一歩進められたことはまちがいない。もし、審査会委員が選任されれば、法的にはいつでも改憲案の審議ができることになる。

この動きは、大震災のドサクサの中で、次のような改憲の動きがさまざまに出ていることと合わせ、考えると、単なる議会運営上の野党への妥協の範囲にとどまるというものではない。

4月末から5月の憲法記念日にかけて、中曽根康弘・元首相らの「新憲法制定議員同盟(改憲議員同盟)」(決議別掲)や桜井よしこ氏らの「民間憲法臨調」が政府の震災対応の不手際にかこつけて、憲法に「非常事態条項がない」のは欠陥だという憲法批判を強め、読売新聞も社説(5月4日)でこの主張を擁護し、「本来なら改憲が要るが、すぐできないなら『緊急事態基本法』をつくれ」などと述べている。この動きは緊急時には首相に強大な権限をあたえ、基本的人権を制限する企てで、危険なものだ。

また民主党の長島昭久衆院議員や自民党の古屋圭司衆院議員、安倍晋三議員などが、憲法96条の改憲発議要件の緩和だけに絞った改憲をめざす議連の準備を始めた。

さらに橋下徹大阪府知事は府の憲法記念行事で「改憲で首相公選を」などと主張した。

くわえて与党民主党は休止していた同党の憲法調査会を再開させ、会長に改憲派の前原誠司氏をあてた。
これらさまざまな改憲の動きは、ただちに9条改憲で戦争のできる国をめざすという動きではない形をとっているが、現行憲法をさまざまな角度から欠陥憲法とおとしめ、世論を改憲に誘導する狙いがある。

一方、5月3日、『朝日新聞』が発表した憲法世論調査では「9条改憲反対」が59%で、「9条改憲賛成」が30%だった。「改憲」一般が必要は54%で、「必要ない」は29%だ。9条についても「改憲」一般でも「改憲賛成」が6~7%増えていることも警戒を要する。これはこの間の大震災に対する米軍・自衛隊の対応と無縁ではないと思われる。

なお、例年実施している読売新聞の憲法世論調査は震災のために実施が延期されている。
(「女のしんぶん」「消費者レポート」などへの寄稿に大 幅に手を入れたもの)

資料・大会決議

憲法記念日を迎えるにあたり、本日ここに、われわれは、新しい憲法を制定する推進大会を開催し、各界各層、また全国各地から大勢の同志が参集した。

去る3月11日、わが国は未曾有の災害に見舞われた。多くの犠牲者に、心から哀悼の意を表すると共に被災者に対して心よりお見舞い申し上げる次第である。

この災害に際し、はからずも現憲法の欠陥が明らかになった。即ち危機的状況への対応についてである。またこの災害はいち地方の問題ではなく、国家的災害である。この災害からの復興は国家的課題であり、この復興を、新しい国づくりの第一歩と位置づける必要がある。

新しい国づくりの理念は憲法に盛り込まれるべきものであり、新しい憲法の理念に基づいて、新しい国づくりが進められる必要がある。

このような意味からも、われわれは、衆参両院に憲法審査会が早急に設置され、実質的活動をして、一日も早く国会で憲法の議論が始められるように、改めて強く願うものである。

新しい政権のもとでは、当面の政治課題に多くの議論が集中し、その影響もあって、憲法に関する議論は低調になっていることは否めない事実である。

しかし、憲法に関する議論は、今こそ喫緊の課題であり、おろそかにすることは許されないことは言うまでもない。

本日の大会を機に、国会はもとより、全国各地で、また各界各層で、広く憲法に関する議論が活発に交わされ、これらが一日も早く結実して、将来をにらんだ新しい日本にふさわしい憲法が制定されることを切に念願するとともに、われわれがそれぞれの立場で行動を起こすことを誓い合うものである。

以上決議する。
平成23年4月28日
新しい憲法を制定する推進大会

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3.11を歴史の画期に!― 2011年5・3憲法集会

今年も5.3憲法集会が日比谷公会堂で開催された。集会タイトルに「東日本大震災の被災者に心を寄せ」とある。3月11日に起きた未曾有の大地震・津波から50日余り、収束するどころかますます深刻さを増す東京電力福島原子力発電所の大事故が暗い影を落とす中での集会。この日本の(恐らくは世界の)歴史的画期を生きているという緊張感を共有し、改めて日本国憲法の基本的理念を賦活し、導きの糸として新しい社会をつくらなければ、という思いがあふれるものになった。

冒頭、主催者挨拶に立った糸井玲子さん(平和を実現するキリスト者ネット)の呼びかけで、東日本大震災犠牲者に対し全員で<沈黙のとき>を持った。糸井さんは、第二次大戦の死者5000万人が「このように生きてほしい」と私たちに残してくれた愛の言葉が日本国憲法、軍事も原発も政官財の癒着構造で推進されている、9条を守りぬかなければならないし、9条は私たちを守ってくれている、と訴えた。

続いてスピーチに立った三宅晶子さん(千葉大学教授)は、憲法は歴史的反戦思想・法規の到達点、戦争経験世代が退場していく今、私たちが戦争を語り継がなければならない、新自由主義は私たちの生存権・教育を受ける権利・働く権利を奪ってきた、ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマを歴史的な画期としよう、吹き出す「ガンバレ日本」「日本は素晴らしい」という排外的な考え方ではなく、想像力をもって展望を見出そう、と熱く語った。

ジャーナリストの伊藤千尋さんは、世界各国で原発に依らず地熱・風力・太陽等の自然エネルギー利用が進められている実態を紹介し、日本でも十分可能であると明言、平和憲法をもつコスタリカでは、新入生に校長先生が「人は誰もが愛される権利がある、そうでなかったら憲法違反で訴えることができる」と話して聞かせる、高校生にインタビューすると「この国が誇りです」と答える、彼我何という違いだろう、金大中氏は「行動しない良心は悪の側にいる」と喝破した、自覚した市民としてこの日本を変えていこう、と力強く語った。

スピーチの合間に寿〔kotobuki〕のお二人が登場、安里屋ユンタ、上を向いて歩こう(替え歌バージョン)、オリオンの3曲を演奏、会場も唱和してしばし緊張を解きほぐした。

続いて登壇した社会民主党党首・福島みずほさんは、原発を止められなかったことは慙愧にたえない、原発震災の下で憲法13条、25条が侵害されている、まずは浜岡原発を止めなくてならない、昨年の集会では閣内で普天間基地の辺野古移転に反対していくと語ったが、これを貫いて閣僚を罷免された、沖縄にしても原発にしても札びらで横面をひっぱたくやり口の政府を変えなくてはならない、武器輸出三原則は辛うじて守った、原発の輸出も止めたい、「イノチが大事」3.11前とは違う社会をつくろう、と訴えた。

日本共産党委員長・志位和夫さんは、震災復興の指針は憲法、その力を引き出すのは私たちの闘いだ、仮設住宅の早期建設をはじめ住まい、仕事、公共の再建が急がれる、復興に当たっては住民とよく相談し、国・自治体が協力し、国が資金を出すというあり方が大事にされなくてはならない、新憲法制定議員連盟は4月28日に会合し、非常事態対応を憲法に盛り込めと言っている、まさに火事場泥棒というべき暴論だ、と厳しく批判した。

最後に市民憲法調査会・越智信一朗さんが集会アピールを提案した。3.11の事態で「憲法改悪は許さない、憲法を生かし、実現しよう」という努力がますます重要な意味を持ってきている、というアピールは満場の拍手で採択された。

集会の中で女性の憲法年連絡会・小川陽子さんから呼びかけられた東日本大震災義援金カンパには126万円余りが寄せられたとの報告があった(後日岩手・宮城・福島3県の災害対策本部宛送金された)。参加者は2800人。

集会を終え、途中雨模様の天気の中、会場に入りきれず外でオーロラビジョンによる中継を見守っていた参加者と合流し銀座パレードに出発。東京電力本社前では「原発止めろ!」「福島の子どもたちを被曝から守れ!」のシュプレヒコールがひときわ高く響いた。
(池上 仁)

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主催者あいさつ

平和を実現するキリスト者ネット 糸井玲子

こんにちは。5・3憲法集会にようこそおいでくださいました。
はじめに、東日本大震災で亡くなられた方々に心をよせて、「沈黙の時」を持ちたいと思います。ご着席のままで、どうぞご協力ください。

では、はじめます。(会場、沈黙)ありがとうございました。
大震災・津波で、家族も家も失って、いま避難所で暮らしている方々の苦しみ悲しみを思うとき、胸がさかれます。同じ思いの日本中の方々、世界中の方々が救援に立ち上がりました。人間の国、人間の世界が輝いたことに私たちも救われました。

日本国憲法、今日が記念日です。日本国憲法も、あのアジア太平洋戦争、そして第二次世界大戦で殺された5000万余人の人々が、「このように生きたかったんだ」と泣いている涙から生まれました。そして殺された人々は、生き残らされた私たちに「このように生きてよ」と残してくれたのが憲法です。愛の言葉です。愛とは、人と自然を大切にする行いです。

私たちは今も、片時も沖縄を忘れません。菅政権は去年、日米共同声明によって、普天間米軍軍事基地を辺野古へと移設することを決めてしまいました。沖縄すべての人々、そして私たちの願いを踏みにじりました。沖縄にも、日本にも、そして世界中に、軍事基地がなくなる日を私たちは目指したいと思います。そして去年暮れ、あの防衛大綱を内閣で決定してしまいました。本当に恐ろしい内容、動的防衛力です。海に、陸に、そして空にいつでも武力で動いている、武力による威嚇です。憲法9条違反、明らかですね。そして日米安保条約を最重視して、米軍をはじめ外国部隊が戦争する時の後方支援を認めています。そして「これが憲法違反であるならば、憲法解釈を変える必要がある」、そこまで言ってるんです。憲法爆破です。絶対にこんな暴挙を許すことは出来ません。そして、そのあとに続くのは軍備増強です。イージス・システム、護衛艦とかね。本当にミサイル防衛とか、もう数限りないほどの軍備増強です。大笑いするのは軍需産業ですね。そして、この軍需も原発も金儲けのために、政府と国策と癒着して、そして私たち人間の命を無視しています。

この大災害で自衛隊の災害救助が大変に高く評価されましたね。自衛隊はその実働のとおり、災害救助隊として今日、改めて欲しいですね。戦争への自衛は要らないんです。憲法9条が完璧に私たちを守っておりますから。そして、私たちは武力を捨てましょう。原発を捨てましょう。そして、日米安保条約を捨てて、日米友好条約を作りましょう。憲法前文にあります、「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏からまぬがれ、平和のうちに生存する権利」、憲法前文です。これを高くかかげて、さらに元気いっぱい今日から進みましょう。

生かそう憲法、輝け9条。今日の憲法集会をどうか、楽しく、楽しく、明るく盛り上げてください。
ありがとうございました。

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スピーチ(1)アフター3・11 の歴史的転換点に立って ヒロシマとフクシマを見据えるパースペクティヴ

千葉大学教授 三宅晶子

3月11日、巨大地震・津波が東日本を襲い、幾つもの市・町・村が壊滅し、さらには福島第一原発の破局的な事故後、私たちは、放射能とともに非日常的日常を生き続けています。

地震・津波・放射能と、幾重にも襲ってきた苦難の中、家、財産、仕事、ふるさと、ライフラインが失われた状況の中で、現在、憲法が約束している基本的人権の多くが欠落した状況が広範に生じています。

1947年の5月3日に施行された日本国憲法は、戦争と生存についての当時の人びとの思いを刻んだ、貴重なドキュメントになっています。ひとつは、勿論、もう二度と戦争は起こさない、という決意を国民と世界に宣言した9条「戦争放棄」です。この条文は、19世紀以来の反戦思想・不戦条約・戦争違法化運動などを通して脈々と流れてきた反戦の水脈を受け継いで憲法の中で成立した貴重なテクストです。もう一つは、国によって生きる権利を奪われるのは、もうこりごりだ、廃墟の中から、私たちは生きるのだ!という決意と互いへの約束を表した第25条「生存権」です。これは、ドイツのワイマール憲法の流れを汲み上げつつ、46年の憲法制定審議の国会で提案され、条文化されました。
条文を読んでみましょう。

第25条〔生存権、国の社会的使命〕
1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

改めて、被災された方ひとりひとりの「健康で文化的に生きる」権利の切実さが身にしみます。しかしまた、この権利は、既に震災前から、新自由主義が作り出す格差と貧困の中で奪われ、「生きさせろ!」の必死の声が日本の多くの場所で上がっていました。

この権利の実現のために、国や地方自治体が、ひいては私たちが、その使命を果たすことが求められています。しかし、25条の生きる権利だけでは人は生き続けることはできません。子どもたちには 第26条 教育を受ける権利、学校を出た後は、27条 勤労の権利の保障が急がれます。

そのために、私たちは助け合い、励ましあってよりよい社会への転換を図っていかなげればなりません。しかし、震災後にマスコミや政府から流される「日本は一つ」「日本は強い国」「国民のみなさん」というナショナルなメッセージは、災害を克服しようと励まし合うスローガンではありますが、一挙に人びとを「日本人」として凝集させる圧力を強め、同調できない者、「日本人」ではない人びとへの想像力を振り切っていってしまっているのではないかと危惧します。この国には、日本国籍・日本民族以外の人びとも、ともに暮らしています。

「日本人」以外の人びとの被災、そしてその後の状況はどうだったのでしょうか。マスコミは伝えません。
昨年、2010年は、韓国併合100年の節目の年でしたが、4月にスタートした「高校無償化」制度では、法の適用範囲に含まれていた外国人学校から、朝鮮高校のみが排除され、適用が留保され、その後適用の方針が決まった後も、ヨンビョン島砲撃を理由に審査にストップがかけられ、結局、震災後の3月末、文部科学大臣は、震災を理由に審査再開はできないと発表しました。さらには、地方自治体でも、東京都、大阪府、埼玉県、千葉県、さらには震災のあった宮城県までもが、補助金の支給停止を決定し、子どもたちの排除に追い打ちをかけました。

しかし、子どもたちが、出身国の言語・価値観を学ぶ権利の尊重は、子どもの権利条約でもうたわれています。教育の場で、国や自治体が、子どもを対象に、他国に対する政治的判断から差別と排除を行うことは、日本の子どもたちに対しても、差別を教えてしまうことになるのではないでしょうか。

今、東アジアにおいて日本がなすべきは、このように感情的な政治的措置ではなく、朝鮮半島や沖縄、東アジアの歴史を相互に正しく学びあい、記憶と歴史を共有し合うことによって真に戦争を終わらせ、積み残されてきた責任を果たし、講和を成し遂げ、アジアから世界へと平和を構築していくことです。戦後、日本国憲法が9条で希求した平和とは、そのことではないでしょうか。

憲法前文が掲げる「平和的生存権」―「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」をこそ、求めていきましょう。

2つの歴史的岐路

現在、私たちは、2つの大きな歴史的転換を生きています。ひとつは、世界的に起こりつつある、戦争の記憶の転換です。かつてのアジア・太平洋戦争、第2次世界大戦を体験した世代が歴史の舞台から退いて行き、直接に体験を聞くことができなくなる時代に向かいつつあります。戦争の記憶は、加害の記憶も被害の記憶も、体験者に根差した記憶から、メディアや教育、文化を拠り所とした記憶へと大きくシフトしつつあります。そして、この文化的記憶を作り、受け継いでいく責任は、私たちにあります。

さらに、3・11後の今、私たちは、この「戦後」の意味を根底から問い返す、もう一つの歴史的岐路に、立ち会っているのではないでしょうか。

日本の核の悲劇の歴史は、1945年8月のヒロシマ・ナガサキで始まりましたが、今、そこに、フクシマが加わろうとしています。ヒロシマからフクシマへ、という歴史的時点を、私たちは生きています。このフクシマを、日本と世界の歴史上、どのような出来事にしていくのか、フクシマの惨劇を引き起こした社会に生き、そこに立ち会っている私たちひとりひとりがどのように選択していくかが問われています。私たちは、今、福島の被爆者から、そして将来の被爆者から、さらにはかつての原爆の被爆者たちからも、問われているのではないでしょうか。なぜ声を聞いてくれないの? どうして止めてくれないの? 60年、何をしていたの?と。

ヒロシマ・ナガサキでの原爆被爆後、戦後日本は復興と高度経済成長に邁進し、膨大なエネルギーを原子力発電に求めていきました。政財官一体となって、原発は核の平和利用であり、「安全」で「経済的」であり、環境に対して「クリーン」で「エコ」であるとさえ宣伝し、学校教育でもその安全性をこそ教育してきました。こうして地震と津波大国日本の海岸上に54基もの原発が建設され、今や世界第3の原発大国になっていました。しかしそれは、10万年後までも危険な放射能を出し続ける廃棄物を、最終処分も未定なまま作り続けることであり、核兵器の燃料のサイクルに連なることであり、また、巨大なヒエラルキーの底辺に、被曝する労働者を要求し続け、事故の際には広範な住民を被曝の危険にさらす構造に加担することです。

戦後、ヒロシマ・ナガサキは、原爆の悲惨さを訴え続けてきました。被害の伝え方、大日本帝国の加害との向き合い方など、様々な葛藤を経ながらも、ヒロシマ・ナガサキは、次第に反核平和の象徴的な地名となっていきました。たとえば、ベルリンでは、1990年、旧日本大使館前の通りが平和の願いを込めて「ヒロシマ通り」と改名され、再統一後、ボンから引っ越してきた日本大使館の住所は「ヒロシマ通り6番」です。また、昨年は、ポツダム会談の地、ポツダム市のヒロシマ広場に原爆追悼記念碑が建設されました。被害を強調して加害を忘却しようとするものだ、との批判もありましたが、ポツダム市は、平和を祈る記念碑として実行しました。それだけでなく、既に、ゲッティンゲン、ニュルンベルク、デュッセルドルフ、また、スペイン領カナリア諸島、ロシアのヴォルゴグラードなど、世界の各地にヒロシマ広場、ヒロシマ・ナガサキ広場、広島通りが、平和への祈りをこめて名づけられています。しかし今、フクシマが、新たな象徴的な地名となりつつあります。ドイツでは、3月26日、「フクシマは警告する」のスローガンのもと、ベルリン・ミュンヘン・ハンブルク・ケルン4都市で25万人もの人々が脱原発を訴えて通りを埋め尽くすデモをしました。そして、政府は、脱原発への転換を早めることを決めました(ドイツでは2002年脱原発法を制定していましたが、現メルケル政権は稼働延長を計画していたのを停止。再生可能エネルギー社会へと舵を切りました)。ヒロシマとフクシマ、戦争で投下された原爆と、産業と生活のために自ら設置した原発―この2点の歴史と社会構造をパースペクティヴに入れた思考と行動が、今、求められています。

反原発の生き方を最後まで貫いた高木仁三郎さんは、2000年の最後のメッセージ(2000年10月8日死去)で、次のように訴えています。

「なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故(1999東海村臨界事故)からロシア原潜事故(2000・8・12)までのこの1年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と、結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。」

この危惧の念は、残念ながら、11年後、現実のものとなってしまいました。確かに、私たち一般人には原子力の知識がありません。専門的知識がないからと判断を躊躇しているうちに、世界第3位の原子力大国になっていたことに、無力感を感じる方も多いでしょう。私もそうです。しかし、専門的知識のない私たちは、専門家と政・財・官の複合体が作り出す社会の歯車に過ぎず、無能でしかないのでしょうか。

いえ、「その無能の経験自体がチャンスになるのだ」と、述べた哲学者がいます。ホロコーストを生き延びたユダヤ系哲学者ギュンター・アンダースが、アドルフ・アイヒマンの息子に宛てた手紙で述べているのです。アイヒマンとは、大量のユダヤ人の輸送先の運命を知りながら、絶滅に追い込む書類にサインをし続け、尚且つ効率よく大量に輸送する計画も練り実行した元SSで、責任を問われてエルサレムで裁判にかけられた時、「命令に従っただけだ」として無罪を主張しました。アンダースは、かつてのナチズムを政治的全体主義だとすると、戦後は、核兵器を含む技術開発に邁進する技術全体主義が世界中で進行しる、として、その歯車の一つに組み入れられ無能を実感する私たちもまた、アイヒマンの息子なのだ、という認識を述べています。しかし、また、「無能である」ことについて、次のようにも述べているのです。

私たちの無能の経験自体がもう一度チャンスになり、抑制のメカニズムを始動させることができる肯定的な道義的機会にもなると言えるのです。私たちの無能のショックには、つまり、警告の力が内在しているのです。まさにそのショックから、私たちは境界の手前の駅に到着していて、駅の向こうには(そこを越えると)責任の道と厚顔無恥の道という二つの道が最終的な選択肢として分岐しているのを知るのです。 

ギュンター・アンダース/岩淵達治訳
『われらはみな、アイヒマンの息子』 (解説 高橋哲哉)、晶文社、2007年、 p.53.

そして、書類の向こうのユダヤ人の大量虐殺を想像できなかったアイヒマンと同様に、私たちもまた、高度で膨大な機械機構の先で起こることをほんとうには想像できないかもしれません。しかし、彼は言います。
想像してみることにまさに失敗することによって、私たちの目は開かれます。

私たちはまさにこの失敗を通じて、最後の分岐点に到達したことを認識できるのです。まさにこの失敗によって、「見通しのきかないもの」を始動させてしまうぞと警告されるのです。 同書、p.62.

こうしてアンダースは、「見通しのきかないもの」を止めるべく、1970年代には反核運動の先頭に立っていきました。

私たちにとっての「見通しのきかないもの」、それは、原発に依存した社会構造、核兵器と戦争を前提とした国際社会、巨大資本を搾取と共に展開させていく新自由主義の複合体ではないでしょうか。しかし、現在と将来の人びとの生存権を守り抜くためには、この構造を変えて行かなければなりません。そのための一歩を、みなさんと一緒に、踏み出していこうと思います。

今日は、ドイツの反原発のお日様マークも掲げて、パレードに参加します。

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スピーチ(2) 世界にいきる日本国憲法第9条 自覚した市民は平和を、自然エネルギーを選ぶ

ジャーナリスト  伊藤千尋

僕はこれまで、世界68の国を取材してきました。そこから何が見えるかを、お話したいと思います。
去年の12月に、静岡県の御殿場市に行きました。富士山のすそ野で、目の前に雲一つないきれい富士山がみえます。しかし、その横に自衛隊の東富士演習場があるのです。戦車部隊です。戦車がどこに向けて訓練をするかというと、日本の自衛隊は日本の象徴である富士山に向けて砲撃訓練をするのです。町の人は言っていました。「砲撃されるたびに富士は泣いている」。まさにそういう状況でした。では「この演習場、ほかに役立てる使い道はないのですか」と聞いたら、「いやその案がなかなか思い浮かばないのです」と言うのです。僕は、それをきいてパッと思い浮かんだんです。目の前に富士山があるわけです。「富士山には、戦闘訓練よりも銭湯が似合うではないですか」。銭湯に行くと必ず富士山の絵があります。ここには、ホンモノの富士山があるわけです。

だったらここに、どでかい露天風呂があればいいじゃない、こう思いました。僕は冗談で言っているのではなく、本気なんです。

ヨーロッパの北にアイスランドという国があります。これは僕が68番目に訪れた国ですが、この国に行くと世界最大の露天風呂がありました。大きさは約5000平方メートルでサッカー場2面分です。見渡す限り青い温泉です。市民が水着を着てそこに入るのです。なんでこんなものをつくったのかな、ときいてみたら、そのそばに地熱発電所をつくった。地面の熱を利用して電気をつくるわけです。地下のマグマで温められた地下水が、水蒸気となって吹き上げてくる、これでタービンをまわして電気をつくるわけです。それをつくってしまったら地下から温泉が湧き出てきてたまってしまった。それでは有効利用しようではないかということで、ついでにできたのが露天風呂なんです。いいじゃないですか。

聞いてみたら、この国では地熱発電と水力発電で電力のほぼすべてをまかなっているというのです。「へえー!」と思いましたが、「待てよ」と思いました。日本だって条件は同じではないですか。温泉はいっぱいあります。だったら日本でも地熱発電ができるのではないかと、日本に帰って調べてみました。そうしたら日本でやっているけれども〝ほそぼそ〟なんです。すべての電力の0.2%です。でもちゃんと研究所があって、地熱発電所を日本で開発したら、どのくらいの電力がとれるか数字が出ています。原子力発電所20基分です。いま、日本には原子力発電所が五四基ありますが、実際に稼動しているのは28基です。その20基分が地熱発電所だけでとれるのです。ほかに風力発電で原子力発電所40基分とれるというのです。原発などいらないのです。風力も地熱も天と大地の恵みです。燃料費タダです。それででできるのです。

ではなんで日本でそれをやらないのか、日本に技術がないのか、調べてみたら、世界の地熱発電のタービンの技術をもっているのは、日本の富士電機という会社です。世界の地熱発電の総発電量の25%を占めるのは日本の東芝です。技術はあるのです。せっかく技術はあるのに、この国ではそれを使わない。せっかくいいものがあるのに使わない。どこかの憲法と同じです。同じヨーロッパにオーストリアという国がある。この国では1999年に憲法に新たに1つの条項をつけ加えました。それは原子力発電所をつくらない、さらにつくっても使わないというのです。つくっても使わない、というのはどういうことかというと、この国でも原発をつくってしまったのです。1970年代の石油ショックのあと、世界中がこれではいけない、アラブに頼っていられない、と原発ラッシュが始まったのです。オーストリアでも原発をつくってしまった。しかし、それが完成した1978年に、この原発を使っていいのか、使ってはいけないのではないか、大きな市民の運動がおきました。その運動を受けて、国民投票がおこなわれたのです。この原発を使うかどうをめぐって。その結果、「使うな」というのが50.5%です。わずか0.5%といえども過半数です。5000億円をかけてつくったが、結局使われませんでした。日本なら「5000億円かけたのだから使おうじゃないか」ということになりそうではないですか。

しかし、これがヨーロッパです。そして市民の力はさらに盛り上がっていって、憲法にそのことを条項として入れようではないか、ということで99年に「原発をつくらない、使わせない」という条項が入ったのです。では、せっかくつくったその原子力発電所はいまどうなっているのか。その原子力発電所の建物の屋根、壁に、太陽光パネル1000枚を貼って太陽光発電所です。

「九条の碑」はスペインにも沖縄にも

同じヨーロッパにスペインという国がある。この国ではすでに自然エネルギーが全エネルギーの40%をしめています。主に太陽と風力です。その一大基地があるのはアフリカ沖のスペイン領のカナリア諸島です。そこに行くと太陽光のパネルがワッと並んで、風車がワッと並んでいます。こういう風景がみられる。そのカナリア諸島というのはどういうところかというと、日本国憲法9条の記念碑があるところです。日本の憲法9条の記念碑は東京にはないけれども、カナリア諸島にはある。行ったんです、その島に。そうしたらテルべという町があって、その町の真中に〝ヒロシマ・ナガサキ広場〟というのがありました。その中央正面奥に憲法9条の記念碑がありました。日本の憲法9条がスペイン語で書いて置いてあるわけです。いまからちょうど15年前の1996年1月26日に、その町の市長さんと市会議員全員がいっしょになって、この広場と日本国憲法9条の碑を作ったのです。その除幕式のもようをききました。その碑のところに1000人が集まって、そしてスルスルと幕が開いた後、何があったか。みんなでいっしょに歌を歌ったというのです。その歌はベートーベンの第9「歓喜の歌」です。こういうことをやったということをきいて、あらためてこの碑の前に立って思いました。「ここはアフリカ沖の島だよな、日本とぜんぜん関係ないじゃない。でもそこに日本の憲法9条の碑がある。もしかしたら、世界中の、私たちが知らないあちこちにも日本の憲法9条の記念碑があるかもしれない。記念碑はなくとも、憲法9条が世界に広がってほしい、そう思っている人が、この世界のあちこちにいるかもしれない」。こう感慨深く思ったのには理由があります。

その前に沖縄の読谷という村に行きました。その読谷の村、ここは沖縄戦の末期に米軍が最初に上陸した沖縄本島の村です。当時、ここで3700人が死にました。その村役場の入り口に憲法9条の記念碑があるのです。なんでこんなものを造ったのかと、僕は役場に入っていって聞いたのです。そうしたら、沖縄戦が終って50周年のときに[2度と戦争を起こさない、起こさせない]という決意をこめて、村長さん、村議会の全員が一致してそれを造った、というのです。その時の趣意書を倉庫から出してきてくれました。その趣意書にこう書いてあった。「世界が憲法9条の精神で満ちることを信じよう」。僕はその趣意書を見ると、まあいい文句だけれども、世界が9条の精神で満ちるなんてありえない、と思ったんです。だって日本でさえ満ちていないじゃないですか。と思ったのですが、このアフリカ沖の島にいったときに、目の前に9条の碑があるわけです。日本とまるで関係ない地球の反対の島に憲法9条の記念碑がある。もしかしたらいつの日か世界が9条の精神で満ちる、そういうことがあるかもしれない。その時、そう思いました。

憲法生かして戦争を止めさせたコスタリカ

このカナリア諸島をさらに越えていくと、南米大陸。中南米があります。そこにコスタリカという国があります。この国は日本についで2番目に平和憲法ができた国です。1949年にできたこの国の憲法の第12条で、「軍隊を廃止する」ということを明記しています。しかも、最初に平和憲法ができた日本ではすぐ軍隊ができしまいましたが、2番目に平和憲法ができたコスタリカは文字どおり軍隊をなくして、いらい今日にいたるまで何の問題もなくやっています。日本で言われるのは、この時代軍隊なくしてやっていけるわけはないということですが、コスタリカは現にやっています。

僕は最初にこの国に行ったのは1984年でした。いらい5~6回この国に行きましたけれども、行くたびに思うのは、この国では平和憲法のあり方が違うのです。一口でいうと、この国では平和憲法を活用しておりました。どういうことかというと、80年代、僕は新聞社の中南米特派員をしていました。当時このコスタリカのまわりの3つの国が戦争していました。その時、このコスタリカの大統領は戦争をしている3つの国をまわって、「戦争をやめろ」と説得してまわって、とうとう戦争をやめさせてしまいました。彼はこういったのです。「平和憲法をもっている国の役割は何か。自分の国だけが満足していいのではない、まわりも平和にするんだ」ということです。平和の輸出です。これこそ平和憲法をもつ国の役割だ、と。

これをやるとどういう結果が出るかというと、この国に行ったときにふと思ったのです。一般の人は平和憲法についてどう考えているかと思って、町を歩いているときに、ふと前から来る女の子に聞いたんです。「こんにちは、日本の記者だけど、ちょっと質問していい」と聞いたら「なんでも質問してください」といいました。彼女は女子高生でした。彼女に、「あなたの国に平和憲法があるの?」と聞いたら、「もちろん知っている」という答えでした。そこで僕さらにききました。「そんなこと言ったって侵略されたらどうするんだ。あなたは殺されるかもしれないよ。それでいいの」と。そしたら彼女は、このコスタリカがこの30年間、世界の平和のために何をやってきたか、ということをわーっと述べるわけです。「つい最近ではまわりの国の3つの戦争を終らせた」と言い、「この国を攻めるような国があれば世界は放っておかない」と。さらに彼女は僕が聞きもしないのに、「私はこの国の政府が世界の平和のためにやってきたことを誇りに思っています。私は自分がコスタリカ国民であることを誇りに思っています」と言った。すごいと思いませんか。いまこの会場を1歩出て、日本の女子高生に聞いたとき、この国の政府を誇っているというものが1人でもいるでしょうか。たまたま街中で出会った女子高生ですよ。いやすごいなと僕はその時思ったものです。

さらにこの国がどうして平和憲法をつくったのか、その経緯を聞いてさらにびっくりしました。この国では平和を自分たちでつくった。それは自分たちが戦争をしてしまった反省からなんです。武器をもち、軍隊をもっているともめごとがあったら、結局は武力で解決しようという発想になってしまう、それがいけないのだ、軍隊の存在そのものが社会をダメにするのだ、そこに気づいたというのです。そこから自分たちで軍隊を廃止する、という憲法をつくった。その時にすごいのは、それまでの軍事費をやめて、それをそっくり教育費に変えてしまったのです。それは国家、社会の発展の基とは何かということを国会で論議した結果です。社会発展の基、それは国民1人ひとりが自分の頭で考えて、自分で行動する、そういう国民を育むことにあるのだ、だったらそこに金を注ごうということで、軍事費をそっくりそのまま教育費に変えたんです。その時につくったスローガンが、「兵士の数だけ教師をつくろう」です。さらに「兵舎を博物館にしよう」、「トラクターは戦車より役に立つ」、こういうスローガンをつくって本当にやってしまった。

ところが、その教育の現場に行くと、さらにびっくりします。この国では、小学校に入学したその日に校長先生が入学した子どもたちに必ず言う1つの言葉があります。それはは、「人は誰も愛される権利がある」という言葉です。日本語でいうと基本的人権ですが、基本的人権というと高校生ぐらいにならないと分からない。でも「愛される権利」というと分かりますよね、子どもにも。「人は誰も愛される権利がある」、あなにも、あなたにも「愛される権利」がある、と校長先生は入学した子どもに言うわけです。

さらに、もし「自分は愛されていない」と思ったら、社会を、政府をあなたを愛するように変えることができる。そんなことまで習うのです。さらにその手段まで習うのです。もし自分が愛されないと思ったら憲法違反の訴訟をやることもできる。この結果何が起きるかというと、小学生が憲法違反の訴訟をおこしてしまうのです。このコスタリカでは、憲法違反の訴訟をおこした最年少は8歳です。小学校2年生です。何かこの社会がおかしいと思ったら、子どもでも、小学生でも、これを裁判という仕組みに訴えて、憲法に訴えて異議を唱える。異議を唱えられたほうは、子どもが訴えでもきちんと受け止めて裁判という社会の仕組みのなかできちんと話し合い、その結果を国が責任をもって実行する。これがこの国のやり方です。これが市民社会ではないですか。

ひるがえって、日本はどうかというと、こういう時にすぐやるのは市会議員の先生にお願いする、区会議員の先生にお願いする。こういう時の用語が「請願」とか「嘆願」といいます。請願は請い願うです。嘆願にいたっては嘆いて願うです。これは江戸時代の、お代官様、お願いします」と同じです。この国では、社会の仕組みを変えようとする時に偉い政治家にお願いする発想です。お願いするからにはワイロとか、次の選挙で一票とか、こういう発想になる。
  コスタリカは違う、コスタリカは子どもでも1人前の市民扱いです。日本は子どもは子ども扱いではないですか。この違いです。えらい違いがあると思いました。

このコスタリカでもう1つだけ。僕は80年代に最初にこの国に行ったとき、いろいろな問題を取材しました。エネルギーについても聞きました。「この国のエネルギーはどうしているのですか」ときいたら、このコスタリカも水力発電と地熱発電で電力のほぼすべてをまかなっています。僕は地熱という言葉をその時初めて聞いたものですから、「えっ、地熱発電というのがあるのですか、それ自前で開発したのですか」ときいたら、「いえいえ、日本からその技術を導入しました」というのが答えです。すでに80年代から日本はよその国地熱発電の技術を出す能力があったのです。なのに自分のところでは使わない。平和憲法も地熱発電の技術もせっかくいいものがあるのに自分のところでは使わず、どんどんよそに出してよそで使っているわけです。自分のところで使えばいいじゃないか、と思うわけです。

〝自覚する市民は最強〟

コスタリカで関心したのは市民の力でした。市民が、1人ひとり自覚した市民が、この国を変えるのは、この社会を変えるのは私たちだと、子どもの時から自覚していた。では日本ではそういうことがないのか。ないことはないです。今回の大震災が起きて、福島の事故がおきて、一週間後、僕は山口県の上関町に行きました。原発の建設計画がある所です。そこに行くと祝島という島があって、住民500人ですが、その9割が原発反対の運動をやっている。10億円の補償金を蹴って、30年間にわたって原発反対の運動を続けているのです。そういう島があって、そこへ行きました。

そこで反対運動の先頭に立ってたたかっている33歳の男性がおりました。この人から、一晩、焼酎を飲みながら話を聞きました。彼はこういうのです。「漁業権を売り渡した漁師はこういう。「環境でめしが食えるか」と。でも、環境がなかったらどうやってめしが食えるのだ。海がきれいであってはじめて魚がとれて、売れるではないか。農地がきれいであって、そこでとれた野菜が売れるじゃないですか。いまの福島をみてくれ。あの風評被害だけで農作物も魚も売れなくなっている。結局、環境がなくなったら、農業も漁業も成り立たなくなる。農民も漁民も生きていけなくなる。それだけではない。それを食べる人は食べるものがなくなってしまう。「環境がなくなると日本は飢えるぞ」。その通りですよ。

この島ですごいと思ったのは、彼らは、原発に反対するからには、自分たちでエネルギーを100%自給しようと太陽光発電に取り組むなど、そういうこともやっています。いまや代替案まで出す。たんなる反対運動ではない。日本の市民力はそこまでいっている。

先週、高知県の梼原町に行きました。山奥の村です。そこには風車が2基建っていて、その電力を四国電力に売って、そのお金で町の家々に太陽光のパネルをつけている。温水プールは地熱です。町をあげて自然エネルギーをとりいれている。こういう町が日本にもある。この町の人たち、エライ元気なんです。そこから1時間半かけてバスで下っていって高知の町につきますが、町の人たちは、「イヤーあの町は元気ですね。ウチの町は元気ありません。」と言う。日本中、いまはどこも元気がないじゃないですか。この町だけは元気なんですよ。「なんででしょう」と私はこの町の人たちに改めて聞きました。そしたらこう言いました。「自覚した市民の意識があるからですよ」。この町を変えるのは私たちなんだという意識があるから、そのエネルギーは自然エネルギーでやっていこうと、こういうことを町の人たちが考えて自分たちでつくりあげていっている。ここの違いです。そうすると市民は元気になります。市民が元気になれるかどうかは、自覚した意識が持てるかどうか、ということにかかっている。

市民、それから行動ということで僕が思い出すのはお隣の韓国の金大中元大統領です。彼は、韓国の民主化のために一生をささげた人でした。その彼が、亡くなる前に最後の遺言として遺したのはこういう言葉でした。「行動する良心たれ」と。だれでも良い心をもっている、でも多くの人は行動しないです。金大中はこうも言った。「行動しない良心は悪の側にいる」。自分は良心をもっていると思っていても何も行動しない人は、結局今の体制をそのまま認めることと同じだ。本当に自分が良心をもっていると誇りをもって言いたいなら行動すべきだ、そして初めて自分という人間の存在によってこの社会にたいしてインパクトを及ぼすことができるのだ。それが金大中の最後の言葉だった。

韓国の人たちは、自分たちの力で、あのひどい軍事独裁社会を民主主義の社会に変えていった。いま私たちがやるのは、この日本で、1人ひとりが自覚した市民となってこの日本を、私たちの社会を変えていくことだと思います。
ありがとうございました。

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第59回市民憲法講座(要旨)
憲法との出会いの旅-メディアの現場からみた日本国憲法

藤森 研さん(元朝日新聞編集委員・専修大学教授)
(編集部註)4月16日の講座で藤森研さんが講演した内容を編集部の責任で集約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。

大天変地異の後は社会が変わる

こういう時期にのんきに憲法の話などをしていいのかなと思ったんですが、考え直しました。こんな時だからこそ、日本国憲法を考えることは日本の戦後社会、今を考えることそのものですよね。

まだ「震災中」ですが、たとえば関東大震災がそうであったように、大天変地異の後は社会が変わります。関東大震災までは、東京では有力な10紙くらいが覇を競った時代でした。ところが関東大震災がきた。そうすると、大阪に本社がある新聞社、毎日新聞と朝日新聞が大阪で刷って、海軍の船に載せてもらって、東京港の桟橋に横付けして配りました。ですから大正12年以降は、日本の新聞界は2紙の寡占体制にがらっと変わりました。読売は被害を受けましたが、その頃はまだ小さかった。その後、正力さんが、スポーツとかラジオ欄などを充実させて伸びてきて、敗戦にいたる頃には3大紙体制になっていたと言ってもいいかもしれない。しかし大正の後半から昭和の前半までは基本的には2大紙体制です。そうなったのは全く震災がきっかけです。

今回の大震災は、もっとそれを上回る被害がありますね。エネルギーの大打撃を加えられました。これからは震災復興だけでなく、原子力はじめエネルギー政策をどうするのか、さらにいえばわれわれの暮らし方をどうしようか、という話になってきます。その意味で今回の3.11は日本の歴史、日本社会を画すことは間違いないと思います。

大切にしたい戦争をしない民主主義の選択

戦後もがらっと変わった。廃墟から立ち上がり、どうやって生きていこうかと考えた。僕は日本国憲法を日本国民も選んだと思っています。押しつけ憲法といわれます。確かにマッカーサーが8日間でつくったという問題も歴史的事実です。今日皆さんにお配りした資料、毎日新聞の昭和21年5月27日付けです。資料的に意味が大きいものだと思っています。戦後日本の憲法についての本格的世論調査の一つ目がこれです。つまり一番早い時期における日本国民の憲法観が見えるのがこれです。国会図書館でコピーしたものですが、それでもこれだけ汚くて申し訳ありません。

ここでは一番の議論が天皇制をどうするか、ですね。支持85%、反対13%ですが、これをよく見ると象徴型、つまり国政の権能を有しない天皇制を支持しています。そういう意味での支持の高さです。それから憲法9条についてですが、おもしろいことに「自衛権放棄に危惧」という見出しになっていますが、本文を見ると当時はまだ素案段階で最終確定していない。だいたい政府案が見えてそれについてどう思いますかという形で、その中でも、もちろんも戦争放棄は入っています。その段階で戦争放棄は必要かと聞いたら、70%は必要だ、戦争放棄で行くよと言っています。

そのあと、戦後史を考えると1950年代後半、砂川闘争があり、警職法闘争があり、勤評があり、三井三池があったあの時期の大衆運動の盛り上がり、あのときに僕は国民が積極的に日本国憲法を自ら主体的に選び取ったと思います。できたときには全然主体的じゃなかった。「悪くないよ、いいよ」といってノーといわず、容認して受け入れたというかたちだったと思います。

日本の戦後民主主義は独特の民主主義じゃないかなと考えます。まさに字に書いたとおりの「戦(いくさ)の後の民主主義」という感じです。憲法の3原則でいえば平和主義、国民主権、基本的人権の尊重ですが、平和主義を全うするためには天皇主権より国民主権の方がいい。基本的人権なしよりある方がいい、意見を言えた方がいいというかたちで、結局「平和のための民主主義」ではなかったのかということが僕の一つの思いです。だからこそ戦後の大衆運動のスローガンは常に「平和と民主主義」、セットですよね。

僕はとってもいいと思うんですけれども、そのことの「特異性」は、逆に言えば世界中では民主主義的に戦争をする国がいくらでもあるわけで、日本は戦争しない民主主義なんです。これが戦後民主主義の、日本社会の、世界の中でも非常にユニークで大切にしたいところじゃないかと思うんです。

僕に引きつけて考えると、僕はジャーナリズムの世界の端っこに30数年間いましたが、表現の自由ですね、戦前はもちろん臣民の、法律の範囲内の自由に過ぎなかった。明治の後半に成立した新聞紙法は、当局内務省が「これだめ」といえば簡単に行政処分で発禁にできた。そういう中でやっていかなければいけなかった。戦後は完全に基本権として、原則的に言論の自由、表現の自由を保証しようという、制度的にですよ、実態はどうかは別にして、そういう制度をとってきている国は少ないと思います。

たとえばドイツに行けばわかりますね。「ナチスはいいところもあった」みたいなことをいったら、「アウシュビッツはうそだった」と言ったら、それで刑事処罰です。これは三重短大の楠本孝先生などが詳しいですが、「闘う民主主義」です。

それは歴史的にはとても意味がある、必然があったんだろうと思います。けれども、ドイツでずっと取材で歩いたときに、一点でもこのための表現はしちゃいけない、罰する、というものがどこかにある表現の自由というのはおかしい。常に黒雲は、いつの間にか周りを広げていって自由を食い荒らしてきたのがこれまでじゃないか。僕は柔らかい幅の民主主義、自由という日本の民主主義こそ理想的なんじゃないか、制度としてですが、といって議論しましたが、結局平行線でした。

彼らには彼らの理があるだろうし、アジアにおいては表現の自由自体を相対化する開発独裁的な考え方などいろいろなかたちがある。そうした中で日本は相当程度に制度的には憲法21条を原理的に守ろうと考えてきた国ではないか。僕はそう思います。

戦争と天皇を批判した与謝野晶子

この「日本国憲法の旅」という本で最初に書いたのが与謝野晶子とトルストイの話です。「100人の20世紀」という、ちょうど世紀が変わるときに朝日新聞の日曜版で特集がありました。2年間やりましたが、そのチームに副キャップで入ってやった中の一つが与謝野晶子でした。

晶子は1901年、ちょうど20世紀になった年に「みだれ髪」を出しました。「やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」、「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」など、非常に清新な恋を歌った。新進の女流歌人が彗星のごとく出てきた。そのわずか3年後、1904年9月号の明星で「君死にたまふことなかれ」と反戦を歌い上げたわけです。僕がこれはすごいと思うのは、日露戦争をやっている最中に戦争当事国の中で歌っているわけです。勇気がいることだと思います。

特に僕がすごいと思うのは第三連です。「君死にたまふことなかれ すめらみことは 戦ひに おほみづからは出でまさね かたみに人の血を流し 獣(けもの)の道に死ねよとは 死ぬるを人のほまれとは、大みこころの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ」。天皇は自分では戦場に行かないで、お互いに獣のように血を流させあっている。いってみればなんということだということが原点にあって、それをあの天皇主権体制、しかも戦争をやっている真っ最中で、あの大強敵といわれるロシアに対してけなげにも日本が何とか戦争している中で、「この戦争はおかしくない?」ということを草莽の一女子が歌い上げたわけです。見事なものだと思います。

もちろんそれに対して批判がありました。翌月の「太陽」10月号で文壇の重鎮の大町桂月が、そんなことをいう「草莽の一女子…大胆なるわざ也」と批判します。国賊という言葉は使っていないけれども、当時彼女は渋谷村に住んでいて石は投げられたりはしたそうです。でも殴られたりはしなかった。

それに対して晶子は11月号の「明星」紙上に、「ひらきぶみ」という文章を載せて大町桂月に反論するんですね。「まことの心うたはぬ歌に何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき」。文学者になった以上本当のことを書かないで何の値打ちがあるのかと書いている。大町桂月が「社会主義者がいうならいざ知らず、草莽の一女子が反戦なんて」と言うわけですが、晶子はそれに答えて、「『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。さればとて少女(おとめ)と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候」と言いきるわけです。翌年1月に「恋衣」という山川登美子などと一緒に出した詩歌集にも、まだ戦争中ですが「君死にたまふことなかれ」を再掲しています。

なぜ彼女はそんなにがんばれたのか。それを解きたいということが僕の問題意識でした。それを調べていったらおもしろいことにぶつかりました。ひとつは籌三郎(ちゅうざぶろう)という弟が旅順、遼東半島の錦州で戦っていた。出征した仲のいい弟を本当に思う姉の気持ち、これが一番強かったのは間違いないと思います。というのは、晶子は与謝野鉄幹と駆け落ちをして、それで義絶になって、父親が亡くなってもお葬式に入れてもらえなかった。そういうときに陰で裏口から入れてあげたり、自分も文学好きで堺にいるときに晶子を文学サークルに誘ったのはその籌三郎という弟だった。

その弟が錦州にいって203高地で愚将乃木希典が人をどんどん殺す中で心配で心配でしようがない、これは明らかに最大のモチーフです。でもそれにしても強いなと思った。あの当時、お百度参りとか、ちょっと戦争はいやだなあという、柔らかいものもあったんですが、晶子は「すめらみことは 戦ひに おほみづからは出でまさね」という言葉です。

晶子とトルストイ・響き合う反戦のエール

もっと違う理由があったというのが僕の結論でした。晶子と「君死に」を調べていく中で、晶子とトルストイの関係に注目しました。トルストイはもう一つの戦争当事国ロシア国内で、反戦の論文を晶子より先に堂々と出しています。ツァーの時代ですよね、さすがに国内での出版は無理で、ヤースナヤポリャーナにいるけれども、世界的な文豪になっていますから、殺したり弾圧はできない、でも出版もできない。

トルストイはロンドンのザ・タイムズに原稿を送ります。膨大な論文です。そして1904年6月のザ・タイムズに英文のトルストイ伯爵の反戦論文が掲載されます。それを日本で幸徳秋水が翻訳して、社会主義の新聞、平民新聞に一挙掲載します。トルストイがその論文で「『汝、殺すなかれ』の戒めに背き、人と人が野獣のように虐殺しあうとは、そも何事か。この戦争は宮殿に安居し栄誉と利益を求める野心家らが、ロシアと日本の人民を犠牲にしているのだ」、彼はもともとキリスト教人道主義ですが、こう言っているんです。非常に激烈な、でも理性を伴った反戦論文です。

非常に似ているんですよね。そこに注目した人たちが国文学者で何人かいます。もしかすると晶子さんは、幸徳秋水が翻訳した平民新聞のトルストイの論文をどこかで見て触発された、あるいはまねしたんじゃないかという、疑問型の学説がいくつか出ていました。ところが平民新聞は当時は最大5000部くらい、だいたい千部台のものです。それに晶子は、わざといっている面もありますが、「『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候」といっていて、彼女自身は左翼ではないですからこれを見るというのはちょっと考えにくいということで、結局何となく似てるな、でも偶然かなという感じで終わっていました。中村文雄さんという方がその研究を集大成した本をお出しになっているけれども、やっぱり結論的には「似ているけれども…」という感じですね。

それで僕が朝日新聞の調査部で明治時代の新聞をみていたら、東京朝日新聞で当時連載されていたんですね。与謝野家が当時東京朝日をとっていたことは、文学者ですから、ほぼ間違いないと思ったんですが、一応こちらもウラをとりました。今から12年前くらいですが、彼女の11人の子どものうち、四女の宇智子さんと末娘の藤子さんが武蔵野と藤沢にご健在で、彼女たちは口をそろえて家で東京朝日をとっていたのは間違いないといっていました。ちょっと時期は違うんですが、石川啄木の日記にも与謝野鉄幹が朝日の連載小説を、当然読んだ上で、酷評していると書いてあります。

ページをめくると、トルストイ伯の論文は朝日では8月2日に連載が始まって8月20日に終わっています。戦況、日露戦争は今どうなっているか、死者などの数と同じ面に、トルストイの反戦論文が載っている。あれだけ籌三郎を心配している晶子がここを読まないとは思えない。そうすると、晶子はトルストイを死ぬまで尊敬していますから、ここにトルストイの論文が載っているのに目がいかないことはないだろうと思います。

もうひとつ、これも状況証拠ですが「明星」の1904年9月号の原稿の締め切りは、専門家の研究によると8月20日説と8月22日説があります。東京朝日新聞紙上でトルストイの論文が終わったのが8月20日です。それを読み終えて触発されて、あるいは読んでいる最中に「そうだ」と思って書いたのではないか。反戦詩「君死に」はトルストイへの「返歌」だと新聞では書きました。晶子とトルストイが、いわば旅順をちょうど真ん中において、ロシアと日本のあいだで出会った反戦のエールであった。内容が非常に一致していますね。

おおざっぱに言えば、彼らふたりの反戦論文の共通することのひとつは、人と人とが互いに殺し合う戦争そのものが悪いということです。たとえば晶子が「君死に」の中で「親のなさけはまさりしも 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとおしえしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや」とあります。あらゆる戦争、戦争そのものが悪だという非常に簡単、簡明な考えです。それから戦争の階級制です。戦争被害は平等じゃない。戦争を始めるのは安全なところにいる天皇でありツァーであり、そういう連中だ。でも自分たちは戦争に行かない。行かせられるのは普通の庶民じゃないか。その両国の人民が手を取ってノーと言おう。そういう国際反戦市民連帯の思想ですよね。それが響き合ったんですね。1904年です。

さらに調べてみたら、1904年6月のザ・タイムズにトルストイの論文が載ったときに、世界中のアメリカとかフランスの作家や知識人から、賛成の嵐がものすごく起きたんです。晶子の「君死に」の詩も東洋からのそのひとつだったといえるかもしれません。20世紀最初の大きな戦争が日露戦争ですから、そこから国際反戦市民連帯といっていいものがつくられた。つまり晶子だけの問題ではなく、世界中からその通りだという声が起きた。20世紀の最初から戦争はおかしいということを、同時的に国境を超えて言い出していたんです。

戦争違法化・不戦条約と日本

それが1914年からの第一次世界大戦を超えると、総力戦になるわけです。非戦闘員が殺される、毒ガスが出てくる、タンクが出てくる、圧倒的に殺人能力が上がってもうやめよう、ものこの愚は繰り返さないと世界が、特にヨーロッパの人たちが思ったわけです。

国際法学者の大沼保昭さんは、第一次世界大戦が終わって世界に3つの平和思想が生まれたと言っています。ヨーロッパを中心とした集団的安全保障の考え方、制裁戦争は認めるということ。それから限定的だけれども自衛戦争はいい、そのほかの戦争は全部だめということを決めたのが国際連盟です。これがひとつです。

それから1918年にシカゴのレビンソンという法律家が「ニューリパブリック」誌に書いた論考、「outlawry of war」、戦争違法化、あらゆる戦争は違法であるという考え方です。ヨーロッパ型、国際連盟型は、いいところもあるけれども不十分だ、なぜなら制裁戦争、自衛戦争を残しているからだというわけです。第一次世界大戦までは戦争は完璧に合法だったわけです。無差別戦争観です。ただし戦争のルールだけは決めましょうということで、捕虜をいじめてはいけないとか、ハーグ条約を決めた。それが戦争自体をすべて悪だという考えが、ついに1918年にアメリカを中心にして広がった。

じゃあどうやって平和を担保するのかというと、ひとつは強制管轄権をもつ国内法での戦争扇動者処罰規定の整備、それから国際世論など、武力によって平和を担保するんじゃなくて平和的手段で平和を担保しようということ、戦争違法化論、これがふたつめです。大沼さんは3つめとしてガンジーなどの非暴力抵抗をあげていますが、国際関係的にいえば最初のふたつでしょうね、基本的な考え方でいうと。

20世紀の第一次世界大戦後、ロンドン軍縮条約まで10年間軍縮の時代があった。上院外交委員長になるボーラー上院議員だとか、哲学者のデューイなどが戦争違法化の運動に加わって広がっていった。ヨーロッパの集団的安全保障などの考え方とアメリカを中心とした戦争違法化の思想、この両者の「幸福な結婚」とも「妥協」ともいわれるのが1928年のパリ不戦条約、アメリカとフランスの外相の名を取ってケロッグ=ブリアン協定といわれます。

不戦条約は3条しかありません。第3条は手続き法ですから1条と2条、ここには「武力による平和の担保」ということは一言も書いてありません。アメリカ型とも読める。ただし自衛権は保留したままになってしまった。そういう解釈宣言を発効するときにしているので、書いていないけれども認められるとなった。それを3年後にある国が崩します。それは中国東北部で謀略によって線路を爆破して、これを事変だと言った日本ですね。「事変」だということにしたのは、「戦争」だと言ったら不戦条約に反するんですね。大日本帝国も不戦条約の「人民の名において」という部分だけ保留して、帝国ですから、でも批准しています。それを気にしているから「事変」だと言ったんですね。

20世紀後半も変わらない戦争違法化の流れ

その後残念ながら第二次世界大戦にいってしまったんですが、2回目の失敗をして人類はもう1回考えるわけです。「outlawry of war」そのものではないけれども国際連盟規約よりもずっと厳しく厳密にやる、より効力を持たせる。問題はあるけれどもぐっと締め付けるかたちで集団的安全保障は認める。20世紀後半も、広い意味では戦争違法化の中での集団的安全保障を認め、戦争自体をできる限り起こさないようにしようということになったわけです、国際法上は。そのときに日本国憲法は占領下でつくられていくわけです。

おそらく、つくったときには世界は国連が機能して平和に行くであろう。諸国民の公正に信頼することと、さらにもうひとつの平和思想、武力の放棄というところでやりましょう、ということが流れ込んできたわけです。 不戦条約の第1条と日本国憲法の第9条1項は文言がほとんど同じです。これは不戦条約からとったからです。9条は第2項がミソですから、その意味で言えば単なる延長上ではなくて、さらに先に行ったことは事実です。僕の勝手な解釈では、晶子とトルストイ、あるいはトルストイと世界の識者から始まった、戦争自体が悪であるという簡明な理が、20世紀の世界に流れ込んでいる。

例外として国連憲章51条では自衛戦争を限定して限定してさらに限定していますよね、法文上は。ところが残念なことに東西冷戦などでこの第51条は本当に例外に過ぎない、集団的自衛権つまり19世紀的な軍事同盟の思想が脱法的になされて、人類を何回も殺せるような状態になってしまった。ただ、それでも国連憲章は改正されていませんし、日本国憲法もひとつも変わっていません。戦後60年以上、半分お休み的なところはあるけれども生きているし、大きな流れ自体は変わっていないと思います。世界の平和思想のひとつの橋頭堡になっているのが日本国憲法で、ジェームス三木さんが「真珠の首飾り」の中で上手な言葉で言っていますね。世界の叡智がつくった、いろいろなかたちで流れ込んだんですよね。

そういう国に、しかも戦争自体がもういやだという戦争嫌いは国民の共通認識になったきわめて特異な国ですよ。多くの世界の国では、正しい戦争はあると未だに思っています。日本人の多くは「正戦」なんてないと思っている。自存自衛のためにといって侵略戦争をした国ですから、もう「うそ」だということはわかっている。正義の戦いである、なんていうのはいかにインチキか、イラク戦争をみても日本人はわりとすんなりわかっている。でも世界に行くとまだユニークです、「正戦」がないとはっきり言い切ってしまうのは。でも僕は長い目で見ればそうなるんだと思うんです。

これは樋口陽一さんなどと議論すると、樋口さんはわざと僕に「藤森ね、じゃあベトナム民族解放戦線の戦争も否定するのか。9条の思想はあれもだめということなんだよ」と言います。非常に難しい問題だなあと思います。でも全体の大きな流れでいうと、たった100年くらい前ですけれども、1918年にレビンソンが「ニューリパブリック」誌に書いた中で構想されたICC(国際刑事裁判所)なども動いている。クラスター爆弾禁止条約などもできた。20世紀から始まった人類史的な流れは変わらないだろうと、僕は思っています。だから9条は古いよとか時々けなされるけれども僕は全然動じないし、むしろ王道、保守ですよといいたいくらいです。

日本の侵略戦争に向き合う

次にわたしの「宿題」についてです。わたしの本の第2章では、中国残留孤児問題も取材しました。旧満州に何度も行きました。集団自決をした旧開拓団の方たちと一緒にいったこともあります。遺骨収納で実際に拾ったんですが、水を吸ってすごく重かった。人の骨ってこんなに重くなるんだと思った。それが終わって東安の近くにあった哈達河(はたほ)開拓団というところで、貸してくれたジープなどに分乗して当時住んでいた部落に行きました。もう当時の建物は全部なくなっていて平原なんですが丘はあるんですね。その丘のかたちでようやく彼らの家の場所がわかった。

当時80歳くらいの女性が、突然空に向かって「トシ子ーっ」って亡くなった娘さんの名前を呼んだんですね。そのとき、はらはらと雪が降ったんです。不思議でしたね。もうちょっと若い女性は、昔語りをしてくれました。昔の花嫁は三角巾をかぶっていたとか、われわれの部落は働き者だと言われていた。夕方になると、あのあぜ道を別の部落の男たちが帰って行くときに、若夫婦の自分たちに卑猥な冗談を投げていく、ということをすごくうれしそうにほほを赤らめていうんですよね、その平原で。

だいたい出身地は豊かなところではないわけです。僕が取材した人たちは昭和恐慌直後で、農家の嫁は舅さん、姑さんの抑圧のもとで耐えて、つくったものは地主に相当持って行かれて、惨憺たる中で食いつないできた。その舅さんたちと離れて、夫と二人だけで働ける。収穫したものは全部自分たちのものにしていい。しかも「ひと畝2キロ」という言葉があって、三反田どころではない。信じられないことなんですね。そこは彼女にとっては人間としての「解放」だったんです。でもそれはそこに住んでいた中国人を押しのけての解放です。

そこの中国人にも取材できました。良民証というものを持たされて、耕地とかいろいろなものを取り上げられた。開拓団の人がつぶやくように言いました、「俺ら百姓だよ、ここが既耕地だっていうことは百姓だからわかるよ。それを開拓する『開拓団』っていったい何なんだ」。被害者であり加害者だったわけですよね、日本人民は。

日本の侵略と言うけれども、具体的に何かと言えばその開拓団ですよね。1931年に満州国をでっち上げて1932年から国策で第一次開拓団弥栄(いやさか)、第二次千振(ちぶり)と入っていくんです。哈達河は第四次ですが、そこまでは国が面倒をみる国営開拓団で、「成功」した。これからは民間でやりましょうということになって、500万人計画とかがつくられた。もちろん戦争で押し入って略奪するというのも侵略だけれど、恒常的な侵略は移民ですよ。中国人は3等市民、朝鮮人は2等市民という感じで満州では現実にはやっていたわけです。

開拓団の人にとっては、個人としては虐げられた食うや食わずの生活からの解放だった。しかも当時は世界中が弱肉強食の帝国主義の時代で、放っておけばやられてしまうかもしれないという中だった。第二次世界大戦がなぜ起きたかというと、いろいろ見方があるだろうけれども基本的には1929年の世界大恐慌です。その後始末をそれぞれがやって、アメリカはニューディールをやり、ドイツではナチスが出てきて、ヒトラーもケインズ主義政策をやった。アウトバーンや軍事工場をつくるなど財政投融資、公共事業で景気をよくしていこうとした。それで第二次世界大戦にいっちゃうわけです。

日本も世界大恐慌を受けた昭和恐慌の、身売りなどがある悲惨の中で満州侵略以外にいったいどうすればよかったのか。龍渓書舎から出ている「日本帝国主義下の満州移民」という論文集が、僕が読んだ中では印象批評じゃなくて、当時の生産力などいろいろな資料も調べたがっちりしたものでした。最終的には地主制解体なんですね。それを当時の日本の状態でできただろうか。無理だったんじゃないかと思うんです。じゃあどうすればよかったということについて僕はまだ答えが見つかりません。

ドイツ取材のなかで考えたこと

それからドイツについてです。ドイツをずっと取材しました。ナチスがいわゆるユダヤ人絶滅政策をやったのは最後の方で、ナチスが最初にやったことは、1933年にヒットラーが政権を取ったその年に断種法、障がい者が子どもを産めないように法律をつくった。それは優生学、優生思想です。ナチスはどういう理屈で宣伝したかというと、「生きるに値しない生命」、あるいは「社会的資源の浪費」、そういう論理です。そして精神病者、障がい者を弾圧して減らそうとした。

最初は遺伝病者、そして1939年にポーランドに攻め込んで第二次世界大戦を始めたその年に、やっぱり赤ちゃんを産ませないだけでは劇的には減らせない。もっと減らすために精神障がい者自身を集めて殺すことを始めます。これがT4計画です。なぜT4というのか。これはベルリンフィルハーモニーの建物があるティアガルテン通り4番地という意味です。そこに公のものではないけれどもT4計画の本拠がありました。そこで計画したのは、灰色の長いバスで各地の精神病院から運んで、入っていくと服を全部脱がして、閉じ込めて一酸化炭素ガスで殺すわけです。そうしてどうやったら一番効率的に人を殺せるかという技術を開発します。

ハダマーというところは今も精神病院として使われています。さすがにドイツは今も残していて、地下は現在州の管理で説明員もいます。手術室や解剖室だったところもあります。そして開発した技術を携えた連中が1941年、42年くらいにどんどん東に転勤していく。それでアウシュビッツでホロコーストがおこなわれる。ユダヤ人についても、人間というのは生まれつきに優劣がある。「劣」は最悪殺してもいい。「優」だけが生きていけばいい。こういう健全への狂信です。ユダヤ人虐殺はこの延長上です。

ではこれはヒトラーの発明なのか。違うんです。いまもオーストリアのウィーンのメルデマン通りに行くと、ヒトラーが青年時代を過ごした建物がそのまま残っています。今もホームレスの人や独身男性が安く泊まれる社会福祉的な施設として、少なくとも僕が行った1990年代の終わりにはまだ残っていました。彼は美術学校を落ちて失業している。管理人に、部屋を見せてもらいました。2畳くらいの部屋でした。ここからは僕の勝手な妄想ですが、ここで若き日の彼は、青年にありがちな、自分は能力があるのに世に入れられないと思いながら、おそらく職場の労働組合の活動家や街で配られるビラやチラシを壁に向かって読んで、時代の断片に触れつつ自分の世界観をつくっていった姿が思い浮かぶんです。

彼はこの時代に価値観を得たと書いてあります。その価値観はひとつは優生学です。優生学はむしろアメリカなどが先進だった。1910年代からアメリカでは、いくつかの州で遺伝病子孫予防法のような、障がい者や遺伝病を持っている人は断種するという法律をつくっています。スウェーデンなどはつい最近までそういう法律があった。日本だってあったわけで、法律としては。むしろドイツは遅れている方だった。いまはシナゴーグ、ユダヤ教のお墓などはほとんどないんです。ユダヤ教の人はあまり住んでいない。「結局ヒトラーは成功した」などと言う人もいる。いずれにしてもそういうものはすでに用意されていた。ヒトラーはそれを極端に拡大して見せてしまっただけではないかという面があると思うんです。

これがいざ恐慌になったとき、僕らが本当に食うに困ったときに、僕らは全く生産ができない人をきちんと食わせて行くことができるかというと、これもすごく難しい。絶対にナチスのようなことはしないという人がどのくらいいるでしょう。僕は自分に自信がない。国際優生学会は、ダーウィンのいとこのゴルトンが始めたものですが、世界の優生学会は戦後全部名前を変えました。今だってわれわれは羊水検査をやります。それによって迷う親もいるわけです。これは優生思想です。これを僕らは超えられたかどうか、これも僕の宿題です。いろいろな意見があると思います。20世紀は戦争の世紀から戦争違法化の流れになったということは間違いないと思うんですけれども、では人間の今いったような部分は乗り越えられたかどうかということには僕はまだ自信がありません。

当面は集団的安全保障で行きましょうという人がいても、僕はいいと思います。日本は9条でやっていきますよということで、富士山に登るのに御殿場口から登ろうが富士吉田から登ろうがかまわない。平和思想や平和意識、そのやり方は多様であっていいと思うんです。いろいろと試みながらやっていく。日本は9条で国際貢献をすべきですよね。

5月3日前後の憲法社説の分析と国会議員の憲法観

僕がちょっとだけオリジナリティを持ってやれたのは、2004年から日本全国の新聞の、5月3日前後の憲法についての社説を全部調べたことがあります。県紙、県で一番大きい新聞のことですが、県紙以上で憲法問題の社説を5月3日前後に書く新聞が毎年40くらいあります。全国紙も含みます。それを読んで、これは改憲論、これは護憲論、これは論憲論と分けます。論憲論というのは毎日新聞が言いだした、国民的に議論をしようというものですが、よく読むと改憲的論憲論と護憲的論憲論があるんですね。

それで分けてみると、改憲論は2004年以来4つしかありません。読売新聞、産経新聞、日本経済新聞、日経は前はそんなにいっていなかったんですが言い出しました。それから北国新聞―石川県の新聞で森喜朗さんの地元です。この4紙です。2005年に1回だけ静岡新聞が改憲論を出しましたが、翌年引っ込めました。今は改憲論は書いていません。改憲的論憲論は揺れています。

実は共同通信から社説も買っているんですね。論説委員が足りないから。共同通信は改憲論と護憲論のだいたい2つ流すんです。それでできのいい方を使うわけですね。そういうことを雑誌の「世界」などで暴いてきたので、だんだん自分のところで憲法社説を書くところが増えてきました。去年調べた感じでは護憲論の社説を書いているところと護憲的論憲論が36紙です。社説を持っている全国紙、ブロック紙、地方紙の中で36が護憲系、護憲論、護憲的論憲論です。4紙が改憲論、これは非常に明瞭です。そして2紙が改憲的論憲論。だいたいこういう分布です。

これは2004年からあまり大きくは変わっていません。それだけでみると圧倒的に護憲論が多いように見えるけれども、正しくありません。それは部数の大きい新聞が改憲論なんですね。読売は1000万部ですし日経新聞も300万部以上あります。これらを足しあわせて部数ベースでいうと護憲系は60%あまりです。

もうひとつおもしろいことは、各紙とも5月3日に向けて憲法の世論調査を毎年やるんです。それをみると若干の例外はありますがほとんど一致して、答えない・わからないを除いてイエスかノーだけを100にしてそれで割ってみると、6割あまりの国民は9条護憲、4割弱が改憲です。見事に新聞の論調分布と日本の世論の分布は一致しています。

ところが国会議員の数はまったくねじれています。産経が前に調べたことがあるんですが国会議員の70%は改憲論です。ところが日本国民の60%あまりは、9条を保ってこれを使っていこうといっているわけですね。これは揺らいでいません。新聞もそうです。国会だけ全然逆の図になっている。衆議院のことをthe House of Representatives =代表の家というらしいですが、全然代表していませんよね。

時代の分かれ目に次の社会の議論を

今回の震災でいくつかの懸念される点もあります。国会議員の話でいえば大連立の可能性、この危険性がある。いまの2大政党は両方とも改憲論ですから。これが大連立したときにはぱっと発議できる。この震災を理由にして政治的大連立みたいな翼賛体制ができてしまう。

ACの広告が一時期すごく流れましたね。日本すごいぞ、団結しよう、こういう感じですね。でもちょっと気になる。というのはこの排外的な感じがちょっと強まってきていると思うからです。ひとつは領土問題です。尖閣、竹島、もちろん韓国もすごいナショナリズムです。日本もそうです。 どちらも意地でも国内的立場のために突っ張っちゃう。もうひとつは2007年に発足した在特会の問題です。「ネトウヨ」と呼ばれるネット上の右翼が、いままで場がなかったのが言えるようになった。それが言うだけじゃつまらない、となったのが在特会だと思います。そういうことがいわば裸で出始めた。

その中で今回の震災が起きたわけです。まずエネルギー政策を何とかしなければいけないのは明らかです。多くの国民が思うのはもう脱原発でしょうね。自然エネルギーでやっていくこととともに、もうひとつは電気を24時間こうこうとつける生活をもうやめようよという、その組み合わせだろうと思います。

次の社会をどうしようかという議論がこれから始まっていくんだと思うんです。国民主権は根付いてきて、市民主権になってきたと思っています。それが巻町の住民投票であり、NPO法などです。基本的人権についてまだまだ問題はあるけれども、市民主権化が始まりつつある段階だと思うんです。それをもっときちんと議論して、たとえば今回自衛隊は「活躍」したわけですね。だから自衛隊を国土災害救助隊に改組することだってできる。むしろそうすればもっと効率的にできるかもしれない。時代が変わることは明らかですから、そういう議論をもっともっとしていければいいんじゃないかと思います。

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