私と憲法117号(2011年1月25日号)


日米安保の再々定義をめざす菅首相訪米と共同文書作成の危険性

菅直人首相はこの春にも訪米し、「日米同盟の深化に関する共同文書」を米国との間で取り交わす予定にしている。
一昨年9月の劇的な政権交代で民主党政権が誕生し、従来の日米関係を見直す動きが始まって1年半が過ぎた。この間、すでに半年余にわたって政権を担当してきた菅直人首相は、日米関係においても早々と逆走し、鳩山政権時代に揺らいだ日米関係を、再度いわゆる日米同盟の強化と深化を進める方向で走っている。

すでに古くなってしまった感があるが、政権交代を実現した民・社・国「3党政策合意」は、その外交安保の部分で、以下のように述べた。

「自立した外交で、世界に貢献=国際社会におけるわが国の役割を改めて認識し、主体的な国際貢献策を明らかにしつつ、世界の国々と協調しながら国際貢献を進めていく。……▽主体的な外交戦略を構築し、緊密で対等な日米同盟関係をつくる。日米協力の推進によって未来志向の関係を築くことで、より強固な相互の信頼を醸成しつつ、沖縄県民の負担軽減の観点から、日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む▽中国、韓国をはじめ、アジア・太平洋地域の信頼関係と協力体制を確立し、東アジア共同体(仮称)の構築を目指す。……」。

当時、鳩山首相はこの方向にそって、沖縄の米軍普天間基地の移転を「最低でも県外、できるだけ国外」の方向で進めようとするなど、対等な日米関係の構築と「東アジア共同体」の実現の方向へ、従来の日米関係の見直しを進めようとした。しかし、この政策は、危機感を抱いた米国と日本の財界、国内の守旧派勢力の一斉攻撃にあい、あえなく転換を余儀なくされた。2010年5月、普天間基地の辺野古移設などの「日米合意」を取り決めるにいたって、社民党は連立政権を離脱し、鳩山由紀夫氏は首相の座を降りた。

あとを次いだ菅直人首相がとった道は、前記の「政策合意」無視、総選挙における民主党のマニフェスト放棄、旧自民党政権時代の日米外交への逆走だった。菅首相は鳩山時代にギクシャクした財界、米国との関係の修復に懸命につとめた。普天間・辺野古の「日米合意」を「継承」しただけでない。、菅内閣のもとでつくられた「新防衛大綱」は、度はずれの対米追従路線であった。前原外相や北沢防衛相らは、従来の専守防衛・基盤的防衛力構想を転換し、米国の新戦略に呼応して「動的防衛力」と称する中国・北朝鮮敵視の日米韓軍事協調を推進した。そして弱い者いじめの「構造改革」で日本経済をめちゃくちゃにした小泉純一郎の新自由主義路線に回帰するかのように、法人税を減税するなどして財界との癒着を強め、消費税の大幅増税、環太平洋連携協定(TPP)への参加などの政策を推し進めつつある。

この菅首相が訪米し、日米共同宣言をだすという。もともとこの共同文書の構想は、昨年の鳩山政権時代に「日米安保条約改定50周年」を契機に発表しようとしたものだ。これがあのギクシャクで先送りされた。

今年は1951年9月8日の旧安保条約調印から60周年になる。これが1960年1月19日、改定調印され、その第10条は、改定後10年を経過した後からは日米どちらかが終了通告すれば、その1年後に失効することとされた。

1978年11月、日米両国は「日米防衛協力の指針」(ガイドライン)に合意、安保条約の実質的改定を行った。それはシーレーン防衛などの口実で自衛隊の海外での戦闘を容認し、日米共同作戦計画が作成された。それでも当時の防衛大綱はこれを「基盤的防衛力構想」と呼び、防衛予算を「GNP比1%以内」とするなどの枠を設けていた。

さらに冷戦体制終了後の1996年4月には事実上、再度の安保改定に匹敵する日米安保共同宣言を発表、安保の再定義が行われ、97年9月、日米防衛協力の指針の見直し(新ガイドライン)が改定された。このもとで日米安保は新ガイドライン安保=アジア太平洋安保へと変質をとげた。

これら実質的な条約改定がガイドラインによって行われたのは、条約改定問題を持ち出せば広範な民衆の反撃を受けることをおそれたからと言われる。

今回、菅首相訪米に際して企てられている日米共同文書は、日米安保の再々定義とでも呼ばざるをえないような、新ガイドライン安保をさらに再定義するという、日米関係の歴史を画するものであり、戦争の危険を招くものだ。

今年2月1日に米国防省の「4年ごとの国防見直し」(QDR)報告が発表された。日米安保を、このオバマ政権の新世界戦略のもとで、世界認識を共有し、グローバルな規模で米国と共同歩調をとるようにすることが狙いだ。とりわけ新防衛大綱に見られるように、アジア太平洋をめぐる米国と中国との覇権争いにおいて、日本をその対中戦略にしっかりと位置づけ、従来の基盤的防衛力構想を脱して、戦争遂行能力を持つ「動的防衛力」の構築に努めようとするものだ。そのために、米日韓軍事協力を緊密な同盟化し、オーストラリア、インドなどとの多国間連携を推進する、こうした方向に「日米同盟」を飛躍させようとしている。

加えて、いま野党・自民党が検討している安保改定は、「双務的な日米同盟」をめざし、集団的自衛権の行使を前提に日米双方が太平洋地域で共同防衛義務を負う一方、在日米軍基地の提供義務を安保条約から削除するなどとしている。

『産経新聞』は、その社説(主張:「安保再改定し 強い同盟を」1月4日)で、「民主党政権下で日米同盟の空洞化が進み、……安保体制の弱体化が誰の目にも明らか」になっているとして、「集団的自衛権の行使、非核3原則見直し、安保条約再改定は、日米同盟を立て直して新たな出発をするために不可欠な3本柱といえよう」と安保再改定を主張している。

政治の閉塞状況から政界の「大連立」などが模索され、国会議員の比例区定数削減が政界再編と合わせて語られる永田町の状況は、これら与野党の安保をめぐる動向が急速に合流する可能性を否定できない。

菅首相の訪米で「日米共同文書」が安保改定問題にどこまで踏み込むことができるかは別として、これらの人びとがめざす方向は共通のものであるだろう。1月からの通常国会で、自民党と民主党が共同歩調をとった参議院の憲法審査会規程の制定の動きがあるが、憲法審査会の始動=改憲の動きと安保再々定義の動きは一体のものと見ておかなくてはならない。

私たちはこれらの戦争の危険を招く安保再々定義、軍事力による抑止をめざした日米同盟の強化の道に反対し、普天間基地の撤去など在日米軍基地の縮小撤去、および民主党が衆院選マニフェストで公約した「東アジア共同体」の実現を要求し、日米安保の抜本的見直し(廃棄)と平和で友好的な「もうひとつの日米関係」の構築をめざして行動しなくてはならないだろう。
(事務局 高田健)

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第57回市民憲法講座(要旨)世界の「平和憲法」 新たな挑戦
軍基地とフィリピン、コスタリカの経験などを踏まえ

笹本潤さん(弁護士・日本国際法律家協会事務局長))

(編集部註)1月15日の講座で笹本潤さんがロベルト/サモラさんと共に講演した内容を編集部の責任で集約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。 

ご紹介いただいた笹本です。日本国際法律家協会という法律家の国際活動をする団体で事務局長をしています。この数年にわたって憲法9条を日本だけのものでなくて世界に広げていこうというキャンペーンや、2008年の9条世界会議などにも関わってきました。その成果として「世界の『平和憲法』 新たな挑戦」という本を昨年出版しました。

そういうことを踏まえて、この間の、特に世界的な平和憲法制定の動き、それと好対照にアメリカの軍事的な動きが相当ひどくなっています。後半に話してもらうロベルトがいるコスタリカでも、米軍の動きが顕著になっています。そういうことを前半にわたしが話して、後半にロベルトにコスタリカの現状について話してもらおうと思っています。

まず平和憲法が、日本の憲法9条だけではなくて世界的にも、特に冷戦が終わった1990年代以降に中南米を中心にたくさんできてきています。たくさんといっても圧倒的多数ではないですが。ひとつはコスタリカが軍隊を持たない憲法を持ったのは1949年です。これは日本の憲法9条に次いで古く、60年以上この憲法で軍隊を持たないということでやってきました。それからしばらくたって次に生まれたのがパナマで、1994年に軍隊を廃止する憲法ができました。その後、実際に軍隊もなくして米軍基地も追い出す成果もでています。

この間、目立っているのは南米の動きですね。特に有名なのはエクアドルだと思います。2008年に外国軍隊の基地を廃止する憲法をつくって、軍事基地の更新を拒否して追い出しました。同じような憲法がベネズエラとボリビアでも2000年以降にできています。こういうことがこの間の大きな世界的、歴史的な流れの中で顕著な傾向だと思います。

フィリピンの米軍基地の歴史

一方アジアでも日本だけでなくていい憲法が生まれています。それが今日中心に話そうと思っているフィリピンの憲法です。これは1987年にアキノ大統領が当選したときにできた憲法で、それに基づいて米軍基地を追い出していくんです。その経過について、去年フィリピンでアジアの法律家の会議がありまして、そこで詳しい報告を聞いて、基地がなくなった跡地も見てきました。それからフィリピンの弁護士が日本に来てくれて、どういうたたかいで米軍基地を追い出していったのかを詳しく話していただきました。

フィリピンの米軍基地がいつくらいから出来たかというと戦後すぐですが、もともとフィリピンはスペインの植民地でした。1500年代から1898年までがスペインの植民地でした。その後アメリカとスペインのあいだで戦争があって、アメリカが勝ってフィリピンを支配していました。

第2次世界大戦が起こる頃には、日本軍がフィリピンを侵略して占領します。その中でアメリカは、戦争が終わったらフィリピンを日本から解放して独立させてあげる、その代わりに米軍基地を置かせろという秘密の交渉を1944年にします。戦争が終わって1947年に、アメリカとフィリピンのあいだで軍事基地協定を結びます。当初は地代――賃料なしで米軍に基地を提供するという契約で、ただで使えるというものでした。99年間使えるという契約でした。その後少し期間が短縮されて1991年までは使える協定に変わりました。

その結果ふたつの大きい基地が生まれたんですが、ひとつはマニラのそばにあるクラーク空軍基地です。これはものすごく広くてシンガポールと同じくらいの面積があるらしいんですね。そのくらい広い基地が1947年以降米軍基地として使われていました。もうひとつは名前を聞いたことはあるかもしれませんが、海の方にあるスービック海軍基地です。これもかなり広大で、僕も去年行きましたが、湾としては横須賀に似ていますが横須賀よりもっと大規模な湾の中に、かつてはアメリカの艦船があったという状況でした。

日本の安保条約と違うところは、日本の安保条約は基地を置く規定もありますけれども、集団的自衛権を定めた規定も5条と6条に両方ついているんです。フィリピンの場合はちょっと変わっていて、基地の協定と集団的自衛権は全然別個の条約とか協定です。1947年の基地協定は政府が結ぶ協定で、条約ではないんですが、基地だけについての協定です。その後1951年に集団的自衛権、外部から攻撃があったときはアメリカとフィリピンが共同で戦うことを決めた相互条約という条約を結びます。このふたつが戦後のアメリカのフィリピン支配の基本だったんです。

国をあげた米軍基地撤去の闘いと憲法改正

これから話す米軍基地撤去のたたかいは基地協定を廃止していく運動だったんです。それも憲法を使って廃止していく運動でした。そこに特徴があります。1987年に憲法ができるんですが、その前の政治状況はマルコスがずっと政権を握っていて、腐敗などによって1986年に大統領選挙をせざるを得なくなるわけです。アキノ大統領、いまの大統領のお母さんのコラソン・アキノが候補に立った。彼女は最初、米軍基地撤去を大統領選挙の公約に掲げて当選するんですね。

ところが大統領に当選すると、今度は米軍基地容認派に急に変わるんです。そこがものすごいところだなあと思うんですが、当選しちゃうと基地擁護のための集会まで開いたりして、まったく正反対の動きになります。鳩山前首相にちょっと似ていて、それがもっと極端なかたちになってあらわれたと思います。そもそもアキノ大統領が当選したのはピープルズパワー、基地反対の市民の力だったんですよね。市民の方がそんな変節を許すわけはなくて、アキノ大統領が変節しようとも運動は続いていて、基地反対のデモとか集会はどんどん大きくなっていきます。

そういう力関係の中で、大統領に当選した1年後の1987年に憲法が改正されて米軍基地の延長を上院――日本でいう参議院にあたるものですが、上院の議決に委ねるという憲法の規定が作られました。18条25項です。すごく変わった規定で、手続きの規定だけなんですよ。米軍基地は許さないとか認められないということが憲法に書かれたわけではなくて、国会に委ねますよ、ということが書かれただけです。でもこれは非常に大きな進歩で本当にこの通り上院で米軍基地の延長が反対されたら、憲法上はもう追い出すことが義務づけられますからね。そういう意味では非常に大きな出来事だったんです。ただこれは政治的な妥協の産物で、ちょっとわかりにくい規定になったんですね。

とにかくフィリピンの政治状況としては米軍基地を追い出したい。なぜかというといままで何十年も米軍基地があって、日本と同じですけれども、基地のまわりでは必ず犯罪があって、殺人事件とかレイプ事件とかたくさんあって、それに対してフィリピンの市民運動が反対していく歴史があったわけです。それが大きくなっていったもので、市民運動はどんどん盛り上がりました。

この米軍基地協定は1991年で期限が切れるので、延長するかどうか1991年に国会で審議されました。そのときの様子の写真があります。市民のデモや集会は、最初は小さかったらしいんですが、どんどん大きくなって行ったということです。マニラ市内から基地まで行進する、基地までは何十キロもあるんですが、そこをデモ行進する運動が起こりました。また1991年には基地のそばにあったピナツボ火山が大爆発して、クラーク空軍基地とスービック海軍基地は灰で埋もれてしまって、使えなくなっていきます。国会審議が始まるのが9月で、その3か月前に火山の爆発があった。

国会審議は、上院議員は23人しか数がいない小さいものなんですが、そこで米軍基地の延長について賛成か反対かを演説して、採決がおこなわれました。その結果、12対11という、本当に僅差で米軍基地の延長協定が否決された。否決されたから、憲法に基づいて米軍基地はフィリピンに置けないということが確定したわけです。その結果1992年には基地が撤去されました。スービック海軍基地はアジアの中でも大きくて、フィリピンはアメリカのアジア支配の上でも沖縄と並んで非常にいい位置にあったんですね。中国も睨みやすいし、当時としてはアメリカにとっては貴重な基地だったと思うんですが、それを市民の力で撤去させた。それに憲法が大きく関与していたということです。

日本とちょっと違うのは、できた当時はアメリカは基地の賃料を払わなかったんです。その後、一応アメリカは名目は基地の賃料ということで負担して、実質的には経済援助というかたちでやっていました。要するにアメリカはフィリピンに基地を置かせてもらう、そのためにお金を出しますという立場だったんです。ですからアメリカの財政負担は当時かなり大きなものになっていて、それも基地撤去のひとつの引き金だったんですね。日本は沖縄などの米軍基地の場合は全部地代を日本政府が出していますから、アメリカにとっては日本の方がうんと楽なんですが、フィリピンの場合は財政的にも大変だった。また1991年くらいは冷戦が終わったころだったので、東西の力関係がだんだん柔らかくなってきたことも撤去させたひとつの理由だったと思います。それからさきほどの憲法に書き込んだこと。そういうことが要因になったと言えるんじゃないかと思います。

米軍基地撤去後の課題と米軍訪問協定

去年いったときに見たんですが、スービック海軍基地には民間の飛行場がありまして、外資系ですが工場がたくさん並んでいて、いまは産業の要地となっています。雇用者数も4万人から7万人にふくれあがり地域が活発になっています。また当時米軍の海軍の司令塔みたいなところは、いまは役場のようになっていますし、基地存続に反対した12人の国会議員の手型が飾られていて演説の内容も書いてあり、それらがモニュメントになっています。フィリピンでは国を挙げた大きな出来事だったということを感じました。

ただ問題はあって、米軍は基地をきれいにしないで出て行ったもので、不発弾や汚染物質が残っていて、いまでも被害者が出るらしいです。ですから基地はなくなったんですが、いまでも基地のあとの問題についてアメリカはきちんと補償すべきだという運動が起こっています。女性団体などが基地による被害者を救わなければならないと訴えています。

特にこの頃ひどくなっているのは法的な理由があるんですね。1992年に米軍基地はなくなったんですが、1999年に今度は米軍訪問協定が結ばれます。これは米軍がフィリピンに駐留することができる、米軍基地はないけれどもフィリピンの国軍の基地に駐留できる。それで合同演習ができる訪問協定が1999年に結ばれてしまうんですね。実は1991年に基地反対だった人が、今回は賛成派にまわったり矛盾した現象が起きたらしいんです。そういうかたちでいま米軍はフィリピンにどんどん来ているんです。

そして基地があったときと同じように米兵による被害も多発している。特に今度は犯罪を犯してもすぐにアメリカに帰れるものだから、より無責任になって殺人とかレイプの事件がたくさん起きているらしいです。それに対応している市民団体とか弁護士にも会ってきました。昨年10月に、スービックのそばの海でフィリピン軍と米軍の軍事演習が行われました。この辺は、フィリピンと中国のあいだに島の領有をめぐった領土問題もあるらしくて、多分アメリカは中国を睨んでだと思うんですが、軍事的に脅すために軍事演習をわざわざやりに行くんじゃないかと思います。

こういう訪問協定ができる理由としては、1951年の集団的自衛権を定めた相互防衛条約はいまでも有効です。日米安保条約みたいなもので、これがあるからこういうことがすぐにできちゃう。ですから本当の意味で米軍を全部フィリピンから追い出すことはまだできていない。むしろこの頃は米軍の方が積極的にフィリピンに来るという現状です。

いまでも米軍基地はなくなったけれども、さらに出て行けという運動がたくさんあります。フィリピンは市民運動、市民団体がものすごく多くて、いろいろなかたちの市民グループが運動をしています。訪問協定を破棄しろという運動がたくさんされているようです。

フィリピンについて詳しく言ったのは、フィリピンの弁護士に話を聞いたり僕らも直接行ったこともありますが、やっぱり沖縄の基地問題とすごくオーバーラップするところがあります。さっきアキノ大統領が変節したと言いましたが、大統領が替わることで政権の交代が起こるわけです。その中で市民の運動も盛り上がっていって、それが憲法にも反映して基地を追い出していくわけです。半分くらい日本の状況に似ていると思うんです。民主党政権になって、沖縄では基地反対が圧倒的多数になって知事まで外に出て行けといいますよね。憲法は、日本には9条がありますから変える必要はないけれど、本土というか東京というかそこでどのくらい運動が盛り上がるのか、そこにかかっている気がして、フィリピンの経験は僕らにとっても重要だと思います。

中運南米の平和憲法――パナマ

中南米についてはコスタリカについては後でロベルトに詳しくいってもらいますが、こちらも動きを見ているとおもしろくて、パナマで軍隊廃止の憲法ができた1994年あたりを境にして動きが急になってきます。パナマというのは、パナマ運河があってその利権をねらってアメリカが基地をつくっていたんですね。国内の政治も軍事政権で軍隊による政治がそれまでずっと支配していた。それがフィリピンと同じように、基地のまわりで被害も多くて反対する運動もありました。弾圧もされていたようですが、そういうものがくすぶる中で1994年あたりに政権交代が起こって、軍隊を廃止する政策をとって、憲法も変えていきます。

ちょうど米軍基地は1999年までパナマ運河のそばに駐留することが許されていました。それに基づいて2000年に米軍基地がなくなります。一般的にはアメリカがパナマ侵攻を1989年にやって爆撃したんですが、そのために軍隊をなくしていかざるを得なかったとよく言われます。ロベルトも参加していたコスタリカの平和憲法会議で、パナマの法律家に会ったんです。そのパナマの法律家に聞くと、やっぱり市民の運動の力が非常に大きかった。昔からできるだけ警察に軍人を入れないという運動もあったし、そういう地道な運動の積み重ねによってだんだん政治が変わってきたといっていました。

エクアドルでも追い出されたアメリカ

とにかく1999年、2000年に米軍基地はなくなるんですが、今度はアメリカはエクアドルのマンタという都市に行こうとします。これは民間の飛行場を10年の契約で米国基地として使うというものでした。ところがこれも2007年に米軍基地撤去を公約に掲げて当選したコレア大統領によって、憲法を変えるには国民投票をしなくてはいけないんですが、2008年の国民投票によって米軍基地の延長を拒否する憲法ができます。

エクアドル憲法第5条に「外国の軍事基地および軍事目的をもった外国の施設も許されない」とあります。そういう憲法が2008年に国民投票によって生まれるわけです。それができたおかげで、2009年までは米軍基地として使える予定だったけれど、その更新が拒否されて、コレア大統領がアメリカにこれ以上使わせないと通告して米軍基地を追い出した。それが2009年です。アメリカはパナマでだめになってエクアドルに行ったけれども、そこも追い出されたという状況がいまなんですね。それでコスタリカの話につながるんですが、これはあとで詳しく話してもらいます。

いまアメリカは、コスタリカとかコロンビアなどに米軍基地をつくろうとしたり、米軍を駐留させようとしたりしています。コロンビアはもともとアメリカよりの政権だったんです。コスタリカはアメリカよりの政権ですが、軍隊はもっていなかったし米軍基地の要求も拒否した歴史を持ってきましたが、この間あからさまに米軍に協力しろという動きが出てきています。

それからもうひとつのトピック的な話題としては、ネパールという国があります。中国とインドに挟まれた、ヒマラヤ山脈のある、そこに平和会議で行ったことがあります。そこで知ったんですが、いまネパールの中で新しい憲法をつくろうという動きがあって、これは平和とか戦争に関わる憲法制定運動です。なぜこういう動きが起こったかというと、従来からネパールは王政だったんですが、それがなくなると同時にマオイストという毛沢東派と比較的穏健な政府派が、それぞれ軍隊をもって武力闘争をくり返してきた。当初はこのふたつのグループが、共同して王政をなくそうということで一時運動が起こった。2006年には王政をなくすところまではうまくいって、2006年に和平合意をします。そのついでに軍隊を規制したり武器を制限したりという新しい憲法をつくろうということで、2008年に憲法制定会議ができた。

2010年、去年までのあいだに新しい憲法をつくろう、国の中にふたつ軍隊があるのは異常なことですから少なくともひとつにしよう。いきなり9条のように軍隊廃止というところまでは至らなかったんですが、軍隊をひとつにして海外から武器の流入などができないようにしようという憲法をつくる動きがあります。でもなかなか難しいみたいで去年の5月までが期限でしたができなくて、1年延ばして今年の5月まで待って新しい憲法をつくろうとしています。これはアメリカの動きとは直接関係ないですが、内戦とか国の中で争いのあるところでは、逆に平和的な憲法ができるひとつのチャンスでもあるということをあらわしています。アフリカなどにも例があるんですが、そこでうまく9条の話とか平和憲法の話を伝えていけたらと思って、この間働きかけをしているところです。

グローバル9条キャンペーンと平和的生存権

最後のテーマとしてグローバル9条キャンペーンについてですが、9条を世界に広げていこうという運動です。これは僕らだけではなくて、ロベルトなども一生懸命やっていることです。いま中南米とかフィリピンの動きをいいましたが、世界的に見ても重要な戦いがいまの日本の、9条と米軍基地をめぐる問題だと思います。

外国に行って国際会議などで9条のことを訴えたりします。最初は9条のことをあまり知らない人が多くて、むしろ日本は経済大国であるということと、自衛隊がありますから、それなりにふつうの軍備をもっている国だと思われています。しかし詳しく話していくと、9条があるから海外で実際に戦争行為をしないことだとか、自衛という原則の縛りがあるのは9条があるおかげだということを伝えると、すごく納得していただきます。9条が文字通りの効果はないかもしれませんが、軍事化を少しでも食い止めていることで感銘してもらえるんです。ロベルトもその1人です。ロベルトは日本に来て9条のことを勉強して、逆にそれを世界に広げていってくれる人ですが、そういう反応があります。

この間もうひとつ新しい動きとして「平和への権利」、日本国憲法でいうと「平和的生存権」、平和のうちに生活する権利が日本国憲法の前文に書かれていますね。その権利を世界中の憲法に書き込もう、世界の条約に書き込もうという運動が2007年くらいから国際的に起こり始めました。言い出しっぺは、なぜかわからないんですがスペインのNGOで、国際人権法協会というところが中心的に音頭を取ってやっています。

世界各地で国際会議を開いてきました。平和の権利に関する事例とか必要性について調べてまとめて国連に提案しようとしています。国連の人権理事会というのがジュネーブにありますが、そこに提案してそこで決議を取ろう、去年6月実際にそういう草案をつくろうという決議がされました。それに基づいてNGOの方も国連の関係者も呼んだ会議をして、今年中に本格的に国連人権理事会の議題にして最終的には国連総会に持ち込んで条約にしようという動きがあります。

平和への権利とか平和的生存権というものは、9条とか平和憲法そのものではないと思いますが、個人の人権という立場から同じような世界を目指すものだと思うんですね。9条キャンペーンと平和への権利キャンペーンの両方を僕はやっているつもりです。9条キャンペーンは、その国の政治的状況に左右されてだめなときはだめで、全然導入されない。たとえばアメリカにいきなり9条を持ちなさいといってもとうてい無理な話ですが、でも人権という意味ではどの国の政府も無視することはできない。そういう意味では浸透しやすい運動だと思っています。

つい最近韓国の裁判所で、平和的生存権という日本の憲法に書かれている概念が認められたんですね。韓国の憲法は軍隊も認めていますし、平和的生存権という規定があるわけじゃないんですよ。でも日本の憲法前文にある平和的生存権を見習って、そういう権利は国民ひとりひとりにあるということを認めたんです。それは、ひとつは韓国の憲法学者などがいろいろ勉強して持ち帰ったという成果もあるんですが、やっぱりどの国でも普遍的なことだから認められたと思うんですね。

ちょうどその判決は米軍基地に関わる訴訟だったんです。いまピョンテクというところに新しい米軍基地をつくろうとしていて、それに対して住民がわたしたちの平和的に生きる権利を侵害していると訴えた。それを裁判所が正面から認めて、日本の平和的生存権とほぼ同じ内容のことを認めたわけです。人権というアプローチは、平和憲法を直接導入するよりはやりやすいアプローチなのではないかと思うんです。

コスタリカの裁判所でも平和への権利ということが、ロベルトの努力によって認められています。こういうことを続けながら9条を世界に広げていくことが一番有効だと思います。世界的に平和な世の中をつくるのは、最終的には各国で平和憲法をもつことが一番有効だと思います。9条のような平和憲法をもつことは、自分で自分の手足を縛るということですから、軍備拡大競争と正反対の動きをするわけです。軍備拡大競争は、相手が拡大するからそれよりも強いものを持つ、そのくり返しでどんどん戦争に近づいていくわけですが、その正反対の動き、お互いが自己抑制をしていくことです。それが9条キャンペーンの考え方の基本だと思います。そのためのアプローチは時間もかかるけれど、いろいろな工夫で浸透していくことはできるんじゃないかなと思って運動しているところです。

ロベルト君の紹介
これからはロベルトに話してもらいますが、簡単にロベルトの紹介をします。
ロベルトに関して一番有名なのは、コスタリカ政府がアメリカのイラク戦争に対して有志連合に入ることに賛成したときに、それはコスタリカの憲法に反するんじゃないかという裁判を起こして、2004年に違憲判決を勝ち取ったことだと思います。その後同じような平和に関する憲法裁判を3件も4件もやってきて、ちょうどいまでもやっているところです。もうひとつはコスタリカの憲法の12条で常備軍を廃止していますが、コスタリカ憲法12条と日本国憲法9条を世界的に広げようというキャンペーンを一緒にやっていて日本でもやったし、海外の国際会議でもやっています。去年はフィリピンの会議でも9条について話してきました。9条については特別な思い入れがある海外の方だと思います。

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コスタリカと日本の平和憲法を考える

ロベルト・サモラさん(弁護士)
(通訳:松村真澄さん、要約:編集部)

みなさま、こんばんは。
コスタリカからきた弁護士のロベルト・サモラです。
私は4年前まで日本にいたのですが、もう一度、日本の地を踏み、市民活動をされている皆さんのサポートをできることをとてもうれしく思っています。いま笹本さんがおっしゃっていた2つのポイントをぼくからもお話したいのですが、とても重要な部分だったとおもいます。

まず、軍隊をなくすという場合に憲法のどういうところを利用して、どう展開させるか、という部分です。そしてそれは笹本さんが言ったように、日本ではとても難しい問題であるし、ぼくがいるコスタリカは、そこは複雑ではありますが、少し分かりやすい状態になっているのではないかと思います。

日本とコスタリカの違いをちょっとお話してみたいのですが、コスタリカの場合は日本ほど先進国ではなく、発展途上国です。ですから軍隊をなくして、その費用を教育や医療に向けるというのは、シンプルな考え方ではないかと思います。そしてもう一つの重要なことは、人権という普遍的な課題に結びつけて、軍隊をなくすことの重要さを主張するという部分だと思います。

コスタリカと日本 平和システムの比較

では、ぼくが考えた、日本とコスタリカの平和憲法のシステムの流れの中で、同じ所もたくさんありますが、違いも見ていきたいと思います。

コスタリカの憲法のなかには「混合」された要素があります。たとえば日本には成文憲法がありますが、イギリスには不文憲法(慣習法)というものがあります。みなさんがロンドンに行って憲法の本を買おうとしても、そこには売っていません。ではイギリスの人々はどうやって憲法を知っていくのでしょうか。規律、価値など精神的なものは最高裁判所の判例でまかなわれています。

コスタリカは国連憲章を尊重した憲法7条にもとづく人権尊重を義務づけています。私たちが紛争を解決するにあたって、利用する人権尊重の条項はこのコスタリカ憲法7条を使っているわけです。そして、みなさんも御存知だと思いますが、コスタリカでは憲法12条が、日本の9条と同じように軍隊をなくす条項になっています。日本の9条と違うところは、つくったときに、コスタリカが中立国であるという「宣言」が憲法とは別にあります。それは、まず、永遠に中立だということ、軍備をしないということ、軍事介入はしないが、イデオロギー的に紛争の仲介にあたることはできるということです。

関連して、ぼくがかかわったコスタリカの最高決議機関である憲法裁判所の判決を2つ、紹介します。ひとつはイラク戦争を国として支持しないということです。

2つめは2008年にぼくが勝ち取った判決ですが、武器貿易をしないという判決です。
では日本の平和憲法にそった日本のシステムを考えてみます。日本には成文憲法があり、逆に不文憲法はないと思います。そして日本国憲法98条は国際条約の遵守を規定しています。9条はコスタリカの12条よりずいぶんひろい意味を持った広義の条項だと思います。私は9条には5つの柱があると考えます。国際紛争を武力で解決しない、世界の平和を希求するために平和を尊重する、完全な戦争放棄を永遠に保持する、紛争解決のための武力の放棄、陸海空軍全ての軍隊を禁止しています、交戦権も否定している。そしてよく議論になっていますが、9条は自衛のための戦力も否定しているとぼくは考えています。

まず国連憲章を尊重したということでは、もともと自衛権は国際的にもあるし、日本にもあると思います。先ほど言ったように、全ての国が自衛権を持っているのですが、日本の9条は自衛のための武力も行使しないと決めています。
  ぼくが思うに、日本の複雑な点は、最高裁判所が憲法を十分に理解しているのに、それを正しく使って裁判をしていないということだと思います。

例えば「砂川事件」の例をあげてみると、ふたつ言いたいことがあります。第一は、用地が軍事基地に使われているということです。憲法9条では軍事基地を否定していますが、それは日本の軍事基地なのか、外国の軍事基地なのかについては言っていません。ということで最高裁判所は間違った憲法解釈をして、外国の軍事基地を認めてしまったというところで、間違いを犯しているのではないかと思います。そのときに最高裁判所は日本の軍隊の存在を認めていないのですが、外国からみると、自衛隊はどうみても日本の軍隊だと考えられます。2つめは、最高裁判所は自衛のための防衛力は必要だと言っているところです。

この問題は私のいるコスタリカでも起きています。コスタリカはニカラグアと南北に連なっています。そのニカラグアとの国境地帯を3ヶ月前にニカラグアが侵攻しようとして、それが問題になっています。そこで私たちは、軍隊がなくても国を守ることができるという姿勢で解決しようとしています。これは国際的にも普遍的にいえることですが、軍事力をつかえば(使わなくてもいろんな痛みは発生しますが)、どちらの国も傷つき、損害が出ることは明らかです。

平和システム発展の可能性

いままで日本とコスタリカの平和に関するシステムを見てきましたが、それではそれをどのように発展させ、浸透させて行くことができるか、その可能性について話してみたいと思います。

まず社会における民主主義の価値を強めることです。それには裁判所が独立して、公平な裁判ができることが必要です。そして、市民の活動が必要です。市民による法的な働きかけが必要です。裁判はこれに関係します。
私が勝ち取った判決について考えます。

私が学生の時に起こした裁判ですが、イラク戦争についての裁判です。これを私はコスタリカに根付いている不文憲法に基づいて、裁判を起こしました。3つの基本的な理由で、これが違憲だと主張しました。この裁判を起こす前とあとで、大きな違いがありました。従来は、国としてアメリカを支持するかしないかというような政治的な問題で裁判に提訴ができなかったのですが、これを機にそうした政治的判断を求める提訴ができるようになりました。憲法最高裁判所の裁判では、まず、戦争の目的はイラクの独裁政治をやめさせることだったのですが、それは認められましたが、そのための方法として軍事力を使うという米国のやり方を支持することは違法であるとの判決がでました。2番目には、国連安保理がイラクへの侵攻を支持しなかったのは、国連憲章にもとづくものであって、私たちがもっている7条は国連憲章を支持しているので、国のやり方は7条違反であることとなった。そしてさきに述べましたように、私たちは中立国であるという宣言をしているので、この宣言に反するということです。

2番目には、私が2008年に行った武器貿易にかんする裁判です。これはときのオスカル・アリアス大統領が戦争の目的であった場合を含めて武器の製造を認めた問題です。アリアス大統領は武器の製造のために石油や核燃料を使うことができるという法令を作りました。私はここで「平和への権利」というものを主張しました。そして私はコスタリカが「平和への権利」という考え方を裁判所に持って行ける国だと考えます。「平和への権利」は成文憲法にはありませんが、コスタリカ国民は不文憲法としてもっていたわけで、それを使って裁判を起こしたのはこれが初めてだったと思います。ここが一番大事な部分だと思いますが、判決の最後の部分ですが、コスタリカの国家は平和国家であると宣言しているが、それは黙っているだけでなく、行動をしなければいけないのであり、こうした武器の製造を許すことはできない、と述べています。黙っているだけではいけないからこそ、私たちは武器の製造を見逃してはいけないし、それが戦争の目的で行われることはもってのほかだということです。 判決というものは抽象的なものが多いのですが、ここで最高裁判所が言っていることはとても内容が充実したものでした。私たちがなすべきこと、してはならないことを示しているからです。最高裁判所がこの判決をだしたことで、アリアス大統領が武器を製造するために、石油や核燃料を使うことができるようにするという法律をつくってはならないと忠告されたということです。

武器貿易や米軍容認に変節した政府を正す

さきほど平和憲法を展開するためにどういうことをすべきかということをお話ししましたが、今度は平和憲法を展開していくために障害になっていることは何なのかをお話したいと思います。

それらは、まず、独裁的、または権力の使い方を間違っている政府です。政府と結びついた大企業などもあります。私は法曹界にいますが、偏った、独立していない裁判所の問題もあります。砂川事件の裁判所や、私たちのコスタリカの最高裁判所は独立性を失ったということができます。2009年から私たちのコスタリカの裁判所は政府寄り、大統領寄りの裁判所になってしまいました。CAFTAという中米自由貿易協定がありますが、CAFTAにおいてコスタリカは唯一、武器の貿易を認めていなかった国です。武器の貿易について、それはぼくが違憲だということで最高裁判所に提訴しましたが、認められませんでした。2008年に先ほどの判決を勝ちとったのに、その次の年に裁判を起こしたのに、認められなかったのです。最高裁判所が大統領寄りになったことの証左だと思っています。ですから、私はそれを米州人権委員会に上告しています。

もうひとつ、アメリカの海軍がコスタリカの警備をすることを認めるということが起きました。議会がそれを許した理由は、コスタリカで行われている麻薬の密売の取り締まりのために必要だというものでした。私はそれを最高裁判所に提訴したときに、さきほど述べたように、その目的、方法というテーマで議論しました。目的、麻薬密売を取り締まるのはとてもよいことだ、しかし、その方法として米国海軍を受け入れるというのは正しくない。コスタリカ憲法にあるようにコスタリカにおける警察は文民である、軍隊であってはならないという規定があるからです。私たちには沿岸警備隊があるが、それであるならばよいが、海軍であってはならないということです。その武力を使って麻薬密売者を取り締まるというのはよくないことです。

政府は1万2千人以上の米国海軍を受け入れることを許したのです。ブラックホークというヘリコプター80機、ハリアーという戦闘機10機の受け入れを許しました。二隻の大きな強襲揚陸艦が、コスタリカでは許されていない武器を持って入国してきました。禁止された武器のミサイル、クラスター爆弾、許されていないマシンガン等が一緒に入国しました。これは、いま、最高裁判所で提訴中ですが、もし私の提訴が否定されるようなことがあれば、またワシントンの米州人権委員会に行かなければならなくなります。

平和の「可能性」と「障害」が似ている国の連帯を

最後に、私たちの平和憲法を広げていく上での障害は米軍だと思います。歴史的にみても、普遍的テーマで見ても、アメリカ合衆国の軍隊が入った所は、周辺の国々との緊張感がたかまり、紛争に発展することが起こります。いままで見てきたところにおいても、日本とコスタリカは、平和をどうやって発展させるかという点に於いても、またその障害という点に於いても似ているのではないかと思います。

私の国は人口が400万人で、5万平方キロメートルという小さな国で、そこに1万2千人の米国軍隊が来るというのはすごい割合になります。私たちの国で、麻薬の密売を取り締まるというのであれば、まずそれを消費しているところを突き止めなければならないのではないでしょうか。米国はコカインの消費量が一番高い国と言われています。米国で麻薬中毒になっている人がとても多いといわれているなかで、それをまず彼ら自身で解決しなければならないとおもいます。

二つの国は平和の「可能性」と「障害」がとても似ていますので、この二つの国が一緒になって同じテーマで闘っていくことがとても大事だと思います。一番大事なことは、国際連帯であり、私たちの経験を共有し、国際的な運動に変えていくことだとおもいます。

だからこそ、コスタリカのぼくが日本に来て、小さな巡回ではありますが、いろいろなところを回って、僕の経験をつたえ、皆さんの経験を聞き、共有できることがとても重要なことだと思います。

私は皆さんの招待を受けて、私の経験を伝えるために来ていますが、毎回思うことですが、実はそのことを通じてぼくが一番、学んでいると思います。その経験を経て、皆さんにとても親しみをもって接することができ、愛を感じています。私はもう一度、世界にぼくの経験を伝えることを義務だと思い、これからの皆さんの社会に伝えること、そして僕たちの社会に役立てるようにしたいと思うのです。

皆さんに感謝したいと思います。今日は本当にありがとうございました。

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「ふるさと納税」制度を活用して、名護市を応援しよう

沖縄・米軍普天間基地を北部・名護市の辺野古沿岸に移設する計画について、地元名護市をはじめ、沖縄県民はくり返し反対の意思を表明し続けてきました。日本が民主主義の国であるならば、この沖縄県民の意思は尊重されなければなりません。

しかし「最低でも県外」を標榜して政権に就いた民主党政権は、その公約を簡単に覆し、沖縄県民の意思を無視して、辺野古移設に回帰する日米合意を結びました。そして、何の正当性も実効性もないこの「合意」に基づいて、強引に辺野古に新基地建設を進めようとしています。

政府は、去る12月24日、名護市に対して、米軍再編交付金の支払い停止を通告してきました。米軍再編推進特措法に基づく交付金は、米軍再編に協力し、基地を受け入れる自治体に、出来高払いで交付金を支給する、というものです。野党時代の民主党は、米軍基地を金で押し付けるこの悪法の制定に反対していました。

2010年1月「海にも陸にも基地は作らせない」ことを公約して名護市長に当選した稲嶺進市長は、再編交付金に依存しない事業計画を明らかにしていますが、基地容認派であった前市長時代から執行中の事業についての09年度繰り越し分約6億円と10年度分約9億9千万円については、支払いを要請し沖縄防衛局と協議中でした。しかし、今頃になって防衛省はこの交付金の支給を停止し、北澤防衛大臣は、「基地に反対するならそれなりの覚悟が必要」とうそぶいています。

一方同時に発表された2011年度予算案では、沖縄関連予算が9年ぶりにわずかながら増額に転じました。基地の県外移設を主張して知事に再選された仲井真知事が、かつては基地容認派であったことに期待を寄せてのことでしょう。

つまり政府は金の力によって自治体を締め上げ、名護市民や沖縄県民の意思を挫こうとしているのです。結局、普天間基地問題に関しては(ひいては対米従属性においては)、民主党政権は自公政権と何も変わらないことを示したといえます。

私たちは、菅政権のこうした方針に強く抗議するとともに、このように露骨で卑劣な「飴と鞭」の政策に反対し、世論を喚起し、名護市民と連帯し、名護市を応援する具体的な行動をとる必要があると考えます。

「ふるさと納税」制度の活用はその1つです。「ふるさと納税」は2008年に出来た制度で、応援したい自治体を選んで寄付することが出来、その際、住んでいる自治体の住民税などから控除を受けられます。(詳しくは、別掲「名護市へのふるさと納税のやり方」参照)

すでに、本土でも、沖縄でも、この制度を使った名護市への連帯の呼びかけが始まっています。私たちの呼びかけも、これらの声に連なったものです。

名護市を孤立させてはなりません。国民一人一人が名護市に連帯の意思を表示することはそのまま、日本の民主主義を強化することにつながると私たちは考えます。  

2011年1月17日

新崎盛暉(沖縄大学名誉教授) 池田香代子(翻訳家) 上原成信(沖縄一坪反戦地主会・関東ブロック) 宇沢弘文(東京大学名誉教授) 遠藤誠治(成蹊大学教授) 岡本厚(岩波書店「世界」編集長) 我部政明(琉球大学教授) 加茂利男(立命館大学教授) 川瀬光義(京都府立大学教授) 古関彰一(獨協大学教授) 小森陽一(東京大学教授) 桜井国俊(沖縄大学教授) 佐藤学(沖縄国際大学教授) 高田健(World Peace Now) 千葉真(国際基督教大学教授) 寺西俊一(一橋大学教授) 西川潤(早稲田大学名誉教授) 西谷修(東京外国語大学教授) 野平晋作(ピースボート) 前田哲男(評論家) 水島朝穂(早稲田大学教授) 宮本憲一(大阪市立大学名誉教授) 比屋根照夫(琉球大学名誉教授) 和田春樹(東京大学名誉教授) ガバン・マコーマック(オーストラリア国立大学名誉教授)

名護市への「ふるさと納税」のやり方
(1)「名護市ふるさとまちづくり寄付金申込書」に記入し、送付します(メール、ファクス、郵送可)。申込書は名護市ホームページからダウンロード、あるいは電話などで申し込めば郵送してもらうこともできます。(2)名護市から寄付金専用の納入通知書が送付されます。(3)寄付金を払い込みます。(4)名護市から寄付金受領証明書が送付され、確定申告の際税額の控除が受けられます。

寄付受領証明書は5000円以上の場合ですが、税額控除を必要としない1000円~2000円のカンパも同様の手続きで受け付けています。グループで寄付したい場合は、納入者リストを付けて寄付してください。
http://www.city.nago.okinawa.jp/5/4969.html
問い合わせ、申し込み先
〒905-8540
名護市港1-1-1 名護市役所企画総務部企画財政課
(電話)0980-53-1212 財政係
(ファクス)0980-53-6210 
(email kikakuzaisei@city.nago.okinawa.jp)

名護市長コメント
本日、沖縄防衛局から、再編交付金の平成21年度度繰り越し分と22年度分について支給しないとの連絡がありました。
私は、今年1月の市長選挙で「名護市に新しい基地は作らせない1との約束を掲げ、市長に就任しました。従って、再編交付金に係る新規事業は実施しない方針でありますが、アセス実施に対応し継続している再編交付金事業については、完了まで交付していただきたいと要望し、これまで手続きを進めてまいりました。
しかしながら、今回の繰り越し分を含めた不交付決定については、政府の名護市に対する「アメとムチ」の姿勢が鮮明に感じられ憤りを禁じえません。
事業を予定していた地域の皆様にはご心配をお掛け致しますが、政府がこのような決定をした以上、新たな財源の確保に努めながら、再編交付金に頼らない街づくりに邁進していきたいと思います。

平成22年12月24日
名護市長 稲嶺進

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