私と憲法110号(2010年6月25日号)


参院選に際して~
普天間は終わっていない~無責任な菅民主党政権と、新党に相次いで登場する改憲論に審判を

許すな!憲法改悪・市民連絡会 高田健

(1)普天間隠し、対米追従の政治への審判

鳩山由紀夫首相が辞任した後をついだ菅直人新首相は、6月6日のオバマ大統領との電話会談では、「普天間基地の辺野古移設」を決めた日米安全保障協議会の「共同発表」を正当化し、「日米合意にしっかり取り組んでいきたい」と言明した。菅首相によれば「(普天間基地問題と『政治とカネ』の二つの重荷を(鳩山)総理自らが辞めることで取り除いていただいた」という認識なのである。このところの菅首相の言動には普天間問題などほとんど眼中にない。衆議院選挙での民主党の公約を無視して、あえて自民党と同様の「消費税10%」論を展開するなど、有権者の目を沖縄問題や「政治とカネ」の問題からそらそうとしている。

菅首相は問題をごまかしてはならない。「国民が(私の話を)聞く耳をもたなくなった」などと驚くべき捨て台詞を残して辞任した鳩山首相が、連立政権崩壊に導いた最大の原因は「できるだけ国外、最低でも県外」と約束した普天間基地撤去問題で、鳩山首相が公約を破り、「日米合意」を承認し、沖縄県民を裏切ったからである。菅新首相はこの鳩山内閣の副総理だった。まさに鳩山氏に次ぐ責任者である。

沖縄の苦しみはさらに継続する。一度希望の灯が見えかかっただけにその苦しみは倍増する。これに菅首相がどのような政治姿勢をとるのか、辺野古移設を前提にして「県民の皆さんと一緒に負担軽減について努力したい」などと、木に竹を接いだような話をすることで、鳩山首相の辞任で「おわった」かのような態度をとることは許されない。辺野古移設は沖縄の民衆の怒りの中で、必ず今後の菅政権の運営に大きな重石となってのしかかってくるだろう。

本土のマスコミも「新政権への小沢一郎の影響力排除」に論点をずらしてしまって、つい先ごろまであれほど問題になった普天間の問題を消してしまった。これは何度目の琉球処分といえばいいのか、またも沖縄を見殺しにするのだろうか。

鳩山前首相は辞任を表明した6月2日にこういった。「日本の平和は日本人自身の手で作り上げていく時をいつかは求めなければ、と思っている。米国に依存し続ける安全保障をこれから50年、100年続けていいとは思わない」と。この裏にはナショナリズムの自主防衛論が隠れているので、額面通りにとってよい言葉ではないが、まさに問題はここにある。首相として、この日米安保に依存し、米国の51番目の州のように、米国の圧力と脅迫に屈した今回の図は、何とも無惨な図である。外務省、防衛省の官僚たちは戦後、ずっとこのように日米関係を処することでこの国を導いてきた。自公政権を転換し、政権交代を図って、「普天間基地はできるだけ国外、最低でも県外」を標榜し、日米対等の関係を唱えた鳩山政権は、真正面からこの問題に着手しなければならなかったのである。にもかかわらず米国の政治家に一喝されて腰砕けになった鳩山首相は、「日米合意」を承認し、これに反対した社民党の福島国務大臣を罷免し、連立政権を崩壊させた。

皮肉なことに郵政法案を通常国会で可決できなかった問題まで起きて、09年9月に発足した3党連立政権の各党首は内閣から総退陣した。鳩山内閣が退陣に追い込まれたのは安易な日米合意を許さないという沖縄の民意の結果である。辺野古の市長選挙につづいて、全市町村の首長が県外国外移設を要求し、沖縄県議会が全会一致で要求した。県知事もそれに追随する以外になかった。そして9万人の県民大会が開催された。沖縄の民意は明白である。「地方主権」などと言いながらこれだけの沖縄の民意を無視する民主党の政策は欺瞞に満ちているというしかない。訓練の一部移設を打診された鹿児島県徳之島も島を挙げて反対を表明した。

沖縄の人びとが突き出した問題は、日米安保体制とは何か、「日米同盟」とはなにか、憲法第9条の下で、なぜ安保のしわ寄せを沖縄だけが受忍しなくてはならないのか、日本の安全に不可欠な「抑止力」とは何か、在沖「海兵隊」とはいったい何者か、などなどという問題である。この真剣な問い直しこそが必要なのである。目前の参院選につづいて、沖縄では8月までと対米公約した辺野古新基地の位置と工法の確定期限、9月の名護市議選挙、12月初めまでの県知事の任期とその選挙と、相次いで普天間の問題が問われ続けるのである。

私たちはまず目前の参院選でこの審判を下さなくてはならない。

(2)民主党に台頭する危険な解釈改憲による対米追従・海外派兵論

参院選を控えて、立候補を表明している各政党の憲法政策が、5月18日に改憲手続法が施行されたこととも関連して、極めて危険な改憲論を主張していることは注意を要する。これは民主党政権を「左翼政権」などと評する安倍晋三らがもっとも特徴的なもの(註)である。民主党は左翼政権どころか、社民党も抱えた鳩山的な「中道左派政権」から、菅的な「中道右派政権」にスタンスを変えようとしているのであるが、野党は政略で民主党=「リベラル政権」攻撃をやめず、これに対して対抗軸をいっそう右寄りに立て、参院選の臨もうとしている。これらの野党が参院選の政策では憲法問題でも相次いで改憲を主張しているところに現在の特徴がある。

菅首相は通常国会での参議院の代表質問で桝添要一・新党改革代表が「憲法改正問題について所信表明演説で全く触れていないが、どのように考えるか。(改憲原案を審議する)憲法審査会は与党の反対でまだ始動していない。首相がリーダーシップを発揮することを強く求める」と質問したのに対して、「憲法改正と憲法審査会についてはまず党の中でしっかりと議論し、与野党間で協議して決めていくべきものだ。経済と国民生活を立て直すことが第一だ。憲法改正は内閣の喫緊の課題とは考えていない」と答えている。この点は鳩山首相と同じ立場(鳩山由紀夫と菅直人の憲法論の差異は後日述べたい)だといえよう。

しかし、民主党の安保・防衛問題に関する参院選のマニフェストは以下のようなものであり、極めて危ういものがある。
鳩山政権の命取りになった米軍普天間飛行場については「普天間基地移設問題に関しては、日米合意に基づき、沖縄の負担軽減に全力を尽くす」とし、昨年の衆院選マニフェストから方針転換した。昨年の衆院選マニフェストでは「在日米軍基地のあり方について見直しの方向で臨む」とし、国外・県外移設を模索したが、民主党は最終的に「辺野古周辺」への移設で日米合意し、今回の参院選マニフェストもそれを追認した。日米関係については「総合安全保障、経済、文化などの分野における関係を強化することで、日米同盟を深化させる」と新たに明記した。

一方、PKOや海賊対処活動について、衆院選マニフェストでは触れていなかった自衛隊の活用を明記した。さらに「防衛大綱、中期防衛計画を本年中に策定する」とし、「平和国家としての基本理念を前提としつつ、防衛装備品の民間転用を推進する」とまで触れた。これらをみると鳩山内閣において、北沢防衛大臣や長島政務官らが防衛官僚に洗脳されて突出して主張してきたことが取り入れられている。

最近、細野豪志民主党副幹事長は訪米して「インド洋での給油といった間接的な方法ではなく、シーレーン(海上交通路)の安全確保活動に海上自衛隊が直接参加するべきだ。そのための恒久法を制定することが望ましい」と述べ、自衛隊海外派兵恒久法制定に意欲を示し、「民主党は、日米同盟協力の機能的拡大による深化を目指す」と強調して今年末にまとめる防衛大綱で、ミサイル防衛や人工衛星による警戒・監視などの「米国を補完する」役割を強化すると発言した。

また長島防衛政務官もテロ特措法の廃止と関連して中止になったインド洋における給油活動の復活を主張している。民主党政権下で進められている韓国哨戒艦事件や拉致問題に関連して北朝鮮脅威論を煽り立てる日米韓の軍事一体化の動きも危険である。これらは世論の反発を受けるに違いない9条改憲に直接着手するのではなく、その拡大解釈によって合憲を主張し、事実上の9条破壊を進めるものである。

(3)安倍晋三ばりの自民党の改憲論

しかし、自民党など野党は民主党への追及の手を緩めない。自民党は安倍政権当時のように「新しい時代にふさわしい国づくりのための自主憲法制定」とする改憲の課題を参院選のマニフェストの第一に置いた。

そして衆参両院で「憲法審査会」を始動させ、憲法論議を行う、とし、「憲法改正原案」の国会提出をかかげ、「国民の理解を得つつ、国会提出を目指して着実に憲法改正に取り組む」とうたった。

また安保・外交問題では「外交を立て直し、世界の平和を築く」として「強固な日米同盟の再構築」をかかげ、「民主党政権による外交の迷走により、日米の信頼関係は大きく損なわれている。同盟弱体化を防ぎ、抑止力の維持を図るとともに、沖縄をはじめとする地元の負担軽減を実現する在日米軍再編を着実に進める」とした。あわせて、「拉致問題の解決」「北朝鮮の核開発阻止」「テロとの戦いの継続~インド洋上での補給支援活動を早急に再開すべく、『補給支援特措法』の成立を目指す」とも述べた。

また「核軍縮の推進」という表題の下に「安全保障に懸念を生じさせないため、わが国の『核抑止政策』の根本的な議論を開始し、基本方針を確立」と述べていることも油断ならないことである。さらに「変化する安全保障環境に適応する人員・予算の強化」として「07大綱策定以降縮減されている防衛力を、今後の新しい安全保障環境に適応させるため、『質』『量』ともに必要な水準を早急に見直し、適切な人員と予算の強化を図るべく、新たな防衛計画の大綱、次期中期防策定に対し提言する」などとしている。さらに憲法第9条の骨抜きにつながる「安全保障基本法の制定」や「国際平和協力法(海外派兵恒久法)」を主張している。とりわけ海外派兵協力法は先に指摘した民主党細野副幹事長らと同意見であり、国会に提出されれば一気に制定に向かう危険性も考えられる。

自民党のこのマニフェストは小泉内閣、安倍内閣を頂点とした「日米同盟強化」「憲法改悪」へ暴走した時代の路線への危険な回帰である。

(4)その他の新党も多くが改憲を掲げる

△「たちあがれ日本」はその公約で、「強い政治」という項目を掲げ、「自主憲法制定を目指す。集団的自衛権の解釈を適正化する」と明記した。

△「日本創新党」もその「政権公約」で「外交・防衛では、集団的自衛権行使の容認や国家主権を侵害する行為への毅然(きぜん)とした対応」などを主張し、また、独自の「憲法前文案」を掲げて、改憲を主張している。

△「国民新党」はその公約要旨で「伝統・誇り・価値の継承」という項を起こし、「永住外国人への地方参政権の付与断固反対。選択的夫婦別姓導入反対」を叫び、「国際的な水準に合致した防衛力整備。航空戦力、ミサイル防衛体制の強化」を唱え、「自主憲法制定を目指す」としている。

△「新党改革」は「憲法改正」という項で、「新しい時代にふさわしい憲法を制定する」とした。

△「みんなの党」は直接、憲法改定にはふれていないが、その主張全体が小泉流の新自由主義改革論であり、油断できない。

△「公明党」は今回のマニフェストには改憲論が見られないものの、憲法調査会いらい一貫して、加憲論を掲げて来た政党であり、憲法審査会の始動をめざしていることはいうまでもないだろう。

△「幸福実現党」は取り上げるまでもないが、とんでもない改憲論であり、右翼ファシズムである。こうした集団が再び国政選挙に大量に候補を立てていることは見逃せない。

もとより、今回の参院選の争点は改憲問題にあるだけではない。これとつながって、消費税の大幅引き上げや、国会議員の定数削減など、大きな問題が山積している。今回の参院選は、これらの問題で民衆の期待を裏切った民主党政権への審判であり、改憲まで目論む各政党への審判である。私たちの課題は民主党、危険な自民党による2大政党体制構築の企てに反対し、憲法を擁護し、生かす政策を掲げた政党を大きく前進させる以外にない。

(註)自民・安倍氏ら新党と連携 保守勢力の結集訴える(2010年6月8日東京新聞)

自民党を中心とする保守系議員の勉強会「創生日本」(会長・安倍晋三元首相)は8日、党本部で総会を開き、たちあがれ日本、日本創新党の両新党に 対し、参院選での連携を呼び掛ける方針を決めた。公認候補同士が競合しない選挙区での共同の街頭演説などを想定。リベラル色の強い民主党の菅直人政権に対 抗し、保守勢力の結集を目指す考えだ。

安倍氏はあいさつで、菅氏が市民運動家出身であることに触れ「史上まれに見る左翼政権が誕生した。菅政権の危険性を訴えていけば、われわれへの支持も回復する。創生日本が果たすべき役割は大きい」と指摘した。

安倍氏はジャーナリストの桜井よしこ氏が仲介役となり、たちあがれ日本、日本創新党の両新党との選挙協力に向け協議していると報告した。総会には自民党と無所属の議員計約20人が出席した。

このページのトップに戻る


第50回市民憲法講座(要旨)
憲法と地方自治の保障

白藤博行さん(専修大学法学部教授・弁護士)

(編集部註)5月22日の講座で白藤博行さんが講演した内容を編集部の責任で集約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。

歴史の中の地方自治

みなさん今晩は。早速ですが地方自治について、憲法の条文など読まれたことはありますか。92条から95条までたった4条ですが、何でこんな地方自治の条項があるんだろうということを考えられたことはあると思うんですね。

日本が明治憲法下で中央集権的な国家体制で立憲君主主義だったことはご存じだと思うんですが、その中央集権的な国家体制のもとで不幸にも何度か戦争に突入していきます。最後の15年戦争といわれる戦争で日本が敗戦し、さあこれから近代国家として再出発だというときにGHQ等が新しい憲法をつくるのに日本の憲法の柱にするのが「民主化」と「非軍事化」です。もちろん基本的人権の保障とか国民主権は大事ですが、戦争との関係で憲法をつくるときにこれだけは何とかしたいと筋立てをしたのが民主化と非軍事化です。

戦争に向かったのは、やはり内務省を中心とした中央集権的な体制が日本の隅々にまで行き届いて、内務官僚と軍が結びついた。ですから非軍事化するのは当然の話で、具体的には第9条等に結びついていきます。第9条は直接的だけれども、同時に中央集権的な国家体制をそのままにしておくと、またまた戦争国家へということが心配されたために、日本を分権的なあるいは自治的な国家にすることがもっとも関心のあることだったようです。では、どういう分権的な国家か、自治的な国家にするのかは、GHQの中で争いがあったようですが、結局は憲法の中で定めようということは揺るぎなく最後まで続きました。

日本は日本で、国体を護持することとの関係で、象徴になるとしても天皇を中心とした、あるいは中央の行政権を中心とした国家というのは揺るぎないものとしたかった。そこで抵抗し、あれこれいきさつがあったようです。たった4条ですが、その成り立ちは内務省がマッカッサー草案に対していろいろなところに手を入れて、本来あったものとはかなり違うものになっていくんですね。この流れを見ていくだけでも本当におもしろいんです。紆余曲折があって、地方自治が保障されるようになった。

ただ、憲法の条文を見ると曖昧なところがたくさんあります。たとえば、わたしたちは日ごろ地方自治体の自治権だとか住民の自治権だとかの話をします。実際は憲法の中にそういう文言はないんですね。あるのは「地方自治の本旨に基づいて法律で地方公共団体の組織や運営については定めますよ」という条文です。ですから人によっては“何だ、地方自治の保障といったって法律によって如何ようにも書ける、法律次第でその中身が決まっちゃうじゃないか”と解釈する人がいる。だけど大事なのは「地方自治の本旨」というところで、その地方自治の本旨の中に自治権の保障がされているんですよ、と憲法学者の人たちなどは解釈します。ドイツなどのように“自治権の保障”と明文で書いてくれればよかったけれど、そうではないところに後世にいろいろな問題を残したともいえます。

世界に誇れる日本の憲法的地方自治保障

いずれにしても憲法で地方自治を明文で保障するということは少なくとも勝ち得たわけですが、世界を見ると必ずしもそういう国ばかりではありません。実は憲法で地方自治の明文的な保障を持っているのは世界的には恐らく少数派だと思います。最近でこそヨーロッパ地方自治憲章だとか、それをモデルにした世界地方自治憲章草案(これは実現しなかったけれど)、あちらこちらで地方自治の保障を憲法レベルで、あるいはかなり高いレベルの法律、条例で定めようという動きはあるんですが、日本のように1946年、47年の段階から憲法に地方自治の保障を入れた国は、数は多くないと思います。そういうこともあって、わが国でまず憲法が明文でもって地方自治を保障していることの意味、価値というのは、相当高いものがあると考えていただいて結構だと思います。

ですから地方自治の問題を論ずるときには必ず憲法までさかのぼって、いったい憲法はどんな地方自治を保障しているんだろうかということを明らかにしないといけないとわたしたちは考えています。憲法で地方自治を保障しているわけだから、その憲法が保障している価値だとか制度といったものを法律で具体的に実現していくことが筋なんですが、なかなか日本の場合、こと地方自治に関してはそうならなかったんですね。

憲法上はあっても実態としてない地方自治

憲法の地方自治保障を受けて地方自治法という法律があります。この地方自治法はかなり詳しくいろんなことが書いてあります。憲法と同時に施行されておりますので地方自治法は法律家のあいだでは憲法付属法と言われます。地方自治に関しては憲法の4か条の規定と一体となって具体化していくことになりますが、この地方自治法という法律があまり憲法の精神を具体化していない、しなかった内容を多く含んでいたわけです。

大事なところは地方自治法の中でも「機関委任事務」という体制が、実は日本の地方自治を大変憲法にふさわしくないものにしてしまった。機関委任事務という言葉は聞かれたことはありますか? 機関委任事務ということにされている意味についてです。こういう事務なんです。1999年に改正されて相当変わったんですが、1999年改正までは地方公共団体がどんな仕事をするかということが自治法の中に書いてあった。

ひとつは自治体固有の仕事をする固有事務、あるいは公共事務といってもいいですが、廃棄物の処理だとか村道、町道だとか一番身近な、どんな自治体でもこんなことは最低限やろうよね、やるべきだよねという事務のことです。ふたつ目は国の法律や法律に基づく政令でこの事務をやってくださいよと地方自治体に委任された事務、地方公共団体自身に委任された事務、これを団体委任事務といっていました。もうひとつが行政事務といって、これは権力的な性質を持っている事務のことです。これも明治時代からの概念なので説明するのが難しいんですが、そういうふうに考えてください。こういうふうに公共事務、固有事務とか団体委任事務、権力的な事務、行政事務を地方公共団体は処理することが旧自治法の2条に書いてあって、具体的な例がだーっと並んでいたんですね。その3つの種類をあわせて自治事務といっていました。

それを処理するだけだったら問題ではなかったんですが、もうひとつ大きな事務があった。それは何かというと、都道府県知事だとか市町村長だとか、そういうのを地方公共団体の執行機関というんですが、この執行機関は、地方公共団体の議会を議事機関とか議決機関というのに対して執行機関という概念ですが、知事さんとか市町村長さんに国が直接国の事務――事務というのは「仕事」と解釈してください――を委任する。すると委任した限りにおいて、知事も市町村長も国の機関としてその事務を処理することです。国の機関として処理するということは、国の指揮監督下に入るということです。

たとえば厚労大臣の所管の事務を東京都知事に委任をする。機関委任事務として委任すると、その事務を執行する石原都知事は国の下級行政機関になって厚労大臣の言うがままに動かざるを得なくなる。指揮監督下に入るということは指揮命令に従わなくてはいけない、服従しなければいけないということです。この機関委任事務が蔓延して、都道府県がやっている仕事の9割が機関委任事務だった。ということは、わたしたちは憲法で地方自治が保障され、直接選挙で知事を選んで自分たちの自治だと思っていたところが、その都道府県知事の仕事の9割が、国の仕事を国の機関としてやっているという事態だったわけです。自治なんてどこにも、仕事から見てもないわけです。

しかも都道府県議会は、その知事が処理している9割の機関委任事務に関して条例制定権すら持たなかった。何もできなかったわけですね。議会が条例制定権を持たないということは、地方公共団体の自治権で一番大事な自主立法権、自治立法権を持たないことです。そういうふうに機関委任事務体制はほとんど自治を形骸化してしまい、憲法が保障している自治をないがしろにしている制度でした。

沖縄の事件ですが、沖縄の海兵隊の兵士が少女を暴行して沖縄県民が怒った。その最中に知花さんという方が、アメリカ軍の通信施設の土地を50年も貸しているから、もうそろそろ返して欲しいと言い出した。日本の国内だったら50年も貸しっぱなしで返して欲しいといえば、そうだよねということになるんですが、沖縄の基地の問題はたくさんの特別措置法で守られている。日本が日本国憲法体制のもとにあるとすれば、同じ日本にありながら沖縄はいってみれば日米安全保障条約、日米協定そして特別措置法の体制で、異国のような状況になっているわけで、なかなか基地の中のことに対して手がつけられない。

にもかかわらず知花さんが訴訟を起こしたんです。どういうことかというと、わたしが「わたしのこの土地を返してくれ」といいますね、けれどもアメリカ軍が強制収容している。アメリカ軍が強制収容を続けようとして、もう1回あと10年貸してくれというときに、強制的に収容したり強制的に使用する場合には必ず特別措置法の手続き――それも土地収用法をそのまま適用している手続きですが――でわたしが判子を押さなければいけないんですね。わたしが判子を押さなければ手続きが進まないんだけれども、法律の中にはわたしが判子を押さない場合は市町村長が判子を押していいよと書いてある。市町村長がいやだったら県知事が押していいんだよと書いてあるんです。たまたま沖縄の場合は、全部がいやだといった。だから国が出てきて、市町村長や県知事に替わって判子を押して手続きを進めましょうとしたわけです。なぜか、それは「機関委任事務だから」。もともとおれたちの事務なんだからといって、あなたたちの判子はいらないという話だった。

具体的にあげればきりがないんですが、機関委任事務は、わが国の地方自治をだめにしている元凶だといわれていました。それがあったものですから、日本には残念ながら憲法が保障する地方自治は、憲法の条文上はあるんだけれども実態としてはほとんどないに等しい状況が続いてきました。それに加えて「黄金の手綱」といわれる補助金行政で、とにかく国が求めるような施設をつくったりサービスを提供するんだったらお金をあげるというわけです。そういう「黄金の手綱」で繰られて、機関委任事務で縛られて、日本の地方自治の実態は残念ながら憲法とはまったく違う状態におかれてしまっていた。

地方自治法改正の功罪――平成の大合併

わたしたちの年来の希望は、この機関委任事務体制をどうにかしようよということでしたが、1999年の地方自治法改正で機関委任事務体制が完全に廃止されました。1993年に衆議院と参議院で初めて分権決議がなされて、1995年に地方分権推進委員会が立ち上がって議論がなされ数次にわたる勧告が出されて、ようやく1999年に機関委任事務体制はやめました。ようやく戦後60年くらいたって、日本が憲法にふさわしい自治法を、全部ではないんですが、それらしい自治法の体裁を整えたということになろうかと思います。1999年の地方自治法改正、2000年に施行です。大変重要な大きな改正でしたが、成果はあったけれども残念ながら地方分権推進委員会はいいこともやるけれどもそれと平行して大きな罪を犯したんじゃないかと私は思っています。

それは何かというと、地方分権推進委員会が設置されて1996年に第2次勧告が出ます。その段階になると、分権、分権と騒いでいるけれども分権するにはきちんとした地方自治体が存在しないといけないんじゃないか、きちんとした規模能力を備えた地方自治体がないとおれたちは分権なんて与しないぞと、当時の自民党の議員だと思うんですが、主要な役割を果たしていた東京大学の西尾勝さんなどに忠告したというんですね。いわゆる「分権の受け皿論」という議論です。地方自治体自身が国の仕事や権限を委譲されてきちんと処理できる力があるのか。2000人、3000人の、本当のところをいうと200人、300人の自治体もあったわけですが、そんな自治体で分権して仕事ができるのかと責められたというんですね。市町村合併も同時に進めてもらって、基礎的な自治体の規模を拡大しないと分権の話にならないよとプレッシャーを受けたというんですね。

わたしはそこから、この分権推進委員会が大変歪んだんだろうと思うんです。その後一貫して、いかにもそちらの方が主要な課題かのように市町村合併論が分権推進委員会の主たるテーマになっていきます。その当時3220くらいあった市町村が現在いくつあると思いますか? 1000を切りたいと旧政権は思っていたんですが、1730までいきました。約半減ですよね。わたしたちはそんなにいかせないぞと思っていろいろがんばったんですが、そこまで行っちゃいました。もちろんこれは財政的な誘導とかあるわけです。明治、昭和の大きな合併もあったんですが、この平成の合併はそれに匹敵する大きな合併劇だったと思います。

この合併の副作用というか、合併そのものが病理だと思うんですが、とにかく分権に先立って合併をして規模能力が大きな自治体、それが日本の大半を占めるようにならなきゃだめだというイデオロギーが蔓延することになりました。それは当時の東京大学教授で先頭に立って理論的にも実践的にも引っ張った西尾勝さんが、とにもかくにもがんばちゃったんです。いわゆる西尾私案を、第27次地方制度調査会に出して大騒ぎになりました。西尾さん自身は政治の圧迫のもとでというけれど、文章を見ると、あるいはその説明の仕方を見ると、総務省と西尾さんが一緒になって書いたものだろうと思うんです。要するに「小さな自治体さんよ、とにかくあなたたちはふたつのどちらかの方法でもってこれからのことを考えなさい」ということです。

ひとつは小さな自治体のままで行くのであれば、もう窓口事務くらいしかやらせません。つまり住民票を取りに来た人に交付するとか戸籍抄本を交付するとか、そういう事務だったらできるよね、でも街作りとか都市計画なんてとんでもない。できるはずがないだろうという話です。みなさんご承知のように窓口事務くらいだったらいまは郵便局でもできるわけで、そのように法律的にしてきたわけです。結局地方自治体というのは、窓口業務はうわべの仕事であって、本当にやっているのは自分たちの下水道とか都市計画とか廃棄物処理場とかをどうしようということを議論しながら街をつくっているんですね。でもそういうことはやらなくていいよというわけです。これを特例団体方式といいます。合併しないで生き残るなら残してあげるけれども特例団体としてほとんど何もやらせないよ、それがいやだったら合併しなさい。本当は合併の方に力点があるわけですね。

もうひとつはもっとストレートに内部団体移行方式といって小さな自治体に対して、自分の近くの少し大きな団体に吸収合併されなさい。ただしあなたたちのまちの名前はその相対的に大きな街の中の何々町とか何々村という名前で残してあげるから、とにかく内部団体に移行しなさいというやりかたですね。そういうふうになりふり構わず提案をした。

それで全国町村会を中心にしてすごい反対があった。これには西尾さんは驚いただろうと思うんですが、とにかく大反対があって、その場では表面的にはごり押しはやめたんですね。たとえば1万人以下の自治体はそうしなさいと、数字は入れなかったけれども、そういわれたら怒りますよね。あなたたちの存在意義はないから、消滅してくださいねといわれているわけですから。そういうこともあって大変な反発を受けた。

しかし、総務省や西尾さんたちは黙っているわけではなくて、市町村合併特例法の改正期には知事などに大きな権限を与えて合併推進をする力を与え、あるいは住民投票を利用してでも合併を推進するような仕組みを合併特例法の中に埋め込んで、徐々に合併を推進していきました。あとは地方債とか特例債といった、やっぱりお金です。お金で釣って、合併しないとお金のやり繰りができなくなるよ、交付税も減らされますよといった財政圧迫をしていきます。大変なプレッシャーの中で、小さな自治体がどんどん合併をしていくことになった。わたしは分権推進委員会が当時やったことで機関委任事務廃止などいいこともあるけれど、同時に大きな罪としては市町村合併をしゃにむに進めてしまって、市町村を半減する事態にまでしてしまった。

道州制が地方自治、身近な行政なのか??

いったい何が問題なのかということです。そもそも分権推進委員会がなぜ分権が必要なのかといったときに最初に掲げたのは、住民に一番身近な行政は住民に身近な自治体に任せましょうよ、直接民主主義が一番貫徹できる身近な自治体に権限や事務を委ね仕事を処理することで、きっと住民にとってやさしい、ベターな行政ができるよね、というところから出発したわけです。そういう観点からいけば、住民にとって遠くなるような大きな自治体は本来の趣旨と異なるわけです。ところが合併、合併を繰り返していく。論理的に完全に矛盾をしているけれども、結局合併論が優勢になっていく。そしてその先ですね。

わたしたちが一番危惧したのは、市町村が合併して大きくなったところにだけは都道府県の事務や権限を分け与えましょうというわけです。地方自治法の中で都道府県の事務を条例で市町村に委譲できるという条文がおかれているんですが、それを使ってどんどん都道府県の事務を下ろす。そうすると当然、都道府県はやることがなくなります。国の事務が都道府県に委譲されてくればそれはそれで穴埋めができるんですが、たとえば神奈川県なんかをご覧になってください。神奈川県はいま政令市が3つです。中核市がいくつかあって、大都市がいくつもあって神奈川県そのものはやることがないほどからっぽになってきていますよね。

これは国が望んでいたことでもあるわけです。県がからっぽになれば、県を廃止して道州制を導入しようという、その先のことまでいろいろ考えていたわけですね。わたしたちは道州制までかよ、と思うわけですがそれも都道府県を廃止して道州制という話が出てくる。道州制というのはいったい何か。道州制をあくまで自治体というけれど、たとえばこのこの関東なら関東州、東京なら東京州があったとすると、関東州だったら3千万、4千万人の州をつくって自治体だといって、それで身近な行政、身近の自治体といえますか、という当然の疑問がわいてくるわけですね。

全国を10か11に割って、1千万から3千万人くらいの州に分割して都道府県はなくすという構想が堂々と出ています。都道府県がなくなって市町村がいま1730までいって、それでも道州があって市町村ということになったら、道州のもとで3万人の市がある。これだってすごい差ですよね。こんなんで本当に地方自治って言えるの? という状態が出てきそうな気配ですね。そういうふうに考えると西尾さんたちがやった地方分権改革というのは成果もあるけれど、とんでもないことをやっているんじゃないかとわたしなんかは思って対抗的な議論をたててきた方だと思います。全体としては事態がこのように進んでいるということになります。それが第一次分権改革に絡んだお話です。

第一次分権改革は1999年成立、2000年施行の地方自治法の改正で一応の区切りがついて、地方分権推進委員会は2001年に解散しました。そのあと地方分権改革推進会議という別の組織ができますが、それはもっぱら財政的な改革に取り組みました。地方交付税、税源移譲と補助金改革、これを三位一体のものとして改革をするというかなり挑戦的な作業を行ったんですが、残念ながら総務省だとか財務省との関係等で空中分解してしまいました。あまり成果なく終わっています。

そのあと少し合間があって、前政権の中で地方分権改革推進委員会という組織が立ち上がって、また地方分権改革に関する議論が出されてきました。そこは第一次分権改革、西尾さんたちがやった分権改革でやり残したことをやろうと立ち上がったものです。何をやり残したかというと、法律の中には直接法律あるいは政省令の中で地方自治体に対して、ある事務つまり仕事を義務づけている。あるいはその事務を処理する際に、たとえば施設や設備の管理に関する基準等についてもかなり厳格に規定している。あるいは地方自治体が何らかの行政を行うときの手続きや判断基準を、事細かに法律レベルで書いている。地方自治体を縛っている法律がたくさんあり、これをなんとかしなきゃいけないというのがひとつです。法律による「義務づけ、枠づけ」の緩和だとか廃止という議論になります。

もうひとつは地方自治体の仕事について、機関委任事務は廃止したけれど法定受託事務と新しい自治事務のふたつの事務を処理すると自治法に書いて、新しい事務として自治体が処理することになったんです。まだまだ法律の中には国が処理する事務がいかに多いかということに、その後気づくわけです。ですから、国の事務や都道府県の事務を市町村に下ろさなきゃ分権改革は完成しないよね、という考え方が出てくるわけですね。第一次分権改革でやり残した改革の部分、未完の分権改革の部分を何とか完成させようというのが地方分権推進委員会という、前政権の最後まで続いた委員会の仕事でした。その勧告が第一次から第三次まで出され、第四次勧告のときには政権は替わり、第四次勧告を出して自然消滅のようなかたちで消えました。

地域も主権も定義なしの民主党の「地域主権改革」

その後を受けて出てきたのが、いまいろいろと取りざたされている「地域主権改革」というものです。鳩山政権は、この地域主権改革を民主党政権の「一丁目一番地」と位置づけて、大変力を入れてやると宣言し、その通りやっています。いまの国会で参議院は通っています。大きな改正で参議院の先議というのは珍しく、いろいろもめたらしいんですが、地域主権改革に関わる問題で「地域主権改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律案」が議論されています。ここでは地域主権改革を具体化するためには地域主権を進めるための組織が必要だということで、地域主権戦略会議を設置して大々的に進めようというわけです。内閣府設置法を改正して進めようというんですね。

憲法はたった100か条ほどですから、それで何が書いてあるのという感じになっちゃうんですが、国の行政組織がどうだとか。細かいことは行政法といわれる法律の中に全部書かれています。日本に法律といわれるものが2100とか2200くらいありますが、そのうちの1800から1900くらいが行政法です。ですから本当は行政法がわからないと憲法はわからないといっても過言ではないんですが、その中で大事なものとして行政組織法があって、その中に内閣府設置法があります。

内閣府設置法というのは、内閣があって内閣を支えるために内閣府を2001年にわざわざつくったんですね。そして内閣府の下に各省が置かれることになったんです。それまでは内閣府はなくて各省がだらっとあったわけです。内閣府とは何かというと知恵の場、内閣を支えて知恵を出して日本の政権を支えるという“場”なんですね。この知恵の場としての内閣府と、内閣が企画立案したことをただただ実施するのが各省だというふうに、省はワンランク下げられたんです。そういう改革があった。その内閣府のところに地域主権戦略会議を置くぞという話です。

それを推進させるためには地域主権改革とはいったい何なの、ということを明らかにしないといけないので、地域主権改革を一応定義しています。こう書いてあります。「日本国憲法の理念の下に、住民に身近な行政は、地方公共団体が自主的かつ総合的に広く担うようにするとともに、地域住民が自らの判断と責任において地域の諸課題に取り組むことができるようにするための改革」だということです。

いま言っただけではすんなり頭に入らないと思いますが、その地域主権改革とは何かの定義のところなのに、地域主権とは何かということが書いてないんですね、実は。地域主権改革を定義するために、本当なら地域とは何か、主権とは何を意味しているか、だから地域主権改革とはこうなんだよ、というふうに普通は法律の場合は定義しますが、そうなっていないんです。書いてあることは「住民に身近な行政は地方公共団体が自主的かつ総合的に広く担う」、これは自治法の第1条2の第1項に書いてあることそのままです。それから「地域住民が自らの判断と責任において地域の諸課題に取り組む」。これはあえて言えば住民自治とか住民主権のことです。ですから、何も主権の説明もなくこれが地域主権改革だと言うけれども、なんのこっちゃよくわからない定義をしています。地域主権戦略会議は、この地域主権改革を進めるための組織として設置しますよというわけですね。

ねらいは地域主権ではなく道州主権

みなさんに今日の話の中で何を持って帰っていただきたいかというと、分権改革があって地域主権改革とレッテルがちょっと変わるんだけど、地域主権改革っていったい何なのということなんですね。この地域主権改革という言葉をこれからニュースなどで聞いたときにすごくいいイメージだと「ああ、地域が主権を持って自分たちが何かしら決めて自分たちの町や村のことを決めていけるんだ」、そう書いてありますからそのまま読めばそうなのかなと思わないわけではありません。そうだとしたら僕は住民主権だとか言って欲しいと思いますが、それは法律をつくる方々の勝手ですからいいんです。

気になるのは、やっぱり「地域主権」といったときの「地域」はどこを指しているのだろうかということです。たとえばそれが市町村だとか都道府県だとかと言うのであれば、いまの法律のなかで想像がつくわけですね。市町村が主権を持つんだ、都道府県が主権を持つんだということだったら、それは分権よりももっと分権的なことができるというイメージが強いです。本当にそうなのかどうかなんです。もし本当にそうだとしたら、地域主権の中の「地域」の中に市町村が入ったとしたら市町村主権なわけですね。具体的に考えてみなさんの町や村が主権を持つというんだからこれは大変なことですよね。

たとえばいま鳩山政権の悩みの種である普天間基地のことを考えてみてください。沖縄の弁護士の方が何人か相談に来たばかりですが、あの宜野湾市は、沖縄全体がそうだけれども、戦後ずっと基地で悩まされてきました。宜野湾の方々は、これだけ基地に自分たちの日常生活を奪われて、もう返してもらいたいと思っています。もし宜野湾市に主権があるとしたら「宜野湾市はもう基地はいらないから米軍は出て行ってよ」と言えるはずです。そういう主権を考えているなら、僕は地域主権と言ってもいいと思うんですね、本当に。

そんなこと考えていませんよね。そうすると、そう簡単に主権なんて言うもんじゃないよって、法律をやっていると思うんです。主権というのは国家主権だとか国民主権だとかとても大事な概念です。たとえば国家主権というのは、分けることができなくて譲ることができない、不可分、不可譲の統治権、支配権のことです。そんなものを軽々にあたかも市町村が主権を持てるような幻想を振りまくことは、やっぱり政治としては大きな罪だと思います。恐らくそういうことまで考えていないだろうと思います。

わたしは基地問題の専門家でもないけれど、沖縄の事件にも関わったり、岩国の事件――厚木基地の艦載機を50何機か岩国に持って行くという話がありましたが、その事件にも関わりました、岩国で大騒ぎになって住民投票までして当初は住民は絶対反対、受け入れないぞと言っていたのが札束とかでほっぺたを叩かれて、だんだん崩れていくわけですね。挙げ句の果てに市長まで取って代わられて最終的には受け入れる。岩国の問題を見ていても、基地の問題について官僚たちやそれを進めようとしている政治家は何を言うかというと、防衛や外交の問題は国の役割なんだ、だから地方公共団体ごときがそれに口を出すんじゃない。地方自治体は身近な行政をやっていればいいんだ、これが国と地方公共団体との役割分担だ。

地方自治法1条の2の第2項には、国と地方の適切な役割分担ということが書かれているんですが、まさにそのことが書かれているというわけですね。この役割分担論は、そういうふうに使われる可能性があるので注意はしなければいけないけれど、恐らく宜野湾市の主権と言ったって最終的には防衛・外交は国の役割に属するから、宜野湾主権だと言っても制限されるんですよと論理的には使ってくると思うんですね。そういうふうにいろいろ問題がある概念をそう軽々に使うんじゃないよというのが、わたしの法律家としての最後の良心だと思っています。

ですから地域主権をどういう意味で活用しようとしているのかが、とても気になるところです。役割分担論やらいろいろ考えてみると、たとえば地域主権が新政権にとって役に立つのであれば、恐らく道州制などと絡んで道州主権ということになってくると、かなり現実味はあるような気がします。2000万人、3000万人の州が主権を持つ。連邦制までいかないけれども主権に近いもの、疑似主権的なものを与えることになってくると、少し市町村主権、都道府県主権とは意味合いが違ってくるかもしれない。そう考えると原口総務大臣が民主党は道州制を捨てたわけではないと、経団連の会合に行って道州制についての法案をできるだけ早く出したいとかいってやまないのも理解できる。

鳩山総理自身は道州制についてあまり語ってはいませんが、第29次地方制度調査会がもう市町村合併はいったん休止しようと去年6月に最終報告で書きました。それについても本当に市町村合併をやめていいの、そんなこと言わない方がいいんじゃないのと、鳩山首相自身が語っています。市町村合併もやめない、道州制も捨てたわけじゃない、それと地域主権論が重なってくると、やっぱり道州主権のようなかたちでの道州制論を考えているのかな、といううがった見方をしても許されるのかと思ってみたりします。このように地域主権改革そのものはいま話題になっているけれど、本当のねらいはよくわからないなあということをお伝えしたいんです。

義務づけ・枠づけの廃止が生む基準低下が分権か

それだけではあまりにも雲をつかむような話なのでもう少し具体的な話をします。いまのは内閣府設置法の話ですが、義務づけ・枠づけの廃止だとか緩和だとか、あるいは国が義務づけ・枠づけをやめて全部その内容は条例に委任しましょう、という法律改正が大変たくさん現在の法案の中に入っています。その中で、児童福祉法という最近問題になっているお話をお伝えします。

児童福祉法とか介護保険法とかいろいろな法律の中で義務づけている、枠づけている――「義務づけ・枠づけ」というのは、事務を処理しなさいと義務づけているのを「義務づけ」といって、「枠づけ」は、その際の手続きだとか判断基準のことを言います――全体としては義務づけの話ですが、そういうふうに区別しています。それをやめようというんです。義務づけ・枠づけは地方分権に反する、地方自治体の自由度を高めるためには、法律や政令や省令で書かれている義務づけを取っ払ったら自由になるという話です。

一般的、抽象的にはそう言えるかもしれません。ですから一般論、抽象論ではなかなか反対しにくい議論ですが、たとえば児童福祉法45条に児童福祉施設の設置及び管理の基準というものがあります。典型的には保育所を考えてください。児童福祉法の条文で、保育所の設置や管理に関して厚生労働大臣がその最低基準を定めると書いてあるんですね、現行法では。最低基準を厚労大臣が定めるというのは、厚労省の省令で定めるわけです。実際にわたしも見てみましたが、そこで定めている最低基準は、たくさんの条文があって、こんなに最低基準を守らせるために書いてあるのかという感じです。あくまで最低基準だから、これを上回るように努力しなきゃいけないと書いてあり、びっくりするようなことが書いてあります。ぜひご覧になって欲しいと思います。

最低基準を定めていると、地方公共団体が自分のところで保育所を設置しようと思ったら、その最低基準を満たす条件じゃないと設置、運営できないからそれが邪魔になっている。だからそれを取ったらどうだ、自由度が増す、分権じゃないかという話なんですね。そうすると何が起こるか。保育所といえば保育所だけど、ふつうの家で子どもを預かっているような劣悪な状況の保育所が自由にできるわけです。それでは困るからというので、厚労大臣による最低基準は取っ払うけれども都道府県知事が基準を定めることにしよう。分権でしょ、都道府県知事が基準を定めたら、都道府県で保育所を自由にできるからいいんじゃないの、という話ですね。そういうふうに厚労大臣の最低基準を取っ払って都道府県知事の条例に委任しようということ、これが分権なのかどうかということです。

これは地域主権改革の中で最初に上がっていることです。もうちょっと言うと、ややこしくて、その中には、最低基準を守らせたいなという意味で従うべき基準と、厚労大臣が定めている基準は参照したらいいから、勝手に書き換えていいんだよという基準もある、ということも書いてあります。

これはどういうことかというと、たとえば東京都の中にはこれまで厚労大臣の最低基準を上回る水準の高い保育所もあれば、最低基準に満たないから児童福祉法上の保育所として認められない保育所もあるわけですね。それをなんとかするために児童福祉法上の保育所ではなくて認定子ども園のようなものをアイディアとして、東京都は「保育所もどき」をつくっている。それでも待機児童がいっぱいいるからなんとかしなきゃいけない。厚労大臣の最低基準は決して高くないにもかかわらず、これでは民間の保育所の会社も参入してこないし財政危機で保育所もできないから、これをうーんと下げたいと思う。つまり最低基準に満たない保育所も、都道府県知事の基準でつくったら保育所になってしまうというふうにしてしまう。これが分権だということで、分権の名の下で水準の低い保育所を可能にする改正がいま行われようとしています。

国家や行政の本来的な存在理由は生存権保障の行政

これをどう見るかということは保育所が足らないから、少なくとも東京、大阪、名古屋といった大都市ではそういう措置も必要なんじゃないか、という政策もあり得るでしょう。いろいろな考え方があり得ると思いますが、わたしたちは法律と条令の問題を考えるときは、僕なんかは最初に公害問題で勉強することになったものですから、次のような考え方を基本的に持っています。

わたしは三重県の津の出身で、大学は名古屋でしたがお金がなかったもので、大学まで2時間くらいかかって無理矢理通わされていたんですね。その途中に四日市という街があります。四日市は公害の街、石油コンビナートで有名でした。四日市の手前から過ぎるまでは、どんなにその他のところが快晴でもそこは真っ暗で、ぷんぷんと排気ガスのにおいがする。それだけだったらまだ環境が悪いで済むけれど、毎日のようにぜんそくでおじいさんやおばあさんが亡くなり、赤ちゃんが病気にかかって亡くなっていくわけですね。

そういうのを目の当たりにして、たまたま僕は法律を勉強するようになったものだから、なぜ国はこれを何とかできないのかと思いだしました。もし国ができないなら四日市という地方公共団体が、自分たちの街のことで自分たちの住民を救えないのかと思って、地方自治に興味を持って大学3年から地方自治のゼミナールに入って、そのままズボズボとこういうふうになってしまった。そういう経験からいうと、法律がわたしたちの命や健康や財産を守ってくれないのなら条例でなんとかして欲しい、できないのか、ということがずっと課題でした。

1960年代の後半から70年代の初めは公害がピークに達する。高度成長期ですよね。公害対策基本法ができるけれども、その中には経済発展との調和条項が入っていて、経済の発展を阻害しない限りにおいて法律で公害を規制するというんですね。ちゃんちゃらおかしい話なんです。絶対に守れませんよね。日本の高度経済成長を支えているコンビナートの精製を止める規制なんてできません、法律では。だったら条例でできないかというと、法律よりも厳しい規制を条例でやってはいけないんです。なぜか、憲法94条に、条例は「法律の範囲内で」と書いてあります。しかも地方自治法の14条1項には「法令に違反しない限りにおいて」と書いてある。だから法律よりもより厳しい基準で規制するのは許さないぞ、憲法違反だぞという論法がまかり通るわけです。

これを法令先占論というんですが、そういう論をなんとか乗り越えたいと思って勉強してきたわたしからすると、必要であれば住民の命や健康や財産を守るためなら、条例で上乗せしてでも規制するのが当たり前だと思っていたんです。今回の地域主権改革の中には、しかもその義務づけ・枠づけの中には、いまのような意味で上乗せをして規制することを許すという方向での改革ではなくて、値切っていく、下げていく方向だったらいいということでうから、ちょっと違うんじゃないかと思うんですね。

それにしても下げるか下げないかは自治体住民ががんばって、うちは保育所に関しては高水準でいくんだ、都道府県の基準がそうでも、うちは絶対それよりもいい保育所をつくろうとがんばれば、そこに住民自治があって本当の自治があるんですが、世の中そんなに簡単じゃないですよね。全部お金と連動しているものですから、そんな高水準の保育所にお金を回せるほど自治体に余裕がないんですね。そうするとどうしても値切っていく、どんどん水準が下がっていく。とにかく預かれればいいじゃないか、我慢しなさいよ、そのうち経済が良くなればそちらにお金を回せることになるからとか、いろいろな理屈をつけて結局保育には十分なお金を回さない。社会保障に十分なお金を回さないということが起こりがちなんですね。

つまり行政がわたしたちの生存配慮――生存権を保障してくれる行政をちゃんとやってくれるかというと、なかなかできない。いわんやいまの財政危機ではなかなかしにくい。これは日本だけの傾向ではありません。わたしの研究対象はドイツで、いまはEU全体にも目配りしながら見ていますが、EUの多くの国家が生存配慮行政とか生存保障に関わる行政から手を引き出しています。お金がないことが最大の理由で、生存保障から距離を置きだしています。日本だけではありません。

しかし本当にそれでいいのかどうか。国家や行政の本来的な存在理由は、そこにあるんじゃないかと思うわけです。何でもかんでも公の行政組織がやってきた行政を、いま民に放りだして民間会社にやらせています。これもヨーロッパやアメリカでも同じ傾向があります。民-民でやらせて最後に行き詰まり、お金の問題が残ってしまう。お金の問題だけだったら、最終責任を国家が取ろうじゃないかというのが保障国家論ですが、生存配慮国家から保障国家論へという国家の本質まで変わろうとしています。

分権に進むということは国がようやく分権国家に向かい出したかと、いいことかなと思っていたら、実は国がやるべきことを地方自治体に丸投げをしたり、あるいは国や公共行政がやるべきことを民間に投げ出す、責任の分散の一種だったのかと思わざるを得ない状況がいま進んできています。ですから分権という問題、地域主権という名前でもいいですが 、やはりもう一回冷静にみたほうがいい。

いったいこれによって国家は何をしようとしているのか、政権は何をしようとしているのか。本当にこれが地方自治ということで国ができない生存配慮、社会保障を地方公共団体が身近な政府として、よりかゆいところに手が届くように、国と重なり合ってわたしたちに配慮してくれようとしているのか。どうもそうではないようなことばかりが目立つのかなと思います。この間の地方分権改革、地域主権改革はわたしが当初期待していたものとは少しずれていっている、残念ながら距離があるのかなと思っています。本当の地方自治とは何かということをもう一回考え直す機会にしていけば、このまま歪み続けることにはならないかもしれませんので今後も議論していければいいと思います。

このページのトップに戻る


WPNアピール

2002年秋以来、イラク反戦運動を軸に、活発に反戦平和の行動を繰り広げてきたWORLD PEACE NOWはその後、2004年に第2期WPNとして活動の課題を広げて再出発しましたが、今年3月20日、新たに第3期WPNとしてのアピールを発表し、活動と体制の再編をはかりつつあります。現在、WPNは運営方針などをあらためて確定するための討議中ですが、私たち許すな!憲法改悪・市民連絡会はこの第3期の出発にあたり、これを積極的に支持する立場から、発表したアピールをここに再録します。(編集部)

アピール:持続的な平和運動へのあらたな挑戦

WORLD PEACE NOWのネットワークにご参加ください
WORLD PEACE NOWは、米国のブッシュ政権によるイラクヘの戦争が開始されようとする緊迫した情勢下の2002年秋、イラク攻撃をやめさせようという共通の願いを持った約50の市民団体やNGOなどが呼びかけて出発しました。

WORLD PEACE NOWの発足に参加した市民団体やNGOの多くは、2001年の「9.11」直後にブッシュ政権が「テロとの戦い」を掲げて始めたアフガニスタンヘの「報復戦争」と小泉政権の戦争協力、自衛隊のインド洋派兵に反対する運動を続けていました。

その最中に、米・英等がイラク攻撃を始めようとしたことに反対して、全世界で1000万人以上の人々が連続した反戦デモに参加しました。日本全国でも数十万の人々がこのアクションに呼応し、WORLD PEACE NOWも、東京で4万人、5万人が参加したピースパレードを行い、この大きな流れに合流しました。

そこには、「もう戦争はいらない」「非暴力」という共通の思いを表すために、ベトナム反戦運動以来の参加という高齢者から、初めて集会やパレードに参加したという若者や子どもたちまで幅広い人々の姿があり、それぞれが創意工夫をこらした多様な表現であふれていました。

しかし、残念ながらイラクは戦場となり、イラク市民の死者は少なくとも10万人以上、難民・避難民は国外・国内含めて数百万人に達しました。

イラク戦争と占領の不正・不法性が明らかになるなかで、「イラクからの米軍撤退」を公約したオバマ大統領が誕生しました。これには、米国と世界の反戦運動の力が影響したことは疑いありません。しかし、2009年12月、オバマ米大統領はアフガニスタンヘの米軍増派とNATO軍の増派呼びかけを発表しました。現在、多国籍軍は14万人規模でアフガニスタン攻撃を実行しています日私たちWORLD PEACE NOWは、2003年の開戦以後も、イラク・アフガニスタンでの戦争と占領を終わらせ、イラクやインド洋に派遺した自衛隊を撤退させるための行動を積み重ねてきましたが、08年、自衛隊は最終的にイラクから部隊を引き揚げ今年、インド洋の給油部隊も引き揚げました。これは運動と反戦の世論の勝利でもあります。

しかし、こうした経過の中で、WORLD PEACE NOWの運動も、ダイナミックな運動のつねとして次第に当初の勢いが失われていきました。そこで私たちは、米オバマ政権が誕生し、日本でも政権交代が行われて、イラク・アフガンでの戦争と占領が転機を迎えようとしているこの時期に、あらためてWORLD PEACE NOWの今後の運動をどうするのか、という論議を重ねてきました。

この討論に参加した人々が共有したのは、イラク戦争・占領をやめさせることを共通項として出発したWORLD PEACE NOWの存在と意義を評価し、今後の反戦・平和の運動の展望と可能性についての討論を積み重ねつつ、ネットワークとしてのWORLD PEACE NOWの運動を再編成し、さらに発展させていく必要があるということでした。

それには幾つかの理由があります。
第一に米国の戦争の問題です。オバマ政権はイラクからの米軍戦闘部隊の撤退を約束しているものの、「テロとの戦い」という戦略を放棄したわけではなく、イラクの人々の被害の実態も未だ明らかになっていません。また、アフガニスタンヘの米軍増派により、既に被害は増大しつつあります。さらにこの戦争はパキスタンにまで拡大しています。この流れは、米国に支援・容認されたイスラエル軍によるガザ侵攻・住民虐殺とも連動しています。

第二に日本の戦争協力の問題です。自・公政権下でなされた米国の世界規模での戦争に協力した自衛隊の海外派兵・日本の戦争国家体制づくりにも警戒しなければなりません。政権交代後の新政権により、海上自衛隊のインド洋での給油作戦は終了しましたが、「代替措置」としてのアフガニスタン支援の中身にも問題が含まれています。すでに「海賊」対処を口実に陸海空自衛隊がソマリア沖、ジブチに派兵されており、09年には「海賊対処」派兵新法を成立させ、海外での武力行使の可能性を拡大させています。自衛隊の海外派兵をこれ以上させてはなりません。

そして第三に米軍再編問題があります。沖縄の普天間基地の移設先が新政権にとって大きな課題となっていますが、「移設」は問題のすり替えです。沖縄駐留の米軍は日米安保条約とは無関係にイラク・アフガニスタン攻撃に参戦しており、条約の根拠もないのに「日米同盟」のためなら何でも許されるという傾向は危険きわまりないものです。世界中に基地を持ち艦船やミサイルを配備している米国の軍事力こそが戦争をつくる大きな原因であると考えないわけにはいきません。

「武力で平和はつくれない」という立場の重要性がますます明白になってきています。金融・経済、貧困、環境、戦争などの危機はつくり出されたものであり、多様な運動のネットワークが「武力で平和はつくれない」という立場から平和を築きあげるために共同していくことが必要です。WORLD PEACE NOWもこれまでの経験を生かしながら、そのために役立ちたいと考えています。

WORLD PEACE NOWは03年以来、3月と9月の年2回の大きなイベントを軸に、さまざまな集会や街頭行動を行ってきましたが、従来の行動形態や方法なども含めて今後も議論を積み重ねていきたいと思います。ともにネットワークを組み、WORLD PEACE NOWの次のチャレンジを担っていきませんか。私たちは共通の願いを持つ全ての皆さんに、あらためて、この新たなネットワークヘの参加を呼びかけます。

2010年3月20日
WORLD PEACE NOW

このページのトップに戻る


民法改正案が提出されなかったことに抗議する(声明)

mネット・民法改正情報ネットワーク

本日、第174回国会は、選択的夫婦別姓制度導入や婚外子相続差別撤廃などの民法改正がなされないまま、閉会しました。

政府が、民法改正案を通常国会の提出予定法案とし、法務大臣が予算委員会や法務委員会において、法案提出を行う意向を繰り返し答弁したにもかかわらず、閣議決定すら行わなかったことに深く失望するとともに、政府に対し、強く抗議します。

法務大臣の諮問機関である法制審議会が民法改正要綱案を答申したのは14年も前のことです。民主党は答申の翌年の97年に単独で、98年からは他の野党とともに、衆参で民法改正案を提出してきましたが、公約に掲げた民主党政権で初めて通常国会に法案がないという事態に至りました。

これまで、12年間も法案を提出してきた事実は大変重く、多くの当事者やNGOが政権交代すれば、民法改正が実現するものと期待しましたが、その期待は大きく裏切られました。

また、民法改正を公約に掲げた野党からも議員立法案が提出されなかったことは、この問題を軽視していることにほかなりません。

選択的夫婦別姓が認められないために、結婚を先延ばししたり、出産をためらっている人、職場で通称ができないために苦しんでいる当事者も少なくありません。夫婦別姓ができないために法律婚を解消したり、結婚改姓した後にうつ病を発症した当事者からの切実な声も寄せられました。これらの声を、国会が受け止めなかったことは極めて残念でなりません。

昨年8月、国連女性差別撤廃委員会は日本政府に対し、民法の差別規定の撤廃はもちろん、世論調査を理由に法改正しないことについても厳しく勧告しました。民法改正は、勧告の実施を確実なものにするために新たに導入されたフォローアップ制度の対象になっており、政府は2011年までに取った措置を報告しなければなりません。

国連子どもの権利委員会がこれまで、日本の政府に対し、婚姻最低年齢を男女平等にする民法の改正と婚外子差別の民法を改正するよう厳しく勧告を行ってきましたが、今月11日も同委員会は法改正していない日本政府に勧告を行いました。

当事者をはじめ、国連や各方面からの要請にもかかわらず、民法改正を行わなかった政府ならびに国会議員に対し強く抗議します。

2010年6月16日

このページのトップに戻る


その後の9条署名3万3000に

蓑輪喜作

お忙しいところを4月8日には高田さんをはじめ事務局の方ご3人も小金井までおいでいただき、こちらの九条の会の有志と私のために3万筆のお祝いをやっていただき、夫婦ともども大変感激しております。いただきました皆さんの寄せ書きは、大切にして孫子に伝えてゆきたいと思っています。

さてその後の9条署名ですが、今年は東京も4月半ばになって雪の降るというようなことで、昨年と違って寒い日が多く、花見もあまりぱっとしなかったです。それでも雨の日以外はそこそこに署名もいただきました。4月下旬から5月の連休にかけては天候もよく、公園やバーベキュー広場は沢山の人でにぎわい、午前と午後で毎日100筆以上という日も続き、昨年以上のものをいただき、5月10日現在で3万3000となっています。

そんなことでもう十幾回にもなりますが、このような報告をお送りしますと、いつも「私と憲法」に載せていただき私の励みにもなってきましたが、冊子にするためには毎回ワープロに打っていただく労力は大変なもので土井さんにはすまなくもうやめようと思っていたんです。しかし先日立川市の近代史を学習している女性グループにまねかれて行ったところ、蓑輪さん署名の記録をとっているのかと言われ、「私と憲法」のことも話してきました。また4月17日に小金井では福祉会館まつりと言うのがありまして行きましたところ、蓑輪さんのことはいつも「私と憲法」で読んでいますと言われ、大変驚きました。そんなことでご迷惑になると思いつつ、また書いてみました。

今年に入ってからは、改憲派の動きで中国が攻めてくるなどと言う者もあり、私のことを害虫だと言った者もありましたが、いぜんとして署名は多いです。とくにバーベキュー広場では、4年続けてこの連休にはあなたに会いましたと、懐かしそうに言ってくださる方が何人もいて感激しました。私といっしょに写真をとるもの、いま単身赴任ですが、あなたの後を継ぎますと名刺を下さった方もおりました。また経済大学の学生20名ほどが自分たちで署名板を廻し、私といっしょに写真をとっていました。

これも一つの慣れだとは思いますが、あの沢山の人の集まっているバーベキュー広場で、一つ一つのグループにひょうひょうと声をかけながら廻る私。あの映画の寅さんのように、それも4年間。自分ながらあきれることがありますが、6月がくると81歳に。諸病をかかえながらもここまで来れたということは人生最高の春だったと思いました。

さて九条の会も、全国の呼びかけ人であった小田実さん、加藤周一さんに続いて先日は井上ひさしさんが逝きました。私の署名も井上さんの話をすることも多く、また皆さんもテレビで小説でお芝居で知っておられる方が多く驚きました。

そして私自身にも、故里にいたときもこちらに来てからも、親しくお励ましをいただいて来た石井啓雄さん(駒澤大学名誉教授、農業経済・農林水産九条の会の呼びかけ人)が亡くなられ、大きなショックを受けました。さて先生と私たちの出会いですが、先生にはその頃「農村と都市をむすぶ」という冊子――1964年の12月号に古沢統一というペンネームで書かれたユニークな一文があるので、全文というと長いのでその3分の1ほどを紹介したいと思います。

当時、先生はまだ農林省におられた30歳頃で、村の青年たちはまだ20代はじめでした。最初はこの文のように夜行列車で来て夜行列車で帰るというものでしたが、その後は長い間に人も変わり、東京組は村に空き家など借りて、交流は10年近くも続きました。そんな中で青年たちの農村労働組合の活動も続きました。私自身はこちらに来てからも先生との交流も続いて、数年前に出しました「山間豪雪地帯に生きる」には先生にも「30年余り昔のことと豪雪山間地帯のこれから」という一文を書いていただき、昨年の9条署名が2万に達したときには電話もいただいたのにと、改めて哀悼の意を表したいと思います。

農民が味そも梅干しも買うとき
――ある労農交流会――古沢統一
  「胸はって行こうじゃないか、俺達は若い労働者、……」

首を切られた若い運転手や首を切られたウェイトレスが音頭をとって歌いだすと、村の若者や娘達が、それにあわせた合唱する。

「もう1回、始めから、」

声がかかってみんなが覚えるまで歌声は繰り返される

「幸せなら手をたたこう、幸せなら手をたたこう、幸せなら態度で示そうよ……」

パチパチ、いくつもの手が鳴る。

「佐渡へ、佐渡へと草木もなびく……」

今度は村の青年達が鮮やかな手さばき、足さばきで、ぎごちなく手足を動かす都会の若者達に踊りを教える番である。

夜更けておそくまで、山の社の境内で、戸板を並べ、丸太に腰かけて茶碗酒をかたむける青年達の宴は、たった3つのカーバイトの灯の下で、いつはてることもなくくりひろげられた。村の誰かがいった富士山の10分の1の高さにあるM山の頂上の社は、昔から何の楽しみもない、山村の部落の村人達のほとんど唯一の憩いの場であった。いまでも小学校の先生の言葉を借りれば「小学生も十日町の市にでてみんなにジロジロみられるより、ここの方がいいと言って遠足にくる」場所である。

8月末のある夜、新潟県東頸城郡のある山村、村の青年団は東京千代田区の青年労働者数人をこの社の境内に迎えて交流会を開いた。越後路の夜は夏でも肌寒く、虫もすだこうとして、靄の下の部落にまで届いた青年達の歌声に、声をひそめていた。

村から出稼ぎにでたY君は東京の働き先でこの春ひとつの斗いをした。待遇改善の要求を掲げ、同じ出稼ぎ仲間と小さなストライキ  宿舎に閉じこもって就業を拒否したのだ。だが、斗いに入って、その先どう運動をすすめていいかがわからなかった。その時、相談をもちかけられたのが東京千代田区の争議団共闘の労働者達であった。

やがて軒を埋める雪が消えた頃、Y・Y君は村へ帰った。そして東京の労働者達との文通が始まった。貿易自由化の嵐が吹き、アメリカがトンキン湾で挑発を仕組んでも株価が上がらない今日この頃、たとえば組合を作ったというだけで首を切られる激しい合理化攻撃を受けた青年労働者達はいわば全労働者を代表して最もきびしい攻撃をうけたのであり、そこからくる敏感さで耳に聞く農村の出稼ぎ増加、農民の生活の破壊が同じ合理化攻撃の農業農民版ではないかと思い始めていた。そしてその実情と原因を、知りたい、勉強したいと思うようになった。出稼ぎ先で労働者に励まされたY・Y君達は、自分達は村から離れられない、だが村にいては生活できない、なぜか、どうすればいいのか、それを考える、それを知りたい、労働者と話しあいたい。

こうして期せずして手紙でまとまった相談が、この夜の交流会だった。首を切られた上に汽車賃2000円は痛かったか、とにかく自前でもいいといって集まった都会の若者達。彼らは行き道のバスの停留所で「節約で高めよう、我が社の生産性、頸鉄労組」なるポスターに口をあんぐり驚きながら、山の中へわけ入った。後から聞けば。その社長が自民党の国会議員、運転手が30票、車掌が10票を割りあてられ、その当選のふりかわりが猪俣浩三の落選だったとか。

峠をこえると遙か左下の方、人間が豆粒みたいにみえる谷底に田圃がみえる。バスが更に10分も走って下りると部落の入り口。そこから右手にやや登ると目指す部落がある。曲屋のような家の軒には煙草の葉が乾されている。この煙草は金を求めて部落中が去年から始めたというのだが、比較的上層なるが故に、失業保険をもらえるだけ出稼ぎにでれないというM・Y君さえも煙草にイヤ地があることをよく知らない。畑のろくろくない部落でいくらかなりと稼げるのさえ決して長い期間ではないはずだ。

部落でも下層に属するY・Y君の家に着いて聞けば、先刻我々がみた谷底の田圃はこの部落のものだという。昔は牛をひいていったが、今は90戸中に50台もの耕耘機が入っているから、耕耘機で行くが、遠くで、そして降りて、登ってとても手間がかかってきついという。「この部落では、1町2~3反も作れば、いっぱいだ」というのは至極尤もに思える。

東京の青年達を部落の青年団はほとんど全委員で迎えてくれた。男の大部分は長男なるがために村に残らねばならない者達(次、三男は中学を卒業してほとんど都会に就職してしまうのだ)、けれども冬になれば都会に出稼ぎにいく若者である。娘さんたちも、今年中学を卒業した2人を除けば、みんな紡績工場から帰ってきたとか、冬は東京にいっていてとかいうのだ。

青年団の若者達は、かねて相談していた計画にしたがって、鍋釜に、味噌、醤油、野菜に缶詰と独特の背負い籠を背負って山のテント不用のキャンプ場へと私たちを案内してくれた。東京の連中はといえば、芸もなく二級酒の酒瓶と粉末ジュース、それに身の廻り品をかかえているだけで、それでいて後からやっとついていくのである。
――以下略―― 1964年8月

こうした都市労働者の援助もあって青年たちも私も成長していったのだった。

次に書いておきたいことは、この5月16日に故里の松之山温泉で傘寿の祝いのクラス会があるのですが、署名をやっていると元気そうに見えるのだが、夜のトイレが1時間ごとなので口惜しいことですがついにあきらめ、これは私の「九条署名の一年」にものせてあるのですが「昭和20年3月の卒業式」という一文をコピーし、それにいまやっている九条署名でのせていただいた新聞各紙のコピー等に、当時を振り返っていただきたいとお便りを書きました。34名のクラスでしたがもうその3分の1は亡くなり、出席は12名ということでした。

さてその松之山ですが、昨年は次のようなお便りもいただいております。
松之山九条の会、十日町九条の会主催で「平和展」をやることができました。小森陽一氏を招いてすばらしい講演をしていただきました。打ち上げはわが「ふやや」の炉端の宴。盛り上がりました。少しずつ裾野を広げていきたいものです。9月10日 鶴田豊子

そして次に書いておきたいことは前回も書きましたが、憲法9条と25条はセットだということです。前回は年末のホームレスの人たちのことを書きましたが、先日署名の帰りに私の近くに住んで居る一人暮らしの婦人で84歳という人に相談を持ちかけられました。ミニバスの運動に、いまの9条の署名を見ていて力になって欲しいと言うことでした。

小金井には他の区や市のように、一人暮らしの老人達が杖をつきながらも集まれるようなところがないので、声をあげて欲しいということでした。

たしかに言われてみればまだ元気な同好会や、またデイケアに行く人達のものあるけれども、そういうものは一つもないので、私はミニバスを走らせたときの仲間に話してみるから、あなたはさらに同じようなお友達に話して下さい。そしてある時点になったら、みんなで近くの集会所などを借りてどうしてゆくか話し合いましょうと言って別れた。

署名がこんな方向に発展してゆくとは。まず自分の健康管理をして、いまの体調をどれだけ維持できるか、ストレスをためないように淡々と歩き続けなければならないと思った。課題は大きい。

●告知され2年経ちたり着ぶくれて署名に出でる癌と仲よく
最後に、5月9日小金井市民会館萌え木ホールで小金井を住みよくする会の主催で、午前に「沖縄に基地はいらない」と題して参議院議員の糸数慶子さん(社会大衆党無所属)の講演があった。いま普天間問題でゆれているときで会場いっぱいの満席だった。出身がバスガイドという糸数さんのお話は熱く説得力のあるものだった。

さて講演が終わってから、昨年小金井の九条の会が請願に行ったときに糸数さんではなかったが、私に会いたいと言った沖縄の議員さんがいたということを聞いていた。いま署名をやっている運転免許試験場のバス停は沖縄出身の若者も多く、またこの署名を持って国会に行くと沖縄の議員さんが喜んでくれるなどと言い署名しているので、講演のアシスタントをやっておられた九条の会の先輩の糸井さんにお願いして、一言でしたが糸数さんにいまの私の署名のことを報告して握手して別れた。

そんなことで午後からのバーベキュー広場での署名は多く、1時間半くらいで60筆いただき、用紙がなくなり帰って来た。

署名日記 2010年3月1日~5月9日まで

3月/
1日 午前診療所、午後年金者組合編集会議
2日 午後・赤旗記者取材。記者が帰ってからバス停で署名。用紙がなくなり帰ってくる。注意せねば。署名9。
3日 午前歯科。午後寒いので署名中止。
4日 寒いので人は少なかった。英国在住という人の署名。早く石原さん(都知事)のような人はやめさせて欲しいと言う。高校生2人がバスが来ても署名し私たちのために頑張ってと言う。9条は子どものとき諳誦させられたという中年の女性もいた。署名午前26。
5日 今日は晴れて気温が上がり、脱いだり着たりで気温の調節が大変だったが署名多し。午前帰り道でしきりに国家国家という青年に会う。最近では北朝鮮だけでなく中国が攻めて来たらという声を聞くようになった。午前35、午後41。
6日 一日雨。
7日 雨。
8日 署名3万が日刊赤旗にのり熊本・新潟などから電話があった。今日は晴れたが寒かったけれど署名多く、若い女性とかなり話し合う。署名午前39、午後35。1日で74、気分よし。
9日 午前みぞれ、午後から雪。午後から腹部エコー検査パス。夜になって屋根から雪の落ちる音を聞く。何年ぶりか。
10日 暖かくなるということだったが気温あがらず。しかし今日は3月10日だ。大空襲を話しながらで署名多し。まだ3歳だったが鮮明に覚えているという人もいた。寒いので私の体を心配してくれる青年、いつもより励ましてくれる人多く、沖縄にも行ってきた、体験者の声を聞きたいという青年。午後は気温が下って来たのではやくきりあげる。核密約に怒りの声。署名午前37、午後25。
11日 午前、北風強くて署名にならず。午後も風はあったが気温が少し上がったので署名にでる。8日の新聞記事を見たという人がいて喜んでくれた。こういうことの出来る勇気がすばらしいと言ってくれた。スリランカ人、ブラジル人の署名も。署名午前6、午後26。
12日 午前は所用で署名中止。昨日ほど冷たくないが、風あり。風はよくない。どうしても首をすくめるので肩がこる。注意しなければ。学生がかなり話し込んできて、毎日新聞のコピーをやる。これから学校は休みになるので学生が楽しみだ。署名午後29。
13日 土曜日は試験場は休みなので公園を廻る。今日は暖かくて脱いだり着たり体調にあわせるのがむずかしい。人はまだ少なかったが殆どの人が署名してくれる。署名午後33。
14日 今日は昨日ほどの暑さではなく、公園も休日で人多く署名多し。声をかければことわる人少なく、飴などくれる人もおり、小学2年生が署名した。早咲きのさくらの花も。こぶしの花がきれいだ。
15日 曇りだったが暖かく、署名やりやすかった。やはり今日も若者多し。署名午前30。午後は年金者組合役員会。
16日 午前歯科。気温20度を越す。私のような老人には気温の変化は大変だ。ある女性が言っていた。かつて日本軍の行った地を旅行すると、こんな小さい子どもが手をかざしながら日本人より戦争のことをよく知っていて、かつて日本がそこで何をやったかが今も語り伝えられていると。署名午後40。
17日 暑くも寒くもない日で、運転免許試験場も学校が休みになり学生の署名多し。午前35、午後31。
18日 九条の会の会員だという人がいて、私といっしょに署名を呼びかける。小学2年生のときアメリカの飛行機に追いかけられたという人がいた。中国青年3名の署名。私はかつての軍国少年でしたと謝罪する。署名午前42、午後35。一度に続けて署名をすると疲れるので、午後は少しはやくきりあげる。
19日 気温上がらず午後から署名休む。相変わらず若者のもの多し。午前45。
20日 友人6名と地域廻り。滄浪泉園、貫井神社、経済大学、昼食は経済大学の学食。
21日 昨夜の嵐で歩道に枯枝など落ちていてすごかったが、春分の日ということもあって試験場も人多く、バスも増発、署名多し。午後が北風となって足も冷えるのではやくきりあげる。署名午前49、午後22。
22日 公園の野球場のさくら早咲きで満開になったが、ソメイヨシノはこれからだ。署名午後33。
23日 50代の男で、中国が攻めてくる、中国がベトナムを攻めたことを知っているか、私はかつて民青だったからあなた方のことをよく知っていると。私は、これは党ではなく市民運動だと言ったら、それもよく知っているが、もう時間がない、九条の会は害虫だ、と言う。廻りの人は驚いたようだが、5月18日という国民投票がうまくゆかなくなった改憲派のあせりかと思った。署名午前33、午後年金組合歌会。
24日 一日氷雨。午後むさし野歌会。
25日 氷雨。中村哲、澤地久枝対談「人は愛するに足り真心は信ずるに足る」を読む。
26日 中国の若い男女が感激して署名してゆく。スコットランド人の署名も。署名午前39。午後診療所。
27日 桜はちらほらだが、さすがに休日は人多く、バーベキュー広場では自分たちで署名板を廻すグループもいた。署名午後45。
28日 寒くなってきたので午後は署名を休む。これで国民投票できるのでしょうかと言いながら署名する人もいた。署名午前43。
29日 午前診療所。風強く、午後署名に出たがはやくきりあげる。桜は寒く、まだ2分咲き。咲きはじめて1週間になるがまだ足踏みだ。中年のロシア女性の署名、現職の自衛官と話す。署名午後26。
30日 昨日に続いて気温上がらず署名は30分ぐらいできりあげる。手がかじかむのに手袋をとって署名してくれる人もいた。署名午前21。午後、熊本の上田精一さんの訪問。多磨霊園を案内する。
31日 まだ気温上がらず桜は3分咲き。祖父が満州の引揚者だと言い、母子3名が署名してゆく。インド人、ネパール人の署名あり。署名午前32。

4月/
1日 気温は上がったがまだ体がなれず迷ったが、そのうち落ち着いたので署名に出る。午前は人が少なかったが、午後からは多くなる。昨日に続いて母子3人で署名してくれた人もいた。中国の若い男性が感激してゆく。署名午前25、午後34。
2日 午前歯科。午後から晴れて1時間ほど署名に出る。ようやく桜満開。署名午後27。
3日 はけの会の花見。花見が終わって3時頃から署名。2人の子どもに書かせた母親もいた。元新潟日報の記者だったという人もいて、私の松代もよく知っていた。バーベキュー広場では自分たちで署名板を廻してくれたグループもいた。桜満開で署名多く42。
4日 午後から、8日の九条の会の下見ということで川住さんと公園を廻る。昨日と違って休日だが寒く人少なし。スケボーの青年と川住さんもいっしょに話合う。私に缶ビールをぽーんと投げてくれた者もいた。
5日 年金者組合編集会議。1日雨。
6日 最初道で会った桜町の協会の女性3名の署名いただく。中国人、インド人の署名。バーベキュー広場では自分たちで署名板を廻すグループもいた。選挙の話をする若者もいた。署名午前46、午後70。
7日 雨になりはやくきりあげる。若い女性で9条を暗記しているという人がいた。学校の時クラス全員が諳誦したのだそうだ。また、ようやく署名の決断をしたがバスが来て残念だという女性もいた。70代の男で憲法フォーラムに入っているので署名できないという人もいた。中国人、インド人の署名も。午前28。
8日 9条の会の花見。都心の事務局の方3名に小金井の人たちで、花を見たあと天神集会所で私の3万筆を祝っていただく。いただいた色紙の寄せ書きは私の宝物となり、感謝、感謝。
9日 寒いので花は散らずなんとか保っている。中年の男で、何にも知らない人たちが権力を握っている、経済を勉強するようにと言って署名する。セネガルの青年2人署名。若者が多くかなりの会話が出来た。午前34、午後42。
10日 午前歯科。朝から快晴で花見の人多く、署名多し。殆どわが家の近く、野川と原っぱで。午後74。
11日 午前、相変わらず署名多し。私の戦争体験を聞く人、今度の選挙誰に入れると聞く人もいた。イタリア人の署名。午後は暑くなって、体調のことを考えはやくきりあげる。午前42、午後32。
12日 1日氷雨。野川の紅しだれがきれいだ。
13日 朝から晴れる。自動車試験場の桜も葉桜となった。亡くなられた井上ひさしさんのことを話しながら署名。バスが来たのに走って来て署名した若者がいた。午前41、午後42。
14日 どんよりした天気。午後は公園から試験場に廻る。署名多し。午前31、午後46。農林水産九条の会の呼びかけ人、経済学者の石井啓雄先生が亡くなられ、弔電を打つ。
15日 1日氷雨。新日本出版社より電話。高田健さん小樽より電話。
16日 1日氷雨。新日本出版社角田さん来訪。
17日 東京としては41年ぶりの雪という。朝起きてびっくり、今年最高の雪。お昼に福祉会館祭を見学。護憲ネットの方で私のことを「私と憲法」で読んでいるという方に会う。午後21。
18日 午後、立川市の近代史を勉強している女性に呼ばれて、近くの九条の会の山本さんと参加。渡辺みさ子さんのマントウを食べながら話合う。
19日 午前、相変わらず署名多し。ブラジル人の署名も。午前38。午後は年金者組合運営委員会。
20日 午前、人は少なかったが署名は多し。改憲派と思われる60代の男が、大きな声で9条は時代遅れだなどと妨害もあった。午後は雨となり、はやくきりあげる。午前34、午後17。
21日 朝から5月並みの暖かさで、署名多し。中国の若い男女が感激していた。こんな陽気が続くとよいのだが。午後歯科。午前46。署名は3万2千を超えた。
22日 氷雨、図書館へ。小中陽太郎「小田実と歩いた世界」、住井すゑ「人生のエッセイ」を借りてくる。
23日 雨が少しやんだようなのでバス停へ。しかしまた雨となり短時間できりあげる。バスが来ても乗らず署名した若者がいた。午前13、午後24。
24日 晴れたが風冷たし。バーベキュー広場で外語大の学生と話し署名していただく。私もやりますと言う青年がいた。午後46。夜、松之山の福井正二に電話。同級会は12名参加。松之山のいま積雪60センチ。1日5センチ消えても12日かかる。56年、59年の豪雪以来、今朝少し高いところでは5センチの雪が降った。
25日 昨日に続いて気温上がらず。午前バス停で37、午後公園で37。
26日 午前診療所。午後晴天。署名多し。中国女性の署名も。午後38。
27日 映画「いのちの山河――日本の青空」国分寺で。午後、年金短歌。1日雨。
28日 1日雨。午後、むさしの歌会へ。
29日 最初まだ雨だったが、バーベキュー広場で、憲法の日が来ますと署名。頑張って下さいの声が多かった。午前38、午後33。午後1時よりNHK特集「懸命に生きた1960年代の日本」に、歌友の「出稼ぎの歌」の安倍英康登場。
30日 午前のはじめは中年の人で署名少なく、後半は若者で多し。午後は野川のところで弁当を食べていた農工大の学生に署名いただく。ペルー人、インドネシア人の署名あり。午前42、午後29。新日本出版より原稿が来る。

5月/
1日 夫婦で写真をとらせてくださいと私と並んでとってゆく。小学校のときクラス全員が憲法9条を諳誦したと、私の前で読み上げた青年。いま九州に単身赴任だが、あなたのあとを継ぎますと名刺を下さった人。それに都立大の学生の7名の署名。午前30、午後37。バングラデシュ、ベトナム人の署名も。
2日 連休に4年続けて会ったと懐かしそうに言ってくれた人も何人かいた。ここに来て中国が力をつければ攻めてくるなど、改憲派の声も聞くようになる。午後68。
3日 快晴。午後も人多く署名多し。小学5年の女の子が署名する。午前53、午後45。
4日 子ども一人一人に丁寧に話して署名を書かせる感動的なお母さんもいた。午後は経済大学の学生が20名ほど自分たちで廻し署名する。午前49、午後60。
5日 暑かったが署名多し。主としてバーベキュー広場で午前51、午後50。
6日 午前、9条のニュース配りで、なかなかお会い出来なかった人と久しぶりに会う。午後署名42。
7日 午前歯科。午後雨。
8日 バーベキュー広場で、一橋大の学生が渡辺治先生はおもしろい人だと言っていた。アメリカ、オーストリア人の署名。また島木健作の話から発展して、国分寺の人で府中刑務所から出た日本共産党の幹部が一時居た場所などを聞く。午前45、午後34。
9日 午前「沖縄に基地はいらない」と題して、萌え木ホールで参議院議員の糸数慶子さんの講演。終わってから糸井さんに私の署名を紹介していただき、議員と握手して別れる。署名午後66。

このページのトップに戻る


このページのトップに戻る


このページのトップに戻る


このページのトップに戻る
「私と憲法」のトップページに戻る