私と憲法(2010年2月25日号)


64回目の憲法記念日を迎えて

「9条改憲反対」の広範な共同をさらに広げながら、消極的「護憲」の多数派から、積極的「護憲」の多数派への不断の努力を

1947年5月3日、日本国憲法が施行されて以来、今年はまる63年になる。そしてこの6月は旧日米安保条約が締結されてから60年、安保条約が改定されてから50年目を迎える。さらにこの8月は旧大日本帝国が韓国を併合し、植民地支配して以来100年目にあたる。50年目とか、100年目という数字自体に何か決定的な意味があるのではないが、こうした節目は私たちにとって歴史を振り返り、今日的な課題を明らかにする上で重要な好機となしうるものである。

言うまでもなく、日本国憲法は朝鮮半島の植民地支配をはじめとして、アジアと日本の民衆に多大な犠牲を強いたアジア太平洋戦争の歴史の反省の上に出発した。前文と9条、及び基本的人権の尊重などに象徴される日本国憲法は、この戦争の敗北を受け入れたとはいえ、戦争をまともに反省もせず「国体護持」に汲々としていた内務省など旧国家権力の当事者たちとの激烈な争いの中で成立した。占領軍の中心にあった米国も、戦後の米ソの冷戦体制に対応するうえで、日本をどのようにして利用していくかの戦略的な狙いがあり、象徴天皇制の存続や沖縄の分割占領など、平和憲法とはあい矛盾する占領政策をとった。間もなく1950年に朝鮮戦争が勃発し、その最中に対日講和と日米安保条約が締結され、日米安保体制の下での再軍備の動きが始まり、改憲の策動が台頭した。

1960年の日米安保条約の改定を経て、第2次世界大戦での日本の敗戦後の戦後政治は、平和憲法と呼ばれてきた日本国憲法体制と、この日米安保条約を根拠とする米軍のアジア・世界戦略の中での軍事力の復活強化という戦争法体系という相対立する2つの法体系の間にあって、「戦争のできる国の復活」をねらう勢力と、反戦・平和を求める勢力の拮抗の歴史であった。戦後の歴史は、この過程で幾度も明文改憲の動きが蠢動し、それに広範な人びとが抵抗し、反撃を加えてきた歴史でもあった。改憲派が幾度か試みた9条などの改憲を阻止してきた力は、ヒロシマ、ナガサキの被爆体験や15年戦争などの戦争体験に根ざす、広範な人びとの厭戦・反戦の思いであり、それによる世論であった。その世論は60年安保闘争や、その後のベトナム反戦闘争の大きな高揚はあったものの、米ソの冷戦体制下の世界に於いて、必ずしも日米安保体制を拒否するものではなく、「平和憲法」も「象徴天皇制」も「日米安保体制」も容認するという、いわば消極的な反戦論、消極的な9条護憲論とでもいうべきものであった。それは戦争の被害の記憶を前提とするものであり、戦争責任、戦後責任を問う議論が起きてくるのはしばらく後のことであった。

こうした一定の弱点をもったものではあったが、戦後の護憲・平和運動は米国とそれに追従して日本を戦争のできる国にしようと企てる勢力にとっては大きな障害になってきた。

ポスト冷戦の時代である1990年代から、あらたに登場した90年代明文改憲運動は、とりわけそのターゲットを9条に絞り、改定安保条約の枠をも突破して、グローバルな規模で唯一の覇権国家となった米国に追従し、その世界戦略を軍事的にも補完することによって、再度、世界に進出していくことをねらうものであった。自民党などの政界、財界、読売新聞などの大手メディアなどがあい呼応して、憲法9条を攻撃し、それを破壊しようとした。明文改憲の動きを強めながら、有事法制など憲法の下位法をさまざまに成立させることによって、事実上「戦争のできる国」に変質させながら、明文改憲をねらう動きであった。この過程で憲法調査会が作られ、憲法調査特別委員会になり、安倍内閣の下では改憲手続き法が成立させられた。PKO法から、有事法制、テロ対策特措法、イラク特措法、自衛隊法の改悪などなど、さまざまな海外派兵法が作られ、今日では海外派兵恒久法が論じられるところまで至っている。

これらの動きに再度大きな反撃が始まったのが、改憲を呼号していた小泉内閣の当時、2004年に呼びかけられた「九条の会」や「憲法行脚の会」などの改憲反対の動きである。とりわけ、「九条の会」は「九条改憲阻止」の一点でいわゆる保守層をも含めた幅広い共同の運動として、この6年の間に全国に7565カ所に設立されるなど、改憲反対の世論の形成に大きな歴史的な役割を果たした。この運動は60年安保闘争、60年代後半のベトナム反戦運動に次いで特記されるべき戦後の民衆の広範な歴史的運動であった。こうした世論を反映して、改憲暴走の安倍内閣が崩壊し、与野党の矛盾は激化し、07年の参議院選挙、09年の衆議院選挙による「政権交代」を経て永田町における明文改憲の動きは急速に収束した。

本年4月9日に毎年恒例の「読売新聞社・憲法に関する全国世論調査」(3月27~8日実施)が発表された。この調査は面接で全国の3000人を対象に行っているもの(回収率58%)。同紙によると、「憲法を改正したほうがよい」と答えた人が43%で、「改正しないほうがよい」は42%だった。昨年(09年)の調査より「反対」が6%増、「賛成」が9%減という結果だった。実は08年の調査では「反対」が43・1%、「賛成」が42・5%と、同紙の調査では15年ぶりに賛否の数値が逆転していた。それが、昨年は再逆転したが、今年の調査では再び08年の結果に接近したことが明らかになった。自民党支持層でも改憲賛成が反対より少なかったという。

この賛否は「第9条」についての意見を問うものではなく、現行「憲法」のどこか一つでも変えた方が良いかどうかを問うものだ。改憲賛成の理由は「押しつけられた憲法だから」(35%)とか、「権利の主張が多く、義務がおろそか」(26%)、「国際貢献など新しい問題が起きている」(45%)などで、9条に関わる「自衛権と自衛隊の存在を明記せよ」は31%だった。

調査では第9条についても問うている。「これまで通り解釈や運用で対応する」44%、「9条を厳密に守る」16%で、9条を変える必要がないという立場の人は計60%()08年60%、09年54%だ。「9条を変える」は32%(08年31%、09年38%)だった。

9日の読売新聞社説は「政治の混迷で改正論しぼむ」と題し、「民主党は憲法論議を停滞させている責任を自覚すべきだ」などと不満を書いた。

3月13~14日に行われた日本世論調査会の「安全保障に関する国民の意識」調査では、日米安全保障条約改定からことしで50年を迎える節目に日米同盟の評価を聞いたところ「現状のままでよい」との答えが59%を占めたという。戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法9条に関しては51% が改正は不要と回答。「9条」も「安保」もという世論の多数派状況は依然として続いている。

先ごろ、自民党の憲法改正推進本部(保利耕輔本部長)は自民党改憲案の改正に取り組むとして「徴兵制」まで検討項目に挙げた。改憲派は4月末には決起大会をやるという。鳩山政権のもとでもさまざまな解釈改憲の動きはおさまっていない。焦眉の課題である沖縄の普天間基地撤去の課題は当面する最大の9条問題である。

今後の改憲反対運動の課題は「九条の会」などの運動が勝ち取ってきた9条擁護のもっとも広範な運動をさらに発展させながら、この有利な条件を活かし、これらの世論調査の結果に見られる「9条」も「安保」もという消極的9条護憲論を、安保と9条が対立するものとしてとらえ、最近では「日米同盟」などとまで呼ばれる日米安保体制を解消し、9条が生かされる日本をつくり出すという積極的9条護憲論にまで高めることにある。そのためにはさらに本格的に草の根に「9条の会」などを組織し、改憲反対運動を活性化して行かなくてはならない。憲法記念日を迎えるにあたり、このことをあらためて決意したい。(事務局 高田 健)

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「慰安婦」問題解決のための立法化への取り組み

(中原道子さん・VAWW-NETTジャパン共同代表)

今の話を伺いまして、私も本庄の空襲で家も焼かれて炎の中を逃げた経験があるのでみなさまの運動は貴重なものです。心から応援したいと思います。

今回は、日本軍慰安婦の法的な問題解決についての話をします。ここにいらっしゃる皆さんがどのくらい慰安婦の問題に通じていらっしゃるか、初めてお目にかかるのでちょっとわかりかねるので、状況を説明させていただきます。

日本軍慰安婦問題というのは、1990年6月に、初めて参議院でこれに関する質問が行われたんですね。おそらく日本で初めて慰安婦問題が始まった発端だと思います。そして91年。このときの政府の態度は、これは業者が連れ歩いたので日本政府は責任がないということを、予算委員会ではっきり返事をしています。

それに対して非常に怒りを持って初めて個人の名前を出して、顔も出して、私は日本軍慰安婦であったということを証言されたのが91年ですね。それがきっかけで「慰安婦問題」は、ひとつの大きな運動として発展しました。これはさまざまな運動の形を取りました。

研究者が文献的研究をする。あるいは生存者していらっしゃる証言者に証言を聞く。この証言を聞くという行動は、のちにオーラルヒストリーの可能性を開いた一つの大きな発端になりました。今まで歴史というのは文献でしか書かれていなかったんですね。それが初めて生身の女性たちの証言によって歴史を書き換えるという、そういう作業が始まりました。それから具体的に被害者の方たちを支援する運動が始まり、日本では非常に多くの大小さまざまな組織が作られて運動が始まりました。

そうした運動の結集したのが2000年の「女性国際戦犯法廷」という大きな法廷で、4日間にわたって行われました。これは民間法廷でありますから、法的には何ら権力は持っていないわけです。しかし慰安婦問題にとってこの2000年の「女性国際戦犯法廷」が非常に重要だったのは、ここで初めて国際法の検証が行われたのですね。女性に対する戦時性暴力は、これまでのいかなる国際法廷でもこれを罰するという、そういう法体制がなかった。なぜかというと、これは国内法もそうですが、ことに国際法における女性の、ジェンダーの視点の欠落があります。初めて国際法におけるジェンダーの視点の欠落ということが指摘されたのは、この2000年の「女性国際戦犯法廷」のときでした。

そのときに首席検事であったパトリシア・セラーズという方がいます。戦時性暴力とかそのほかの戦時中に被った問題は国内法では裁けないわけです。何カ国かがかかわっていますから。そこで国際刑事裁判所がようやくつくられました。このICC(国際刑事裁判所)のジェンダー・アバイサーになった方です。「女性国際戦犯法廷」で初めて法律をジェンダーの視点で見るという、そういう視点が入ってきました。それと同時に国際的にこの問題が大きな広がりを見せました。

これは主に国連を中心にして問題解決が図られます。国連では特別調査官を指名しまして調査報告を出させております。これは96年の「クマラスワミ報告」、それから98年の「マクドーガル報告」です。これらがはっきりとこの問題を調査して、国連に報告書を提出して、受理されております。これらは主に国連の人権委員会を中心にされたことです。

その後、国連のILOの専門委員会でもこの問題が取り上げられております。ここで初めて慰安婦問題はILO29号違反であるということが日本政府に対して指摘され、早急な解決を求められています。以来、ILOでは1996年から今日に至るまで8回の勧告を日本政府にしています。

最近の勧告の様子をみますと、ほとんどもう何でやらないんだという、非常に激しい形で日本政府に解決を要求しています。また、国連の自由権規約委員会でも報告書の中ではっきりと早期解決を日本政府に求めています。さらに2003年には女性差別撤廃委員会で、永続的な解決策を講ずる勧告を行っています。2009年には、ILOにおいても女性差別撤廃委員会においても、日本政府に対して早急な解決を強く要請しているんですね。つまり国際的にはこの問題は非常に広がっております。

国連だけではなくて各国におきまして、日本政府に慰安婦問題を早急に解決せよという勧告の決議があがっております。これは2007年の米国の下院決議を皮切りに、オランダ、カナダ、欧州会議におきまして、国会で決議があがっております。さらに市――国の議会の外ですね、市議会での決議もあがっております。オーストラリアとか韓国です。

さらに日本の国内では、宝塚市を初めとして15の市議会で、政府に対してこの問題の解決を促進するようにという決議があがっております。

このように状況が整っておりますが、日本政府は一貫して、これに対して何らの解決策も示してきませんでした。そこで、ひとつの大きな運動は、立法を求める市民の会の方々が立法運動をなさっています。

これは内閣の法制局が法律の形にして、民主党、共産党、社民党の3党が合同で参議院で議員立法として提出しております。しかし過去8回にわたって拒否され、廃案になっています。当時の政治状況を考えれば、自民党が衆議院で圧倒的多数ですから、どんな法律を出しても通過する見込みはないわけですね。そこで昨年大きな変化が起こった。これは恐らく革命的な変化だと思います。過去ずーっと政権をとってきた自民党が世間の座から放り出されて、何か、こう心細いとはいえ民主党が政権をとりました。

この民主党が政権をとったことは、大きなチャンスであります。というのは昨年の12月に民主党の議員連盟届けが出されています。民主党単独ですが「戦後補償を考える議員連盟」というのがその名前です。永いこと慰安婦問題に取り組んできた岡崎トミ子さんが会長で、今野東さんが幹事長、石毛鍈子さんが事務局長という態勢です。これは私たちに足掛かりができたことですね。多くの慰安婦問題にかかわっている組織は、この状況を利用して非常にたくさんの院内集会をして、それから議員たちに対する陳情をしています。

そこで法律をどうするか。すでに廃案になったものがありますが、それを出すのか出さないのか。それで行こうという方もいます。私は慰安婦問題をやっている議員の方たちの感触をまとめますと、いま民主党は議員立法ができないですね。そうすると、政府が決定すればいいんですね。鳩山首相が東アジア構想をすすめる、あるいは未来志向でいくならば、やはり戦後補償を片付けてからやらなければなりません。

私は「促進法」でどうかとい問題ではなくて、運動をしている人々ができる限りすり合わせをする。そして最低限譲れない、例えば正式な謝罪をするとか、補償をするとか、歴史教育をするとか、そういうことを決め、それを持って政府に対して交渉をする。そういう運動が求められているのではないかと思っております。

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イラク戦争の検証

志葉 玲さん(イラク戦争の検証を求めるネットワーク事務局長)

みなさんおはようございます。
本業はジャーナリストですが、昨年11月に我々のネットワークが立ち上げられまして、事務局長をしています。一応事務局は東京に置いているんですが、大阪のメンバーもいますし北海道のメンバーもいます。中にはヨルダンの方からいつも連絡してくるというか、インターネット電話を使って会議に参加するとか、あちこちにメンバーがいます。

イラク戦争というと、かなり関心のあった方ですら、今どうなっているんだろうというみたいな形になっていると思います。実際にマスメディアでは、全くイラク戦争に関することが報道されなくなってきております。私なんかも企画を出すんですけれども、箸にも棒にもかからないという状況ですね。

ただ、現地の状況で言いますと、ますます深刻化しているのが、イラク難民と国内避難民の問題です。イラクの人口はだいたい2700万人から2900万人だといわれていますけれど、その6分の1近くが現在も避難生活をおくっています。しかも、私はイラク難民に会ってきたんですけど、絵に描いたような貧困ですね。8畳間くらいのところに10人くらいで住んでいるような、そういう状態です。

そういった形で、国内避難民と国外避難民をふくめて、非常に貧しい状況にあります。その多くが、パートナーを亡くしたとか、孤児になっているような状況なんですよね。孤児が450万人もいるそうです。イラク戦争による孤児ですね。完全に孤児になった場合と、父親を亡くした、母親を亡くしたというかたちが含まれていると思います。

ともかくとんでもない戦争があったわけです。WHOの推計では15万人が殺されたということになっています。統計によっては65万人以上とか、100万人とかいろいろ出ている訳なんですけれど、実際のところ何人死んだかもわかっていません。こういう状況の中でイラク戦争が忘れ去られていいのだろうかという思いが、この間、取材をし続けてきた側としてあります。

それで、イギリスでは昨年7月に検証委員会が立ち上げられました。先月1月29日にブレア前首相が、証人喚問に呼び出されて追及されるというようなことがあったわけです。まあ、そういった検証作業をずっと続けています。

これに先立って1月12日に、オランダの検証委員会が最終報告を発表しました。イラク戦争は違法な戦争であった、イラク戦争を支持したオランダ政府の見解は間違いだったというようなことを、はっきり打ち出しました。この間ずーっと、私は正しかったと主張していたオランダの首相も、これを認めざるを得なくなりました。今月、そろそろオランダの国会で、どういう対応をするかということが話し合われると思います。

日本でもそういうようなことをやるべきではないか、ということで昨年11月に立ち上げたんですね。「世界がもし100人の村だったら」の採話者の池田香代子さんとか、高遠菜穂子さん――あのイラクで人質になられて、その後もイラク支援を続けている――そういった方々が呼びかけ人になられて、着実に広がりつつあります。ただ、まだ賛同人が600人ぐらいしかなくて、やはり政府を動かすにはもうちょっと広がりをもたなければいけないと思っています。

我々が求めていることは非常にシンプルなんです。イギリスやオランダと同じように独立の検証委員会を立ち上げさせて、(1)イラク戦争支持、(2)自衛隊イラク派遣の是非、(3)イラク後方支援への日本のかかわわり、この3点を検証することです。これらを公開で行う。最終報告を受けて、その結果を今後の日本の政策に反映するようにということです。

私どもは、いろいろロビイングなんかも行いました。結果として、週明けにも民主党、社民党の有志の議員が、議員署名を集め始めます。それを政府に提出するという形になっています。

ですから一応、進展はあるんですけれど、いろいろ問題もあります。政府が対応しなければいけないなかで、イラク戦争の検証という、いわば後に戻ることをやるというのはなかなか大変でして、そこでやはり皆さんの応援が必要です。

具体的には、週明けには国会を回って議員に対してロビイングをします。われわれのネットワークとして、全国の有権者の皆さんと協力して、参院選に向けて各党のマニフェストにイラク戦争の検証を明記していただく。そのようなことを各選挙区の議員さんにお願いに行きます。自分の選挙区の人に言われると、おおそうか、と聞いてくれるパターンが少なくないのです。そういうことを各党の議員さんに対して、全国の有権者がファックスをおくってもらいます。ファックスを送ったことを私どもに知らせて貰ったら、私たちが議員会館に行って、いわばロビイングの代行のようなことをやろうと思っています。

ともかくこの動きは、NHKでも短いですけれど何度か報道されたりして、徐々に注目が集まりつつあります。3月20日あたりには何らかの行動をおこす計画です。

イラク戦争の検証をしっかりおこなうことは、ここにいる皆さんの求めていることとも一致し、つながります。それはイラク戦争の検証をしっかりおこなうことによって、日本の憲法を守ることにつながります。イラク戦争では自衛隊がイラクに派遣されました。あれは完全に9条違反ですよね。集団的自衛権を行使していたわけですよね。航空自衛隊が米兵を運んでいたことは明らかになっています。しかも7割ですよ、輸送人員の。これはもう詐欺ですよ。

そういった詐欺行為をやれば、後で検証委員会に呼び出されて証人喚問され、追及される。そういう文化を作っておけば、今後日本政府としてもあまりいい加減なことはできません。イラク戦争のことは許さない、ということは勿論ですが、今後の日本の平和のために、世界の平和のために、やはりこれをきっちりやる必要があるなあと思っています。

まだまだ私たち、力が足りません。みなさまからも是非ご協力いただければと思います。ありがとうございます。

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盗聴法の廃止を求める運動

角田富夫さん
なぜ盗聴法の廃止をもとめるのか、というレジュメを出しております。
盗聴法は1999年に成立して10年余りになります。今年2月から、盗聴法の廃止を求める市民団体共同声明というのを始めました。去年、民主党などの連立政権が成立して、盗聴法を廃止する一つのチャンスが到来したのかなと思っております。1999年の盗聴法の立法化をめぐる攻防房で、民主党、社民党、共産党が強く反対をした。国会は賛否両論で真っ二つになりましたし、世論的にも盗聴法は問題があるという声が多かったと思っていて、そうとう広範な運動として展開され、参議院でも最後の日、ギリギリのところで強行採決され成立した法律です。

以来、この盗聴法をどうするのか、黙ってこのまま、適用されるのを見ているのか、適用に対して意見をいうだけでいいのかという議論がありまして、盗聴法は憲法に定められた通信の自由を侵害する違憲の悪法である。悪法はやっぱり、廃止すべきだという立場から問題を立てるべきだということになり、議員さん、法律家、市民団体関係で議論して、盗聴法廃止の運動をつくろうということで、2000年から盗聴法の廃止を求める署名活動を始め、国会では衆参で盗聴法の廃止法案を出してもらおうということをやりました。2003年までに、計11回、盗聴法の廃止法案は出ましたが、審議されることもなく、そのまま廃案ということの繰り返しでした。そうしたなかで、主要には参議院で盗聴法廃止法案がでました。2003年以降、民主党は、これから出さない、といいました。何故かと聞くと、政権を取った後、盗聴法廃止法案をだすので、やらないということでした。それは党の確認かどうかはわかりませんが、それから、ぼくらとしては、地道に盗聴法の問題点、盗聴法の適用の問題点などを明らかにしながら、今日にいたりました。

盗聴法廃止は政権が交代したからチャンスだから、盛り上げようとしています。いま、市民団体の共同声明を盛り上げて、もう一度、盗聴法廃止の運動を強めようとしています。

そうしたなかで、それでは僕らが、民主党や、社民党、国民新党などに訴えて、国会で取り上げられるかというと、なかなか困難だろうとおもっています。それは民主党がマニフェストで取り上げた可視化法案は今度の国会で出ると思っていました。ところが中井国家公安委員長は可視化をやる場合は、その代わりに例えば盗聴法の拡大とか、さまざまな立法化措置が必要だということを言い出したのです。というように、民主党の中でも盗聴法廃止でまとまっているわけではない。そういう意味ではたしかに盗聴法に反対した議員は残っているし、盗聴法廃止を本当に実現するためには、もちろん国会への働きかけは必要ですが、もう一度、外から盗聴法廃止の運動を作りあげていかないと、なかなか、国会で盗聴法廃止を実現するのは難しいだろうと思っています。

そういう意味では、ぼくらの政党に対する姿勢というのは、政党には期待するけれど、政党に依拠しては、なかなか運動的にはうまくいかない時があるだろうということです。

民主党を見た場合、党内にいろんな意見がある。党内事情もあるだろうし、与野党交渉もあるだろうし、いろんな要因が重なった場合、政党は本当にぼくらが掲げた課題や要求を、たとえマニフェストで掲げていても、本当に実現されるかどうかということでいえば、党外のぼくらの、市民の運動がなければなかなか難しいところがある。そういうものを見据えて運動をすすめて行かなければならないだろうと思っています。もちろん、新連立政権には期待しているわけですが、しかし依拠はできないと思っています。もう一度新しく運動を造りあげるような観点から、問題を立て直して、この市民団体共同声明をテコにして、外から働きかけていくというようなことが必要ではないかと考えています。

この間、国会前では外国人の参政権反対の座り込みばかりが目立ちます。これはやはりまずい。新連立政権に対して、こちら側が遠慮しているのではないか。いろんな運動体からの、国会に対する働きかけが少なくなっているのではないか。例え連立政権に期待したとしても、国会の前で座り込みをして旗をかかげてもいいわけだし、そういう局面に来ているのではないかと思います。

国会への盗聴捜査報告の資料ですが、1999年に盗聴法ができてから、2年間は適用されていません。これは反対運動の結果、相手側、警察が非常に慎重になったということです。それ以降も、急激に増えているわけではなく、思ったよりもテンポとしてはおそい。これはぼくらが首都油脂、国会にも働きかけて居ることの反映で、いまも攻防が続いているということです。

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差別なき戦後補償を求めて、空襲被害者援護法の立法活動

東京大空襲訴訟原告団・千葉利江さん

私自身が原告になっているのですが、かつての戦争による空襲被害者たちが個人では克服不可能な被害を受けながら、空襲被害者に対する国の制度と政策によって長い間、差別と苦しみの中、分断されてきました。しかし、1994年以降、死者を追悼し、市民を記録する運動を通じ、東京大空襲で亡くなった人びとの遺族たちが少しづつ結びつき、東京大空襲から62年目の2007年3月に、初めて国の姿勢と責任を問い、人間の尊厳と人権回復を求める集団訴訟にたちあがりました。

私は昭和24年、戦後生まれで、直接、戦争の被害に遭っていませんが、原告になっています。それはなぜかというと、私のおじいさんが深川で空襲で焼け死んで、お母さんが15歳で孤児になりました。その後、19歳で私を生んでいるのですが、その苦労は大変なものがあります。お母さんは戦争のことは何も語らないで、39歳で死んでしまったので、私とはそういう話をすることはありませんでした。私自身、おじいさん、おばあさん、親族と疎遠でした。母親も私が20歳で死んでしまって、母親ともとても縁が薄かった。私自身は母が残した私の兄弟3人を、幼かったので、一生懸命、私が育ててきたのです。そういう苦労を重ねながら、私は自分の家庭については、親が悪い、お母さんは自分が孤児だったのに、何故、幼い子どもたちを残して死んでしまったのかというふうに、親を責めていました。

でも空襲遺族の人たちと出会って、裁判を通して、やはりその責任は戦争の被害や戦争損害、国民は我慢せよと言いますが、国が戦争を起こして、戦争を引き延ばして、庶民を空襲で苦しめた、そういう結果において、私自身、戦後生まれだけれど、空襲の被害がある、人生被害があるということを訴えたくて原告になっています。

裁判については結果はご存じの方が多いと思いますが、賠償請求棄却ということになりました。
今日は、差別なき戦後補償を求めて、空襲被害者援護法の立法活動の報告が中心ですので、その話に移ります。
いま全国各地の空襲被害者の被害回復をはかるための空襲被害者等援護法(仮称)の立法を求めて活動をしています。

総選挙の前に、国会議員さんに、空襲被害についての救済立法についてご協力を頂けますかとアンケートをとりました。当時の政権与党の方々からは全くお返事がありませんでした。今の与党になっている方々からは170名近くのお返事を頂きました。その方たちに対して、去年11月に、お礼を言いながら「救済立法を求めています」ということで、ご挨拶をして、要請活動をしてきました。そのなかで、すこしづつ、協力してくださるというお返事がありました。積極的に関わって下さった方々が大臣になってしまって、お会いできにくくなるという状況があり、その点の困難さがありましたが、一方、協力して下さる方を増やしまして、今年65年目の3月10日には国会議員さんと全国の空襲被害者の懇談会、院内集会を開くことにしました。やっと、そこまでこぎ着けてきました。その中からさらに何とかして行こうじゃないかという方たちを作って、やっていこうと思います。

日本の戦後処理制度の問題点は旧軍人、軍属優位の補償制度で、民間人は補償がないということで差別されています。1953年から年間1兆円、昨年までで48兆円が費やされてきています。昨年の予算は7400億円計上されています。軍人優位の国家の在り方の現れです。これは日本の民間人だけに受忍させるということではなく、旧植民地、韓国・朝鮮から動員された方々の遺族の方々も補償を求めておりますが、その方々についても、裁判から排除してきました。

空襲被害者の求める立法の内容ですが、欧米諸国のように国民平等主義と内外人平等主義ということで理想を掲げ、とりくみたいのですが、戦後処理立法が多くのゆがみの中で積み重ねられてきており、これを展開するための国民的合意形成には時間が必要ですが、反面、被害者の年齢を考えると時間がありません。そのためにまず基本理念を定めて、その上で被害者が生きているうちに、実施可能なものものから求めていきたいと思います。調査も全くやっていないわけで、やって欲しいといっているのですが、この調査を引き延ばしていくことは、時間がないので、ぜひ早急に空襲被害者たちの援護法を求めていきたいと思います。

私たちは、運動を空襲被害者だけでなく、また東京だけでなく全国にひろげたいとおもいます。すでにそれに取り組んでいます。大阪空襲訴訟原告団、原爆被爆者・被団協や、シベリア抑留者・全抑協、中国残留孤児の会・日中友好協会、重刑訴訟団等とも交流を積み重ねてきて、運動を広げてきています。

お話ししてきた内容は、「差別なき戦後補償を」というパンフを作り、広めていますので、ぜひご覧いただきたいと思います。

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第48回市民憲法講座「外国人参政権と憲法」

田中宏さん(定住外国人の地方参政権を実現する日・韓・在日ネットワーク共同代表)

選挙と民主主義――外国人は“害国人”か

レジメの冒頭に「外国人は“害国人”か」と書きました。ひょっとすると初めて目にされた言葉かもしれませんが、ここから近いところに今もある「アジア文化会館」というアジアから日本に留学をしている人たちの宿舎があって、わたしは1962年から72年までまる10年、そこの職員として勤めました。大学を出て初めて就いた仕事ですが、そのあと大学の教師を転々として去年の3月に京都の龍谷大学も定年で終わって、今は完全に年金生活生活者になって「失業」しています。

「アジア文化会館」で留学生の仕事についているときです。留学生は学生という側面と外国人という側面とを併せ持っているわけで、留学生は当時は1年で、いまは長い人は2年、必ずビザ延長のために入管に行かなければいけません。そこで、いろいろ問題があったりするので仕事でもありますからよく留学生にくっついて、品川駅の東口、当時は東口を出たらすぐ右側に屠殺場があって、それからあぶくがいつも浮いているどぶ川のようなところを渡って少し行くと入管があるんですね。そこに行くときかと思うんですが、ベトナム人の留学生で非常に印象に残っているんですが、日本人はシャイだから字に書くときは「外国人」と書くけれども内心では「国に害になる人」と思っているんですか、と聞かれ、どきっとしたんです。

今はカードですが当時、身分証明書は小型のパスポートみたいな冊子型で、上に写真があって下に黒々と指紋が押してあり、それをいつも持っていないと捕まる可能性がある。今も基本的にはそうですが、指紋はなくなって筆跡を登録するということで署名がカードに入っています。ひとりの留学生が帰ってこないのでどうしてだろうと思っていたら、外国人登録証不携帯で警察にいた。お恥ずかしい話ですが、わたしはその仕事に入るまで、この国に外国人登録証というものがあって、それを肌身離さず持って歩かなければいけない制度のもとに外国人が暮らしていることを知らなかったんですね。指紋は犯罪と結びついて考えられるわけですから、「害国人」というのはなかなか言い得て妙だなあと非常に印象に残っていて、わたしにとっては外国人のことに首をつっこむようになった原点なんですね、この言葉というのは。

アジア文化会館にいたときのことでもうひとつ申し上げておくと、マレーシアから来ていた中国系の華人といわれている青年だったと思いますが、千円札に伊藤博文が出てきた頃です。1963年11月1日、それまでは聖徳太子でした。「戦前の日本だったらともかく戦後の民主主義になった日本で何でああいう人を持ち出すのか。あの人は朝鮮民族の恨みを買ってハルビンで殺された人でしょう。しかもそのお札で毎日の生活をしなければいけない外国人である在日朝鮮人は、これを使って買い物をする。ずいぶん残酷なことを平気で日本人はするんですね」。こういわれてどきっとしました。それから留学生とお茶を飲みに行くと今日もこの千円札で払うのかと、そういう時間を過ごしたことを思い出します。アジア文化会館の10年は歴史認識について考えたのがひとつ。もうひとつは「害国人か」という、外国人の地位処遇についておよそそれまで考えたことのないようなことを発見しました。わたしはこのことを議論するときの原点だといつも思っているわけです。

生活の都市化と政治参加

今日のテーマである参政権の問題です。「世界」4月号の冒頭にも書いていますが、わたしは戦争が終わったとき小学校3年の世代です。岡山の山の中で敗戦を迎えましたが、当時のわたしの家では飯を炊くのも風呂を沸かすのも自分のところでやっていた。子どもの大きな仕事のひとつは風呂水を井戸から汲み上げて風呂桶に入れることでした。飯を炊くのも風呂を沸かすのも薪で、裏の枯れ木を持ってきたりして自分のところで燃料を確保し、醤油も味噌も全部自家製でしたね。ところがいまやわたしの田舎も水道は引いてあります。電気は当時からありましたが味噌も醤油も造っている家はありません。

この「生活の都市化」によって、朝目が覚めて夜床に就くまでの間、さまざまな生活の局面で政治との関係が出てきます。たとえば水道代は市議会、東京の場合は都議会で決めます。それから食品添加物とか、そういうのはみんな政治が決めているわけです。生活の都市化が進むと、不可避的に行政というか政治と個々の生活との間に密接な関係ができる。これが通常は政治への参加ということで、われわれが選んだ議員が議会で決める。それが民主主義だとなっているわけですね。

ところが外国人は日本国籍を持っていないということで、一切そういうことができない。そこにおける民主主義って何だろうか。在日コリアンも学校で民主主義はどうだ代議制がどうだ選挙がどうだとかいろんなことを勉強していますが、一生に一度も選挙ってやったことがない。よく知っている在日の人が自嘲的に言いますが、「おれのところなんか本名で表札に書いてあるけど、運動員はおろかときには立候補者が今度の選挙では是非お願いしますってくるんだよな」、立候補者も在日朝鮮人に選挙権がないって知らないということですよ。現実にそういう実態がある。

全く選挙ができない在日コリアンなど

法務省が発表した2008年末の都道府県別と国籍別の多い順に並べてある統計を見ると、総計は2,217,426人が外国人登録をしている外国人の数です。日本では大変ポピュラーなフランスもドイツもイギリスも10位までにはなく、10位のインドよりも少ない登録数ということです。アメリカは52,638人で第6位ですが、それよりもペルーの人の方が多いですね。日本の外国人はどんどん増えていて、この間のリーマンショックで去年の年末統計は221万より減るかもしれないといわれています。ブラジル人がだいぶ帰ったといわれていますので。それにしてもどんどん増えていっています。

ブラジル人とペルー人がここにいるのはちょっと特別な意味があります。1989年に外国人管理の基本法である入管法が改正されて、そのときふたつの「隠し玉」が仕組まれたといわれています。ひとつは日系人、別の言い方をすると日本人の血の入った外国人です。これは日本で自由に働いてよろしい、なんの制限も設けない。これがひとつ。もうひとつは研修生を受け入れることです。この研修生制度は、建前は日本の技術なり技能なりを学んで、国に帰ってそれを生かしてもらう、そのための国際貢献ということでした。ところがこの研修生の資格でたくさんの外国人が日本に入国して、結果的に働いている。

本当にひどいと思います。1993年に技能実習生という正式には在留資格にないものを、悪くいうとでっち上げて、労働者と見なす。仕組みとしては研修生で、技術の勉強にきて1年たつと、簡単な試験を受けて技能実習生に身分が変わると賃金をもらって働いてよろしい。これは都合3年間、最初の1年が研修生、あとの2年が技能実習生です。厳密に言うと最初の1年は働いてはいけないんです。技能実習は在留資格がないので正確な統計が出ませんが、だいたい10万人は超えています。けっして少なくない数です。この前もテレビで、熊本で果物か野菜の栽培で中国人の研修生がたくさん働いていて、建前は技術の勉強にきているけれど、実態は低賃金労働者になっているということをやっていました。こういう人が農業とか漁業とか町工場にもいる。これがもうひとつの隠し玉です。

建前として日本は、狭い国土にたくさんの人口を抱えているから外国人の単純労働などは入れないことに今でもなっています。ところがブラジルとペルーは、国籍は外国人ですが中身はほぼ100%日系人と考えてください。愛知県ではブラジル人が79,156人となっています。8万人近いブラジル人が愛知県に居住している。静岡県は51,441人です。2万人台が岐阜とか三重になります。

何でブラジル人が東海地区に集中しているのか。人の移動はよく「プルとプッシュ」という言い方で説明されます。引っ張る力と押し出す力、ブラジルなりペルーの経済状態がよくないので海外に出稼ぎに行くという、これは押し出し要因です。引っ張るのは必要なところが引っ張るわけで、愛知県にはトヨタがあるからです。静岡はホンダ、ヤマハ、スズキです。日本が世界に誇る自動車産業、これは就労を自由化した日系人を大量に吸収している。これが実態です。日本は外国人労働者を受け入れるかどうか国民的な議論をする必要があるとか、いろいろ議論しなければいけないねとかいいながら時間がたっている。ところが実態は、もうどんどん入ってきている。

日系人の多い東海地区に現れている現象のひとつとして、ブラジル学校があちこちにできています。そのブラジル学校は全くの私塾です。戦後間もない頃できた朝鮮学校のはしりである国語講習会というのがありますが、それとほぼ似たものです。親が働きに行くために子どもを預かる保育所みたいなもの、ちょっと時間に余裕のある人が座敷なんかに囲いをつくったりする。そういう子どもが大きくなって学校に行く歳になるとポルトガル語を教えようか、あの人が免許持っているね、というかたちでそのうち小学校ができてしまう。本当に自然発生的にできています。

滋賀県にはセキスイの関係とかタカタ株式会社という自動車のシートベルトとかエアバックを作っている世界的な企業の大きな工場があります。そこにもたくさんブラジル人がいてブラジル学校があるんです。以前いったときには1階のプレハブでしたが、去年の秋いったら上にプレハブをのっけているんですね。横に階段をつけたりして。農地の片隅を借りてやっています。 親が月に3万から4万円の授業料を払っている。この授業料に消費税がかかります。学校の認可が得られていないから。

みなさんご存じのように戦後のいろいろな運動で、いまや朝鮮学校は、たとえばJRの通学定期が使えるとかスポーツ大会に参加できるとか、今年の正月の花園でやる高校ラグビー全国選手権で大阪の朝鮮高校が3位になった。その大阪朝鮮高校に、この間、橋下知事がいって、金親子の肖像を外さないと金を出さないとか言い出しています。ブラジル学校の場合にはまだ認可も出ていないから、通学定期も使えなければ、スポーツ大会も出られない。そのうち全国高校サッカー選手権は朝鮮高校とブラジル高校がやるといいんじゃないかと思うんだけどね。国技といわれる相撲でも横綱はいないし、大きく日本の社会が変わってきているんですね。そういう中で冒頭にいった政治参加、その人たちの意見をどう反映させるのかということが、やっぱり参政権ではないかなと思います。

国籍法制との関係―血統主義国籍法の欠陥

国籍法制との関係ですが、人間の国籍については世界に対立するふたつの考え方があります。ひとつは親の血統で子どもの国籍を決める血統主義の国籍法、日本などはそうです。ただ血統主義の場合は親が2人いますからどっちの血統でやるかということで、厳密に言うと父系でやるのか父母両系、どちらかが日本人なら子どもは日本人にするか、があります。1985年に女子差別撤廃条約に日本が加入したときに国籍法を変えた。だいたい日本の常識と世界の常識とは少しずつ違いますからね。女子差別撤廃条約には「この国籍取得について父母は平等である」という条文があります。だからそれは父または母の両系ということにしないと条約に入れないんですね。そうすると天皇家はどうするのか知らないけれども、いまは日本は父母両系になっている。

それ以前に国際結婚の人たちのお手伝いをしたときのことを思い出すと、外国人の男性と結婚している日本人の女性が、区役所に行って子どもの出生届を出すと国籍がないんですね、お父さんが外国人でお母さんが日本人の場合は。わたしのおなかを痛めた子どもなのに、なんでわたしの国籍がないのよといって噛みついたわけです。天皇制の国籍法ですから女性は「借り腹」だった。それがようやく父母平等になったのは国際条約のおかげといってもおかしくない。生まれたところで死ぬという生活をしていると国籍法は血統主義でも出生地主義でもいいんです。出生地主義というのはとにかく子どもが生まれたところの国籍を取る。親が何人かは関係ない。両親とも外国人でもアメリカで生まれたらアメリカの国籍を持つ。

人間が生まれたところで死ぬのであれば、国籍は血統主義だろうと出生地主義だろうと関係ないんです。ところが人が移動して生活するようになると、矛盾が出ます。日本の場合には血統主義をとっているため、たとえば在日朝鮮人は四世になろうが五世になろうが、極端に言えば十世になろうが純粋の外国人です。帰化すれば日本国籍になります。それから日本人と結婚すると、子どもは両親のどちらかが日本国籍があれば日本国籍も持つことになる。ですから日本の参政権の問題を考えるときに大事なのは、国籍法が血統主義をとっているために外国人が未来永久に再生産されていく仕組みになっていることです。

もし日本がアメリカのように出生地主義の国籍法をとっていたら、在日コリアンは韓国から来た留学生とか商社マンとか新聞記者とかそういう人だけですよ。玄界灘を超えてきた在日コリアンはもういまは本当に少ない。アメリカのシステムをとればこれは全部日本人で、日本国籍を持つんです。国籍って宿命的なものと思われがちですけれども、実は国籍はきわめて人為的なものです。もし日本が出生地主義の国籍を採れば、在日コリアンの様子は全く違ってくるわけです。

怠ってきた国籍について考えること

日本では国籍とは何かとか、国籍について考えることを非常に怠ってきた。国籍のことをあまり議論せずにずっと過ごしてきたのではないかと思います。ひとつの例として、北方領土が日本に戻ってきたらあそこに住んでいるロシア人を日本はどうするんですかね。わたしが一橋大学で授業をしているときに「領土変更と住民の国籍」みたいな切り口でやったことがあるんです。朝鮮半島は日本の植民地になったら朝鮮半島に住んでいる人は全部日本人になるとか、逆に日本から分離されると、朝鮮半島に住んでいる人は自動的に日本と関係なくなるでしょうけれど、日本に住んでいる朝鮮半島出身者はどうなるか。これらはみんな領土変更と国籍の問題です。

日本の場合は、戦後日本に残った朝鮮半島出身者を一方的に外国人にしたわけですね。北方領土の問題はいろいろ調べたけれどもデータが何にもない。しょうがないから当時総理府にあった北方領土対策室に電話しました。日本政府がどういう方針で臨んでいるかとか、レポートとか何かないですかと聞いたら、特に何もありませんと言うんですね。だから学生に北方領土の住民の国籍については何の検討もしていないのが担当部局の答えだといいました。香港が中国に返還されたときに中国は一国二制度をとっています。協定を見ると向こう50年間 、返還が1997年ですが基本的に現状を維持する。50年間といったら日本が台湾を植民地化した期間ですね。これは笑い話で、中国本土の人が香港に行くのはすごく難しいんです。われわれが香港に行くのはすごく簡単です。香港は中国の一部のはずですが、制度の違いによっていろいろと予想外の困難があるようです。

北方領土の住民の国籍問題を考えると、結局理論的には3つしか方法はないですね。ひとつは日本が台湾、朝鮮を植民地化したときと同じように、「はい、今日から北方領土は日本の領土。従ってそこに乗っかっている人は全部日本人」。これは昔やったことですね。その代わり「何とかスキー」は困るから、北島とか北方とか一郎、三郎とか名前を変えてもらう。そういうことをやったわけです。それから領土はいただくけれども、そこに住んでいるロシア人は外国人だ。これは戦後日本に残った約60万人の在日朝鮮人と同じですね。それまでは帝国臣民で、ある日突然外国人になるわけです。これと同じですね。ロシア人は突然外国人になる。外国人登録しろとかいろいろなことがでてくる。選挙はもちろんさせないとか。もうひとつは国籍の選択ということもあり得るんですね。日本の国籍にするかロシアの国籍にするかということです。

学者やジャーナリストとかいろいろいますけれど、北方領土の住民の処遇問題について全く議論がありません。歴史に何も学んでいない。竹島と尖閣列島には人が住んでいません。国籍とは何かとか、そういうことを全く考えてこなかったことの証明です。ビザなし渡航という協定が日本とロシアの間にあって、入国ビザをとらなくても日本人が北方領土を訪問できます。訪問記事で同行記者の取材なんていうのがあるんですが、わたしがもし新聞記者だったらロシア人をつかまえて、北方領土が日本に返還されたらあなたは自分の国籍がどうあって欲しいのかと聞いてみたいですね。選択するのがいいのかとか、そういう発想が全くないんです。これは歴史に学んでいない。国籍とはなにかということを全く考えていないことではないかと思います。

在日コリアンの日本国籍喪失

日本が独立を回復した日、1952年4月28日です。日本の戦後史で最も重要な日を1日だけ選べといわれたら、わたしは迷うことなくこの日を選びたいと思います。この日にGHQはいなくなる。それから沖縄の人はこの日は絶対に忘れないですね。この日を境に本土は独立をし、沖縄はアメリカの施政権下に取り残される。昭和天皇は沖縄には気の毒だけど仕方がないねと言ったとか言わないとかいう話がありますけれども、要するに沖縄を切り捨てた日です。

旧植民地出身者にとっては、この日を限りに名実ともに外国人になりました。外国人になって何が待っていたかというと、この日に公布され今も使われている外国人登録法があります。何が出てきたか。「はい、指紋の登録をしなさい」。それまでは指紋押捺制度ってなかった。この独立を回復した日につくられた法律で、初めて指紋押捺義務が出てくるわけです。その2日後の4月30日にできた法律が戦傷病者戦没者遺族等援護法、簡単に言えば戦争でけがをしたり死んだ人に国が補償する法律です。ところがこれにはご丁寧に国籍条項があって、朝鮮人や台湾人は戦死しようが怪我をしようが一切国家補償はしない。なぜなら彼らはもう外国人だから。この法律で面倒を見るのは日本国民だけ。

講和条約が発効したときに、いまサンシャイン60になっているところに巣鴨プリズンという戦犯を入れる刑務所がありました。900何人の戦犯が入っていて、米軍が管理していた。ところが日本が独立すると、日本が管理するようになります。そのことに関連して、平和条約には戦争犯罪人として裁かれた人は従前通り刑に服する義務を日本政府は負うとある。それまではアメリカがやっていたからよかったけれど、日本に返すと日本でどうにでもなるので、ちゃんと引き続いてやるようにということです。刑に服している日本国民は引き続きその刑を執行すること、と条文に書いてあります。

台湾人と朝鮮人で戦犯として刑務所に入れられた人たちがいて、条約には日本国民、「Japanese national」と書いてある。その人たちが、もうおれたちは外国人になったんだから、少なくとも日本政府によって刑務所に入れられる筋はない、といって釈放請求裁判を起こしたんです。人身保護請求という手続きでした。人身保護請求というのは非常に珍しい法律で、時と場合によってはいきなり最高裁判決が出る。提訴は東京地裁ですが、いきなり最高裁の判決が大法廷で出て、戦犯として刑に処せられたとき日本国民でありその後日本国民であるものは、日本国籍がなくなっても刑に服する義務は残る。だから釈放しないという結論を出したんです。

おかしいでしょ。戦後補償の援護法で国家補償が出るようになったときに外国人はだめっていうのに、刑に服するときには国籍が変わっても関係ない。国家補償は国籍がなくなったらしない。両方とも日本の裁判所の判決です。むちゃくちゃですよね。これが日本国籍がなくなったことにともなう効果、影響の一端です。

西ドイツの国籍選択

かつての日本の同盟国であったドイツ、当時は東西に分断されていました。西ドイツでは1956年に旧植民地出身者の国籍に関する特別な法律をつくりました。ドイツはお隣のオーストリアを併合します。地球上からなくすんですね、朝鮮半島が地球上からなくなったのと同じです。ところがドイツが戦争に負けた結果、オーストリアが復活する。日本が戦争に負けた結果、朝鮮がまた蘇ったように。ドイツでは、ナチスドイツがオーストリアに付与したドイツ国籍は全部消滅すると法律に書いてあります。ただし西ドイツに住んでいるオーストリア人、在日朝鮮人に該当しますが、この人たちは自己の意思を表明することによってドイツ国籍を回復する権利を有すると法律に書いてあるんです。

ですからドイツに住んでるんだからドイツの国籍を持っている方がいいと思ったら、届け出をすればドイツ国籍が与えられる。新しく生まれ変わったオーストリア人としていくか、今住んでいるドイツの国民としていくか、それはオーストリア人が決めてくださいということなんですね。日本は、「はい、今日からおまえは外国人」、日本国籍が欲しい人は帰化を申請することになります。帰化の申請というのは決定権を日本政府が握っています。あなたの素行はどうですかとかね。ドイツの場合には決定権はオーストリア人が握っていて、ドイツはその通りにする。日本と全く逆ですね。

参政権の問題でもよく帰化すればいいという。それはドイツのように選択させておけば、まだ論理的には説得性があるとは思います。でも在日の人が外国人になったのはいつ、だれが、どうしたのか。これは全部日本側が勝手にやったんです。それで具合が悪くなるとあなたいつまで外国人をやっているの、という話になるわけでしょ。それはないだろうと思うんです。この帰化すればいいという議論はいろいろなところで出てきます。指紋押捺の問題のときにも、大阪府警外事課長の富田五郎というのが、指紋を押すのがいやなら国に帰るか帰化すればいいとテレビのインタビューでしゃべった有名な話があります。

帰化すればいいということは簡単に言えば、日本の側には何の問題もない、帰化しない外国人の側に問題があるということです。指紋がいやなら帰化すればいいんだから、帰化しないでがんばって指紋を四の五の言っているのがおかしいんで、日本側には何の問題もないということです。そういうことがいっぱいあるわけです。参政権もしかりです。

韓国の日韓文書公開で判明した協定案

戦後、日韓会談は10年以上もかかって1965年に日韓基本条約が結ばれました。その後韓国は日韓会談の文書の公開に踏み切りました。韓国側で請求権を巡る戦後補償の運動等によって、日韓会談で解決済みとかいうから日韓会談の記録を全部出せ、といって裁判を起こした。そうしたら一審で部分的に解除を認めた。さらに争っているうちに当時の盧武鉉大統領が、政治決断をして韓国側は全部開示しました。日本は、北朝鮮との関係があるので、とかいって開示していません。わたしも少しお手伝いして裁判をやっていますが、日本は全然だめですね。

韓国側が開示した文書をよく調べてみたら「在日韓僑の国籍に関する協定案」がちゃんとある。これはふたつ協定案があって、ひとつは全面的に韓国国籍を復活させる協定、もうひとつは国籍選択をする場合の協定です。ここはいろいろなことが明らかになっていませんが、おそらく日本側が選択を認めないでおじゃんになったことが推測されます。

在日の参政権問題を考えるときには、どうしても日本の国籍法がどういう状態なのかを合わせて考えることが必要です。逆の言い方をすると、今後の日本社会のあり方をどうするかというときに、ひとつのアイディアとしてはアメリカのように国籍法を出生地主義に変える、日本で生まれた人には全部日本国籍を認める。そうすると参政権の問題は一世だけです。二世はもう外国人じゃないから。そうなるとずいぶん状況が変わって、全く選挙をしたことがないのは一世だけになります。そういう問題を考える必要がある。けれども国籍とは何か、国籍法をどうするかという議論を誰もしないんですよね。

国政参政権と地方参政権の区別

参政権は選挙の権利だから外国人も平等に扱え、というけれども選挙権はいくら何でも無理じゃないの、という雰囲気は何となくあると思うんですね。でもちょっと冷静に考えると、地方参政権と国政参政権は区別する必要がある。これは何もわたしが珍説を唱えているんじゃなくて、現在の日本の公職選挙法がそうなっています。日本では2000年から、海外で生活している人も選挙ができるようになりました。ただし衆議院と参議院だけです。なぜか。外国で生活している人は日本の「国民」ですが、日本の「住民」ではないんです。1月1日に住所があるところで住民税や所得税が取られるわけですから、住民ではありません。そうすると、在日外国人は日本の国民ではありませんが住民ではあるわけです。ですから地方参政権を在日外国人が持つことは論理的には十分成り立ちます。

国会図書館が議員に資料として提供をしたもので、OECD加盟国30国にロシアを入れて外国人参政権と二重国籍の状況についてつくった表があります。二重国籍についてわざわざ書いているところがおもしろいですね。その国の国籍法、あるいは二重国籍を認めるかどうかでずいぶん違ってきますから。○△×になっていて○は一般的に外国人に権利を認める、永住とか居住期間とか国によって違いますが。△は基本的に相互主義、相手の国で自国民の地方参政権が認められるなら、こちらの国でも認めましょうということです。これはEUではマーストリヒト条約でEUの域内であれば認められる。たとえばドイツに住んでいるフランス人が地方選挙はドイツでする、国政選挙は大使館とか郵便投票で投票する。そういうかたちで相互に認めることです。

ベルギーは地方選挙権が○になっています。選挙権も立候補する権利と投票する権利とふたつありますが、とりあえず投票する権利が一番一般化しています。ベルギーでは日本人でも投票できる。ただし立候補は△だからだめです。これを地方選挙の方で見ていくと×は残念ながら日本だけです。いわゆるG8も全部、表に入っていますが、G8のアングルから見てもOECDのアングルから見ても、日本だけが全く地方参政権を認めていない唯一の国になっています。ここでも国政と地方は、かなり区別して考える必要があることを示していると思います。

最高裁判決の認識と「国民」という言葉

最高裁の判例の問題があります。産経新聞の2010年2月20日の社説では、冒頭に「永住外国人の地方参政権(選挙権)付与を巡り、『憲法上、禁止されていない』との判断を示した最高裁の元判事、園部逸男氏は」とあって「問題の最高裁判決は平成7年2月に出された。本論で外国人参政権を否定しながら、主文と関係のない傍論部分で『国の立法政策に委ねられている』」、となっています。こういう判断は1995年に出されていて、これもわたしにいわせれば、国政選挙と地方選挙の区別を前提にしているわけです。憲法上禁止されているわけではなくて、立法政策、国会で法律をどうするのか、公職選挙法を改正するのか、あるいは単独法で永住外国人地方選挙権付与法案みたいなものを出すのかは国会の仕事であるということになって、はっきり区別をしている。

わたしの「世界」の論文から引用すると「日本国の憲法は、参政権に関連して2つの条文を有する。すなわち第15条『公務員を選出し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である』、及び第93条②『地方公共団体の長、その議会の議員及び法律で定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する』である」。 「住民」となっているんですね。この93条があるから、海外に住んでいる人は住民ではないので地方選挙はたぶんできないと考えるのが一番合理的なのではないかと思います。

憲法15条にある「国民固有の権利」の英訳を見ると、「譲り渡すことのできない権利」inalienable right となっています。これは憲法学者に聞いたんですが、この訳は「国民から奪うことができない権利」という意味で、「国民固有」という言葉から外国人を排除するという訳は適当ではないだろうということでした。 国民という言葉はこの国ではなかなかくせ者なんですね。日本の憲法はあけてもくれても「国民」です。たとえば14条「すべて国民は、法の下に平等であって、~」とか、25条「すべて国民は、健康で文化的な~」とか、26条「すべて国民は、法律の定めるところにより~」、全部国民なんです。

ところが英訳の憲法でみると、この国民の部分は全部「people」なんです。 これは、どうですかね、わたしもあんまり自信はないけれども、「people」という単語が外国人を除く意味を持つのかなと思うんですよね。ついでにいうと憲法30条には「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」と書いてある。これは「国民」だからこの国では外国人には納税の義務がないというようにはならないんですよ、これは非常に不思議なんですね。憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」これに関連して昔調べてびっくりしたんです。1954年、建設省の公営住宅に外国人が入れるかどうかという地方からの問い合わせに対する回答文があって、それは「公営住宅は憲法25条に定める最低限度の文化的生活を営む権利を実現するためのひとつである。この最低限度の文化的生活を営む権利はただ国民のみが持つものなので公営住宅に外国人が入居する資格はない」ということだった。だいたい全部そうなるんですね。

しかし税金に関して調べてみると、大蔵省の役人は頭がいいですね。税金に関する法律には絶対「国民」は出てこない。「居住者」って出てくるんです。国籍は問わないんです。住んでいる人から税金を取る。その取った税金は外国人にはなかなか出さない。公営住宅には入れない、国民年金もだめ、児童手当もだめ、住宅金融公庫もだめだったわけです、ずっと。大きく変わるのはベトナム難民を受け入れるようになってからです。国際的な物差しが日本に当てられるとあちこち変わるわけです。ベトナム難民が来てくれたからよかったけど、もし来なかったらこの国は税金だけ平等に取って、社会保障は全部外国人を切ったことになるわけですよ。だから国民というのは怖いんですよね、この国では。

参政権についても、国民固有の権利だから外国人はとんでもないというわけですよね。その人たちは「じゃあ外国人は納税義務がないんですね」といったらどう言うんですかね。だから国民という言葉はもうちょっと考える必要がある。国民年金法なんかも、以前は外国人を排除する法律だから国民年金法なんですよ。いまは外国人も強制加入ですから、住民年金法と法律名を変えたらいい。この国では国民とか住民とか勝手に使うんですね。住民基本台帳法の実態は国民基本台帳法です。住民基本台帳法は外国人には適用しないと書いてある。不動産屋では外国人を閉め出すときの暗号があるんですね。不動産物件の値段なんかが書いてある端っこに「要住民票」と書く。住民票は外国人はありませんから、外国人はだめという意味なんです。大阪でだいぶ市民運動でたたいたから、今はもうないと思うんですけれども、国民とか住民という言葉は使い分けられている実態があります。

選挙権と被選挙権

さて具体的な参政権問題をどうするか。細かい問題があまりきちんと議論されていないけれど、参政権の中には投票する権利と立候補する権利とあります。外国人参政権を日本の政党で最初に問題提起したのは新党さきがけです。これは選挙権も被選挙権も認め5年以上日本に住んでいる外国人、相当広い範囲に参政権を認める要綱を出したんですが、法案提出に至らないうちに新党さきがけそのものがどこかにいっちゃったんですね。いままで7つ法案が出ています。

まず1998年10月に出たA案は、永住権を持つ外国人に認める、しかもこれは投票権だけ。共産党が1998年12月に出したB案は、A案に加えて被選挙権も付与ですから立候補の権利も認める。それからC案は、A案のときは公明党は明改という名前で民主党と野党として共同提案しました。ところが1999年に公明党が与党入りして出してきたのがC案です。地方参政権を実現するというのは政権協定の中に入っていたんですが、やっぱり自民党がうんと言わない。そこで自由党、このときは小沢じゃなかったかと思うんですが、と公明党の議員だけで2000年1月にC案を出します。ところがC案とA案とは「朝鮮籍を除く」となっている。法律上の文言は「外国人登録の国籍の記載が国名によるものに限る」ということで、朝鮮は国名じゃないんですね。

2000年7月に出たD案になるともう1回A案に戻って、朝鮮籍条項のない永住者となります。野党の民主党も同じものを出します(E案)。このときはわたしも呼ばれましたが、参考人質疑までやっています。二つの法案が出ていますから同時に審議して、だいたい参考人質疑をやると採決の前のアリバイ作りみたいなものですが、このころからものすごい反対が出てきて、産経が論陣を張ったのを覚えています。それから櫻井よしこさんが外国人に参政権を認めると日本が滅びるとか言って急に金切り声を上げだして、結局参考人質疑まで終わったけれど、ついに採決ができないで流れちゃった。

2004年2月に出たF案はC案と同じです。最後の2005年10月に出たG案。このときは公明党単独で、与党ではあるけれども、公明党はずっとこのことを言ってきたのでメンツ上いつも法案だけぶら下げるんです。公明党の議員とも時々話していましたけれども、何とか通したいんでできるだけハードルを下げていくと言っていました。最後のG案は相互主義なんですね。相手国が日本人に地方参政権を認めるところは日本でも地方参政権を認めるという、最も狭くしたものです。

直接請求権

直接請求権、委員就任資格、これはA案などに出ています。自治体は、国と違って住民が国では考えられないいろいろな権利を持っているんですね。首長をクビにするには一定の要件を満たせばできるわけです。議会を解散しろとか、こういう条例をつくれといって直接請求するとか、現にある条例を改めることを請求するとか。通るか通らないかは別ですが、残念ながら国会にはわれわれが法案を作って出すことはできないんですね。それから国会の解散も総理大臣を辞めさせることもできません。ところが自治体ではそういう権限を住民が持っているので、永住外国人にはそういうものも認めようということです。

それから人権擁護委員、民生委員、児童員。これは「市町村議会議員の選挙権を有する者」から任命すると法律に書いてある。そうすると永住外国人が「市町村議会議員の選挙権」を得ますから、永住外国人が人権擁護委員とか民生委員になれることになります。そういうものがつくられたこともあるんですが、一番新しいG案はそういうものは全部やめて範囲も相互主義に絞って非常に後退してきている。

今国会、民主党が政権を取ってどうなるかは結局よくわからないんです。民主党の中に永住外国人法的地位向上推進議員連盟というのがあって、会長が岡田克也で、2008年5月に提言をまとめました。ここに朝鮮籍除外を書いています。一応岡田克也のこのグループは参政権を推進する側ですが、この提言の中で「外交関係すらない国の国籍の永住者をもその対象者とすることには、根強い慎重論がある」とかなんとか言っている。今の政府がどっち向いているのかわからないし、鳩山総理も何を考えているのかよくわからないんですが、民主党が出した一番新しい法案は2000年で、この提言はずいぶん後にまとめていますから、もし民主党が法案を出すとするとこれが出てくる可能性がある。

日韓の比較からみえてくるもの――参政権

韓国はさきほどのOECDの資料でいうと地方参政権の選挙権が○、被選挙権が×で、すでに地方参政権を解放して投票もおこなわれました。2005年に法改正をして、2006年の統一地方選挙で投票をしましたので、日本より一歩先を行ったということです。わたしの関係している市民運動の「日・韓・在日地方参政権を実現するネットワーク」で、日韓両方でやっていきましょうと、亡くなってしまった金敬得弁護士の思いも託してやってきたわけです。ところが韓国についに先を越されました。なんで韓国でできたんだろうかという素朴な疑問を抱かざるを得ません。

2005年6月に法改正がされ、11月くらいに韓国大使館からウリ党党首が日本に来ていろいろな関係者と懇談をする朝食会を持ちたいので来てくれといわれて、朝早くホテルニューオータニだったかに行きました。よくテレビに出てくるそうそうたる人が来ての朝食会の雑談なので、話題提供のような雰囲気なんですね。わたしは在日コリアンの無年金問題と地方参政権のことを市民運動として取り組んでいるものですと話した。そのウリ党の党首は無年金の話は初めて聞いたなあとかいって、地方参政権については、韓国は日本よりもナショナリズムが強い、非常に排外的な体質の国なので今度思い切って地方参政権を解放した。さらに、昨日会った武部幹事長と町村外務大臣に同じようなことを言っておいたけれど、おれが言った意味が彼らにちゃんとわかったかなと言っていましたよ。

法改正前の2004年に、地方参政権についてのシンポジウムを韓国の学者や日本からも参加してソウルでやりました。韓国側にも働きかけようと、最左派で10人くらいしか議員がいない民主労働党というところの若い議員に、たまたまわたしが行って話をしました。その議員は、この国は戦後華僑を差別、冷遇してきた。本当の民主主義をこの国に確立するためには、外国人の人権をきちんと保証する国にならなければいけない。外国人の地方参政権解放はその象徴的なテーマなので、是非実現させたいとわれわれは思っていると言うんですね。韓国はそういう意識でやっている。

それで韓国のこととを調べたんです。自国民の在外投票、海外の自国民の国政参政権の問題と、国内に住んでいる外国人に地方参政権を認めるかどうかというのは裏表の関係だと思います。ソウルに住んで永住権を持っている日本人は、衆議院、参議院の選挙は大使館なり領事館に行って投票すればいい。それからソウル市長選挙のときはソウルで投票すればいい、ソウルの住民ですから。これは非常に合理的なんですね。

韓国でも海外に暮らしていると全く選挙できないのはおかしいということで、韓国では憲法裁判所があってそこで審議をして2007年に憲法不適合判決が出ます。憲法違反という判決が出ると即効力が生じるらしくて、一定の期間内に憲法に合うように法律を直すことを裁判所が判断した。それで韓国では昨年法改正がおこなわれ、2012年の大統領選挙と国会議員選挙から在日韓国人はようやく投票できることになる。

韓国に住んでいる外国人は2005年に法改正が行われて、2006年に実施している。日本の場合は在外投票の方はもうやっています。細かくいうと選挙区と比例区があって、初め選挙区はだめでしたが、これは最高裁で違憲判決が出て選挙区もOKになった。こうやってみると日本人の在外投票はさっさとやるけれど、国内の外国人はほったらかし。韓国の方は国内の外国人を先にやって、自国民はあと回しになっている、結果的に。

日韓の比較からみえてくるもの――外国人政策

さきほど研修生のことをいいましたけれども、韓国もほとんど日本と同じ制度でやっていたんです。いろいろな問題が出てきた。韓国は国家人権委員会法が2001年にできています。これは国連から勧告された人権問題とか差別問題を扱う特別の国内人権機関をつくるべきだということで、日本でも人権保護法案をそのつもりで出しましたが、これは2002年に出して2003年の解散で廃案になって、もう跡形もない。韓国では国家人権委員会ができていろいろ仕事をしている中に、研修生問題を調査したんですね。

調査で明らかになったことは、研修生の実態は単純労働者である。したがって研修制度はやめて正面から外国人を雇う制度をつくるべきだということになった。雇用許可制といいます。大枠でいうとこういうやり方ですね。企業が求人を出す、一定期間求人を出しても人が集まらない、そうすると政府に、国内では採用できないので外国人を雇いたいと申請する。政府が雇用許可を出す。政府は15カ国くらいと外国人労働者を受け入れる協定を結んでいます。その国に出先機関をつくって、言葉の初歩的な訓練や、こういう職種なら韓国で働けるという人がリストアップされていて、それを企業が申し込んで契約が成立すれば来る。そのときに守らなければいけない賃金なども全部法律で決めてある。
わたしが関係している自由人権協会でやった「韓国の外国人政策に学べ」というシンポジウムの記録に、外国人雇用許可法全文の訳が入っています。それから外国人に関する基本法が、これは統合政策いわゆるインテグレーションをすすめるときに必要だということで、日本にはないんですが、韓国には在韓外国人処遇基本法があって、外国人と韓国人が協力してどういう社会をつくることが必要なのかということを考えている。法律ができたからどうだということはないかもしれませんが、国務総理を長とする外国人政策委員会で重要なことを決めることになっています。

韓国には2008年に成立した他文化家族支援法があります。実は韓国は日本より国際結婚率が高いといわれています。日本はいま婚姻届の中で全国平均7%くらいで、韓国は12%くらいです。農山村の花嫁というかたちで、中国の朝鮮族とかベトナム、フィリピン、タイなどからたくさん来ている。いろいろな問題があるようです。そこで他文化家族基本法をつくり、他文化家族支援センターという拠点をつくっているみたいです。実態はよくわかりませんが、とにかくいろいろなことでチャレンジしています、韓国は。その中のひとつが、外国人に対する地方参政権の解放なんですね。

国際人権B規約というのがあって、これは個人通報制度です。人権被害を受けていて国内で裁判やったけれども負けてしまってらちがあかない。どうしても納得できないとき国連に通報すると、国連の委員会で審査をして結論を出してくれるんですね。これは法的な拘束力はないけれども。でも日本はそういうことができないようになっているんです。選択議定書を批准すればその道が開かれます。それを千葉さんがやると言って、この選択議定書とか夫婦別姓とかいくつかありますけれども、どれもだんだん怪しくなっている。韓国はすでに個人通報制度はやっています。韓国の最終審で負けても、国連が査察をしてやっぱりこれはおかしいということが出ることがあるんですね。日本でどうしてやらないのと聞いたら、そんなことをやったら日本の裁判所の権威が落ちるといった人がいました。なんとも情けないというのか。

地方参政権の問題は、ただ地方参政権だけの問題ではなくて やっぱり国のかたちをどうするかということで、読売新聞の社説でも「国の基本を歪めるな」とかいっていますが、わたしは「世界」の論文の最後に「逆の意味で国家の基本を変える」と書きました。要するに外国人と共存しておかないと、2005年から日本の人口は減っているわけです。わたしは70を超した年寄りですが、わたしが生まれた年の出生率は4.37です。ですから海外に移民で送り出す。最後は広田弘毅内閣がやった百万戸、五百万人満州移住計画です。外に持って行かなければどうにもならなかった。ところが今は1.3でしょ。親がふたりいて子どもは1.3人しか生まれないんですから人口は減っていくわけです。

日本が世界に誇る自動車産業の下請け、孫請けを実は日系人が支えている。わたしもそのうちに介護の世話を受けなきゃいけないけど、たぶん日本人ではなくて外国人にやってもらわないと間に合わないんじゃないかなという雰囲気ですよね。外国人との間にいろいろなトラブルがあると思いますが、そのためにどういう知恵を絞って、どういうソフトランディングをするのか。ロサンゼルスでは人種暴動とかトラブルはいろいろあります。そういうことを起こさないために、どういうかたちで新しい社会のシステムをつくっていくのか。そういうことをやらなきゃいけないのに、島を乗っ取られるとか、どうなっているんだろうと思うんですね。

李大統領演説「百万の外国人住民の皆さん」

最後ですが、これは聞いてびっくりしました。韓国大統領のもっとも広く世間から注目される演説は解放記念日の演説だそうす。李明博大統領の昨年8月15日の演説では、冒頭はこうです。「尊敬する国民の民さん、愛する北の同胞と700万在外同胞の皆さん、国家功労者と内外の貴賓、そして100万の外国人住民の皆さん」。「友愛」を説く我が首相が「200万外国人労働者の皆さん」といってみたらいいんじゃないかと思うんだけどね。民団新聞に全訳が載っていました。ソウルに特派員のいない大手の新聞社なんてないわけで、この演説で「外国人住民の皆さん」に触れたことは、まったく日本で報道されないでしょ。日本のジャーナリストもどうにもならんですね。状況は変わってきていて、日本の今後を考えるときに地方参政権の問題はシンボリックな問題ではないかと思います。

最近、産経新聞が凝っているのが長尾一紘さんという中央大学教授で憲法学者らしいんです。本当かなと思うけれど、これおもしろいんですね。自分が間違ったといって、何で考え方が変わったのかというインタビューを読んでみると、「許容説から禁止説に主張を変えたのはいつか」という質問に対して「民主党が衆院選で大勝した昨年8月から」と言うんですね。自民党が勝っていたらまた変わるのかね、この人は。産経的な吹聴だろうけれども「鳩山政権の理論的支柱が方針を変えた」と鬼の首を取ったように書いています。それから園部元最高裁判事の「最高裁判決に政治的配慮があった」というこのふたつをのせて、園部さんと長尾さんがひっくり返ったから付与の法的根拠が崩れたと、社説でとどめを刺すというつくりになっています。

ただ、最高裁の判決についても、これも産経しか書いていませんが、民主党になってから内閣法制局長官に国会答弁をさせないようにしているらしくて、枝野幸男さんがそれやることになっています。問題の園部さんの、立法政策の問題だという傍論、付言の部分、特に政治的な配慮があったということに対して、さすがに枝野さんはそれには乗らないで、ちゃんとあの付言は付言で意味があると言っています。ただ今後の日本の問題を考えるときにどうしても地方参政権をクリアできるかできないかというのは重要な意味を持ってくると思います。

お隣の韓国って意外に日本と似ているところがあるんですね。人口は5000万人をちょっと切っているようですけれども、日本が1億人ちょっとですね。外国人は日本で200万人、韓国が100万人。日系人に近いのが韓国の中国朝鮮族なんです。中国の国籍を持っているから外国人ですね。でも彼らは朝鮮民族の血を引いているわけで、韓国で他の外国人よりも特別に就労などについて便宜がはかられています。何でこんなに韓国は変わるんでしょうかと聞いたら、ある大学の先生がこういう説明をしたんですね。アジアの通貨危機のときにIMFの管理下に入ったことがありました。これがものすごく屈辱的だったらしいんですね。あれを経験して以降、一般の国民も政治家も官僚もジャーナリストも、とにかく世界に通用する国をつくらなきゃ駄目だという意識が強い。その意識がこういうものを生み出していいるという説明をしてくれたが人がいます。

当たっているかどうかわかりませんが、とにかくいろいろなことで動いている。地方参政権もいよいよ民主党政権で、小沢もやるといっているからできるんじゃないかとか、そういう危機感が出てきたから右バネが動き出したということも事実でしょう。参政権の問題は、単に選挙ができるかできないかという問題ではなくて、外国人政策とか外国人との共存をどういうかたちでシステムとしてつくっていくのかということだと思います。このことは真剣に取り組むべき課題じゃないかなと考えています。

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「九条」署名3万筆に

箕輪喜作

また続けているうちに私の「九条」署名が2月18日に3万になり、28日の現在30200である。2万になったのは昨年の5月4日で以来、月平均1,000筆ということで自分ながら驚いている。さらに細かく言うと2009年の1月が352、2月が369、2010年の1月が604、2月が556、昨年の冬より今年は東京も2年ぶりの雪が降るなど寒く、1月から2月にかけて風邪も引いたり、胃や腸などいろいろと検査もあって署名の日数は少なかったのに、これだけの数をいただけたということは今、世の中を見ると、諸運動も大変ななようだが、やはり底辺では一人一人の自覚が高まってきているからだと思う。

●「九条」署名3万と言えばバス停の人らざわめき拍手もありき
2万は公園のバーベキュー広場であったが、この時は自動車試験場前のバス停で、正確に言うとこの日の署名は3万と19筆で3万目は西東京市の青年であった。

さて05年に始めた署名も振り返ってみれば4年と2カ月になる。
●誰も居ぬバーベキュー広場に腰下ろししみじみと思う署名の4年
●人間も行動によりては不屈にもなれるを知れり80になりて
●一つ一つの山越えしときひらめきの出ずるも知れり行動すれば

たしかに淡々とした自然体でやってきたのだったが、一つの節目を迎える時にはこんな歌もあった。そして思い出すのは、今の自動車試験場前に移るまでは二つの公園をてくてくと足で廻り、バス停と違って時間に制約される人たちでないので、その人によっては署名はあちらにおいて半日近くも聞き役になったこともあった。病気になり求職中の青年、リストラされた人、またあと3カ月で教会の牧師になれるのだが迷いが出て決心がつかずどうしたらよいか相談を持ちかけられた人もいた。

●ぶっ殺すぞ会えば言いたるあの男足引きずりしがその後は会わず

それから相談ではなく、会うたびにぶっ殺すぞと怒鳴られ一度は署名板を取り上げられた男、最後に会ったのは2年前で相変わらずのはったりだったが、病気なのか、かなり足を引きずっていたのでその後どうなったのか思い出すのである。
私はどうしてこんなに人が好きなのだろうか。以前にも書いたことがあるが。

●いつしかに「九条」守るとわが署名慈母観音のごと言うも出でたり
さて、政権は変わったとはいえ、鳩山首相は先日も改憲に言及するなど、憲法を取り巻く状況は変わっておらず、また最近始まったNHKの「坂の上の雲」なども問題になっており、まず一人一人が自分のできることから多くの人に訴え広げてゆくことだと思います。

それから北朝鮮問題などひと頃より署名していても出てこなくなったが、やはり根強いものがあり、最近かもがわ出版から出た蓮池透さんの2冊の本「拉致-左右の垣根を越えた闘いへ」などを読むことも大切だと思います。

それから先日NHKで「権力の懐に飛び込んだ湯浅誠の100日間の闘い」と題して放送されたが、見ていて閣僚や官僚の発言など怒りの湧いてくるものが多いものでした。

ここ小金井でも12月に入ってから私の近くで車の中での練炭自殺、また多摩霊園でも自殺者があったと聞いております。そして私自身ですが、歳末の31日と元日にも頭を抱えたホームレスの青年が公園のベンチにいて派遣村のことを話し、自分の食うものも着るものもなかった戦後をどう生きてきたか、人生というものは山あり谷ありでどんなことがあっても生き抜くことだと強く強く話し、決して変な心だけは起こさないようにと再度派遣村のことを話し、うなずいていたが・・・。

その後、このことについて幾つかのところに電話をしてみたが、私自身はもう80歳、何をするにもはがゆいばかりで、まさに憲法9条と25条はひとつで自分でできる何かをと思った。私の今署名している目の前の多摩霊園に入ると昭和の初期に活躍した救世軍の顕彰碑などがあるが、あの時のように戦争への道には絶対に進んではならないと思うのである。

さて、暗い話ばかり書いてきたが、一つの明るい方向として、私に希望を与えてくれた2010年1月23日の朝日の夕刊の記事の山形で3,000人もの教師が集まって開かれた全国教研集会のことである。
まず引用すると、出口が見えない不況、正社員にもなれない時代。そんな中でどうやって自分を守っていけばいいのか―。こんな「現実直視」の授業を中学校で展開する教員が出始めた。行く手は厳しいが教え子たちになんとか身を立ててほしいと思うからだと。―略―。

そういうことにつながるのかどうか最近年金者組合のニュースのコラムに次のような一文を書いた。
署名などしていると、とかく自分のほうで話しかけることが多いのだが、それが最近少し変わってきたように思う。先日近づいてきた5名の中学生が次々と自分のほうから私に質問し、2・26事件まで飛び出した。また、20歳くらいの女性2人が同様に質問してきて、インパール作戦は、そして大杉栄を虐殺した甘粕を知っているか等々、実に近代史をかなり詳しく知っているのに驚く。そんな中で2月18日についに署名が30.000を超えた。西東京市のあなたが3万目ですよと言ったら、改めて9条を読ませてくださいと言い、頬を紅潮させて読み終わり、バスに乗ってからも私に手を振っていた。まだ静かにではあるが、若者の間が少しづつ変わってゆくことを感じるこの頃である―。

さて最後に今までに何回も書いてきたことではあるが、今回もこれにつながる今は亡き私の友人教師の、当時もう40年以上も前だが全国教研集会で報告したもので、時代は違い、内容は違うとしても共通する何かがあると私には思えるので、その前書きだけでも紹介しておきたい。

報告者の高橋昭さんは南魚沼郡藪神中学校の教師で生活記録運動は全国的に注目されたもので、その高橋さんが2時間もバイクをとばして私のところに来てくれ、私の村の青年たちと自分の教え子たちの活動をまとめたものである。

1.農村労働組合は青年に明るい展望をもたせた。(前書き)
昭和30年前後は、全国的にも、そして私がこれから報告しようとする、新潟県の魚沼、東頚城(いずれも山村)地域でも、青年運動の高揚期であった。たとえばここに、その頃(昭和29年)ガリ版で発行された〝出稼ぎ〟という詩集がある。東頸城郡松代町伊沢のサークル〝新しい村〟で作ったもので、出稼ぎの悲哀を感傷的にうたった33篇の詩がおさめてある。その中には、多くの青年たちに混じって、小学6年の柳幸雄の詩がある。

でかせぎ
柳幸雄(小6)
おれの家は子供がげだから(多いから)とつつあ   がでかせぎに出ろうと考えても出られない。
冬は雪はたくさんふる。
その中で子どもをおいて
でかせぎに出ろうと思っても
でられない話ではないか
それに子どもが一番上がおれなのだ
家の人は早く学校を上がってくれと
首を長くしてまっているのだ
おれが早く学校を卒業して
家のてつだいしよう
そういうようになれば
とっつあだって東京に出稼ぎに行けるのだ
とっつあ
それまでがまんしてまっていてくれ
おれも、とっつあが
出稼ぎに行くのを待っているのだ

この詩を書いてから10年たった。その10年に、農村はずいぶん変わったが、当時小学校6年生の柳少年はどうなったろうか。むろん彼も変わった。彼は現在24歳。自分たちで作った松代町伊沢農村労働組合(60名)の書記長である。「農民は、たたかいを通じて、農民の苦しみが運命やどうにもならないものではなく、たたかいによって道が切り開かれることを知った。」「私は農家の結婚を少しも悲観的に見ていない。出稼地の都会からすてきな娘さんを必ず見つけてきてみせる。」と、農村の未来に確信を持ち、きわめて楽天的である。

このように、暗いといわれる農村に、明るい展望と強い確信を持たせた農村労働組合と青年との関係、さらにそこにすむ教師とのかかわりあいを、10年の歴史の中から探り出し、昭和30年代に次ぐ、第2の青年運動の高揚期が来つつあるのではないかと考え、あらためて教師の役割を重視したいというのが、これからの私の主な報告内容である。

やがてこの報告は学園3代、県教育委員の歩みと題して1966年1月22日の新潟日報にも紹介されている。
そして当時こんな歌が私の学校の音楽室から流れていた。

父ちゃんの歌
地炉端囲んで夜なべする
おじじとおばばと母ちゃんが
遠く離れた父ちゃんの
うわさをしながら夜が更ける

これは子どもの詩に教師が曲をつけたものである。
当時を思うと私の学校では、教師も子どもも親たちもみんな戦後の貧しさからの解放を求めて助けあった戦友であり同志であった。時代は違い、個々の問題は違うとしても、今も実にあの頃に似たものが多く、変な縄張りなどは捨ててみんなが力を合わせてゆかねばならないと思う。平和の問題も生活の問題も、私には昔からものを言わなかった農民が立ち上がった日が今も忘れられないのである。

そして、最後に私の退職の時出した「学校用務員のうた」が東京に来てから雑誌「教育」に載せて頂いたこともあって丸木政臣先生のような名のある方をはじめ、たくさんの方々にお励ましを頂いたが、その一人であり、戦時中は集団疎開の子どもたちにも付き添い、長く日本作文の会の常任理事を務められ、朝日歌壇賞もいただいている今は亡き綿引まささんの絶詠ともなった次の2首を紹介終わりとしたい。

子らとまた母親たちと
読み合いし平和憲法
ゆらぐなその灯

地球より重き命を捨てるなと
戦後教えし子らは
如何にや

署名日記2010年1月3日より2月28日まで

1月
3日 熱は7度5分ぐらいだが風を引いたようだ。署名は休む。
4日 診療所に午後、集会所の抽選日なので行ってくる。
5日 1日家で休む。
6日 歯科、風邪でキャンセル。
7日 署名1,000筆、Yさんに渡す。
8日 年金者組合編集会議、風邪で休む。胃カメラのため、今日より15日までバファリン中止。
9日 午後から暖かくなり風邪もどうやらよくなったので署名に出る。署名28、やはり署名に出て人と話すことはよい。気分よし。
10日 署名午後38、晴天で人多く、沖縄出身の若い夫婦と話す。
11日 署名午後14、寒かったが公園を一周する。昨年も同じ頃、バーベキューをやっていた教師と中学生に会う。今年は2回目で教師とかなり長く話をする。用務員時代が懐かしくなった。お昼のNHKで「豪雪の山里」と題してふるさとの紹介。積雪3メートル。みんな頑張っているのだ。
12日 まだ風邪の後遺症か、腸の調子が悪く署名を休む。昨日の豪雪とはうって変わって、0時30分より「和紙新潟」と題して故里の犬伏部落が、そしてその紙すきの職人が私の退職の時の小学3年生で退職の朝、私をおぶって体育館を一回りした貢弘君で訪問者は女優の市毛良枝であった。
13日 下剤を飲んでも腸の調子がよくなく診療所に午後、気分転換のために今年初めて東八道路のバス停に。署名13、風邪が冷たかったので30分ぐらいで帰る。
14日 午前、相変わらず腸の調子よくなく診療所に。「読者のひろば」に平野さんという方の書いてくれた「9条署名続け29,000余に」が載る。
15日 署名午後26。午前、胃カメラ異常無し。
16日 署名午後5。故里は相変わらずの雪。東京も寒く公園も人少なし。
17日 署名午後37。朝は寒かったが午後から気温も上がって署名多し。バス停の帰り、公園でマラソンの応援のお母さん方に署名して頂く。珍しく今日はバス停で北朝鮮がせめて来たらどうするという話も出た。ボランティアですかと励ましてくれる人もいた。
18日 署名午前28。朝から晴れて気温も今までより高くカナダ人の署名、今日も幾人かの人に励ましを受ける。
19日 署名午前32、午後22。午前署名の後、あとは任しておけと言いながらバスに乗った青年。午後からはもう世の中がいやになって生きていくのがいやになったという若者と話し、しばらく自分の人生を語る。あの長い戦争が終わってほっとしたこと、しかし食べるもの、着るものがなかった時代を必死に生きた。人生とは谷あり、山ありでどんなことがあっても生き抜くことだ。たしかに今の世の中は大変だが、変な心を起こさないようにと熱く話す。青年はバスをやり過ごして私の話を聞いていた。迷った時に、この老人のことを思い出すようにと握手して分かれる。
20日 署名午前30、午後43。
この冬一番の暖かさ。署名で顔見知りになった4人が今年もよろしくと声かけてゆく。午後お茶1本と120円のカンパあり。
21日 署名午前16。今日は異常気象で最初暑く、次第に気温が下がり、これから人も来るのにと思いながらも署名は早く切り上げる。しかし最初「署名の出来なかった青年が5分くらい経ってからさせてくださいとくる。午後、新型インフルエンザの注射、体温が37度2分もあって中止。
22日 晴れれば10度近くまで気温が上がる。故里で考えられないことだ。午後署名32。ペルー人、フィリピン人女性の署名もあり。
23日 署名午後14。寒いので人は少ない。土曜日はいつもだったら青年が多いのだが、都は青年たちが署名7,000も集めて中止を要請したスケートボード場を緑地にすると、コンクリートはがしが始まった。私にどうしたらよいか相談を受けたのは工事の始まる直前で合った。アメリカの少年、オランダ人夫婦の署名あり。
24日 現代座の平和コンサートに。
25日 署名午前33、午後29。中学生5名署名、しばらく話す。近代史をよく知っているのに驚く。2.26事件など、私への質問も多く、私の後を頼むと言ったら感激していた。
26日 午前寒かったので署名休む。午後は年金者組合の歌会。
27日 署名午前32、午後30。今日は暖かいということであったが、それほどでなし。「うちのじいちゃんは兵役を拒否するために自分で自分の手を切った」という女性がいた。
28日 異常な暖かさ。雨になり署名休む。
29日 署名午前23、午後16。気温13度ということだが風が冷たく自動車試験場も人少なく、顔なじみの2人の女性職員が私に手を振り帰って行った。ロウバイは終わり紅梅の盛り、故里は豪雪というのに、東京は一歩一歩春に近づいてゆく。署名は計29,600を超える。30,000まであと400。
30日 署名午後21。朝から晴れて友人と子安地蔵のところで富士を見る。今日は土曜日で試験場は休みで、公園を廻る。晴れていても、風は冷たく、人は少ない。
31日 署名午後33。若い夫婦に今の情勢を話したら、礼を言ってくれた。
2月 
1日 午前診療所。午後年金者組合編集会議。午後から雨。夕方から今年初めての雪となる。
2日 立川相互病院、大腸の検査。2年ぶりの積雪。朝の立川行きはきびしかった。結果はポリープ2つ、切除。
3日 署名午前23。まだ公園のくじら山などには雪が残っていて、手袋をとっての署名はきびしいが、川崎の人でかなり話し込み、バスに乗っても手を振っていた。午後からは気温も下り、署名中止。
4日 署名午後18。午前、Wさんより電話がかかってきて、訪問。これで3回目か。女性九条ネットの人にあう。この人は都会人で、学生運動の経験もあって、私などの知らない、書物以外の裏話など聞かせていただく。
5日 午前、歯科。午後、診療所。
6日 寒い日であったが、三鷹の大沢公会堂へ小田急バスで。もと岩波書店に居られた方の本作りの貴重なお話を聞く。
7日 署名午後32。日曜日であるが、公園は寒く、人はいないので、バス停へ。手袋を脱いでの署名は有難いことだ。
8日 署名午前34、午後36。晴れて気温は上がるという予報だったが、午前は寒く、午後からは暖かくなって署名多し。バスがきて、署名ができなくなったと、後ろ髪をひかれるように私に手を振る学生もいた。ガーナ人、フィリピン人女性の署名も。
9日 署名午前28、午後18。午前に、昨年の8月、都心での「平和のための戦争展」で私のパネルを見たという学生九条の会の女性に会う。フィリピン女性の署名、アメリカの青年と話す。
10日 署名午前34。午後新型インフルエンザの注射、今回は体温パス。朝、気温高くも、次第に下がり、着たり脱いだりできびしい。バスが来たのに乗らないで、若者2人が署名してくれる。
11日 今日は上野で私の学校の卒業生の親睦会だが、一日、氷雨で、体調を考えて残念だが欠席する。
12日 署名午後22。午前は氷雨。午後から晴れたが寒いので、早く署名をきりあげる。若者の署名が多かった。
13日 1日氷雨。「私と憲法」に載せて頂いた12回分を1日がかりで読む。
14日 署名午後36。久しぶりに晴れ。バス停から公園に回り、スケボーの所に新しい青年が来ていて、署名いただく。いつも若者はよし。
15日 氷雨。午後、年金者組合運営委員会。
16日 署名午前27。気温は低いが風がないので、署名にでる。手袋を脱いでの署名は有難いことだ。25筆もいただく。いまの若者はダメだ、リストラされても当たり前だといいはるおばさんが居た。3万にあと27。夜は雪になるとテレビはいう。
17日 署名午前14。朝は陽ざしもでたが、寒くて、人も少なく、はやくきりあげる。帰り道、途中で声をかけられ、「あと13で3万になる」といったら、「おめでとう」といわれた。
18日 午前、立川の泌尿器科へ。朝、雪。早いので駅までタクシーで。「はけの道」はうっすらと白く、私にとっては懐かしい風景だ。3ヶ月に一回の前立腺癌の注射も3年目に入った。午後からは暖かくなったので署名に。署名午後33。ただいま3万と19筆。3万目は西東京市の青年で、あらためて9条を読ませて下さいと言い、頬を紅潮させバスに乗っても手を振っていた。
19日 署名午後31。午前、歯科。帰りに我が家の近くの公園の広場に明星学園のテントがふたつもあって、沢山の生徒がおり、中学生ということで、三年前、演劇で私の九条おじさんをやった生徒もいるのではないかと思い、懐かしかった。午後2人連れの若い女性が話しかけてきて、大杉栄を殺した甘糟憲兵、その後の満州でのこと、ビルマ戦線等、いろいろ話かけてきて、私の毎日新聞の切り抜きをやって別れる。
20日 署名午後18。久しぶりに晴れたが公園に人少なし。バーベキュー広場の青年のグループの署名。それから小学2年生のとき、広島の原爆にあったという人の話を聞く。死体の山々、その惨状を青年からは「はだしのゲン」の話もでる。3万になったといったら、みんな喜んでくれた。NGOでアメリカのことを話す人もいた。
21日 1日、氷雨。署名を休む。
22日 年金組合、早春のつどい。
23日 署名午前34。今日はじいちゃんの孫になりますといい、署名した3人の若者がいた。小金井の人で、小森さんをよく知っておられるとのことで、ぜひ「九条の会」にとお誘いもする。午後は年金者組合の歌会。
24日 署名午前24。20歳という3人の若者と署名のあと、しばらく話す。午後は国分寺のむさし野歌会へ。
25日 午前署名38。昨日につづいて晴天。ペルー人、韓国の女性の署名。韓国の女性にはあのとき少年だったとはいえ、日本人の一人として謝罪しますといったら、日本にもあなたのような人もいるのですねと大変感激していた。それから、創価学会だという青年と平和について話しあい、学会の創立者の獄死の話になり、署名していただく。また中年の男で民主党の悪口を言ってゆく人もいた。
26日 署名午前36。昨日に続いて気温が高く、夕方から雨。スイスとインドの青年の署名。
27日 雨で公園も人少なく、署名中止。
28日 午前雨、午後、新潟県人会へ。 (2010年3月6日)

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