高田 健
2007年5月に安倍内閣が強行採決をした改憲手続き法は、自らの任期中の憲法改正を焦って、強行採決を繰り返して成立させたものだ。同法はいくつもの重要問題を「附則」にし、18項目もの「附帯決議」を付けた、法律としての体をなしていないものだった。この時に憲法改正案の審議や国民投票の実施可能な時期も3年間凍結した。その期限の3年目が今年の5月18日である。しかし、この間に参院と衆院選挙があり与党は大敗し、「政権交代」が起きた。附則や附帯決議などの議論も全く進んでいない。
当時、自公・与党も不備を認めた改憲手続き法の問題点は以下のようなものである。(1) 投票権者問題(18歳投票権問題、公職選挙法や民法との整合性の保障)。(2) 国民投票の対象問題(憲法だけでなく、国政の重要問題についての国民投票の可否)。(3) 広報や広告など、メディアの在り方(議席数で広報の分量を決めてよいか、有料広告を認めると資金能力で宣伝に差ができる)。(4) 国民投票運動の自由に関する問題(公務員や教育関係者の政治活動、地位利用の制限などによって、自由な活動が制限される)。(5) 投票成立の要件問題(「過半数」の分母問題や成立に必要な最低投票率規定の有無)、などなど。
その後、憲法審査会は両院でつくられず、全く始動していない。附則が定めた18歳投票権者等に関する民法や公選法の改定も全く着手されなかった。
いま政府や民主党内には、「憲手続き法に規定された3年が過ぎた」という理由で、同法の凍結解除を施行する動きがある。
「政府は三日、五月十八日に施行される、憲法改正のための手続きを定める国民投票法の投票権者について、十八歳以上とすることを断念し、当面は二十歳以上とする方針を固めた。十八歳以上にするための前提となる、選挙権を十八歳以上に広げる公職選挙法改正や、成人年齢を十八歳に引き下げる民法改正などが間に合わないのが確実となったためだ。
一部で施行そのものを見送るべきだとの意見も出ていたが、一日の民主党役員会などで予定通り施行する方針を確認した」(東京新聞 2月4日)
これらの人びとの見解では、18歳投票権のための法整備は間に合わなかったが、5月18日がきたら、改憲手続き法がこの「間に合わなかった場合」を想定した「経過措置」規定に従い、当面、20歳で施行できるという。
たしかに、改憲手続き法の附則第3条には以下のような既定がある。
第3条 国は、この法律が施行されるまでの間に、年齢満18年以上満20年未満の者が国政選挙に参加することができること等となるよう、選挙権を有する者の年齢を定める公職選挙法、成年年齢を定める民法(明治29年法律第89号)その他の法令の規定について検討を加え、必要な法制上の措置を講ずるものとする。
2 前項の法制上の措置が講ぜられ、年齢満18年以上満20年未満の者が国政選挙に参加すること等ができるまでの間、第3条、第22条第1項、第35条及び第36条第1項の規定の適用については、これらの規定中「満18年以上」とあるのは、「満20年以上」とする。(編集上、法の漢数字表記をアラビア数字表記になおした)
この付則第3条に関する憲法調査特別委員会の審議(第166通常国会衆議院憲法調査特別委員会、2007年4月12日)の経過を検証すれば、政府・民主党役員会の理解は明らかに違法であることがわかる。
憲法調査特別委での法案提案者の船田元(はじめ)理事の答弁では、法整備が進まなかった場合の「経過措置」で現行20歳で処理するのは、民法改正の「公布」から「施行」までの最大限、半年程度のことであり、今日のように18歳投票権問題に関する民法改正が全く取り組まれず、改正民法が公布されていない状況は想定されておらず、当てはまらない。船田理事は以下のように説明している。
「法整備ということはどこまでを指すのかということでありますが、これは公選法あるいは民法の規定にしても、いずれも公布ということを考えております。しかし、例えば公選法の場合には、仮に本法施行までの3年間の間のぎりぎりのところで公選法が公布となったとしても、これまでの例からして、おおむね半年間の周知期間があれば、公選法の場合には対応が可能であるということでございます。したがって、3年後のぎりぎりのところで公選法が18歳で公布をされたとしても、それが施行される半年の間に憲法改正の原案が決まりまして、そして、国民投票を行うまでの期間を考えますと、実際に国民投票を行う前に18八歳の公選法の規定が施行される可能性は極めて強いと思っておりますので、実効上の問題はないと思っております」
従って、法案提案者の船田理事の理解では、法整備が進まなかった場合の「経過措置」で、現行20歳で処理するというのは、民法改正の「公布」から「施行」までの最大限、半年程度のことを指しているのであって、現在のように18歳投票権問題に関する民法改正すら全く取り組まれておらず、「改正民法が公布されてもいない」という状況は想定されていない。
今日の状況で、この「経過措置」規程を使って改憲手続き法を「施行する」ということは、立法趣旨からしてあり得ないことだ。
この18歳投票権者問題一つをとっても、改憲手続き法は凍結延長して、その上できちんと廃止法を成立させ、出直す以外にないのである。
私たち許すな!憲法改悪・市民連絡会は、アンポをつぶせ!ちょうちんデモの会、憲法を生かす会、日本山妙法寺、VAWW-NETジャパン、ふぇみん婦人民主クラブ、平和を実現するキリスト者ネット、平和をつくり出す宗教者ネットの皆さんと共に、この問題を明らかにするため、4月6日(火)午後2時から衆議院台2議員会館第3会議室で、「このまま改憲手続き法の凍結解除・施行はできない!4・6緊急院内集会」を開催する。(「私と憲法」107号所収)
本誌2月号で報告されているが、2月13日~14日にかけて、第13回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会が開かれた。
13日午後は「主権者は私たち~日米安保50年、憲法9条・25条、改憲手続き法を考える」と題した公開企画で、一橋大学の渡辺治さんとしんぐるまざーず・ふぉーらむの赤石千衣子さんが講演し、沖縄県憲法普及協議会事務局長の加藤裕さんと市民連絡会の高田健さんが報告した。
このうち、高田報告はすでに本誌前号に掲載した。
14日の交流集会でも、各分野からの市民の要求の立法化運動など、重要な報告が続いたが、次号で掲載したい。今号では、渡辺、赤石、加藤各氏のお話を掲載する。なお、掲載にあたっての文責は編集部にある。【編集部】
渡辺治さん
新安保条約の制定以降50年を民主党政権のもとで迎えることになりました。これは安保と日米軍事同盟のこれからの転換を予測させる時代の変化の中で日米安保50年を迎えるということで、50年を振り返って回顧をするだけではなくてこの日本をどうするのかという問題がいま突きつけられていると思います。
そこで大きくいって3つくらいの話をしたいんです。ひとつはこの安保50年を振り返って、いったい50年の日本はどうだったのかということです。結論を言いますと、確かに日本の憲法は安保条約と沖縄の占領、それから沖縄の復帰後も含めて憲法9条がこの日本の中で実現したことはありませんでした。しかしこの50年は、私が強調したいのは、単に対米従属と日米軍事同盟がどんどん大きくなって日本が戦争の道に追いやられていった50年ではないということです。そういう見方は正確ではないと私は思います。
確かに安保条約は日米軍事同盟をつくって日本がアメリカと協力をして戦争体制に追い込むことを目指してきました。しかし明らかに憲法を「武器」にしたわたしたちの運動と力の中で、実は安保条約が目指す日米軍事同盟や日本を戦争に追い込むような体制づくりは決してうまくいかなかった。そういう意味で言えばこの50年は、むしろ安保条約に基づいて日米軍事同盟が実質化し、世界の戦争への加担の50年というだけではなくて、わたしたちが憲法で対抗し、その軍事同盟の危険な役割を少しでも食い止めようとした対抗の50年だったことをお話しさせていただこうと思います。これが第1点です。
2番目に、そういうものの帰結のなかでいま民主党政権ができました。この民主党政権ができたこと自身がわたしたちの対抗の産物だと思いますが、そのなかでいったい安保と日本の構造改革の行方はどうなっていくのだろうかという問題についてお話をしたい。
そして最後に、そういう中でわたしたちが憲法9条と25条を目指した日本をつくっていくためには、いったいどんなことをしたらいいのかについても触れることができればと思います。
最初に新安保50年ということで、日米軍事同盟と憲法の抗争の歴史としてこの50年間を振り返ってみたいと思います。大きくいってこの50年は、その前の旧安保の時代も含めると、4つの時期に、新安保以降、1960年以降は3つの時代に分けられると思います。
新安保以降、第1の時期は安保条約改定反対運動の中でアメリカと日本の支配層が意図した日米軍事同盟の侵略的な強化がなかなかできなかった時代、保守政権、自民党政治のもとではあったけれども、それをわたしたちの運動が食い止めて発動させなかった20年があった。しかし1978年の旧ガイドライン、日米防衛協力のガイドラインあたりを境にして安保条約を侵略的に強化しようとする動きが起こってきました。日本でも中曽根内閣のもとでそれに呼応しながら日本の軍事大国化、憲法に基づく小国主義の政治を打破しようとする動きがありました。しかしそれも10年間両方の力がせめぎ合って必ずしも軍事大国化の方向、日米軍事同盟の侵略的強化の方向がうまくいったとはいえない10年だった。
90年代以降、冷戦が終わってアメリカ一極の世界体制ができる。その中でアメリカは本腰を入れて世界の警察官として役割を果たすために、それまで日本に遠慮していた軍事的な分担、自衛隊の派兵を大きく求める。日本の方も、いまのトヨタに象徴されるように、世界各地に展開した日本企業の権益を守るために、アメリカと一緒になって軍事大国になろうとする本格的な動きが起こりました。しかしそれも20年の間、彼らの思惑通りにはいかなかった。いまだに50年たっても憲法改悪は実現できておりません。そういう意味ではこの新安保の50年は、そういう「拮抗の歴史」としてつかまえることができるんじゃないかと思います。
旧安保と戦後平和運動
第1期は1952年の旧安保の締結から1960年の新安保条約までの、安保50年の前史に当たる8年間です。1952年、吉田内閣が国民にまったく秘密裏に結んだ安保条約は、占領時に日本全土に駐留軍していた米軍が、冷戦体制の中で講和になっても、形式的に日本が独立しても、そのまま日本の基地を自由に使って冷戦体制における極東、特に朝鮮に対する戦争を行っていくような基地として日本を使いたい。こういうアメリカの要求のもとに、占領時の基地使用を継続することを目的にして結ばれました。
非常に短い条文で、そこには極東の平和と安全のためにということで、冷戦体制の中で社会主義に対抗する前線基地として日本を使おうという意図がありました。アメリカとしては、旧安保条約のもとで日本の基地をどんどん大きくして、ここを拠点に極東に対するさまざまな作戦行動をとろうとしました。ちょうど軍事的にも、たとえば航空機でいえばプロペラからジェット機に変わる中で基地も大きくする必要があるし、全土の基地を自由に使いながら極東の戦争体制を維持することで、基地の拡張を目指した。日本の側は、憲法に基づく新しい政治体制は非常に不都合な、不安定な体制なので、それを壊して復古的な政治をしようという思惑もありました。
戦前だったらおそらくこのアメリカの意図はそのまま貫徹したと思うんですが、この1950年代は戦後憲法のもとで大きな平和運動が起こりました。アメリカや日本の政府にとってみるとかなり衝撃的な、予想に反する事態が砂川で、あるいは全国の基地を拡張する場所で運動が起こりました。その運動自身が戦後の憲法の民主主義体制のもとで初めて可能になったわけで、それがアメリカの基地拡張を進める政策に対して大きな打撃を与えます。それどころかアメリカが極東の戦争のために自由に基地を使用することが平和運動の様々な試みによってうまくいかない状況が生まれました。沖縄でもブルドーザーでもって基地を拡張する動きに対する、大きな県民のたたかいが起こっていました。
1950年後半に日本では岸信介が登場して、新しい戦後の日本を――簡単に言えば冷戦のもとでアメリカに従属したかたちで日本を軍事大国に復活させようとします。そのためには旧安保条約を改定し、アメリカ軍に日本を防衛する義務をはっきり書かせ、若干の対等化を目指すと同時に日本がアメリカ軍と協力して共同作戦体制をとる、軍事的にもアメリカに加担する。そういうかたちで安保条約を改定し、日本を軍事大国に復活させようという政権が1956年に登場します。
アメリカは、最初は岸の改定要求に対して消極的な態度をとっていました。自由に日本全土を基地に利用して、アメリカがいやになればさっさと出て行けるような旧安保条約の体制はアメリカにとって非常に都合のいいものでした。日本は改定するというけれども自衛隊は本当にアメリカ軍に協力して共同作戦ができるのか。そんなことをするなら改憲をしなければいけないけれども、日本政府は改憲をする力があるのか、という不信感をアメリカは持っていました。
けれども1950年代後半の砂川闘争をはじめとしたさまざまな基地の反対運動によって、このままではアメリカ軍が基地を自由に使用できなくなる。むしろ安保条約を改定して、ある一定の平等性を認めることによって国民の怒りを沈静しないと、アメリカ軍の自由な基地使用はできなくなる。そこで1958年くらいから、それまで消極的だったアメリカは、積極的に呼応して改定しようじゃないか、その代わり国民の反対運動を抑えることが必要だと、条約の改定に賛成することになります。
アメリカ軍は、極東戦略のもとでの自由な基地使用を維持するためにも日本の反対運動を抑える。そのためには改定条約を結んで、日本の防衛義務とか、旧安保条約にはなかった安保条約の使用期限を10年にして、一応10年たったら改正できる、廃止できるようにするとか、日本に内乱のような状態が起こったときにはアメリカ軍が出動できるなんていう植民地のような規定は排除するとか、そういうかたちでアメリカは安保条約の改定に臨んで、基地を安定させようとしました。
もうひとつ、当時は日本の自民党支配、保守支配は安定したものではありませんでした。日本企業の労働者支配がまだ完成しておりませんでした。確かに企業別の組合がありましたし、企業別の組合の中で戦闘的に戦っていた共産党員などに対しては、レッドパージによる弾圧で、どんどん企業から戦闘的な労働者が追い出される状況がつくられました。それにもかかわらず、日本の企業の労働者支配がまだ確立していませんでした。この当時は総評という企業別の組合の連合体だけれど、企業横断的な労働組合運動の活動する余地があって、これが基地拡張反対運動を学生運動や市民たちと一緒になって、またその中心になって運動していました。
そういう意味で言うと、その後の時代のように自民党政治も企業社会も安定したものではなかった。それが日本の戦後民主主義運動をつくり、また憲法25条を力にする朝日訴訟の運動に労働組合が立ち上がるような状況がつくられていた。そういう中で基地の安定的な使用を求めて安保条約の改定が行われることによって第2期が始まります。
新安保条約と小国主義の時代
第2期の1960年から20年間は、新安保条約は確かに改定できた。しかしアメリカの日米軍事同盟を強化する思惑とは全く違った、むしろ安保条約の作動を食い止めるような大きな国民の力が、保守政治の中に反映した時代だと私は考えています。私はそれを「小国主義の時代」と呼んでいます。この1960年からの第2の時代は、その新安保条約が若干の対等化と同時に、今度は日本がアメリカと一緒になって、戦前と違ってアメリカの従属のもとに日本が極東の侵略戦争に加担するという、そういう体制をつくるんじゃないかということで非常に強い反対運動が起こりました。
これは岸内閣にとってもアメリカにとってもすごくショックなことだったと思うんですね。むしろ安保条約の改定によって国民を沈静化させようとしたわけですから。それが逆に安保闘争によって、そもそも日米の軍事同盟に反対する。特に新安保条約5条によって日米の共同作戦体制が決められ、日本の基地が第3国によって攻撃されたときにはアメリカが日本と一緒になって共同で防衛するという規定が入ったわけです。 これは旧安保条約にはなかった規定ですが、この5条の共同作戦体制を中心にして大きな反対運動が起こりました。この反対運動は確かに安保条約の改定を阻止することはできませんでした。しかしこの反対運動の高揚によって岸内閣は倒壊を余儀なくされますし、初めて日本にやってくると思われていたアメリカの大統領、アイゼンハワー大統領はフィリピンで足止めになって日本に来ることはできなかった。
ちょうどお隣の韓国でも、安保条約の改定反対闘争のような4月革命が起こっていました。そういう運動が起こったら極東における支配が崩れ、極東が中立化し、赤化してむしろ社会主義圏の方に飲み込まれてしまうかもしれないという、非常に強い危機感をアメリカが持たざるを得ないような大きな運動が起きました。日本の運動の結果、自民党は復古主義的な軍事大国を目指すような、岸内閣のような政策をとれば、このような大きな運動の中でいつ自民党政治は倒れるかもしれない。またアメリカも、このような基地を拡張する政策をとっている限り、日本はいつ革命になるかもしれない、いつ中立化するかもしれない、そういう危機感のもとで彼らは保守支配を安定させるためにも政治を大きく転換せざるを得なくなりました。
その結果出てきたのが、小国主義の政治だと思います。彼らには3つの柱がありました。ひとつは改定安保条約を強行して基地を認めさせる、その基地をアメリカは極東戦略のために自由に使用するが、日本の自衛隊と一緒になって共同作戦体制はつくらない。日本の側からいえばアメリカに基地は貸与するけれども、自衛隊がアメリカ軍と共同作戦をするようなことはとても国民の合意は得られないから、それはしないということです。
2番目は自衛隊を、とにかく国民に認めさせるけれど、その自衛隊は憲法9条のもとで海外に武力行使目的で派兵はしない。3番目に憲法の改悪はしない、できない。この3つです。憲法の改悪はしない、解釈で何とか自衛隊を認めさせるけれども自衛隊を海外に出動させない。安保は認めさせ、アメリカ軍の作戦は認めさせるけれども日本がそれに軍事的に加担することはしない。こういうことで国民の平和の意志を納得させて出発する。つまり安保条約を改定して、アメリカ軍と自衛隊が共同作戦をして極東に対処することは、当初の目的からは外れてしまった。これはもう少したってみないとできない状況になったと思います。
しかし日本の平和運動はそれで黙っていたわけではありません。安保条約の改定反対闘争の後にも、60年代から70年代に新しいかたちでの運動が始まりました。それは安保条約に基づく日本全土のアメリカ軍の基地使用に対する反対運動として起こりました。特に1965年から、ベトナム侵略戦争の先端的な基地に沖縄と日本の本土がなっていきました。そういう意味でベトナム侵略戦争に反対する運動の中で、安保条約の限定された体制に対する大きな反対運動が起こってきたと思います。
そしていま自衛隊のイラク派兵反対の訴訟とか、障がい者自立支援法の廃止の訴訟とかに見られるように、1960年代以降は憲法裁判というかたちで新しい運動が起こりました。恵庭の基地を撤去させるとか、長沼の自衛隊基地を認めさせないというかたちで憲法9条を使いながら、具体的に政府の政策を縛っていくような運動として起こりました。政府は安保条約の当初の目的どころか、とにかく自衛隊を認めさせる、アメリカ軍基地の自由使用を認めさせるために四苦八苦した20年だったと思います。
いま密約問題が非常に大きな問題になっています。密約問題は1952年からずっと何回か行われていて、日本がアメリカと組んでさまざまなかたちでアメリカの核を認めさせるとか、そういう非常に危険なことを確約しています。しかしアメリカは最初から密約にしてくれといっているわけじゃないんですね。アメリカは正々堂々と日本に核の持ち込みを認めさせることを求めたんです。密約というかたちにしてもらいたいといったのは日本側ですね。それは国民の目をくらますような邪悪な出来事ですけれども、なぜ密約をせざるを得なかったのか、という問題が実は重要です。
背景にあるのは日本の国民の平和運動と、憲法9条の下でそういうことは許さないという国民の世論です。そういうものを公然と、条約あるいは協定でもって認めてしまったらおそらく保守政治は持たない。そういう危機意識から、吉田内閣も岸内閣も佐藤内閣もいずれも、危険な部分――核の持ち込みとか有事における共同作戦体制とかについては密約というかたちで国民の目をくらます。ですからそれは非常に危険なものであると同時に、アメリカの意志に反して、そういうかたちで認めざるを得なかった運動の力というものも見ておく必要があると思います。
小国主義の限界と代償
この小国主義の20年、確かにアメリカはここを拠点にベトナム侵略戦争を戦いました。日本はベトナム侵略戦争に加担はしたけれど、ベトナム侵略戦争にタイとかニュージーランド、オーストラリア、韓国が直接軍隊を派兵してアメリカの侵略戦争を支えたのに対して、日本の自衛隊は佐藤内閣の思惑にも関わらず、一兵たりともベトナムに派兵することはできなかった。確かに日本はベトナム侵略戦争の経済的、軍事的な基地になった。そのベトナムに対して、日本の自衛隊が行ってベトナムの人民を直接殺すことだけはしなかった。日本の憲法9条はきわめて後退したかたちではあるけれども、ある意味では生き延びて、そして安保条約の作動を妨げた側面も見ておく必要があると思います。
小国主義は、しかしふたつの限界を持っていました。ひとつの限界はこの本土における自由な基地使用と自衛隊の派兵を阻止する、軍事的な加担を阻止するかわりに沖縄の全土基地化を認めた。これは非常に大きな小国主義の限界であったと思います。それからもうひとつは、経済的なかたちで、さまざまなかたちでベトナム侵略戦争を支えた。それをてこにしながら日本経済が発展したことを防ぐことはできなかったという点でも、憲法9条の本当の実現であったというわけではありません。
しかしここであらためて強調したいことは、きわめて限定されたかたちであっても憲法は死んでいなかったし、安保条約の全面的な発動は阻止することができたということが見て取ることができることです。安保条約に基づく日本の外交、安全保障政策は、憲法9条に基づく武力によらない平和、という考え方とは根本的に違う考え方です。憲法9条は、そういう意味でいえば武力による平和、冷戦体制下の安全保障という考え方を完全に打ち破ることはできなかったけれども、それに大きな歯止めをかけました。
それと同じく憲法25条の国民が健康で文化的なくらしをする権利、こっちはどうだったか。これは1950年代から大きく変わって、日本が企業社会のもとで高度経済成長し、日本の企業社会と自民党政治が安定した20年だったと思います。この時代は、日本の企業が経済成長を遂げるに従って労働者を囲い込み、労働者を従属させ、労働運動が企業内に封じ込められる20年でもあったんです。1950年代、企業は労働者の運動に対して非常に乱暴な攻撃を仕掛け、総評はその企業の労働者支配に対してかなり大きな力を持っていた。企業の中に労働組合が閉じこめられるんじゃなくて、企業別ではあるけれども労働組合同士が企業の枠を超えて平和運動などに立ち上がる、そういう時代が戦後の平和運動と60年安保闘争を支えたんです。60年安保闘争はまさに労働組合運動が中心になってその周りに社会党や共産党が共闘し、また市民運動が結集するというかたちでした。
ところが1960年代になると、戦後の平和運動の主力である労働者たちは、企業の中にどんどん封じ込められて企業の外には出なくなった。1965年にベトナム侵略戦争反対の大きな大衆運動が起こりました。しかしその大衆運動の中には60年安保闘争にはいて、いなくなった人たちがいます。それは民間企業の労働組合運動でした。60年安保闘争のときには民間企業の労働組合は公共部門の労働運動、国労とか動労とか全電通とか自治労、日教組とか、そういうグループと同じように大きな力を発揮していました。しかし企業社会の中で、労働組合も企業のパイが大きくなるに従って、それに協力することによって労働者の生活を改善するというふうに変わっていく。総評傘下の民間企業の労働組合運動は、ほとんどベトナム戦争反対運動や平和運動に参加しなくなっていきます。
そういう中で企業の労働組合は、企業に協力し生産性向上に協力するというかたちで、自分たちの政治を考えその中で社会党支持もずっと落ちていくわけですね。もうこの時代になると企業に囲い込まれた労働者たち、あるいは労働組合は、社会党を支持するんじゃなくて、現在の利益団体と同じように政権政党である自民党を支持する。自民党を支持することによって企業に対するさまざまな税制上の優遇措置とか公共事業投資などをやってもらうことによって企業が繁栄し、企業が繁栄したら自分たちの賃金も上がる、こういうかたちで企業の枠の中に取り込まれていくことになります。労働者が日本社会の多数を占めるにもかかわらず、企業社会のもとで自民党政治が安定し、社会党の伸びは止まってしまう、共産党も伸びが止まってしまうという状態がつくられてくるわけです。
日本の憲法25条は当初労働組合運動に支えられて大きく前進する。革新自治体によって25条は単に貧困の人たちだけじゃなくて保育を求める多くの若い男女や高齢者医療の無料化、環境破壊、こういう問題に対処して25条を豊かにする時代があったわけです。しかし、企業社会が確立するにともなって、多くの労働者の生活は自分が大企業に勤めて正規従業員になることによっていわば分担してもらう。農業や地場産業については自民党の利益誘導型政治で公共事業投資をばらまいてもらって安定する。結局、社会保障は企業の傘にも入らない、地方の利益誘導型政治の傘にも入らない、大都市部の離婚母子家庭とか一部の大都市部の高齢者とかそういう部分に対して、補完的できわめて貧弱な社会保障制度として安上がりな社会保障制度としてできる。これが日本の企業の繁栄と経済成長にお金を費やすことができる体制をつくって、日本の企業の経済成長を支えたと思います。
こういう時代、企業社会と、自民党の安保は認めるけれども小国主義の政治という時代が20年くらい続いたんですが、第3期に入るとこれが大きく変わります。冷戦体制が激化して新しいかたちでアメリカの企業がグローバリゼーションを始める。社会主義体制やアジアに対して侵略をしていく。ソ連との対抗関係が再び復活してきて、レーガン政権のもとで新しい戦争の体制がつくられようとした。その時代に即して日本でも安保条約を、いままで20年我慢してきた、けれども日米共同作戦体制をようやく20年たって復活させ、自衛隊をアメリカ軍に従属したかたちで海外に進出させようとする試みが起こったのが1978年、日米防衛協力のガイドラインにともなう10年間だと思います。
結論的にいうとこの10年も、企業社会の中で労働組合運動の力は落ちたけれど、それに変わってさまざまなかたちで新しい市民運動が平和運動に参画することによって、この軍事大国化の動きをむしろ食い止めた10年だったと思います。
日米防衛協力のガイドラインは、78年にアメリカがこれをつくった最大の目的は、日本が攻められたときに日米がどのように共同作戦体制をとるかということではなかったんですね。アメリカは日本の自衛隊をとにかく戦争に動員する、そのためのガイドラインをつくろうじゃないかということでやりました。日本は、日本が攻撃されたときにアメリカ軍と共同作戦体制をとることをガイドラインの主目的にしました。もちろん日本政府の側も、それができたらアメリカの要請に従ってアメリカと一緒に戦争する体制をつくりたいと思っていたんですが、当時の国民や平和運動はそれを許すことがなかった。その結果、極東を侵略するために日米の軍事共同作戦をつくろうとするアメリカの試みは日本政府の消極的な抵抗、別に日本の政府が平和主義的だったんじゃなくて日本政府は背後にある日本国民の意思を忖度してそのようにせざるを得なかったんですが、それによってできませんでした。
つづく中曽根内閣は、戦後政治の総決算を図った。いよいよ経済大国化した日本にふさわしく、積極的にアメリカと組んで世界の戦争体制をつくろう、改憲をしよう、有事法制をつくろう、国家秘密法をつくろう。防衛費がGNPの1%枠なんかに止められているのはおかしいから、これもとっぱらって軍事費を拡大しよう。こういう取り組みを次々にやりました。1980年代後半には、イラン・イラク戦争に初めて自衛隊をペルシャ湾沖に派遣しようじゃないかという試みをしました。いずれも失敗したんですね。わたしたちも参加しましたが、戦後の平和運動の中でそれぞれ80年代の改憲も有事法制も国家秘密法もそれから自衛隊のペルシャ湾派兵も阻止することができた。唯一できたのはGNPの1%を突破することです。しかし現実の予算ではいまだにGNPの1%枠は大蔵省、財務省によって維持されている状態です。つまり日本の軍事大国化の動きは失敗しました。この時代は日本の企業社会は安定し自民党政治も安定していた時代でもありました。
これが大きく変わったのは第4期、グローバル化の中での90年代以降の20年です。それまでアメリカは安保条約のもとで日本の基地を自由に使用できれば、はっきり言って自衛隊なんかいらなかったんですね。もちろんアメリカ軍としてできれば自衛隊を作戦体制に参画させたい。しかし冷戦体制のもとで、アメリカと社会主義陣営対峙の最大の武器は核なんですね。核戦争体制のもとでは、核を持たせない日本の部隊はさほど役に立たないわけで、アメリカ政府としては日本の基地が極東の侵略のための最前線基地として自由に使用できればいいという考え方がありました。もちろん日本には核を持たせない。
日本の方も、企業社会の体制で国内で生産し経済成長をして、アメリカの核の傘のもとで日本の企業が自由に進出する。だから日本の保守支配層や財界にとっても自衛隊は海外に出動する必要はない。平和運動と大きな国民の力があったのはもちろんですが、なぜ30年近くの間、日本の小国主義と自衛隊を派兵しない体制が完成したかというと、アメリカや日本の保守支配層にとってもそれでもいいや、平和運動が起こって基地が自由に使えないような状態になるくらいなら日本が軍事大国化しなくてもいいという思惑があった。
それが大きく壊れたのが90年代です。アメリカが社会主義体制を壊して、世界で唯一の大国になる。アメリカの企業は、いままで入れなかった中国とか旧ソ連、東欧、それからいままで第3世界としてアメリカ企業の進出を拒んでいたインドなど、そういうところに世界を股にかけて入るようになった。世界の警察官、自由なアメリカの大企業秩序を守るための警察官としてのアメリカの役割が大きなものになりました。社会主義を守る憲兵としてのソ連がなくなってしまいましたから、世界唯一の警察官はアメリカだ。アメリカだけでは足りませんから日本を動員しなければいけない。
こういうことで基地を自由に使用するだけではなくて、安保条約のもうひとつの目的である日本を戦争に動員するという要請が、この20年間非常に強く日本に対してかけられてくる。他方日本もいままでは自衛隊を容認してもらえればいい、アメリカ軍に基地を提供して自衛隊があればいいということだったのが、その日本企業が海外に進出するようになる。そうすると企業の繁栄を守るためにも、日本の自衛隊はアメリカ軍と協力して海外に出てもらいたい。そういう軍事大国化の要請が日本からも強くなってくる。そして軍事大国化をするには、自衛隊の海外での武力行使を目的とした体制をつくるには、やっぱり日本国憲法ではもうだめだ。これは限界にきたから9条を改憲をしなければいけない、という圧力がかかったのがこの90年以降現在に至る20年だったと思います。
しかし、30年以上、憲法は改正しませんよと国民をなだめてきたわけですから、いきなり90年代に入ってからそれをやるといってもなかなか難しい状況にありました。当初日本の支配層が考えたのは、自衛隊を海外に出動させる。しかしいきなり憲法改悪に手をつけたらあの60年安保の二の舞になる。たしかに民間労働組合運動の力は落ちているけれども、60年安保のときに比べたら明らかに市民のさまざまな平和運動の力は大きくなっている、公共部門の労働組合運動も少しは力は落ちているけれども、これもある。
90年代に入っても、明文改憲はあまりにも危険だということで、最初の10年は解釈改憲で行く。国際貢献の目的で自衛隊を派遣しないでいいんですか、冷戦が終わった世界の新秩序の中で、ならず者国家があるときに日本だけが憲法9条があるということで行かなくていいんですか、といいながら自衛隊の海外派兵体制を追求してきた10年でした。
その中で新ガイドラインができ、周辺事態法が1999年にできた。これは非常に大きな限界があったわけですね。自衛隊が海外に出動する、アメリカ軍の作戦に対して海外に出動することを決めました。しかしあくまでも日本周辺における、我が国の平和と安全に害があるときに行きますよという話だった。イラクやアフガンに自衛隊を派兵するのはこの周辺事態法では難しかった。
2001年9.11のテロが起こったことを契機にして、テロ対策特措法をつくってついにアフガン海域に自衛隊を派兵した。そして2003年イラク特措法によって自衛隊をイラクに派兵した。14年かかってついに自衛隊をイラクに派兵したんだけれども、また憲法9条のもとでおこなったために武力行使はできない。復興支援の目的で水をつくったりして、なかなか大国の一員としてアメリカ軍と共同して戦争をすることができない。アメリカのいらだちが募る中登場したのが安倍政権で、自分の任期中に憲法を改悪して正々堂々軍事大国化をするという動きが起こった。ところがこれに対しても「九条の会」を中心としたさまざまな改憲反対の市民運動が結局のところこれをつぶしてしまった。20年たってみると、安保条約にもとづく日米のグローバル軍事大国化、アメリカと日本が共同して世界の各地で武力行使をする体制ができない状態のもとでいまに至っているということになります。
しかし経済の方はこれまた大きく変わりました。9条とは違って25条というのは企業社会のもとで本当にぼろぼろになっていました。90年代に入ってから日本の大企業が世界を股にかけて活動する。企業の競争で負けたらトヨタとか日産のような大企業であってもあのGMのようになってしまうので、大企業の大儲けの体制をよりいっそう確立するための構造改革の政治がおこなわれるようになりました。25条はさらに輪をかけて構造改革の攻撃によってさらにぼろぼろになる。高度成長と日本社会の安定を支えていた企業社会は、日本の労働者を30年、40年働かせて正規従業員として抱え込んで、不況になっても首を切らないかわりに徹底的して搾取して、サービス残業だ、過労死だという体制をつくってアメリカやヨーロッパの企業には比べものにならないくらい競争力を増した。アメリカと比べても年間200時間以上の労働をしながら、アメリカの平均賃金の半分くらいで働かせる体制をつくった。
だけどグローバル経済の中で競争は、これ以上ないといったような日本の企業社会の労働者体制も非効率になった。なんといっても中国は1/32の賃金だ。そこと競争するなら、日本企業が正規従業員の首を切らない体制なんてもうだめだ。どんどん正規を非正規に変えて非正規従業員の首は不況になったらどんどん切る、何年働いても賃金は上がらないという体制をつくらなければ競争力で勝てないということで構造改革をやってきた。地方の利益誘導型政治に対してもメスを入れて、大企業の法人税を下げるためにがんばる。
こういう構造改革の結果25条にはさらに大きな侵害がおこなわれます。25条は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有すると書いてあるけれど、それをどんどん法律をつくり、構造改革で医療制度を改悪し消費税を上げ、大企業のリストラを25条は防ぐことはできなかった。9条はかろうじて首の皮一枚でつながっていたけれども、25条の方は本当にずたずたにされたということが現在の時点だと思います。
ぼろぼろにされた構造改革に対する怒り、もうやめて欲しいという声と、軍事大国によって日本が再び戦争をする国になるのはいやだという大きな国民の声と力をもとに、自公政権は倒れて民主党政権ができた。ただしこの民主党政権は、構造改革をやめて欲しいという運動と改憲をやめて欲しいという運動の、その力がつくった政権ではないんです。自民党と同じように構造改革と軍事大国化を競い合っていた政党が、構造改革の矛盾が爆発し改憲に対する反対運動が強くなり国民の世論が大きく変わる中で、保守党のひとつでありながら政党の性格を変える、その中心に座ったのが小沢さんです。
小沢さんが、選挙で勝つためには自民党と同じ構造改革と軍事大国化ではだめだ。改憲はやらない、イラクから撤兵する、それから構造改革はやらない、福祉の政治を実現するというかたちで民主党という保守政党が政策を転換することによって国民の期待を集めて登場した政権だった。ここに安保と憲法の問題を巡って非常に複雑な、つまり国民のふたつの力によって登場したけれどもそれ自身を代表するような政権ではなかった。担い手と政権の政策が区別されている、これが民主党鳩山政権だったと思います。
民主党政権は安保の問題についてふたつの側面を持っています。ひとつは国民の平和を求める声が非常に大きく反映せざるを得ない。鳩山さんは何といっても、選挙中にも沖縄でも、普天間の国外移転あるいは最低でも県外移転を語って彼は当選して、政権をつくることができた。それは彼は十分承知している。しかし同時に、日米軍事同盟を今度こそ本格的に始動させたいというアメリカの圧力もまた受け止めている。そういうふたつの力の中で、さいなまれたかたちで登場しているのがいまの鳩山政権だと思います。
わたしは、この鳩山政権は安保と憲法の問題について新しい政治の第一歩を切り開いたと主張しています。なぜかというと民主党の鳩山政権は、十分な自覚をしないままにパンドラの箱を開けたと思います。それは普天間基地を撤去する可能性があるということです。いままでの自公政権の下では、口が裂けても彼らはそれをいいませんでした。しかし鳩山政権や民主党の面々は、いろいろなところでそれを語ってきた。政治の力によってそれができるかもしれない、そういうことを言った。さまざまなジグザグの毎日変わるような意見の中でそういうことを言って回った。それ自身は、わたしは国民にとって非常に大きな選択肢を開かせた。いわば目隠しがいったんはずれた。
もうひとつ大きいことは、構造改革の政治は止めることができる。それだけじゃなくて福祉の政治、子ども手当とか農家個別所得保証、高校授業料の無償化とか政治によってやることができる可能性ができた。鳩山政権があわててパンドラの箱のふたを閉めようとしても、それは簡単に国民は閉めることはできない。運動の力がある限り、運動の期待によって鳩山政権は箱を開けてしまった。アメリカの圧力と財界の圧力によって、あわてて閉めようとしたけれども、閉まるかどうかわからない状況があると思います。
そういう中で鳩山さんは、実は切っての改憲派であります。鳩山さん個人は明文改憲をしたい、アメリカの圧力もそうだ、財界の期待もそうだ。しかし鳩山さんは一方では改憲を阻止するような大きな国民の期待と力のもとで登場している。ですからわたしは明文改憲を鳩山政権のもとで阻止する可能性が出てきたと思います。改憲手続き法も今年の5月18日に施行されることになっていますが、これもわたしたちの運動次第で施行を止める、あるいは改憲手続き法の廃止を掲げてその実現に向けて大きく前進する可能性が出てきた。他方アメリカの力は強い、そういう中でいま鳩山政権が右の力と左の力の中で悩みながら行こうとする方向が解釈改憲の体制です。
鳩山さんは普天間の問題でも解釈改憲をやらなければいけない。アメリカに対して待って欲しいと言えば言うほど日米同盟のグローバル化の危険が強まります。アフガン派兵や、なぜいきなりハイチ派兵というものが出てきたか。これは、普天間の問題で鳩山政権が国民の声と運動の力を背景にしてアメリカに対してがんばるのであれば、何もアフガンとかハイチへの自衛隊の派兵で譲歩する必要はない。ところが彼らは、大きな国民の期待はあるけれども、日米同盟を廃棄して新しい平和の方向に外交安保政策を転換するという自信がないわけですね。鳩山政権は普天間での譲歩を獲得するためにも、自衛隊の海外派兵をいっそう進めなければいけない。しかしそれは明文改憲によって突破することはできないので、解釈改憲の体制をとらざるを得ない。
小沢さんの主導でおこなわれている内閣法制局長官の答弁禁止は、まさにそういうための細い道です。国民の圧力とアメリカの圧力のもとで、細い道として、自衛隊を解釈によって武力行使目的で海外派兵を達成するためには、内閣法制局長官のいままで積み重ねられてきた解釈を変えなければいけない。もっと言えば、明文改憲の細い道を力でもって、制度でもって突破するには、衆議院の比例定数を80削減する。いまの得票率をとったとしても共産党は1か2、社民党は1か0という状況に落とし込んで、自民党と民主党だけが国会で議席を独占する体制をつくる。これによって、60年以上の間できなかった明文改憲の道を大きく切り開き、事態を突破するという衝動もあると思います。
他方、構造改革をやめろというかたちで鳩山政権は誕生しました。改憲をやめろという声以上に鳩山政権を押し上げた。だから鳩山政権は個々の福祉を実現し、子ども手当も、高校授業料無償化もなんとか実現する。しかし、鳩山政権は本当に構造改革をやめて新しい福祉の政治、25条を実現するための政治に転換するかというとこれも自信がない。財政が拡大して95兆円の概算要求が出たときに、財界が、95兆円もの予算案を組んだら日本の財政は破綻する。長期金利が上がって日本経済は二番底になるぞ。福祉のばらまきによって日本経済は破綻するぞ。こういう圧力のもとで鳩山政権は財政の拡大がなかなかできなくなる。
消費税によって事態を突破しようとするが、小沢さんの約束で消費税は上げませんと国民に言ってしまった。普天間の問題と同じように福祉の政治はやりたい、しかし財政の拡大は認められない。消費税で財源を充実することはできないし、大企業の法人税を上げることはできないという中で、福祉を拡大するためには同額の福祉をスクラップアンドビルドして切り捨てる、こういうかたちで対処せざるを得ない。全体として個々の福祉政策は実現するけれども、構造改革の路線は継続せざるを得ない。そのために行政刷新会議で事業仕分けをするけれども、そんなにたくさん切れるものじゃない。最終的には麻生さんが失敗した消費税によって、これに対処せざるをえないのがいまの方向だと思います。
大きく安保の50年、安保と企業社会を眺めてみると、この50年は日米軍事同盟と大企業本位の体制をつくろうとする動きと、それに抗して憲法9条を守って自衛隊の海外派兵を阻止しあるいは25条を実現して企業社会を変えていく、福祉の政治を変えていく、90年代に入れば構造改革の政治をやめていこうとする、そういう力のぶつかり合いの50年であったと思います。90年代以降の20年、新しい軍事大国化とあらたな構造改革の中でいっそう大きな攻撃を受けたけれど、かろうじてわたしたちの運動は改憲を阻みまた構造改革の矛盾に対して政権交代というかたちで対処することができました。
そういう中で鳩山政権は、大きな国民の期待とともにアメリカや財界の圧力のもとで、どちらの方向に行くかを大きく悩んでいるのがいまの状況だと思います。構造改革の継続と解釈改憲から、明文改憲の軍事大国化の継続というかたちにならざるを得ないけれども、いま鳩山政権がそういう方向に一瀉千里に走っている状況ではないというのが現時点だと思います。
最後に、9条と25条の実現を目指してわたしたちはどんな方向でこれからの日本社会に立ち向かっていったらいいのかを考えてみたいと思います。3点箇条書き的に言っておきたいんですが、ひとつは鳩山政権のもとで改憲、安保、構造改革という問題について、これを鳩山政権の、9条改憲それから構造改革の継続の方向をなんとしても止めるための運動をいま強めなければいけない。安保についての試金石は、わたしは普天間の問題であり改憲の問題であると思います。
まず、明文改憲については鳩山政権にはっきりとこれをやらせないという約束をさせる。改憲手続き法については施行させない、憲法審査会については立ち上がらせずに廃案に追い込んで根本的な見直しをする。こういう方向を実現することが可能だし、またそれを目指さなければならない。そういう体制をつくるためにも、いまの小沢体制と小沢体制のもとで進められている国会の権威的な改革を止める必要があります。それから衆議院定数の80削減というような民主主義的な国家体制の改廃、これはおそらく改憲と構造改革を進めていくためには、国民の力をそういうかたちで抑えないと収まりがつかないということで小沢さんを中心としたグループが出している方向だと思うんです。これをなんとしても止める必要がある。これが第一のポイントだと思います。
いまパンドラの箱が開けられた、その状況をふまえながら憲法9条を実現するような、日米軍事同盟とは違った道、それから構造改革と大企業本位の経済体制とは違った道、25条を実現するような道、この道に向けての大きな一歩をいま踏み出す必要があります。それを踏み出すことによって、改憲を本当に阻止して新しい日本をつくっていくことができるんじゃないかと思っています。
9条の実現という点では、9条改憲阻止から9条を実現することを、改憲反対の運動は見据えていく必要がある。鳩山政権が東アジア共同体という言葉を使いました。彼がどのくらいの意味でこれを使っているのかはよくわかりません。しかし鳩山さんが東アジア共同体という自公政権が使いたがらなかったこの言葉を使った背景には、明らかに東アジアの平和保障とともに、東アジアの中国や韓国をはじめとした共通の地域経済圏の構想があったと思います。それを実現するためには日米軍事同盟を根本的に見直さなければできないし、歴史問題に対して根本的にわたしたちが態度を変えなければいけません。
北朝鮮問題についても、日朝の国交回復を含めた根本的に政策を変えていかなければいけない。そういう意味では東アジアの平和の実現の中で、9条を本当に実現する日本が展望できます。その試金石になっているのが普天間の問題であり、北朝鮮の問題であり、自衛隊の派兵の問題だと考えられます。そういう問題を解決する中で一番大きな力は、日韓を中心としたアジアの連帯、市民運動がアジアの連帯をつくっていくことが、この9条を実現する上で非常に重要なポイントになるんじゃないかと思います。
25条の問題はもっと深刻です。25条の問題は9条と同時に大きな、さまざまな社会的な運動によって構造改革の反対の運動はたたかわれました。しかし9条と違って25条は実現をするのにもっともっと力がいるんです。9条はわたしたちが運動をやって、とにかく自衛隊を派兵させない、海外で武力行使をさせないという国家権力の手を縛ることによって9条の命を守ることはできる。ところが25条は国家権力の手を縛るのではなくて、国家権力が大企業本位の政治をやめて福祉の政治のために手を使うこと、政治をおこなうことを求めなければいけない。それはわたしたちがもっと大きな力で国の政治をそういう方向に規制しない限り彼らはやろうとしません。
25条は改憲もされていないのに、いまぼろぼろのかたちで貧困の問題、格差の問題が深刻化している。この状態をなくすためには25条を具体化するような新しい福祉国家の政治をわたしたちの手でつくっていかなければいけない。安保条約改定反対闘争のときに残された政権構想を、わたしたちが再び、新しい政治をつくる。9条と25条の政治をつくるための政治の構想、というかたちでわたしたちの運動を展望していく、対抗国家構想をつくっていくようなことが25条の復権のためには必要なんじゃないかと思います。安保50年というものの中でわたしたちがいま直面している構造改革の政治を止める動き、それからなんと言っても明文改憲と普天間の問題、自衛隊の派兵の問題、これを止める動きは、わたしたちが憲法9条と25条に基づく政治を実現していくための第一歩でもあるということを強調してわたしの講演を終わりたいと思います。
赤石千衣子さん
憲法25条だけでなく24条の実現がないと貧困の問題は解決しないと考えています。
2009年のお正月前後に派遣村が大きな話題になりました。派遣切りになった500人以上の方が日比谷公園にいらして、いろんなかたちで、住居を失った人、収入を失った人がいることを表しました。たぶん政府は震え上がったと思います。今まで見えなかったものを見せたわけですから。
私たちは、今年は政府が対策をしなさいと言って、公設の派遣村が東京ではオリンピックセンターにつくられ800人がいらした。夕方に帰らなかった人がいたとか、一時金を持ってどこかへ行ってしまったとかバッシングがおこってしまいました。間違った報道でした。それは品川からバスの、ものすごく遠い寮で、なかなか戻れない、職探しに奔走して帰れない、連絡の方法もないということが報道されませんでした。
私は女性と貧困の問題もやっていますが、路上に出る女性は少ないです。去年の派遣村でも7~8人、今年は16人といわれています。私も、その何人かの生活保護申請の同行支援をし、男性の動向支援もしました。なぜ女性が少ないかにふれてみたいと思います。
昨年、生活保護費の母子加算の復活が選挙のマニフェストに象徴的に扱われ、復活にかなりの攻防がありました。23600円です。自公政権で全廃され、それを復活するときに、マニフェストに掲げているのに財務省はこれだけ抵抗するのかというほど、なかなか実現しませんでした。そこで、当時者の方たちにどんどん発言してもらいました。一人の方の発言を聞いていると、日本の貧困の縮図みたいでしたのでそれをお話しします。
50歳の女性で、子どもが16歳ぐらいの高校生です。東京北部のアパートに暮らしています。彼女は四国の伊方原発の近くに生まれて育っています。中学を卒業して、オイルショックの後に集団就職で名古屋の近くの紡織工場に勤めます。定時制に行きますが、仕事が忙しくて続けられず、四国に戻ります。お父さんがギャンブル依存で、お母さんが内職を必死にしてもお金が足りず、彼女の仕送りもお父さんのギャンブルに使われてしまう。それでスナックと喫茶店で働き、お金を全部親に渡してもギャンブル依存は直らない。
20歳のときに、お店のお客さんに「結婚して救ってあげよう」と言われ、結婚します。彼は沖縄の出身で、伊方原発の下請けで働いている。結婚してみたら、ものすごい暴力夫でした。夫は30万円稼いでいるけれど、生活費は10万円しか使っちゃいけないという。スーパーで安い魚を買って魚料理をして待っていると、カレーじゃない、と怒ってボコボコにされる。こういう暮らしを続けていて、とうとう東京に逃げてきました。
週刊誌の募集を見てキャバレーに勤めます。80年代のバブルのころはとても儲かったそうです。90年をすぎたころキャバレーのお客さんと結婚しました。ところがその夫は非常に稼ぎがありません。子供が生まれ、生活費を下さいと言うと1万円くれます。1万円ではやれないので、また下さいというと、また1万円くれます。その人は1回に1万円しかくれないことがわかりました。実は釣り堀の経営者で、借金地獄に陥っていたんです。彼女は自分の貯金を取り崩して生活に当てていたけれど、ゼロになったとき、これじゃだめだと思い、離婚を決意して逃げています。
母子寮に入って子どもを夜間保育に預けて、昼夜働く生活を続けました。結局、体をこわし、リュウマチの持病も出て、今は生活保護を受けています。
聞いたとき、日本の縮図を見るようで、沖縄から伊方まで出てきて私はびっくりしました。こういう方が母子加算の攻防のときに、一生懸命発言してくれます。
なぜ母子家庭がこれだけ貧困なのか。就労率も高く一生懸命働いているのに貧困です。先進国の中で3番目によく働いているシングルマザーが貧困である。これは女性の賃金が低く抑えられているからとしか言いようがありません。この10年間、2度にわたって社会福祉が削減されました。この中に、児童扶養手当が5年を限りに支給しない制度が導入されそうになったり、母子加算が廃止されました。その結果、母親は二重就労を余儀なくされており、子どもと接する時間もありません。シングルマザーの貧困は、女性の貧困であり子どもの貧困です。
子どもの貧困
とうとう政府は貧困率を発表しました。一人親の貧困率は54.3%、二人に一人が貧困という非常に深刻な数字です。貧困率は100人のうちの50番目の中央値の人の可処分所得の半分以下のパーセントを示しています。これを相対的貧困率といいます。いろんな世帯を並べると、一人親は貧困世帯のところに54.3%いるという意味です。子ども全体をみると14.3%が貧困といわれています。
このあいだ、子どもの貧困をなくそう、という集会があり、高校の授業料が払えない子どもが発言してくれました。親が働けなくて、定時制に通っています。携帯電話の工場で働いていたけれど、仕事が忙しくて学校の授業に間に合いません。給食の時間にも間に合いません。定時制では勉強できないから、工場を止めて親の自営業を手伝おうとしましたが、なかなかうまくいかなくて授業料を滞納し本当に困っています。こういう声がありました。また、介護の仕事に就きたいし、先生も勧めてくれたから、介護福祉士の学校を受け、「受かっちゃって」と、その子は言いました。「続けられるかわからないんです」と言うんです。いま定時制でも倍率が高くなって、行けない子がいます。私立に
(図表-1)
いけないから仕方なく定時制に行くんです。1.何倍かで、大阪でも埼玉でも100人以上が入試に落ちています。こんなこといままでありましたか?
図(図表-1)は、子どもの貧困率の推移です。日本はこの10数年で上がっています。アメリカも高いです。北欧諸国は5%以下になっています。イギリスは下がっています。ブレア政権にはいろいろな評価がありますが、子どもの貧困率に関しては2020年までにゼロにする政策目標を掲げていろんなことに取り組んだ結果、10%までに下げました。だから、勿論大変なことですが、政策によっては子どもの貧困率は下げることができるということです。自然現象で増えているのではないということを先ずお伝えしたいです。
その上で女性の貧困についてみます。派遣村で派遣切りの男性があれだけいると、とても深刻だと思います。また非正規労働者が増えていることも大変なことです。でも、非正規労働者の男女の割合をみると、圧倒的に女性の方が多いのが図表-2のグラフです。女性の非正規労働者は50%を超えています。それに対し男性は増えていて深刻ですが10%ぐらいです。
労働力率の4つのグラフは、1992年と2007年の男女の労働力率の年令別変化の図です。M字型雇用といって女性の労働力だけが30代で1回下がっています。男性は30代で減りません。子どもを育てるときに女性が辞めているという図です。このへこみみは、だんだんに少なくなっていますが問題はその内実です。女性は、以前は20代で新卒のときに正規労働者、子どもを生むまでは正規で、子どもを産み育ててパート就労というような、みなさんが体験しているか、配偶者がそうなのか、というパターンでした。
でも今は変わっています。若いときから非正規になっています。2007年の白いところがこんなに膨大になっています。パート・アルバイトの数です。派遣労働者もこんなに増えています。それに対して男性は薄皮まんじゅうくらいの非正規の厚みです。女性の方は肉まんの皮の厚みぐらいが非正規の割合です。にもかかわらず女性のビンボーはいわれてこないのはどうしてなんだろう。
女性の貧困率をみると高齢女性が一番深刻です。結局、“女性は結婚して男性に扶養されるから、低賃金でもいいじゃない”という考え方が私たちの中にあるからだと思います。低賃金でも世帯収入があるから大丈夫だといってきました。でも、家族形態の変化からみると、これでは済まされない事態になっています。一人親世帯も一人世帯も増えています。結婚するのがあたりまえの時代ではなくなっています。結婚しても夫がリストラに遭うかもしれないし、DV離婚するかもしれません。いろんなリスクがある時に、一人でも生きていける制度がない限り困難は倍加します。
もう一つ、日本はこの20~30年、主婦をパートで雇ってきました。パートのことを囲みで入れています。主婦パートが800万人います。この人たちはどういう存在なのか。
103万円のカベをご存じでしょうか? 夫に配偶者控除がつかなくなる限度額の103万円以下で働くことが常態化している人たちです。この人たちは会社にとっては非常に有利な労働者です。社会保険料、年金、健康保険料、雇用保険料を負担しなくてもいい。だから賃金の10%ぐらいを企業は負担しなくてもいい。
会社が忙しくなった時にはたくさん使い、ヒマになったら「来なくていい」と言える。「夫に扶養されているんでしょ」と言える、会社にとって便利な働き方の人たちです。
その人たちが夫に扶養されている人たちだけなら良かったんですが、もうそうでなくなりました。まず、シングルの人たちがパートで働くようになりました。また企業はこういう働き方をどんどん広げていって、若い男たち、女たちもどんどん組み込まれてしまいました。主婦パートの働き方が若い男女と、稼ぎ手の夫にまで広がったことがこの20年だったと思います。不安定な雇用をどんどん広げて変化していきました。
派遣村で路上に出てしまうような人がいることが見えて、本当にヒドイネと思うでしょうが、この元凶はどこにあったのか。不安定でしかも社会保障をつけずに便利に使える働き方をつくってってきたからだと思います。これが憲法24条の問題です。つまり日本は、男性も女性も一人分の稼ぎを得て、保障を得るという働き方をつくってこなかったすごく特殊な国です。さっきのM字型雇用は、先進国の中で日本だけです。韓国もすこしそうですが。先進国は女性も台形になっています。日本は不安定雇用を常態化していいことにしていました。夫は家事も育児もしなくていい。会社にこき使われて24時間滅私奉公する。妻は家で家事育児とパート労働をする。というように日本は、はっきり性別役割分業を固定化してきた国です。
これは雇用の面でも大きな問題をはらんでいます。貧困問題について、1995年の経団連の日本型雇用を元凶のように言う方が多いです。でも私は別に考えています。1985年に男女雇用機会均等法ができ、労働者派遣法が成立しました。派遣法は蟹工船のように人を紹介することで、直接雇用でない道を開きました。同時に年金法が改正されて第3号被保険者、つまり保険料を負担しないで年金に加入できる主婦という存在を制度化しました。もちろん前から配偶者控除の制度はありましたが、制度化したあたりから問題があり、第3号被保険者は一時1000万人にのぼったときもありました。これらの制度が不安定な労働者を大量につくってしまった原因だと思っています。このことを見据えていかないといけないと思います。
そのあとバブルの崩壊とともに不安定な労働者をどんどん広げていきました。パートという存在ですが、この人たちは今では責任のない軽い仕事をしているのではありません。たとえば、パートの中で商品管理をしているとか、基幹的な仕事である人を廻す仕事をさせられ、パートの女性もそれに応えてしまっています。でも賃金は時給800円のままなんです。戦力化され、基幹化されながら企業にいいように使われている人が大量にいることが、他の労働者もそこに待遇を下げられる穴をつくってしまうことです。
ですから私は24条の、家族のなかの個人の尊厳、そして男女の平等をはっきりすることが貧困の問題とかかわると思います。たとえば家族の中でも家事・育児をきちんとジェンダーの視点から平等化していくことと、この貧困の問題が大きくかかわっているのです。それは男性の重荷も取り去ることです。
私は、派遣村で出会った方やシングルマザーの相談からみえる男性の貧困をみています。たとえば、男の沽券というのでしょうか、派遣切りに遭った男性がそのことを妻に言えないので、サラ金から借金をしながら妻にお金を渡している。当然返せないうちに、あるとき請求書が来て家にばれてしまいます。そこでどうしたの?という話になり暴力を振るう事例があります。結局、男性は出て行って、女性は生活保護の相談に来ます。「ホームレス中学生」という売れている本で、お笑いの子のお父さんも、妻が亡くなって父子家庭になりますが、あるとき子どもたちに「家族解散!」と言ってしまうんです。それからホームレスになってしまいます。
男だから家族を養わなければいけないという重荷から、男はそれを立派に果たさなければいけないというところから、それが出来なくなったときに路上にでてしまっている方たちもいます。私は、そういう人たちにジェンダーのとらわれ――男はこうでなければいけない、女はこうでなければいけない――がとても強いような気がします。自殺についてもそういう感じがあります。職を失ったときに、自分の人生が終わったと感じたりしています。そういうジェンダーのとらわれから女も男も自由になって、一人で生きていける社会をつくっていかなければいけないと思います。
憲法の14条や24条の理念は、日本では特殊なかたちで実現されてこなかったのではないでしょうか。形式的には、たとえば雇用均等法だって、男女同じように適用されることになっています。でも実際は、コース別人事があって総合職と一般職に分けられた。この一般職は、はじめは良いようにもみえました。そんなに責任はなくて解雇されなくてすみます。でも今これはほとんど派遣に代替されています。建前だけの平等の法律ではなくて実質的な平等のある制度でなければ、結局そこにジェンダーの格差があれば貧困にまでつながります。バブルの崩壊で企業が人件費を減らそうという時に、そこを衝いてきたのです。そこを狙われたな、という思いです。
14条と24条、性差別のない、性に中立な制度をつくることが大きな課題ではないかと思っています。
いま民主党連立政権の評価はいろいろだと思いますが、選挙で勝ったその要因の中に反貧困の運動の盛り上がりがあったのは事実です。内閣府の男女共同参画大臣に福島みずほさんがなっています。彼女は“ジェンダー平等の社会をつくる”という意気込みで、この国会に民法改正法案を出すと言っています。また、いろいろな施策をつくろうとしています。
去年、女性差別撤廃条約の国連の委員会が、日本の男女平等政策の審査をしました。非常に厳しい意見が、8月に日本政府に対して最終見解として出されました。日本政府は答えなければいけません。チャンスはあるときに使わなければいけないので、福島さんたちが男女平等政策をがんばるときには、応援したいと思います。民主党政権は良いも悪いもごっちゃの中で、運動の側がどう押していけるか、ということだと思います。
社会保障は難しい時期にぶつかっています。いま生活保護制度しか使えるものがありません。現実的には800人来た派遣村の人たちを、政府がつくった第2のセフティーネットにのせようとしたんですが、使えませんでした。生活保護になると丸抱えです。アパートの費用も、生活費も、医療費もすべてになり、一人あたり単身で11~12万円を出します。こういうことをしていると地方自治体の財政も大変だという記事も出ています。
でも生活保護を受けられるはずの人の補足率は、15~20%と非常に低いといわれている国です。100人でいえばあとの80~85人は保障のないまま放置されてきました。この人たちにとっては、何か保障が必要だということを目に見えるかたちにするには、運動の側は生活保護をとっていく以外にありえないんです。その結果、財政は大きな負担を強いられますが、結果をみせて次の制度を作らせていかなければならないのです。
労働者派遣法ですが、派遣という働き方は戦後ずっと禁じられてきた働き方です。人が人を差配することは、戦前の反省からやられていませんでした。でも、それが高度な専門職に限って派遣という働き方を認めましょう、という言い方で25年前にできました。それが数年で製造業にまで拡大されてしまいました。今回の派遣法の審議も、財界・使用者側の危機感が前面に出されています。これを押し戻していかなければなりません。派遣という働き方が家事・育児を担う女性にとって有利な働き方だと使用者側の中小企業の方が審議会で堂々といっています。本当に盗人猛々しいと思い、許してはいけません。
正社員の代替として派遣が入るのは禁じられています。常用雇用の禁止は項目に入っていますが、3年後の禁止で、しかも2年の猶予となっていて実施は5年後になります。こんなバカな法律があると思いますか! ぜひ注目して下さい。
あとは住宅政策です。いかに貧困だったかは派遣村を見ればわかります。どう住宅を造っていくのか。
教育を受ける権利は憲法26条ですが、もうガタガタです。日本は教育を受けるのに、私費負担が最も高い国の一つです。高校の授業料無償化と言いますが、学力がなくて私立に通わなければならなかった子どもたちには、たった12万円ではまったく足りません。授業料が払えなくて卒業できない、卒業証書がもらえない子どもたち対してどうするのか喫緊の課題です。
本当はすぐ隣にあるんですが、あまりにも見えてこなかった貧困の問題です。見ようと思えばたくさんの事例と問題があります。チェーン店の飲み屋に行けば、そこに働いている人はどんな待遇なのか。もしかしたら高校の授業料が払えない子どもたちかもしれないし、大学の奨学金でブラックリスト化する子どもたちかもしれない、という目で見ていかないと見えるものも見えません。それを見ていくことによって、一緒に、政府を押していきましょう。ありがとうございました。
加藤 裕さん
1月24日、日曜日ですが、私も事務所で原稿が間に合わないとか言って仕事をしていましたが、パソコンのホームページを朝日のトップページにセットしておいたのですが、午後8時ちょうどに稲嶺候補勝利のテロップが流れたのです。「おいおい、8時かよ」と思いました。投票の締め切りの時間です。これはマスコミがよほど稲嶺さん有利と読んでいたということです。終わってみると、1万8千対1万6千の、だいたい2千票差でした。トリプルスコアとか、ダブルスコアというものではありませんでしたが、名護市長選挙というのは接戦の時には数百票の差で決まるようなことがありましたから、本当に大きな差がついたということができます。4万人くらいの有権者のなかで、このように民意がしめされました。
私も選挙期間中、何度か名護市を訪れ、雰囲気はいままでの選挙とだいぶ違うなという印象がありました。町をぐるぐる歩くと、ほとんど稲嶺さんの候補者の宣伝で、宣伝カーや旗を持って歩いて宣伝する人たちで、自公の推す現職市長の島袋さんの宣伝は自民党の車がちょっとやっていたくらいで、圧倒的に町の雰囲気は稲嶺さんでした。しかし、それは雰囲気であって、実際には自民党・公明党の候補は期日前投票に全力をあげていたわけです。「街頭で宣伝なんかやってもしかたがない、とにかく一票、一票、全部動員することだ」ということで、期日前投票の制度を悪用して、名護市の建設業屋を中心に締め付けて、連日、期日前投票に動員しました。最終的に期日前投票数が1万4千弱ですから、3分の1を越える投票がすでに投票されていたわけです。マスコミは期日前投票も出口調査をしています。最初の3日間くらいは島袋さんが圧勝していましたが、そこでは最後の3日間くらいは当選した稲嶺さんが勝利している。この選挙の時の自民党の集会で、比嘉鉄也さんという先の市民投票の直後に基地を受け入れると言って辞職したとんでもない元市長が、「期日前投票に行った人、手を挙げてください」とやると、千人以上の集会でほとんど全部手を挙げる。「皆さん、終わりましたね。じゃあ、今度は回りの人を誘って行ってください」という。こういう選挙をやって、建設業界を締め付けて今まではやってきたのですが、今回、最後は息切れをして効かなかった。それが今回の選挙でした。
今回の選挙の勝利は、まず第1には「統一」の力による勝利であったということです。市民投票のあと、98年、2002年、2006年と3回にわたって辺野古の基地問題が焦点になって選挙が行われ、3回続けて敗れました。まえの選挙の時には基地反対の候補が分裂して、2人の候補が票の取り合いをして敗れました。今回の選挙、稲嶺さんが当選してよかったということになりますが、もともとこの人は市の行政マンで、保守市政の中で役職にあがってきた人で、もともと保守的な方です。最初の立候補表明の中では現在の案には反対だと意志表明をしておりましたが、断固として辺野古への移設に反対するとは言いませんでした。このため、もしかすると、この候補が当選すると途中で政治決着をする、受け入れる可能性があるということで、こういう原則的な態度をとらないのはまずいということで、もう一人、比嘉やすしさんという人も立ちました。
しかし、反対派が2人立てばとうてい勝ち目はない。これまで辺野古の反対運動を続けてきた市民運動がこの2人に対して懸命に働きかけを行いました。そして何のためにこの選挙を戦うのか、やはりこの辺野古の基地建設を、この民主党政権下で息の根を止める、これが最大の課題でした。そのために稲嶺さんに原則的な立場に立ってもらう、そして一本化する、これが最終的には比嘉さんは稲嶺さんと選挙の協定、覚え書きをつくることで、立候補を取りやめた。覚え書きには「辺野古、大浦湾の美しい海に新しい基地はつくらせない、名護市に新たな基地はいらないということを最後まで貫くことを市民の皆さまに約束する」、「最後まで」、これが重要です。これを決然と表明させる、稲嶺さんもその立場に立つ、これが市民に勇気を与え、選挙運動への力になったということです。
さて、これまで市長選挙、3連敗してきました。それは沖縄県民の基地の重圧に耐える思いがありつつも、やはり復帰までの27年間の占領、そしてその後の沖縄振興開発計画の失敗による経済的な負担、貧困、こういったものにあえぐ県民の声があったからです。振興開発計画は72年の復帰後、約8兆円が財政投下されました。それでも県民所得は全国の7割、失業率は全国の倍、40年たっても変わらないわけです。財政投下するにあたって、沖縄への投下は基本的に持続可能な経済政策ではないわけです。落としても、落としたきりで、それが循環して経済が発展するという使い方はしていません。それの繰り返しで、名護についても同じです。名護はSACO合意があったあとに、基地受け入れのために相当なアメがもたらされました。嶋田懇談会事業、北部振興策1千億円、そして米軍再編交付金です。これは基本的には沖縄県北部自治体に交付されるのですが、この大部分が名護市に流れていきます。
昨年、私、辺野古・高江にご案内したときに辺野古に行かれた方も沢山いると思いますが、国道329号線から辺野古に入るところに、大きな海洋何とかセンターという、いまでも名前を覚えられないのですが、国の研究機関があって、誰も何のセンターかよくわからないような建物があって、そういう国の機関がこのお金でできました。左手の山を見ると、沖縄工業高専という立派な、どこの大学かと思うような広大な敷地の立派な工業専門学校ができています。辺野古の集落に入るときには、こんな小さな集落になんでこんな立派な公民館があるのかしらというような公民館があります。全部、この事業で作っているのです。例えば公民館を造っても、作ったあとの経済活動はありません。ですから、作っておしまい。次に何らかの経済振興を求めるとすれば、次のハコモノを求めるしかない。依存症というのはなかなか断ち切ることができません。薬物、アルコールの依存というのは、依存が始まるとどんどん少量では足りなくなって、追加しなければ生きていけなくなります。依存を断ち切るのは大変です。沖縄の振興計画と基地に対するアメという財政投下は、この持続可能な経済というものを全く無視して、アルコール依存、薬物依存に沖縄経済をおとしめていった。だからこそ、この呪縛の中で、名護のシャッター通りといわれるような、経済的に地盤沈下していることを日々感じていると、どうしてもカネが入ってこなければ、という思いがあって負けていくわけです。
今回の選挙でもこんなエピソードがありました。名護市の某行政課長がその職場にいて、年度前に辞めた非常勤の元職員に電話をして、「おまえ、島袋(前市長)に入れなければ仕事なくなるぞ」と脅したというのです。これは選対から抗議しました。こういうことがどこでも公然と行われていったわけです。このような財政投下依存が継続したために、失業率は改善するどころか、10年あまりのうちに8・7%から12・5%まで増大する。市債残高もドンドン増える。ハコモノは作ってくれても、維持費は市の予算でかかるわけです。詳しいことは2月号の「世界」の普天間特集に前泊さんが書いていますから、読んで頂ければと思います。
しかしながら、このような経済振興が名護の経済に何も役に立たなかったこと、次第に化けの皮がはがれてきた。そしてこの民主党政権のもとで希望が見えてきた。今度こそ、この一撃で辺野古の基地問題を終わらせようという市民の声が高まったことが、この選挙の結果になったんだろうと思います。県民・市民の辺野古移設反対という意志ははっきりしています。96年のSACO合意が行われた当時から、10年以上、何度にもわたって世論調査が行われていますが、必ず7割前後の県民が県内移設に反対するという結果がでています。民主党政権発足後の琉球新報、沖縄タイムスの世論調査でも県内移設反対が3分の2です。このような世論が選挙の勝利を導いたと思います。
さて、民主党政権下に置ける普天間基地移設問題ですが、重要なことは渡辺先生がお話しされました。ハイ、私の報告はこれで終わりと言いたいところですが、せっかくですから簡単にお話させていただきます。
沖縄の民主党には、全国と違って自民党から流れたのはほとんどないのです。沖縄では自民党は強い結束を誇っていて、沖縄民主党はあまり自民党から影響を受けないで発足した。沖縄ビジョン2008という、全国の民主党の政策集があります。今回の総選挙よりも1年も前のことですが、ここでは普天間基地の県外移設ということを公然と掲げていました。そして、昨年の衆議院選挙では県内の民主党の候補者はみな県外移設を掲げましたし、沖縄にきた鳩山さんも県内移設反対ということを表明して帰って行きました。
ところが選挙のマニフェストでは「米軍再編の見直し」というあいまいなことしか書いていない。県外移設反対とは書いてありませんでした。3党の連立合意の時にも、社民党が普天間の県外移設を明記するように要求したのですが、最終的には民主党が「フリーハンドをなくすのはまずい」と拒否しつづけ、「沖縄の基地負担軽減」というような主旨の文言にとどまっている。民主党は政権につく前は、県外移設というような威勢のいいことを言っていたのですが、いざ政権につくと、恐くなって、県外移設とあまりいうとアメリカに怒られるかなあと思い始めたのが現状です。このあと、鳩山さんにしろ、他の政府の閣僚にしても、迷走していることはいちいち発言を挙げるまでもないことだと思います。
この数ヶ月のあいだに、普天間を残すだとか、辺野古に移設だとか、嘉手納統合だとか、下地島だとか、徳之島だ、馬毛島だ、硫黄島だと、いろいろあり、キリがないですね。こういうような話がありましたが、稲嶺さんが当選した後、平野官房長官は選挙の結果は必ずしも尊重する必要はないということを記者会見で述べました。また岡田さんは最近、他の移設先が見つからないと、このまま普天間は移らないと述べました。平野さんや岡田さんは、率直に、正直に「こういうこともありなんだろうなあ」ということで話したんだろうと思いますが、このような発言を政治家がするということは、政治的センスがないというか、ほんとうに沖縄県民がどれだけ普天間基地・米軍基地の重圧を感じているのかということを一顧だにしない、机の上だけの議論をしている人たちだということをすごく感じさせられ、沖縄ではそういう発言の度ごとに沖縄タイムズ、琉球新報の毎回、トップになり、社説で問題にされ、投書欄はほとんどがこのような発言への批判で埋め尽くされるということになります。
こういう中でも民主党はいったん、渡辺先生の言葉で言えば、パンドラの箱を開けてしまったわけですが、一生懸命開けたままにしておくのか、閉めるのかを迷いつつ、とりあえず自民党がやってきたことを引き継いで時間稼ぎをしようとしております。
普天間の辺野古移設に関する予算は今年の200数十億の執行がされておりませんが、今年度の執行はもうしないと、この前、防衛省が態度表明しましたが、辺野古の移設のための環境影響評価手続きがいまなされていますが、方法書、準備書を作成し、最後の評価書という最終的な結論の報告書が今出される段階です。どうせ辺野古に移設しないのならもう止めておけばいいのに、いままで環境影響評価手続きを進めているからということで、年度内にはこの環境影響評価書を正式に提出するということを防衛省側は表明しています。このように民主党は迷いつつも、既定の路線をただそのまま、何の打つ手もなく、自民党のままの政策を引き継いでいるという現状にあります。しかしながら、もはや辺野古への移設は、沖縄県内の政治情勢を考えると、ほぼ不可能と言ってもいいような状況になりつつあります。
いままでは、名護市と沖縄県知事が受け入れを表明していた。自民党政権はこれをもとに、民意は辺野古移設だと言っていたわけです。野に下った自民党の谷垣総裁は「民意は辺野古の受け入れだ」と言って沖縄県知事の話を引用している。県知事の意見は民意ではないというのが谷垣さんはわからない。しかし、こういって引用されていた沖縄県知事、名護市長の態度がそのまま維持できなくなってきた。もちろん、県民世論は圧倒的多数が反対です。名護市長がかわりました。自民党の沖縄県連は昨年11月に方針転換しました。野党になってしまって、このまま民主党のもとで県内移設反対という話が出ているときに、自民党だけが辺野古に移せというのはあまりにも座りが悪い。自民党県連も県内移設反対に動いている。今度の3月の沖縄県議会は全党、全会一致で県内移設に反対する方向で、いま議論が進められています。これは自民党政権時代にはあり得なかったことです。そのなかでベストではないが、ベターが辺野古だと言いつづけてきた自公知事の仲井眞沖縄県知事が孤立している。沖縄県内のメディアでも何度も「孤立」という記事が出ている。支えを失ってきた。仲井眞さん自身もベストは県外だと言わざるを得なくなってきた。それでも本人のもともと言っていた政治的主張がありますから、県内移設を撤回できない状況にあります。
しかし、いまこのような政治状況で普天間をそのまま残す、もしくは辺野古に移設するということは、まさに95年の暴行事件に対する怒り、教科書検定に対する県民の怒り、8万、11万の県民集会をやった怒りと同様のものをわき起こらせる、こういった情勢に沖縄はあるというふうに言っていいと思います。パンドラの箱をあけてしまった、沖縄県民は期待を持ってしまったわけです。あきらめかけていた沖縄県民は当然いたわけです。この前、岡田外相が沖縄に来たときに、沖縄タイムスの岸本社長と話しました。話の内容は内密になどというようなことだったようですが、マスコミの社長と話して内密にもないと思います。沖縄タイムスは翌日の新聞に堂々と載せまして、岡田さんは怒っていたようですが、そのときに岸本さんは、選挙で、鳩山さんの発言でこれだけ期待をさせておいて、またもとに戻るということでは県民の世論は許さないということをメディアのリーダーが明確に岡田外相に伝えています。
昨日の赤旗でしたか、チラッと見たのですが、トップに沖縄の金秀グループという建設と流通の地元の非常に大きな企業の会長さんが出て、やはり建設業もこういった依存体質から脱却しなくてはいけないし、辺野古移設を止めなくてはならないということを発言されています。やはり風向きが変わってきているなあということを感じました。
さてそのなかで、移設先がいろんなところが取りざたされていますが、そもそもなんで移設先を探してあげなきゃいけないのという、素朴な疑問をやはりぶつけなくてはいけない。だって米軍でしょ。米軍がどういう部隊配置をするか、第3海外遠征部隊のどこそこを、部隊が少ないから少し増やせとか、どこそこが部隊が少ないから旅団規模で増やせとか、そんなことをいう筋合いはないわけです。フィリピンのスービック、クラーク基地が撤去されたことに対するハワイの米軍司令官に対するインタビューで、記者がフィリピンの基地が撤去されて軍事上困りませんでしたかと聞いている。司令官は「自分たちはプロフェッショナルだから、与えられた政治的条件で、最大限軍事的能力を発揮するために努力するんだ」と、当たり前ですよ。だってシビリアンコントロールですもの、政治がダメといったら、その範囲で軍人は技術屋さんですから、与えられた武器でどれだけうまく戦うかは自分たちで考えるわけです。ですから、わざわざ外国の軍隊の配置を日本の政府が考えてあげる必要は全くないのです。
鳩山政権が間違っているのはふたつです。一つは国民の声、県民の声に依拠するのかどうかです。もう一つは、安全保障、本当にわが国の安全保障をどのように考えるのかという問題です。もともと民主主義の社会ですから、自分たちがいらないと判断した軍事的な施設、部隊は、安全保障上、どうかにかかわらず、いらないという結論をだすべきなのです。そして、普天間基地自体がそんなに来歴が立派なものなのかということです。普天間基地は沖縄戦の真っ最中に、読谷に上陸して中部を占領した米軍が真っ先にこの地域の住民を追い出して収容所に送り、ここを空っぽにして、この宜野湾市の崖の上の平坦な基地を造りやすい一等地、もともとは学校があったり、役所があったり、中部と那覇を結ぶ要衝となる道路があった中心地域でした。この地域を全部取り壊して、勝手に収奪して、基地を造った。嘉手納飛行場はもともと日本軍の中飛行場という日本軍が使っていた飛行場を拡張したわけですけれども、普天間基地は全くの民間地を戦争で略奪して造った。その不法性というのは、占領中に銃剣とブルドーザーで造った伊佐浜とか伊江島だとかと同じ面はありますが、米軍が無法に獲得した占領地なわけです。それを返せと言うのは当たり前ではないですか。それを盗人に「盗んだものを返して上げるから、他のものをよこせ」といわれて、「はいそうですか」と差し出す奴がどこにいるかと、正々堂々と言わなくてはならないのですが、それが言えないのが安保体制、そして沖縄復帰の問題だったわけです。この問題をきちんと解決し、県民が要らないと言っているものを、まさにその声に依拠することです。オバマだって、民意によって政権を獲得したわけです。国民、県民が要らないって言っているんだから、普天間はだめだ、辺野古にもだめだ、と言っているんです。他に選択肢はないんです。アメリカさんが次の手を自分で考えてくださいというしかない、こういうスタンスに立つことが、まず第一です。
安全保障論議の問題ですが、共産党の志位さんと鳩山さんが党首会談をしたときに、普天間の県民の基地負担を除去することについては意気投合したようなことが書いてありましたが、そこで鳩山さんが最後に「あなたと意見が違うところがある」といって、何が違うかというと、「海兵隊は抑止力として必要だ、ここが意見が違う」と言いました。やはり、ここですよね。今日は安保50年ということが一つのテーマに掲げられていますが、まず海兵隊を安保から切り離すということが重要です。安保条約は日本を守っていると考えている人が多いと思いますが、そういう方々との間で話をしても、「そうはいっても、海兵隊は違う」という議論は簡単にしやすい。
辺野古の基地ができると言われているキャンプ・シュワブは水陸両用車の上陸訓練、珊瑚の豊かな所を踏みつぶして砂浜に上陸する訓練を日常的にやるところです。あとでお話しする北部演習場、ヤンバルの生物多様性の豊かな地域にある演習場、これは海兵隊の新兵などの訓練をするジャングル訓練場です。こういった訓練は何のために行うのか、日本の防衛でもなんでもない、先乗り攻撃部隊、侵略するための部隊として配置され、訓練しているということは非常に分かり易いわけです。だからこそ、海兵隊はいらないのではないかということをまず言う。そして、この海兵隊の戦力を撤退させていくと言うことを通じて、何のために米軍は日本に駐留しているのか、本当に日本の安全保障という観点から米軍は日本にいるべきなのかを問い直す必要がある、その議論のひとつの入り口になるのではないか。ここの議論が非常に不十分だ。政権の中枢にいる人たちも海兵隊そのものの機能について、十分に認識しているのかどうかについて、非常に疑問がるということです。
こういった軍事的な面も考えてみると、最近、普天間基地のある宜野湾市の伊波市長が強く主張していることを紹介しておきます。2006年の米軍再編のためのロードマップでは海兵隊が8000人、グアムに移転することで基地負担の軽減になるということが喧伝されています。しかしこの計画は司令部だけで、実戦部隊、航空部隊、歩兵部隊、砲兵部隊は移転しないのではないかと、ロードマップをみれば思います。しかし実は米軍の中ではグアムの移転は単に司令部だけではなくて、航空部隊や歩兵部隊、砲兵部隊などの多くの部隊も移転することを前提に、内部ではすすめられているということが伊波市長らの調査で明らかになっています。
今日の資料で吉田健正さんの沖縄タイムスの論考を紹介しておきました。同様なことは宜野湾市のサイトの基地渉外課のページに伊波市長の講演録が紹介されていますから、ご覧になって下さい。2006年から、米軍のグアム統合計画の中で、実際に司令部だけではなくて、多くの部隊、固定翼機、回転翼機(ヘリ)も含めて受け入れ可能な施設の建設も計画して、環境影響評価もされてきつつあります。昨年11月には影響評価書も出されています。そこでも海兵隊の訓練や航空部隊の移転を前提とした評価がなされている。ですから、辺野古を要求する米軍は基本的にはグアムに主要な部隊を置いて、サブ、緊急用、訓練用として、辺野古を既得権益としてとっておきたいのではないか。そうであればいっそのこと、軍事的必要性もないと言うことがきちんといえるのではないか。
このグアム移転計画の環境影響評価というのはいろいろ面白いことがかいてありまして、それは事業するときの代替案も検討するのです。環境影響、インパクトが一番少ないのを選んで事業をやるために、アセスをやります。このアセスでは3つの条件が検討されています。ひとつは、移設先のいくつかを検討して、移設先の同盟関係が十分かどうか、2つめは近隣の紛争可能地域へのアクセスが容易かどうか、要するに朝鮮や台湾や東南アジアへのアクセスがよいかどうか、3つめは基地の自由使用、どれだけ制約なく基地が使えるかどうか、この3つが重要だと言っている。この点で、グアムが一番すぐれているという。沖縄はたしかに台湾や北朝鮮と近い、しかし、基地の自由使用という点で制約がある。それに比べてグアムは国内だ。自由に使える。アンダーセン基地は大きい基地だし、テニヤンの訓練場もある。ですから、そこに施設を集約して、アンダーセンには大きな港もあるので、空母、強襲揚陸艦も接岸できますから、海兵隊の輸送は非常に容易です。こういった条件の所に移そうとしています。
グアムの移転を積極的に勧めるかどうかは、問題があります。グアムも沖縄と同様に、グアム島の3分の1が米軍基地に占められている。住民が非常に大きな重圧を強いられている。ですから、決してグアムに移転せよと言うべきではないと思っていますが、米軍自体は着々と別のことを考えているわけです。にもかかわらず、日米同盟だとかなんだとか言って、辺野古移設にこだわることは理由がない。だからこそ、無条件撤去せよと言いつづけるべきだと考えています。
さて、去年、東村高江のヘリパットの建設予定地に見学に行かれた方もいらっしゃると思います。これは北部演習場の北半分を返して、南半分にジャングル訓練をするヘリパットを移設するという計画ですが、地元の住民のみなさんは静かな山の中にヘリパットを造るのは反対だといって座り込みをしてきました。国がその座り込みを通行妨害だといって、仮処分の裁判を起こしました。12月に14人の住民の中の12人には妨害をした事実はないといって申し立てが却下されました。残念ながら運動のリーダーであった2人は、座り込みをしている写真がばっちり写っていますから、通行妨害しているのは事実だから止めろという命令が出てしまいました。
しかし、これは民間のお隣さん同士の問題ではないのです。国が国策を住民の意思に反して押しつけるために、わざわざ住民を弾圧する裁判を積極的に民事裁判を利用して起こして、住民を押さえ込もうとする。しかも、反対運動をしている住民を無差別に、ターゲットにした。12人が却下されたのは、そこに行ってない人を家族ぐるみで訴えた。夫がやっていれば妻も、妻もやっていれば子どももという形です。
よく最近、メディアで大企業を批判すると、企業が名誉毀損だと言って何億払えと恫喝の賠償請求の裁判を起こすことがあります。例えば武富士がジャーナリストを裁判に訴えるというような、そういった裁判を利用して、政治的表現の自由を押さえつけると言うことが最近行われつつあります。その一つを、政府自体がこんな手を使ってやっている。民主主義の危機といってもよいと思います。
これについては3月には本裁判が始まります。私も弁護団ですから、この裁判、ぜひその不当性を明らかにしていきたいと思います。この高江の裁判を闘いつつ、辺野古については、お話ししたとおり、世論を力にすれば勝利まであと一息、5月に決着をつけると鳩山さんは言っていますが、本当に早く、私たちも決着を付けたいと思いますので、全国から声を上げて頂きたいと思います。
池上 仁(学校事務職員・野庭九条の会)
各300円
申し込みは「九条の会」事務局
03-3221-5075 fax03-3221-5076
「九条の会」憲法セミナーブックレット⑧「憲法九条と戦争の記憶」、⑨「憲法九条が生きる日本に」が同時に刊行されました。2009年11月にそれぞれ北海道旭川市、福井県福井市で開催されたセミナーの講演録です。私が紹介文を書くようにと依頼されたのは、両方で講師を務められた大江健三郎さんの古くからの読者であったことを編集部がご存知だったからかもしれません。
大江さんの講演録にしばしば「(笑)」とあるのを見ると、もう45年ほどの昔、私が高校生の時に地元の前橋市で大江さんの講演を聴いた時のことを思い出します。「ヒロシマ・ノート」を刊行されたばかりの時期でした。見るからに憔悴した痩躯から「ヒロシマ・ノート」執筆に関わるお話がたどたどしい早口で語られました。その内容も含めて“痛ましさ”の印象を強く受けたことを憶えています。緊張した聴衆から笑いが洩れるという場面は一度もなかったのではないでしょうか。その大江さんがユーモラスなエピソードで何度も会場を沸かす、その光景が私にはなんだかとても嬉しい。半世紀にわたる「苦境」を生き延びて獲得した分厚な年輪とでも言えるものが感じられるからでしょう。
加藤周一さんの大きさ
「加藤周一さんと意志的に生きること」(8)「民主主義の後退を見逃してはいないか」(9)二つの講演で大江さんは講演の1年前に亡くなられた加藤周一さんについて、「九条の会にとって、また私個人にとって、それからおそらくはここにいらっしゃる多くの方にとって、加藤さんがどれだけ大切な人だったか、また立派な人だったか、見事な人だったか」を心こめて語っています。
若くしてハーバート・ノーマンを「将来素晴らしい人間になる人として、私は彼を見た」と感嘆させ、伊丹万作(大江さんの御舅さんです)自ら監督したことを恥じていたファシズム宣伝映画を10代にして手厳しく批評し、敗戦直後に自分に最も重要な問題として過激ともいえる天皇制批判の論文を書き、1968年「プラハの春」を間近に見聞して「戦車は無能力で何もなしえなかった。そしてチェコスロヴァキアで非武装抵抗した人びとの言葉は、有力だった」と記した、そして80歳を過ぎて「日本の民主主義自体があやしくなっている、戦争をやった時代に逆戻りさせないように、あの戦争直後の民主主義を守り抜こうじゃないかという決意を新たにして」九条の会を始めた・・・。
大江さんの敬意に満ちた紹介で、私もまた加藤周一さんの大きさとかけがえのなさを改めて思い知らされ、その著作を手に取るようにと誘われます。
大江さんは敗戦前後の少年期の体験を語っています。「先生というのはこういうふうに力をこめて、権威をもって嘘をいう職業なのかもしれないと思うようになった」国民学校の日々。「天皇陛下が、お前に死ねと仰せられたらどうするか」という問いに、実に大江さんらしい!?と感嘆させられる返答をして校長に力一杯殴られたこと・・・大江さんは何度も殴られました。あるエッセイで校長が左手で大江少年の頬をがっちり支えておいて右こぶしで力まかせに殴りつける、そのため奥歯の骨が今も変形してしまっていると書かれています。小学生の子どもに教師がかくも残忍な暴力を振るう、これこそ戦時下の狂気のような日本のありようを象徴するものだ、読んで身震いするようにして思ったものでした。
その大江さんが教育基本法・憲法に天啓のようにして出会う、そしてそれを武器にして教師や母親とやりあう。野球チームで「民主主義」を実践して大負けし、ついに多数決で追放されてしまうという愉快なエピソードも紹介されています。
以来大江さんは教育基本法・憲法を生き方の根っこにしてこられました。そして民主主義という根っこを共有するパレスチナ出身の故エドワード・W・サイード、ユダヤ人であるダニエル・バレンボイム(二人は協働してパレスチナ問題の解決のために力を尽くします)とも親交を結ぶことになります。3人をめぐる(否、大江夫人を含めて4人の)まるでドラマのような出来事が披露されています。ここでも「(笑)」が続出なのですが、敢えて紹介しないでおきましょう。
大江さんは沖縄の問題について語っています。「沖縄ノート」で取り上げた慶良間列島での「集団強制死」をめぐって「新しい歴史教科書をつくる会」勢力が裁判を起こし、現在最高裁にかかっています。出版から30年以上を経て、右傾化の時流に乗って行われた告訴です。大江さんは普天間基地移設問題で言を左右にする鳩山内閣を冷めた目で批判しつつ「とにかく沖縄の問題は、戦争の終わりから始まって、戦後ずっと、いままで続いてきた日本人のいちばん大きい問題です」と指摘しています。そして加藤さんの「平和な日本は戦争か平和かを択ぶことができます。戦争をする日本では戦争か平和かを択ぶことができません。『九条の会』は選択可能性の選択を呼びかけているのです」という言葉で講演を結んでいます。
旭川市で講演された加藤多一さんは北海道出身の童話作家・エッセイストです。タイトルは「北海道で考える私・反戦のこころ」。「想像力が私たちにとっての最大の力」であると語り始めています。かつて大江さんは政治家に転身しつつある石原慎太郎を評した文章の中で次のように書いていました。「作家にとって想像力の行使とは夢幻をつくりあげることではない。逆に現実的な、この日本の1960年代に関わり、それを囲みこんで容赦なく浸蝕してくる世界の現実すべてに関わる生き方の根にむかって、みずから掘りすすめることである。そのようにして現実の自分自身を超えてゆくことである」と。加藤さんのお話は自身の記憶に残る体験を梃子に「生き方の根にむかって、みずから掘りすすめる」作業そのものと私は思いました。
出征する兄たちの壮行会で、「一粒種の、相当年取ってから生まれた大事な子ども」を兵隊にとられて「サイレンのような、狼がほえるような」声で泣き続ける母親に「あれは非国民だ」と言い放った国民学校1年生の加藤少年。教科書に墨を塗った記憶、「自分の知恵と腕力の不足のつらさを馬にぶつけて」叩いたこと、それらを「恥ずかしいことです。無知。そして愚かです」と「内臓感覚」の重さで今に噛みしめています。
加藤さんはイラク派兵差し止め訴訟の原告団に加わります。元防衛族議員であった箕輪登さんが裁判に立ち上がる経過は感動的です。80代半ばで入院中だった病院を抜け出し、法律相談の窓口に並んで順番を待ち、「政府を訴えたいのです。よろしくお願いします」と言う。これに弁護士の方々が打たれて動き始める。呼びかけに応えて支援に駆けつけた最初の一人が加藤さんでした。2008年の画期的な名古屋高裁判決を生み出す端緒でした。
加藤さんはアイヌ語を学び始めました。「アイヌ、ネノ、アン アイヌ」これは「人間らしい人間」の意味だそうです。核廃棄物処理施設・産業廃棄物処理施設反対の運動や無農薬のコメ作りを型にはまらない行動力で進める若い人々と共にある加藤さんは実に楽しそうです。
福井市で講演された渡辺治さんのお話を、この2月の市民運動全国交流集会を含め何度か伺ったことがあります。明晰でよどみないお話は、テープを起こせばそのまま完成した論文になっているでしょう。実にタイムリーな「民主党政権と憲法の行方」のタイトルで歴史的な政権交代の意味と展望を語っています。
総選挙の結果について、「反構造改革、反改憲の声が初めて政治の表舞台に登場し、政権交代をもたらした点で、日本の新しい政治の第一歩がきり開かれたといえる。しかし、それは、票が民主党に集中したことに代表されるように、あくまで第一歩で」ある、と総括します。民主党は元来「構造改革と軍事大国化を自民党と競い合う保守政党として、成長してきました」それが矛盾の累積が目の当たりにされる状況になって2007年に反構造改革へと舵を切り、また改憲・軍事大国化路線を転換させました。最初はこれに警戒心露わだった財界やアメリカそして大手マスコミは、民主党優位の選挙情勢の中で「現実的な政党」への転換を期待する論調へと変わり、中間層に民主党への安心感を植え付けた、これが劇的な一人勝ちの結果を生んだのだとします。
渡辺さんは民主党は3つの要素から成り立っていると分析します。鳩山・岡田氏といった構造改革派が「頭」、自民党型利益誘導政治を復活させることで自民党支持者を取り込み多くの新人議員を当選させた小沢氏が「胴体」、反構造改革の運動に力を入れ民主党の看板になって国民の期待を集めたが、党内に力をもたない長妻氏ら福祉実現派が「手足」。かくして「頭は右に、胴体は後ろに、手足は左に」が今の民主党であると喝破します。このような葛藤を内包する民主党政権今後の動向は、財界やアメリカの力が勝つのか、国民の力が「手足」を支え踏ん張らせるのかによって決定されます。
従って、私たちの運動如何で明文改憲を遅らせることができるし、改憲手続き法の施行を事実上無効化することもできる。しかし、窮した政権が残された手段である解釈改憲による自衛隊海外派兵へと向かう危険性は大いにあります。解釈改憲の動きに機敏に反撃し、鳩山首相に明文改憲しないと約束させること、そして九条の会の運動が改憲阻止から、憲法の実現する日本社会そして東アジアをつくる運動へと大きく変わることが私たちの課題であると訴えます。改憲状況を押し返す大きな力となった九条の会の特徴を整理して、第1に広範な保守の人々をも結集し、第2に中高年が主体となり、第3にピラミッド型でないネットワーク型の運動である、とされている点が大切だと思いました。
最後に「私たちは観客から、いまこそ市民のひとりとして立ち上がって、政治を変える主人公になっていかなければなりません」と呼びかけます。常に状況分析の必須の要素に民衆の運動を入れて考察される渡辺さんらしい力強いアピールです