新連立政権が成立して以降、あまり目立たないが鳩山首相は憲法問題について、しばしば触れている。
先の臨時国会において、首相は集団的自衛権の行使を禁じてきた従来の政府の憲法解釈を踏襲する考えを明らかにしながら、憲法解釈について「内閣法制局長官の考え方を金科玉条にするというのはおかしい。その考え方を、政府が採用するか採用しないかということだ」とものべた。民主党はいま、小沢幹事長の強い意向で、内閣法制局長官など官僚の答弁を禁止することを含む「国会法の改定」を進めようとしている。そして法案の提出に先立ち、この通常国会ではあらかじめ内閣法制局長官を政府特別補佐人からはずすなどして、これを既成事実化しようとしている。この首相の発言はこれと連動して考えると黙過しがたい危険性を含んでいる。
また年末から新年にかけて、鳩山首相は憲法問題に触れて2~3度発言した。1月4日の年頭記者会見では憲法問題について要旨次のように述べた。
「自分なりの憲法はかくあるべしという議論は、当然政治家、国会議員ですから、一人ひとりがもちあわせるべきだ」「その意味で私は自分が理想と考える憲法を、(かつて)試案として世に問うた」「それは安全保障ということ以上に、地域主権という国と地域のあり方を抜本的に変えるという発想に基づいたものだ」「内閣総理大臣として、当然憲法を守るという立場で仕事を行う必要がある。憲法の議論に関しては、連立与党3党、特に民主党の考え方を、議論を進めていくなかでまとめていくことが肝要」「憲法の議論は与党のなかで、超党派でしっかりと議論されるべきではないかと思っており、憲法審査会の話も、国会のなかで与党と野党との協議でお決めになっていただくべき筋の話だ」と。
1月20日の参院本会議で鳩山首相は、自民党の尾辻秀久氏の「5年前に発表した『憲法改正試案』は生きているのか。憲法改正は視野にいれているのか」という質問に答えて「首相には特に重い憲法尊重擁護義務が課せられている。今、私の考え方を申し上げるべきでないし、在任中になどと考えるべきものでもない」と述べながら、「政治家である以上、憲法がかくあるべきという考え方を持つのは当然だ」とも述べた。
度重なる首相の憲法問題での発言の意図がどこにあるのか定かではないが、3党連立政権の政策合意(スパーマニフェスト)の憲法条項があるにもかかわらず、鳩山首相がこのように述べていることは重大である。
たしかに一連の発言で、首相は憲法99条との関連もあり、鳩山内閣では集団的自衛権の解釈の変更や、明文改憲をめざすことはしないと言っている。しかし、これは小泉政権以前の歴代政権の首相の多くがこのように表明してきたことでもあり、特段のことではない。連立政権の「政権合意」に盛られた「憲法」条項の内容はより積極的である。それは「唯一の被爆国として、日本国憲法の『平和主義』をはじめ『国民主権』『基本的人権の尊重』の3原則の順守を確認するとともに、憲法の保障する諸権利の実現を第一とし、国民の生活再建に全力を挙げる」とうたっている。政策合意が示しているものは「国会議員として憲法論議は必要だ」などと述べて、改憲論に道を開く立場ではなく、憲法3原則を実現する方向での宣言である。
一連の首相発言で問題なことは「(国会議員は)自分なりの憲法はかくあるべし」という議論は持ち合わせるべきだという一般論と「中身は安全保障という以上に地域主権問題が重要」だなどというハト派的改憲論に紛れ込ませながら、かつて自ら出版した「新憲法試案」(2005年「PHP」出版)を肯定的に再確認していることである。
この著作では鳩山氏は全面改憲論を展開し、その中で明確に9条改憲を主張している。鳩山氏は「(押しつけ憲法論はとらないが)ただ、やはり前文や憲法9条などに、日本独自の憲法であったならば、このような文言は決して採らなかったであろうと思われる箇所が存在していることは、疑いようがない」と述べて、「自衛軍の保持」を明記した改憲とあわせて、「安全保障基本法の制定」で、海外派兵などを合法化することを主張している。そのうえで、戦後政治は行き詰まったとして、中央集権体制から地域主権の国の形への大転換をのべている。そして、改憲をして新たな国家目標を設けるとして「アジア版EU構想」を提唱している。また「皇室制度は政治的安定の基礎」であるとして、「天皇を元首とする民主主義国家」とし、「女帝」も容認するとしている。
現実に首相になった鳩山が直面した未曾有の経済危機のなかで予算編成作業は、自民党時代からの巨大な国家財政の赤字という抜き差しならない困難に直面した。かれはそこで再び「鳩山改憲試案」で展開した「補完性の原理」にもとづく「地域主権の国への転換」に活路を求めるようになったとしても不思議はない。しかし、危機からの活路を改憲に求めるという誘惑は9条改憲論と一体となった危険きわまりないのはいうまでもないことである。
年頭会見で首相は憲法の議論は超党派の議論が必要だとも述べた。これは改憲が党是の自民党に乗ずる隙を与えるものだ。自民党の改憲推進本部(保利耕輔会長)は2005年に作成した「新憲法草案」を見直し、あらためて「改憲案」を作成し、改憲の方針を明確にうちだすと言っている。通常国会冒頭の尾辻参議院議員による代表質問も、こうした意図にもとづくものであることはあきらかである。
鳩山首相は旧自公政権与党が憲法審査会の設置を強行した経過を真剣におさらいすべきだ。当時、民主党は他の野党と共にこの「改憲手続き法」に反対した。改憲手続き法は審議の過程で法としての体をなしてないことが明らかになった代物である。鳩山首相の憲法発言におけるブレは容認できるものではない。首相は政権の公約である連立3党の政策合意の立場を遵守しなくてはならない。今年5月18日で同法の一部の凍結期間が解除されるが、憲法審査会は始動させずに凍結し、廃法にされなくてはならない。(高田 健)
明珍美紀さん(毎日新聞記者)
(編集部註)2009年11月28日の講座で明珍美紀さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。
わたしはいま、毎日新聞の水と緑の地球環境本部と社会部の記者をしています。地球環境本部とは何ぞやというと、ものものしい名前で地球防衛軍みたいな感じなんですけれども、環境問題は平和問題だと私自身は考えています。最大の環境破壊は戦争である、このことを食い止めるためにはわたしたちは何をすべきか。自然を守る、環境を守る、生き物たちを守る、それがイコール9条の精神ではないかなという思いでやっています。
現在私が関わっている報道とマスメディアを巡る状況などについて、私なりの考えをお話ししたいと思います。まず新聞記者の仕事ですけれども、わたしたちは、日々いろいろな方のお話を聞いて、その想いを伝えることが大きな仕事です。もうひとつの柱としては歴史の証人である、つまりいろいろな日々の出来事を記録していく、そしてみなさんに伝えるという時代の記録者の役割もあるのかなと思います。
しかしながら、実態としては、いま権力側からいかに情報を取ってくるかについて、大きな壁に当たっていることも確かなことかもしれません。最初、わたしたちが記者になりたての頃は警察の取材をいたします。何をするかというと、いろいろな日々の事件事故を報道するために警察に取材をして、記事を書くことです。よく言われる夜討ち朝駆けですね。夜、警察官の自宅まで押し寄せて、あの事件はどうなっているんですか、捜査の状況はどうですかとやったり、それを早朝に押し寄せてやったりするわけです。
その中で、わたしがある警察官からブンヤさんの数え歌があるんだってね、ということを聞きまして、いったいそれは何だと思って入手しました。みなさんもご存じかもしれませんが紹介します。これはおそらく警察の中でまわっていたものだと思うんですけれども、
「一つ、ひとりで書くのを特殊原稿と申します。給料が上がります」。これはいわゆる特ダネということですね。
「二つ、自社のふたりで書くのを書き分け原稿と申します。これは息が合いません」。
「三つ、各社のみんなで書くのを発表原稿と申します。これは下手が目立ちます」。いろいろな記者と同じ素材なのにどうして自分の記事はこんなに下手なのかしら、ということをあとで新聞を開いて愕然とするんです。
「四つ、酔っぱらって書くのをデタラメ原稿と申します。これはあとで訂正です」。
「五つ、いつでも書くのを十八番原稿と申します。これは手間がいりません」。自分の得意分野、そういうものはちょっと知り合いに聞いたりして書けると言うことですね。
「六つ、無理矢理書くのを注文原稿と申します。デスクが喜びます」。あれどうなっているんだ、ちょっとまとめてくれというのを「ハイ、ハイ」といいながら書くんですね。
「七つ、泣き泣き書くのを抜かれ原稿と申します。月給が下がります」。
「八つ、宿屋で書くのを出張原稿と申します。銭がかかります」。いろんな事件事故、海外も含めてこの状況はどうなっているんだというときに出張に行きます。不況の時代でそれもできなくなっているんですけれども。
「九つ、急に書くのを事件原稿と申します。時間が足りません」。とっさのことで非常に時間が足りない。
「十、年を取って書くのを社説原稿と申します。誰も読みません」。ということで、こういうことが警察官の間でまわっていたようですね。
全部あたっているわけではないんですけれども、ちょっと当たっているかなというものもあります。わたしたちは日々こういうことをやっているんです。ただ、こういったブンヤという職人的な言い方が、今の新聞記者にどれだけあるのかはここ数年感じていることです。わたしたちは、やっぱり埋もれた事実を自分の足でかせいで書くのが大きな基本です。けれども今の時代のインターネット、それからいろいろなメディアの普及もあって、手間をかけないで日々の取材をしてしまう傾向があるのではないかということを非常に懸念しています。
その中で私は2004年まで、新聞労連というところで仕事をしていました。これはどういうところかといいますと、みなさんの職場に労働組合があるところがあると思いますが、新聞社にももちろん組合があるんですね。日本全国に新聞社がどれくらいあると思いますか、北海道から沖縄までおおよそ100なんですが、そのうち新聞労連に加盟しているのは80ちょっとです。その組合が横の連絡を取っています。
ただし賃金交渉などは各新聞社によって事情が違いますので、そうではないところで何かみんなで協力できることはないかということで、日々の紙面をつくること、それから平和ですね。
新聞社あるいはジャーナリズムの基本は平和だということで、平和報道、憲法を守る報道をどうしていくかということをやっています。それを「しんけん活動」といいます。「しんけん」というのは、真剣に原稿を書くというわけではなくて、「新聞研究」という意味なんですが、そういう活動もしています。その中で生まれてきたのが「憲法メディアフォーラム」という、いまわたしが関わっているものです。
これがなぜできたかというと、やはりこの9条を守ることについて、非常に危機感を覚えていた新聞記者の有志で、会社の枠を超えてできることは何かと考えました。そしてインターネットのサイトでみなさんに情報を発信すること、それは新聞記者がやることなので正確さも要求されますし、内容も要求されるんです。みなさんのお手元にお配りした日野原重明さんのインタビューがあるんですが、各界の方々に憲法への思いをうかがいながらインタビューをする、これもひとつです。それから記者の有志で、いまの憲法を巡る状況はどうなっているのかということも発信しています。
日野原さんは97歳ですが、今もまさにお元気です。90歳を過ぎてから何をやろうかと思ったときに、やはり平和問題だということで、いま一生懸命子どもたちを中心に各地で講演をしているそうです。日野原さんもお医者さんのお立場から、予防医学で大切なのはきれいな空気や水だ、最高の公衆衛生は戦争がない状況だとおっしゃっています。
いろいろな立場の方が平和の基本は何だということを突きつけています。憲法メディアフォーラムで追っているのは生存権、25条あるいは13条、基本的人権、こちらがいま非常に問われていると思います。去年、日比谷で派遣村がありました。新しい政権になって民主党は派遣村のようなことは絶対にしない、そういう状況にはしないといっていますが、果たしてそうなのか。いまの状況はどうなっているのかということがひとつです。
それから文字通り憲法9条の話ですけれども、先日、毎日新聞でも世論調査がありました。憲法改正に興味を持つ、あるいは非常に改正論議に興味を持つ人が65%という数字でした。ただし、これは高いか低いかという評価でいうと、この中には加憲、9条問題ではなくて、もっと違うところをよくするために憲法をまさに「改正」する、という意識も含まれているということで、わたしたちの分析では必ずしも改憲の論議はそんなに高まらないのではないかという見方をしています。では民主党の中ではどうなのか。この間の選挙の時もそうだったんですが、鳩山さんはとりあえず憲法問題は現状を見ていくということであまり選挙の争点にもしなかった。
もうひとつ大きなことは、アメリカのオバマ大統領の動きですね。オバマさんがノーベル平和賞を受賞したときの毎日新聞の号外を持ってきました。彼はプラハでの発言が評価されてこういう状況になったんですが、何も実行していない、ただプラハで言っただけでノーベル平和賞を何で受賞するんだ、ということがアメリカの中では大きな世論になっていると思うんです。逆に日本での受け止め方はちょっと違いましたよね。広島・長崎の被爆者の方たちは、本当に前向きに捉えていました。これはオバマ大統領の決意表明であるということで、その思いをいたす、あるいは実現するのはやはりわたしたちの役割になってくるのかなと思っています。
核を無くそうと言ったアメリカの大統領というのもやはり初めてですね。先日来日をしましたが、残念ながら広島・長崎への訪問は見送られました。恐らくアメリカの中でもいろいろな意見があり、原爆肯定論もたくさんあると思います。そういう中での判断です。こうした中で、いまの民主党政権が9条を変えることを推し進めるかというと、必ずしもそういう雰囲気は今のところ出てきていません。けれども、もう一方で民主党はレンジが広いわけですね。小沢さんから旧社会党の方たちまでいて、どこで火種が吹き出てくるかわからない。そういう芽を出さないために、事前にわたしたち新聞記者ができることは何かということが、いまの大きなわたしたち自身の課題だと思います。
新聞労連では、「しんけん平和新聞」を毎年夏につくっています。もしいまの新聞記者が1945年の敗戦の時に記事を書くとしたら、どういったことを書くんだろうかということを想定してつくったものです。これはわたしが関わった2005年のもので、社会学者の日高六郎さんのインタビューをしました。そのときに、非常に印象深かったのは、いま盛んに日米同盟という言葉が使われていますよね。日米同盟を強固にする、それから日米同盟の絆を深くする、というようなことがいわれています。けれどもこの日米同盟に法的な根拠があるのか、ということを日高さんは指摘していらっしゃいます。
来年は安保改定から50年です。日高さんの指摘では新聞記者はまず勉強しなさい、歴史を勉強しなさい。本当にその通りだと思うんです。この時は小泉首相の時代で、小泉首相はよく日米同盟という言葉を使いますが、日米同盟に法的根拠はない。日米安保条約を日米同盟と同じと考えることは間違いであると、安保改定当時の藤山外相も国会で発言している。それをいまの記者は指摘をしない。過去にさかのぼって勉強していないから相手を突っ込めないと言われたんですね。
これを聞いて、当時のことを調べて確かにそうでした。本当に恥ずかしい限りですが、こういったことを踏まえていまの社会部や政治部の記者が記事を書いているのか、ということも指摘されました。
ベトナム戦争は民衆の批判、メディアの批判によってピリオドが打たれました。戦争を始めるのもメディアが加担したかもしれないけれど、やめさせたのもメディアの力が大きかったということですね。ですから、メディアはひとつ間違えば戦争の道を開くものです。でもメディアをつくっているのは、わたしたち市民であるわけです。新聞記者もテレビの報道する人たちももちろん市民、そういう観点に立てば新聞記者やテレビに関わる人たちの意識によって変わってくる、ということを指摘されました。
それから、政治活動について公正中立を求められます。もちろんそうだと思います。公正中立はそうですけれど、でもそれも戦争はしてはいけない、戦争をすることを許してはならないということが基本であれば、もちろん戦争反対の方に寄って書くということもあるのではないかなと思います。そこの軸、スタンスをどれだけわたしたちが揺るがないでいられるかということが問われていると思います。
これは毎日新聞の例ですが、記者たちがやろうと思えばどんなことでもできる、というひとつの例が2005年の8月15日の新聞です。これは、全面的に敗戦の日に平和を誓うような紙面をつくったんですね。これも社内でプロジェクトチームをつくって、1面から最後の面まで全部、戦争というものはいかに人間を破壊していくものなのかという感じで書かれています。地域面から社会面まで、こういうかたちで本当にやればできるというひとつの例だったと思います。こういうことが日本の新聞でもできるんだということをもっと多くの新聞記者たちで広げられたらなと思っています。
それからもうひとつ、憲法に関わる市民の動きをどれだけわたしたちが報道するかなんですね。「九条の会」があります。みなさんもよくご存じだと思うんですけれども、毎日新聞から歩いて5分くらいのところにある学士会館で記者会見があったんですが、翌日の新聞を開けたら、みなさん本当に驚いたと思うんですけれども「あら、こんなものなのかしら」ということをいわれました。言い訳がましくなりますが、わたしはその頃、新聞労連におりまして新聞に記事を書いていなかったんですが、自分の新聞あるいは他社の新聞を見てちょっと驚いたんですね。そのあとにいろいろな人に「九条の会」が活動をはじめたのにどうして扱いに、わたしたちの言葉で「扱い」と言うんですが、こんなことになってしまったのかと言われました。あるデスクはこう言いました。「加藤周一さんや大江健三郎さんが憲法9条を守るって当たり前でしょ」。「当たり前でしょ」っていうことであんなになってしまうのか。そこが意識の違いかなと思うんですよね。「どこがニュースか」なんですが、平和を守ろうと普段言っている人たちがあえて「九条の会」をつくりましょうと言ったことを「当たり前でしょ」と片付けるのか、それともそれこそが危機感のあらわれだと思うのか、そこの違いかなと思います。
例えば拉致問題の集会に100人集まった。一方で平和集会に1000人集まったというふたつのことが同時にあったとすると、翌日は拉致問題の集会の方が大きく扱われたということもあります。ですからどこに主眼を置くのかが非常に問われています。みなさんからご指摘を受けるのが、市民の動き、とりわけ憲法9条に関わる市民の動きをもっともっとフォローをしてもらいたい、あるいはすべきだというお叱りです。ただし、いま事件事故がたくさん発生する中で、載せないというわけではないんだけれども、優先順位をつけていくと、やっぱりどうしても下の方になってしまうのが現状なのかなと思います。
だからといって何もしなかったらそれこそ歴史に残らないわけですから、わたしはそういうときには、ベタ記事の威力だと思っています。どんなことでも載らないよりは載った方がいい、それだったらベタ記事でもきちんと載せる。こういうことをひとりひとりの記者がやっていけば、それは非常に大きな意義があると思います。そして何か機会があるときに、いま9条を巡る動きはどうなっているんだ、海外の戦争の状況、そういったことをまとめて書く。こういうかたちで出していけばいいのではないかと思います。
新しい政権になって9条問題がどうなっていくかなんですが、恐らく来年の国民投票法が施行されるときにこの問題はそれほど盛り上がりはないということはおおかたの見方だと思っています。いま格差、貧困が大きなテーマになっています。こちらの方から憲法を考えていくことが必要だと思います。
先日わたしは「いのちの山河」という映画を見ました。岩手県の沢内村は貧困や豪雪地帯で大変なところでした。この沢内村の深澤晟雄さんという村長がいました。もう亡くなった方ですが地域医療の中では非常に有名な方です。1961年に、60歳以上の村民と1歳未満の乳児の医療費の無料化を実現した人です。深澤村長がなぜそういうことをやったか。とても雪深い山の中で、お医者さんにもいけず村の地域医療もなっていない中で、どんどん子どもが死んでいく。お年寄りがお医者さんにもかかれずに亡くなっていく。それをなんとかしたい。人の命に格差はあってはならない。
1961年にそういう言葉を、もう発していた。命の行政、生命行政と言っていました。その方をモデルにした映画です。監督は大沢豊さんで、大沢豊さんは「映画人九条の会」をつくっています。ご存じの通り2007年に「日本の青空」という映画をおつくりになりました。これは敗戦後に憲法の要綱を起草した、鈴木安蔵さんの視点を扱ったものですね。そのときも、映画人として何かをしなければならないと思い立ったんだそうです。
その映画のつくりかたですけれど、こういうテーマですとお金がない。そこで、1枚1000円の製作協力券をみなさんに購入していただく。そして映画ができたときに製作協力券を買っていただいた方は映画を見ていただくという、いわゆる先行投資ですよね。そのときにどれくらいの製作協力金が集まったかなんですが、どれくらい集まったと思いますか? 映画をつくるにはかなりお金がかかると思うんですが、最初の時には13万枚です。それほどみなさんの危機感が強かったということですね。
そこで終わらなかった。それがすごいところなんですが、第2弾をつくって下さい、という声が各地から上がってきたそうです。「日本の青空」を各地で上映します。そこで第2弾をつくって下さいという声が上がってきたそうです。その映画がいま新宿武蔵野館で上映中です。2回目も同じくらい、13万枚の製作協力金が集まった。いろいろな方たちの協力でなんと2本も映画をつくることができた。
沢内村はもちろん雪深いところですが、そこと秋田県などの豪雪地帯で、真冬に本当にロケをやったそうです。みんなが心配したことは大沢監督が倒れないかということだったらしいです。74歳で「僕も来年は後期高齢者だ」とおっしゃっていましたけれども、それくらいみなさんも身を削ってやったということだと思います。もちろんスタッフはいい映画をつくりたいと一生懸命ですが、俳優の人たちにもそれが伝わっていったんじゃないかなと思います。わたしは初日の舞台あいさつに行ったんですが、主役の長谷川初範さんが「人の命を守る、この沢内村の深澤村長の思いを伝えるのが僕の役目だ」と、舞台あいさつの時に涙ぐんでおられたんですね。人の命がどれだけないがしろにされているのかということが、みなさんの中にも大きな位置を占めていると思います。
ひとつの例が年間の自殺者3万人という、この数字がいまだに減らない。しかも最近は若い世代にも自殺が広がっている。労働組合がある会社はまだいい、まだいいと本当にいわれます。組合がないような会社でどんどん派遣切り、人減らしが進んでいます。新聞社でもいろいろな再編があります。毎日新聞は竹橋にあるんですけれども、昔は地下3階、4階、5階くらいに大きな輪転機がありまして、そこで新聞を刷っていたんですね。そうすると朝刊、夕刊と、わたしたちは締め切り時間を過ぎて何分かしたら、もうできたてほやほやの新聞が手元に来る。地下に行ってもらってくれば本当にできたてほやほやの新聞を手にすることができたということを経験していました。その竹橋での印刷をやめました。印刷の部分を切り離して、他の印刷会社に委託する。どんどん本体を切り刻んでいくということが、いろいろな新聞社でも起きています。
女性の問題も最近取材をしていますが、雇用不安の中で女性たちがどういう状況になっているか。最初から就職できないという人も、もちろんいます。派遣先から突然解雇されてしまうという状況もあります。家もない、こういう状況をどうするのか。わたしは最近北欧に行ってきました。これは環境の問題の取材でしたが、北欧の生活を見て、社会福祉が非常に充実しています。税金は高いんです。本当に高いんです。高いけれども、そのぶん教育や福祉が充実しているということを公務員の方に聞きました。
朝8時位から働いて午後3時15分くらいには終わってしまうそうです。たいてい両親は働いていますから保育園などに行って、家族の団らんを大切にするということです。「金曜日なんか僕は1時15分に終わるんですよ」っていわれてびっくりしたんです。金曜日の1時15分にもう家に帰っちゃうという状況です。もちろん給料は低いかもしれないけれど、こういう暮らしを実現させているところもあるんだなと思いました。福祉施設も行きました。そこではリタイアした人たちがいろいろなことをやっています。老人ホームで暮らしている人もいます。でも元気な人たちがいっぱいいるので、家具を作ったりして、そういうことも本当に充実しているんだなと思いました。
環境問題もそうですが、人々の意識の違いがどこにあるのか、豊かさとはどこにあるのかということのスタンスの違いだと思うんですね。例えば家族との時間を大切にする、好きな人との時間を大切にすることに対する意識は、ものすごく強いと思いました。ひるがえって日本はどうかというと、やはり競争社会ですよね。その豊かさは何をもって豊かさというのか。ものがたくさんあることが豊かさだと思っている人もいるかもしれない。
1970年代のオイルショックの時は、おそらく北欧も日本もそれほど状況は変わらなかった、と向こうの人たちは言うんです。そのオイルショックを契機に、自分たちはどういう未来を描くのか、次の子どもたちにどのような暮らし、あるいは地球を残していくのか、そういうところからスタートして考え直したと言うんですね。
まずはエネルギーの問題になってきます。もちろん化石燃料などは限られていることはわかっていますから、エネルギー自給の道を目指していこうと、まず市民が言いはじめたそうです。これはデンマークの例ですが、まず市民がそういう声を上げはじめた。そして国のエネルギー政策になっていった。
デンマークの場合、一番多いのは風力発電です。日本ではまだまだ問題があるということで普及はしていませんが、エネルギー政策を転換していったことが大きいと思います。ノルウェーの場合は水の資源が豊富なので水力発電、これもエコな発電だといわれていて、そちらの方が主流です。でも日本は相変わらずエネルギーというと石油で、海外に頼っていく。エネルギー政策の転換をきちんとしてこなかったこともあるかもしれないと思います。そしてものをつくって海外に輸出する、そういう政策になってきたわけです。
その一方で食糧自給率が低下していった。いま日本の食糧自給率は4割になってしまった。これが増える見込みは今のところあまりありません。というのは農家の人たちが高齢化で減っている。若い人たちが関心を持って農業に転換しているということはありますけれども、それをカバーすることまではいっていません。どんどん歪みが出てきて、農業が衰退していく。やがては工業だって、いま台頭している中国やアジアに抜かれるのではないかという状況の中で、格差の問題が出ている。こういうふうにグローバルに見ていったときに、日本が選択する道はどういうことなのか、と思います。
鳩山政権は環境問題に大きな目標を掲げましたよね。京都議定書のあとに日本のCO2、温室効果ガス削減を25%削減という大きな課題を掲げました。鳩山政権は環境を非常に重視していますが、わたしから見ると、太陽光、ソーラーパネルの政策にしても、これはひとつの例ですが住宅についての補助政策はしています。けれども各家庭がチマチマとソーラーパネルをつけるよりは企業や公共施設、体育館といったところにまずはつけてCO2を削減する方が本当は効果的ですよね。なぜそれをやらないかですが、そこがまた日本の経済、企業とのからみでなかなか難しいということです。
民主党政権に替わってよかったなと思っている人もいるかもしれませんけれども、一つ一つの政策を見ていくと、かなり理想とはかけ離れたものが見えてくるということが、ここ数日のわたしの実感です。これは環境の問題から見たものですが、あるいは軍事や安全保障の問題から見てもそうかもしれない。ですからここできちんとした政策提言を、メディアあるいは市民の側から突きつけていかなければ、日々の労働に追われているとはいえ、ここでチェックの目を緩めたらまた大変なことになるなと思っています。
GDPという数字がありますが、GNHという言葉がいまとても注目を集めています。これは何のことだかわかりますか。ブータンがヒントです。ブータンという国は1970年代に王様が、これからGDPではなく「グロス・ナショナル・ハピネス」を目指すといったんですね。国民あるいは市民がどれくらい幸せに生きるか。市民の幸福度を上げていくことを打ち出したんですね。これをもし日本で鳩山さんが掲げていったら、とても大きなインパクトがあると思いますが残念ながらそういうことは聞かれません。
先日、日本野鳥の会を環境の関係で取材したんです。いまの会長さんは柳生博さんで、彼はいま八ヶ岳に住んでいて、森づくりをやっています。鳩山政権、あるいはいまの政治家に何を望みますか、と問いかけたんです。そうしたら柳生さんは「閣僚や大臣の中でひとりでもいいから自然や生き物について発言をする、そういう大臣が出てくればいいな」とおっしゃったんですね。
これは、いかにこの地球を守るために生き物たちの身になって考えるかということです。逆にいうといまのわたしたちの生活は、人間のためにいろいろなものを破壊して、最後には殺し合いまでして環境を破壊していろいろな生き物の命も奪っていく。そうではなくて、幸福になるのは人間だけでいいのか。自分も日々生き物の命をいただいているけれども、でも森林破壊をする。日本の場合は紙をつくるのに東南アジアの原生林を伐採していて、そのために東南アジアの森の動物たちやオランウータンたちが絶滅の危機に瀕している、こういう状況もある。こういったことを首相あるいは閣僚がどこまで認識をしているのか、そういったところまで考えて欲しいとおっしゃいました。
まさにそうだと思います。平和問題と環境問題は本当に密接に関わり合っている。9条を守りましょうというときに、戦争をしないだけでいいのか、ということになりますよね。そうではないとわたしは思います。全部がつながっている。それは何のためかというと、人間が幸福になる、もちろんそうです。けれどもほかの生き物たちだって自分たちの命を守っていく。そうやってできるだけ環境に負荷をかけない。まったく負荷をかけないことはもう無理なので、できるだけかけないスタンスでいかなければいけない。これは政治もそうですし、わたしたちの暮らしもそうです。その意識をどこまで高めることができるのか。それがいまから問われていると思います。
12月にはコペンハーゲンでCOP15があります。これは京都議定書以後の環境問題をどうしていくかということが話し合われます。来年10月には名古屋で生物多様性の会議があります。そして来年は安保の問題があります。平和運動は平和運動だけをやっていればいいということでは、わたしたち市民レベルも違ってくるんじゃないかと思います。インターネットの普及があります。こういったツールの普及があると、いろいろなところでいろいろな人たちがつながることができるわけですね。9条を守ろうという人たちと環境を守ろうという人たちがつながってもいい。日本の人がお隣の韓国とつながってもいい。韓国の人はまたその隣の中国の人とつながってもいい。こういうかたちでどん輪を広げていけば、おそらく大きな大きな力になるだろうと思います。
いま、日本の政治は非常にアメリカに影響を受けていますが、ここから早く自立していく。そのためにはやはり市民の意識を変えていかなければいけないということをよく指摘されます。外から日本はどういうふうに見えるかですけれども、日本はまだまだ勤勉で平和を愛する意識が強い。広島・長崎の被爆の問題もそうですが、そういったものを逆に外交の強みとして使っていく発想が大切だろうと思います。対話の重なりですよね、対話を積み重ねていくことが、一番の安全保障ではないか。軍事問題もありますけれども軍事予算を福祉や教育などにつぎ込んでいけばどれくらいのことができるのか、このこともわたしたちもメディアもどんどん問うていかなければいけない。
先ほど申し上げた北欧はひとつの例で、もちろん日本がすぐに北欧のようになれるわけではありません。北欧には北欧の問題もあると思います。貯金なんか全然していないんですよね、もう老後は安心だということで。それから物価も高いんです。そういう問題もありますが、エネルギーの自給はすごく高まっている。世界の人たちを取材したときに必ずいわれるのは、日本ほど資源に恵まれた国はないということです。どういうことかというと日本の6割から7割は森林の資源ですね。その森林が、人工林が荒れ果てて機能しなくなっているから、再生可能なエネルギーをつくるほうにいかないわけですね。ですからどこかで政策転換をしていかなくてはいけない。
もしエネルギー問題が少しでも解決していけば、これは軍事の問題でも非常に効果的になってくると思います。そういう意味で日本をこれからちょっと外から見たり、あるいはグローバルな視点で見る、平和問題も9条だけではない、25条、13条もあります。日本あるいは世界がどれだけ幸福になっていくか、環境をどれだけ守っていくか、複合的な視点をこれから持っていくとまた変わった、深い市民運動、市民活動になるのではないかなと思います。
これはわたし自身がここ1、2年環境問題に関わって、それまでの環境問題の取材では、例えば原発問題など権力側に対抗するような視点のものだったんですが、最近は、そうではないかたちの環境を守っていくあるいは平和を守っていくということがあってもいいのかなと思います。
パレスチナとイスラエルの平和会議を学生たちがやっているのをご存じでしょうか。心強いです。それもやっぱり日本が平和国家だという認識が向こうの人たちにもあって、親日派も多い。パレスチナの学生とイスラエルの学生を日本に呼んで議論をして、それぞれの国に帰ってメールでやりとりをしている若者たちもいるんですよ。わたしは、お隣の韓国とやっていきましょうという人もいるだろうと思います。そういうかたちでひとりひとりができること、あるいはやりたいことをやっていくとまた違ってくると思います。メディアと新聞記者、テレビの記者がネットワークを組むというのは変かもしれませんけれどもそういったこともできることはあると思います。
先日、羽田澄子さんという映画監督が「嗚呼満蒙開拓団」という作品をつくられました。満蒙開拓団や中国残留孤児の問題にしてもテレビはドラマティックな場面は撮します。帰ってきて肉親と再会したということはあるけれども、実際あの大陸で何が行われたのか、それをきちんと証言を集めて映像に残したり文字に残したりということがどれだけ行われたのかということを羽田さんは指摘しています。ですから何があったのか、これからどうすればいいのかということをきちん、きちんと積み重ねていく。
さきほど8月15日の紙面をお示ししましたけれども、わたしたちは「8月ジャーナリズム」と指摘を受けます。8月にしか平和報道をしないのか、最近は8月になっても平和報道が少なくなってきたと言われています。それはその時々にきちんと伝えるべきは伝える、それからもちろんせめて8月にはきちんとした内容の濃い平和報道をしよう、こういった動きも火を絶やさないでいくことが大切だなと思っています。
蓑輪喜作
この歌はいま私の所属する新日本歌人誌に今月投稿する予定の歌である。今日12月31日、署名が終わって4年となった。正確にいうと4年と1ヶ月で署名数は29,001となった。その内訳だが一昨年が4,920、昨年が8,140、今年になってからが15,911だ。こうしてみると今年になってからが一番多い。本当に自分でも驚く数である。
以前にも署名が増えたのは自動車試験場前のバス停に移ったからだと書いたが、それはそれとしてなによりも大きなことは、もう黙っていられないと一人一人の国民の自覚で、あの8月の総選挙で大きな大きな山が動いたからだと思う。
こうして毎日署名などで多くの人に接していると、その時々の皆さんの気持ち、世の中の流れが肌に伝わってくる。あれから5ヶ月、今では鳩山さん、しっかりしてもらわなければ、お金持ちには庶民のことはなんにもわかっていないという声も、あのオバマ大統領にも正義の戦争などおかしいのではないかと人々の視線は鋭い、
さて、ここまで書いて来ての1月3日、私も少し風邪をひいたらしいので今日は署名を休むことにする。元日も2日も署名は29と30と昨年同様、公園は新しい人も多く喜んで署名をしていただいたのだが。熱はそんなに高いわけではないが湿気のある雪国の故里と違ってカラカラ天気の東京は喉をやられる。特に夜中のエアコンにはまいってしまう。5年前、予防注射と型の違った風邪をひきまいったが、今回はそうではないが体調はいまいちなので手許の新聞や本を手にするぐらいで書くことはこれでしばらく休みとする。
さて、風邪は1週間ぐらいで治ったが、その後は胃や腸の調子が悪くなって15日の胃の検査、2月2日は腸の検査と続くので書くものは相変わらず集中できないが、1年を振り返ってたくさんの皆さんのお励ましをいただき、新しい人との出会いもあったが、特に7月の三鷹の大沢では元岩波書店におられたという今井康之さんという方にお会いしたことだ。私はあの横浜事件で出版社がみんな弾圧をくらった時に岩波はどうなっていたのか、いつも頭にあったのですが、この方に接することによって岩波には当時、小林勇さんというすごい方がおられて最後まで闘い抜かれたことを知った。
また、11月14日にはこの今井さんが中心になってやっておられる出版NPO「本を楽しもう会」で今年は講師として吉祥寺の武蔵野公会堂に澤地久枝さんを招き、350名のところを補助いすなども出して400人ぐらいは集まったと思う。澤地さんは東京に来てから2回ほどお話を聞いたが、身近に接したのは今回が初めてで、最後の質問では司会者にはご迷惑をかけてしまったが、澤地さんのものは15年前、新潟からこちらに来たときに小金井の図書館で手にした「遠い人近い人」の中に私の故里の病院の婦長さんを取材されていて驚いたのが始まりで、以後、たくさん読ませて頂き、今、私のやっている九条署名も澤地さんのおかげですのでお礼を述べさせてくださいなどと会場をにぎやかにして申し訳なかったのですが、忘れられない日となりました。そしてそのときに澤地さんが紹介されたスメドレーと高杉一郎の「極光のかげに」ですが、まだ私は高杉一郎は読んでおらずその後「極光のかげに」に加えて「征きて還りし兵の記憶」にと娘さんのまとめた「高杉一郎・小川五郎追想」までよむことになり、田舎者だった私にも戦後のことでつながらなかったものがかなりつながってきたように思っています。人間いくつになっても最後まで読書を自分の血と肉に、大変有意義な1年だったと思う。
それからもう一つ書いておきたいことは、これまでもいまの憲法が出来たとき全校の職員の前で頬を紅潮させて読み上げた私の学校の校長さんのことを書いたことがあったが、こちらに来てから退職後上京して千葉県におられた校長さんはもうあの世の人だが、その娘さんと交流がある。年末にその娘さんの娘さんが司法試験に合格し、弁護士を開業したことで母子それぞれの熱いお便りをいただいている。
いま私の手許に「りくのしまだより」という新潟東頸教育科学研究会の事務局の古びたガリ版刷りの一枚がある。年配の教師たちは教え子を戦場に送った口惜しさ、若い教師にはみんな死なないで手にした、戦争だけはどんなことがあってもしてはならない憲法、そして教育基本法に児童憲章と、食べるものも着るものなき時代だったが、みんなこれからの新しい教育にむかって目が輝いていた。
そして私の学校の校長さんは若い教師たちのよき理解者で、まだ小学生だったと言う娘さんのお話によると、休日になると若い教師たちが校長宅には沢山集まってきたということである。豪雪の新潟へき地であったが、やがてその実践を持って沢山の教師が全国の教研集会に夏の会合に出ていったことが忘れられない。しかしあれから60年、いまではおおかたがあの世の人となっているが、私は教師ではないが身近に接しそのことの文集や報告集などの資料を持つ一人として、一言書いておきたいのだ。このいまの私を育ててくれた人たちの為に。
そして次に当時は有名な詩であったが、いまでは知る人も少ないと思うので、高知の竹本源治という人の「戦死せる教え子よ」と題した詩をあげておきたい。
逝いて還らぬ教え子よ
私の手は血まみれだ
君を縊ったその綱の
端を私も持っていた
第1回のウイーンの世界教員の会議で紹介されたという。私はいまもこの詩を口にするとき熱いものがこみ上がり目ぶたが熱くなるのだ。そしてきつばるわけではないが、今年も憲法九条を守る署名を続けてゆきたいと思っている。
「九条署名日記」2009年10月より2010年1月2日まで
10月/
1日 署名午前37、午後28。午前、沖縄出身の男、75歳。昨夜のテレビで「旗の少女」を見たが涙が出てきてどうしようもなかったと話す。
2日 一日雨で署名は休み。午後から年金者組合のニュースの編集会議に。
3日 署名午後41。午前は雨で午後からバーベキュー広場で人は少なかったが両親が共産党だという青年もおり、また今年で3回も私に会うという人達もいて、うどんに里芋の入ったものを食べさせてくれ、来年も元気で会いましょうと言って別れる。
4日 署名午後60。新潟県人が5名もいて十日町小唄を歌う。また「反戦と抵抗の祭り」のグループなどもいて署名多し。
5日 署名午前24。午前途中から雨になりはやくきりあげる。
6日 雨。
7日 颱風で署名休み。
8日 署名午後48。颱風は午前で通過し午後からは人は少なかったが、若い女性など握手を求めてバスに乗るものもいた。
9日 署名午前34、午後37。母親が若い息子に話しかけ2人で署名をするモンゴル人の署名もあった。
10日 署名午後40。3年も続けて会うというグループもいて、蓑輪さんにこそノーベル賞をと言う人もおり、公園は晴れてにぎやかだった。帰りに橋のところで府中の中学生と話す。
11日 朝は冷え富士山は初冠雪。血圧は少し上がったが午後は晴天。署名午後67。自分たちで署名板を廻してくれるグループもいた。インドネシアの女性の署名あり。
12日 署名午後57。公園は快晴で人多し。新潟の上越市出身の方に会う。元教師で私の友人で歌友の柳川月をよく知っておられた。オバマ大統領のTシャツを着たスケートボードの青年達もいて署名する。台湾人の署名もあった。
13日 署名午前59、午後35。晴天で署名多し。マレーシア人、インド人の署名もあり。
14日 署名午前28、午後35。午前は曇りで少し寒く人も少なかったが、大江健三郎のことで話しかけて来る人もおり、孫子のためにと言うと年配者は殆どの人が署名してくれる。インド人の署名あり。午後からは日射しもあって家族全員で書いた人、親が九条の会の活動家という青年もいた。
15日 署名午前37、午後34。現職の自衛官と話す。いちばん署名したいのだが名前を出せないのでと。またビルマ慰霊の旅に行ってきたという婦人、そして日本が中国でやった犯罪を話した年配者もいた。日本刀で首を切ったこと、青酸カリをかけたものを食べさせた。
16日 署名午後48。一時人が多くて疲れた。アメリカ人の署名もあり。バス停に人が多く並ぶと一度に10人以上もいただくこともある。
17日 署名午後37。曇りで少し寒く人少なし。梶野町のご近所9条の会の人達に会う。奄美大島、広島出身者の署名あり。
18日 長男と孫が来て署名は休む。
19日 署名午前38。午後からは年金者組合支部委員会
20日 署名午前34、午後45。東京土建西多摩の女性としばらく話す。
21日 署名午前30。中国の若い女性が大変感激して、バスに乗っても発射するまで手を振っていた。試験場に勤めている人からアメ玉をいただく。
22日 署名午前33、午後34。私より3歳若く長崎で被爆したという人が署名してゆく。86歳で傷痍軍人と言う人の署名もあった。
23日 署名午前37、午後43。あなたの顔が実にいい、本を出していないのかと70歳の中野区の男性に言われる。スペイン人、ペルー人、インド人の署名あり。
24日 署名午前16、午後から三鷹事件60周年の集会があり出席。これからの問題として、いかに次世代に語りついでいくか、普通の人にどれだけ話すか、九条署名のことも入れて話す。若い人は正義感を持って受けとめると思うと、一言発言させていただく。
25日 署名午後25。午前は雨で、天神集会所で町内のいも煮会。
26日 一日雨。
27日 署名午前41。颱風が去って晴天。午後は年金者の短歌の会。
28日 署名午前43。晴天で署名多し。元自衛官、中国人の署名。いま卒論で憲法のことを書いているという学生もいた。
29日 署名午前35、午後38。半年ぐらい試験場に来ている人にはじめて声をかけられる。お金をもらっていないのかと。ボランティアと答えるとびっくりしたような顔になった。北朝鮮問題などもたしかな視点を持っているようであった。また職がなくて困っているという50代の男性。ただならぬ様子だったがバスが来たので、あとでこの人の住む中野区の私の知り合いに電話をする。
30日 署名午前35、午後36。中国女性の署名。いつものようにあの時の日本人の一人として謝罪したらとても感激していた。グァテマラ人の署名もあり。
11月/
1日 午後、国分寺市民祭9条の会のテントへ。はじめて「哀しみの南京」演劇の渡辺義治・横井量子にお会いし、その脚本をいただき一読して、あまりのすごさに圧倒される。
2日 一日雨
3日 晴れたがこの秋一番寒い。新潟は雪。公園は寒いが署名多く午後48。韓国の女性に新潟信濃の川の朝鮮人虐殺事件について話す。
4日 署名午前29、午後38。スリランカ、バングラデシュの青年の署名。ほかにも幾人かの若者と話す。
5日 署名午前33、午後17。午前、中年の男の人が、なかなか出来ないことをやっているとしばらく話してゆく。午後は寒くなったのではやくきりあげる。
6日 署名午前34。どちらかというと自民党だがと言う女性が署名してゆく。
7日 署名午後41。久しぶりにお会いした人もいて署名多し。スケボーの青年に2万7千になったと言ったら、次は10万めざせと言われ、あの世に行ってもやるかと言って笑う。
8日 署名午後45。バーベキュー広場人多く、大人は酔っぱらって署名できないと、小3の男の子が署名してくれた。
9日 7月にお話にいった大沢の人達に採れたての野菜でということで、お昼におよばれにゆく。
10日 署名午前31、午後33。少しづつ秋が深まってゆく。フィリピン女性の署名。
11日 朝から一日雨。小説、加藤周一の「ある晴れた日に」を読む。
12日 署名午後40。午後から晴れたので署名多かった。帰りに小学校脇で前原の大久保さんという人に声をかけられる。そして橋のところで昨日すぐ目の前に止まっていて車の中でレンタン自殺があったことを聞く。
13日 署名午後6。雨になったのですぐ止める。こういう日は人の心もはればれとしまい。
14日 午後から武蔵野公会堂で「一人からはじまる」と題して澤地久枝さんの講演があり、参加350名の席にたいして400名ぐらい集まったろうか補助椅子、二階、階段などいっぱいだった。終わってからの質問のときに、司会者にはごめいわくをかけたが、15年前新潟の山から出てきてあなたの本に出会い、それがいま私の九条署名の大きな力になっているので、一言お礼をいわせていただきますと言ったら、会場がにぎやかになり、あとで澤地さんにも、お体に気をつけてと言われる。
15日 午後55。はらっぱで野球を終わって飲んでいたグループだった。はじめは突っけんどんだったが、アメリカの医師の銃乱射事件の話になり、監督が若い人みんなに声をかけ署名させる。
16日 署名午前34。午後、年金者組合運営委員会
17日 雨で署名中止。
18日 署名午前22、午後41。午前風が冷たく人も少なし。午後は暖かくなったわけではないが署名多く、杉並の青年とかなり話す。バスに乗っても手を振っていた。
19日 立川の泌尿器科へ。
20日 署名午前40、午後20。晴れたが気温上がらず、午後ははやくきりあげる。若い人で話しかけてくる人が何人かいた。小平の人で署名用紙を欲しいという人がいた。
21日 署名午前24、午後18。公園は明日の「はらっぱ」祭の準備。小説家希望という若者あり。今日も署名用紙が欲しいという人(杉並)がいた。
22日 署名午前55、午後76。今日から「はらっぱ」祭。昨年は九条の会の女性が2名来てくれたが、今年は憲法ミュージカルの公演と重なって、以前から署名をと実行委員に頼まれている私のみ。午前はとても寒かったが署名多し。
23日 署名午前45、午後142。二日間で318。この3年間で最高の数。
24日 署名午前32。日が差さず寒いので、午後から歌会もあるのではやくきりあげる。
25日 北多摩教育会館で9条山の会の矢挽さんより「いまなぜメディアを読み解く」という講演会に60名集まったと、チラシ配布のお礼の電話あり。
26日 署名午前42、午後38。久しぶりに朝から晴天、署名多し。
27日 署名午前33、午後47。金がある人は人がわからない。鳩山さんもそうだと怒る青年もいた。
28日 署名午前32。晴天。久しぶりに公園を歩く中学3年という女子のグループに会い署名する。若者との話は実によい。学生と思われる女性が感動して私の話を聞いてゆく。2年ぶりだという人に会う。
29日 署名午前15。9条の会みんなの集い講演・渡辺治。署名は午後からのことがあるのではやくきりあげる。スケボーの青年に沖縄出身者がいた。3年前わたしの「朝日」の記事を見たという人もいた。
30日 署名午後33。午前診療所。午後からもさむいのではやくきりあげる。
12月/
1日 署名午前28、午後22。晴天だが午前少し寒かった。午後は集会所の抽選が終わってから、11月30日のビラ不当配布判決に怒りあらわな人もいた。
2日 署名午前30、午後45。晴天だと朝は寒くとも自然に足は署名にむかう。戦争で父を失ったという人が署名してゆく。午後から署名多く、若者には迫力を持って話すことだ。久しぶりに府中の9条の会のおばさんの会う。
3日 一日冷雨。
4日 署名午前は34。朝から晴れる。昨日沖縄問題で突きあげられたことだろうか、いつもより署名よし。午後は年金者組合のニュース編集会議。
5日 署名午後2。小雨で人はいないと思ったが公園を回る。バーベキュー広場、4人いて2人署名。話し合いになり、おつまみなどをいただく。
6日 署名午前26。午後から年金者組合20周年を祝う行事があり、早くきりあげる。ミニバスの礼を言ってくれる人もいた。
7日 署名午後27。寒いので署名は午後から。いつも多摩霊園の柵を越えて吸いがらを拾いにくるホームレスがこのところ姿を見せないのが心配だ。先日多摩霊園で自殺者があったとも聞いている。路上生活者にはきびしい寒さが。
8日 署名午前41、午後32。今日は朝から晴れて、68年目の開戦の日と話しながら、あの戦争で日本人310万人、アジア人2000万人を殺して、再び為政者の行為によってこのようなことをやらないと世界の人に誓ったのがこの憲法9条で、今日は私にとっては特別の思いある日だと言いつつ署名する。こちらが力を入れればみんな真剣に受けとめてくれる。
9日 署名午後40。寒くなったので早くきりあげる。バスが来ても署名してくれた若者が2人いた。
10日 署名午後40。久しぶりに晴れて気温14度。顔みしりも沢山いて楽しかった。人間を、人の命を愛せないでなにが愛国心かと言うものもいた。フランス人、タイ人の署名もあり。
11日 一日氷雨。朝の血圧が高くなるので気をつけねば。
12日 署名午前10、午後25。午後は以前に本を買っていただいた人に会い、オバマ大統領のノーベル賞演説、沖縄問題、小沢訪中などで話し合う。
13日 署名午後20。冷えてきたので1時間できりあげる。
14日 署名午前29。寒いが風はなし。ガーナ人の署名もあり。
15日 寒いので今日は署名休む。
16日 署名午前37、新潟は雪。風がないのが救い。署名が多いと元気が出る。
17日 署名午前35、午後20。昨日に続いて風なし。午前署名多く、現役のアメリカ兵とも話す。
18日 署名午前16。初霜。署名は散歩だけできりあげる。12月に入って多摩霊園で自殺者があって、知っているホームレスでないかと心配していたら1ヶ月ぶりに会い、心配していたよと声をかけたら喜んでくれた。
19日 署名午前17、午後6。バーベキュー広場に学生のグループがいて署名。広島出身者が2人いた。府中の人で、お会いするのは初めてですがあなたのことは知っていますという人がいた。
20日 署名は中止して友人につきあう。子育て地蔵のところから見る冠雪の富士は実に美しい。
21日 署名午前22。ホームレスに生活保護の話をする。いままで突っぱるタイプだったが、有難うと素直に聞いてくれた。
22日 署名午前39。朝寒かったが久しぶりに晴れ風もなく人も多かった。
23日 署名午後22。ベンチにいた2人のおばちゃんが、党派を超えた活動だとほめてくれた。
24日 署名午前39。気温は昨日と同じだが風があり寒かった。テレビの仕事で硫黄島に行ったという人が署名していく。
25日 署名午前26、午後75。祖父がシベリア抑留で片腕を失ったという青年が署名してゆく。午後から暖かくなって署名も多く用紙がなくなった。
26日 署名午後16。午後から晴れて暖かくなったが、年末もここまで来ると公園の人は少ない。
27日 署名午前30、午後38。午前40代の男で、京王バスの許可をもらっているかと言ったので、もらっていないが教えてくれて有難う、知りあいの弁護士さんに聞いてみるよと言っておく。新しいいやがらせか。職業を聞いたら会社員と言った。女子学生で感激したのがいて、次は君たちだ頼むぞと言って別れる。午後から、道のわきの小金井名物の亀谷の菓子職人が工場の前で日向ぼっこしていて話しかけてくる。みんな公園で署名したと。
28日 午前14、午後26。午前、バス停に行ったが人も少なく気分がのらなかったので公園を廻り、高校生3人、若者、女性、老人夫婦など署名いただく。通りすがりに声をかけたら後を追ってきて、沖縄ですと言い若者が署名してゆく。
29日 さすがに年末は公園も人少ない。しかしおお会いした人とは話がはずみ、今度お話に来て下さいと言う人もいた。アフガニスタンの夫婦の署名もあった。
30日 今日は正月が出勤の長男と孫が来たので署名は中止。
31日 署名は午後15。風は強かったが今年最後の署名として廻る。公園の管理所のところに若いホームレスがおり、いま開設の派遣村にゆくようにすすめる。
1月/
1日 署名午後29。寒いが風はなく、そこそこの署名をいただく。公園管理所のところのベンチに今日もホームレスが2人いて、派遣村のことを話す。いちばん肝心な人達に情報がいっていないのではないかと怒りおぼゆる。正月なのにと言ってくれる人、あたたかい言葉をかけてくれる人が多かった。
2日 署名午後30。あなたのことをエッセイに書きたいので資料はないかと言われ、毎日新聞のコピーを渡した婦人がいた。
国に「謝罪と補償」を求める東京大空襲訴訟において、12月14日東京地裁(鶴岡稔彦裁判長)は請求を棄却しました。判決要旨の読みあげもなく代理の裁判長の「主文」言い渡しのみ、たった20秒ほどで3人の裁判官が脱兎の如く法廷のドアから消え去り、唖然としました。
09年5月21日結審以来約7ヶ月、待ちに待った判決でした。
07年3月の提訴以来10回の口頭弁論が行われ、専門家証人4人と原告12人の証人尋問を通して、空襲被害の惨状や戦後64年間の原告達の心身と人生被害が現在も続いていることを弁護団が理を尽くし明らかにしてきたので、裁判長から何かしら救済の言葉が聞かれることを期待しておりましたが、裏切られました。
この裁判の争点は、空襲による民間人被害者への国家補償を認めさせることができるか、「戦争被害受忍論」を撤回させられるかにありました。
「戦争犠牲ないし戦争損害は国の非常事態のもとでは国民の等しく受忍しなければならないところであって、これに対する補償は憲法の全く予想しないというべき」という最高裁判例(1987年)は、理不尽極まりないものです。被告国は、他の戦後補償裁判でもこれを引用し、裁判所もこの最高裁判決に依拠して訴えを切り捨ててきました。
今回の判決ではこの「受忍論」は引用されませんでした。判決は、民間人被害者の戦争損害といえども「軍人軍属との間に本質的な違いはない」と認め、結論において空襲被害者の救済は「国会が様々な政治的配慮に基づき、立法を通じて解決すべき問題であると言わざると得ない」として、棄却の論理は「戦争被害受忍論」とは異なっています。
憲法14条「法の下の平等に反する」という原告団の主張に対し、「明らかな差別であるということはできない」としたことは承服できません。
旧軍人の仮定俸給年額を見ると、表のように軍人の中でも階級により、恩給・遺族年金には金額に大差があります。1953年からこれまで軍人・軍属とその遺族(孫の代に及ぶ)に支払われた金額は48兆円以上にのぼり、09年度予算は約7千億円が計上されています。
階級 | 金額 | |
---|---|---|
大将 | 8,334,600 | |
中将 | 7,434,600 | |
少将 | 6,291,400 | |
大佐 | 5,503,100 | |
中佐 | 5,170,100 | |
少佐 | 4,126,700 | |
大尉 | 3,432,600 | |
中尉 | 2,735,200 | |
少尉 | 2,392,800 | |
准士官 | 2,161,000 | |
下士官 | 曹長又は上等兵曹 | 1,759,800 |
曹長又は一等兵曹 | 1,651,000 | |
伍長又は二等兵曹 | 1,599,400 | |
兵 | 1,457,600 |
2001年度以降同額。一部省略。詳しくはパンフ「差別なき戦後補償を」(09年11月発行1部200円)をご覧ください。
けれども今も後遺症に苦しむ民間人への補償は全くありません。
人の命や生活保障にこんな違いがあってよいのでしょうか。これこそ戦争を支えるシステムではないかと思います。
新聞報道では、訴訟の意義と人権回復を願う原告団の主張が拡がりました。
「東京地裁は訴えを棄却した。『心情は理解できる』としつつも、立法によって解決すべき問題だと退けた。軍人には年金や恩給がある。当時の国土は戦場さながらだった。歴史を思えば訴えには理がある。」(朝日/天声人語)
1973年から1989年にかけて国会で民間人の被害救済法案が14回にわたり提出された当時について「日弁連が憲法の『法の下の平等』などに基づき、民間戦災者の援護法制定を求める決議をしたこともある。」「西欧諸国では民間の被害者も補償しており人権や平等の観点に立つ補償制度だといえよう。」「国民全体の補償制度がつくれないものか、救済策に知恵を集めてほしい。」(東京/社説)など。30代、40代の若い記者たちが戦争の悲惨さを風化させてはならないという立場で空襲被害者の長年の労苦と訴訟の意義を受け止め伝えており、各紙の理解と共感に私たちは励まされました。
今後様々な戦後補償問題を闘う人々と連携しながら立法運動に取り組んでいきます。
東京空襲の被災者はなぜ語らないのか、東京になぜ追悼の施設がないのか、なぜ沖縄・広島・長崎のように世の人々に語り継がれてこなかったのか。庶民には命も身体も家・財産をなくしても何の援助もなく差別、偏見、蔑視の中で過酷な人生をわが身の不幸として生きることが精一杯だったことや犠牲者遺族と被災者の運動が長年あったにも拘らず、64年間放置され切り捨てられてきた事実を裁判で学びました。
裁判を知って、原告団事務所には今も戦争の犠牲者が訪ねて来られます。
「今まで誰にも話せませんでした」と上野で3年間の浮浪児生活を初めて語る女性。
当時5才で孤児になった男性は一生住所が定まらず、どんなに働いても正式採用されることなく転々とし、70才を前にして東南アジア行きの外国船に乗る働き口を紹介され「私は今も浮浪生活です」と語ります。「本当の母親が生きているかもしれない」と肉親探しに手がかりを求めて訪れる方もいます。戦争の後始末はまだ終わっていません。
原告の多くはまだ子どもでした。「今回の訴訟で64年間自分がどんな境遇に置かれたか、それは誰のせいなのか、どう闘うべきだったのかが、はっきり見えるようになった。」など漸く自己の人生を捉え表現することができるようになり、自らの権利を自覚しました。
原告団ではすでに7名が他界され、平均年齢78才と時間的余裕はありませんが「二度と戦争の惨禍を繰り返さぬよう命の続く限り頑張る。」と113名が控訴しました。
東京大空襲訴訟原告団
千葉利江