昨年の総選挙の結果、「55年体制」以来初めて、その綱領に明文改憲を掲げた改憲政党の自民党が議会第一党の座から転落し、民主党などによる「政権交代」が実現した。これによって、90年代から執拗に企てられ、小泉・安倍内閣をその頂点とした9条を標的にした明文改憲運動はいったん、収束した。
この情勢を切り開いた力は、「九条の会」の運動などによる、現憲法成立以来、国民のあいだに形成されてきた「戦後民主主義」が改憲の危機に直面して発揮された「9条守れ」の世論であり、これが90年代に顕著になった長期不況と小泉内閣による「構造改革」=生活破壊、格差・貧困社会への怒りと結びついた結果であった。
この「政権交代」がもたらした新しい政治情勢のもとで、憲法をめぐる闘いは、今日、やや複雑な様相を呈している。明文改憲を目指す動きは自民党などのなかには残っているものの、政治逃走の舞台の後景にしりぞき、連立政権3党の政権合意には「憲法3原則の順守」が明記された。民主党は「改憲指向」の政党であるが、「生活第一」を掲げて政治権力を奪還し、連立政権に護憲政党の社民党を迎えており、当面、改憲問題でことをあらだてることを望んでいないことは明白である。
しかしながら同党の政治理念の中には改憲指向の政策がすくなからず含まれているだけでなく、鳩山首相や小沢幹事長らの政治理念は改憲である。また民主党の「緊密で対等な日米同盟」という主張は、米国からの集団的自衛権行使の要求(改憲または憲法解釈の変更)を受け入れざるをえない立場に置いている。こうした要因から、現政権のもとで解釈改憲の動きが強まらざるを得ない。インド洋での自衛鑑の補給活動は間もなく終結されるが、海賊対処法によるアフリカ東海岸での自衛隊の活動は継続されようとしているし、アフガニスタン戦争に対する加担の動きも容易ならない。「東アジア共同体」構想をかかげながらそれに逆行する北朝鮮の貨物検査法が上程されるし、米軍再編への協力も継続され、普天間基地問題では迷走が続いている。米国が要求する集団的自衛権の行使に道をひらきかねない内閣法制局長官の答弁禁止など「国会法の改定」も企てられている。
折しも2008年5月18日は安倍内閣が野党の反対を押し切って強行した「改憲手続き法」の凍結期間が、法律上は解除される日である。改憲手続き法はこの3年、ほとんど機能してこなかった。同法のもっとも肝心な部分である憲法審査会はいまだに作られていない。2009年に麻生政権が衆議院で「憲法審査会規定」をこれも野党の反対の中で裁決しただけである。改憲手続き法が「附則」として定めた(1)18再投票権者導入に関する法整備、公務員の国民投票運動に関する問題、国民投票に付する諸問題などについてはほとんど事態はすすんでいない。同法を参議院で強行した際に当時の与党がつけた「18項目の付帯決議」に関する処理は何も進んでいない。要するに3年間の凍結期間は全く機能していなかったのであり、改憲手続き法は効力を発揮していない欠陥法である。
こうした経過と現状をふまえ、安倍内閣の明文改憲路線を精算するためにも、新政権はこの法律の凍結を確認し、きっぱりと廃止法とすべきである。このようにすることこそが、連立政権合意で確認された「日本国憲法の……3原則の順守を確認するとともに、憲法の保障する諸権利の実現を第1とし、国民の生活再建に全力を挙げる」政策を実現していく道である。(高田健)
社民党の党首となっても、いつも市民の目線で行動することを忘れていない護憲派の福島みずほさんが、新連立政権の発足で大臣になってしまった。福島さんは消費者行政や食品の安全、男女共同参画に少子化、自殺対策など、担当する範囲がひろい。政務に大変忙しい福島大臣だが、ぜひとも新年の抱負や市民へのエールを本誌に語ってもらいたいとお願いして、大臣室でお話をうかがった。
開口一番「3党連立合意の中に、憲法を1項目たてて憲法3原則を入れ、憲法の理念を生かして国民生活の再建をすることがはいったのはすごく大きいことです」と、福島さんは切り出した。確かに3党連立合意の10番目には、――唯一の被爆国として、日本国憲法の「平和主義」をはじめ「国民主権」「基本的人権」の3原則の順守を確認するとともに、憲法の保障する諸権利の実現を第一とし、国民生活の再建に全力を挙げる。――ことが謳われた。
私たちもこの10項には目を見張り、何回も何回も確かめ、考えた。現憲法の下で戦後60年余、これまで憲法順守を掲げた政権はなかった。憲法3原則の順守を掲げたこの「合意」には画期的な意義があり、民意を背景にした福島さんや社民党の奮闘のたまものなのだろう。これは新政権の大きな特徴になっている。
2010年は「なんと言っても『平和』の問題が、まさに正念場であることには変わりありません。平和を実現していく年です」という福島さん。それにしても、国会に機構だけがあって始動させていない憲法審査会の存在は心配だ。
「これまで憲法9条を変えることは許さない、という運動をやってきました。今度は政権の中に入ってものすごいチャンスです。この社会を変えていくことが可能な立場です。これはきわめて困難なことでもありますが、社民党が連立政権に入っていることで、憲法審査会を動かして憲法改正案作りをするのではなく、憲法の理念を生かして努力する内閣になっています」。
「今は、憲法審査会を動かして、日本国憲法を改正しようという動きはあまりありません。憲法を生かしていこう。9条を変えず、戦争に荷担しない政治をつくっていくのだということは、まさに根本的な、大事なことです。みんなが望んでいるのは生命を大切にする政治の実現だと思っています」。「でも、民主党にもいろいろな人たちがいます。憲法審査会を始動させないことが大事です」。
今後も、審査会が動かないように監視の目を光らせていくことが欠かせないのだろう。
平和を実現していくために、2010年の前半は辺野古の海上基地建設問題が最大のテーマになる。3党合意には、「沖縄県民の負担軽減の観点から、日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍のあり方についても見直しの方向で臨む」ことが盛り込まれている。
「3党合意の平和と自立した外交のところで、日米地位協定と在日米軍基地を見直すことを入れました。9項目です。この部分は、社民党ががんばって入れたんですが、実はもともと民主党のマニフェストにあったんですね。民主党が主張していたことを3党合意の中に入れたんです」。
では、3党合意をもとにどのように対処するのか。
「政権が変わったということは、今までの政治や利権から離れて、新たな真の解決をすることです。11月17日にオバマ大統領が来て以降、辺野古の海上基地建設が年内に決着するのではないかと、ものすごい危機感がありました」。
福島さんは、「『県外・国外移設』の可能性を真剣に検討し、討議し、提案し、合意に至るには、あまりに時間が短すぎるという危機感がいっぱいになった」という。福島さんも、社民党も、いろいろな人も大いに動いた。
基本政策閣僚会議で福島さんは「真の解決をしましょう」と働きかけた。ご存じのようにこの問題は、内閣をあげて協議し、決定していくことになった。普天間問題での福島さんの発言は、新政権の年内決着を止めるのに大きく影響した。
この過程で福島さんは「とりわけ沖縄県民がやった大きな県民大会とか、全国の平和を求める市民の動き、護憲大会でも、人々の願いがこの決定に大きな動きをつくりました」と語った。
さきごろ、辺野古の海と普天間飛行場を改めて訪れた福島さん。地元のおじい、おばあたちが「この海に海上基地を作らせてはならない」と、捨て身の覚悟で海を守っているのをみて「このきれいな海をまもりたい、と改めて思った」という。
「沖縄の人たちの海に対する思い、そして環境に対する意識も高くなっている。13年間も杭一本、打つことができなかったのは、沖縄の多くの人たちが反対しているからです」。
普天間基地でも、基地が市街地のど真ん中にあることを改めてみた福島さん。現地の人から「沖縄には過去、現在、未来があると言われている」と話された。沖縄の地上戦で多くの人が亡くなった。戦争直後、米軍基地の建設とその後の様々な被害がずっと続いている。これ以上、新基地建設や基地の負担増はやめてくれという声をしっかりと受け止めた。「『過去・現在・未来』のなかで沖縄県民の負担軽減をしっかりやらねば」と改めて決意している。
福島さんは、ジュゴン裁判についても注目している。この裁判は、天然記念物であるジュゴンの生息地域への基地建設が米国文化財保護法(NHDA)に違反するという理由で、辺野古基地建設計画の中止・変更を求めたものだ。米国での第1回判決は、被告(国防総省)は、NHDAの必須条件の遵守を怠ったとして、国防総省に対してNHDAの遵守を命じた。
「この判決は、基地建設計画の違法性を認定したという点で、まさに画期的なものです。私は、この裁判と判決を多くの人に知ってもらいたいと思います」。
辺野古移設が連日メディアを賑わすなか、福島さんは
「辺野古に新基地を作ることは実現不可能なプランです。実現不可能なプランを強行することでは事態はいっそう深刻になり、問題の解決はできないと思っています」「確かにアメリカが相手であり、なかなか難しいが、民主主義はみんなで知恵を出して相手と交渉をするのだから、そこはがんばっていきたい」。「アメリカの世論と政治、日本の世論と政治、その両方を変えなければいけないんです」。
ここは知恵のひねりどころであり、勇気の発揮のしどころなのだ。
「2010年は民主主義を実現する年だとも思っています」。
「これまでの自民党の政治は、族議員と利益団体が役人と一緒になって利害調整をしてきた政治です。国民に顔を向けてこなかったからNOを言われました。民主主義は、みんなが思っていることを吸い上げて、何が真の解決かを模索していくことだと思っています。」
だから
「いままでの普天間の日米合意も、民主主義を経て、日米両政府でしっかり再検討すべきではないでしょうか。問題をきちんと解決するためには、多くのエネルギーが要ります。しかし問題をきちんと解決するという決意をし、努力しない限り、解決しません」。
たしかに普天間での日米合意を大前提にする議論も多いが、もともと外交は国の専管事項などといって、市民の意志は一顧だにされなかったのがこれまでの政権党だった。ここでも知恵と経験と勇気が必要だ。
連立政権の中での政策実現ではどんな苦労があるのだろうか。「現実にはやれることもあり、やれないこともあります。インド洋での給油をやめさせること、アフガニスタンに対しても武力行使ではない違った解決をしていこうとしています。憲法審査会を動かさないこと、船舶検査法案では自衛隊の関与をさせないで、海上保安庁の船で何とかできないか、というとりくみをしています。海上自衛隊が『ひゅうが』級の船を造ろうとしている動きにも対応しようとしています。社民党が果たしていることは大きいと思います」。
2010年5月18日の「改憲手続き法」が執行されることについては
「国民投票法はすでにできてしまっている法律です。本当にこれを葬り去るためにも、参議院選挙で応援してください。これが今日の結論です」。
市民社会の中にある多様な意見を反映させるためにも、民主的な社会関係をつくるためにも二大政党ではない議会をつくっていきたい。福島さんのがんばりに大きな期待をよせています。
(土井とみえ)
高良鉄美(琉球大学法科大学院院長/憲法学教授)
ようやく普天間基地の移設問題が全国ニュースで取り上げられるようになった。本来は、96年4月の日米合意の中で5-7年以内の普天間飛行場の返還という形で発表された際に、普天間の状況や沖縄の米軍基地の過密さ、県内移設の問題点、護憲運動への影響なども合わせて、もっと全国ニュースで発信されるべきであった。というのも、戦後50年を迎えた95年には、平和の礎の設置(6月)、米兵による少女暴行事件(9月)、大田沖縄県知事の代理署名拒否(9月)、少女暴行事件等に対する沖縄県民総決起大会(10月)、総理大臣が知事を訴えた代理署名訴訟開始(12月)という米軍基地を巡る一連の大きな波があったからである。翌96年3月には代理署名訴訟に対する福岡高裁那覇支部判決が下され、国が勝訴した。そのような中で沖縄県民の怒りを抑えるように、突然普天間返還が発表された。
情報とは、私たちが思っている以上に怖いものである。当初は普天間返還が大きく報道され、県内移設条件はついでに付いてきたという程度の扱いであった。県内移設条件はほとんど全国的には知られなかった。しかし、日米安保、米軍再編のニュースが全国的に取り上げられてくると、普天間「返還」は、いつのまにか「移設」に変わり、今や「普天間移設問題」という呼び方がほとんど使われるようになってしまった。危険な普天間飛行場の現実は、移設先が決まって工事が完成して、それから返還しますという問題ではなかったはずですと、訴え続けている。96年の日米合意で示された5-7年以内の「返還」があれば、2004年8月の沖縄国際大学へのヘリ墜落事故は起こるはずもなかった。約束の期限を遙かに過ぎても、まだ「返還」と言わずに、「移設」と言い続けるのであろうか。同じ情報を発信し続けられたり、あるいは情報操作で微妙にシフトされ続けたりすると、人の頭では当該情報が常識で、逆のことは非常識になってしまう。
沖縄返還密約事件においても、国民の目は、本来の問題である米国の払うべきお金を日本が肩代わりする政府の密約から、西山記者の情報収集のやり方へとシフトさせられ、本質を見ることができなかった。先日、西山国賠訴訟において、沖縄返還密約があったことを当時の外務省アメリカ局長吉野氏自ら証言した。情報をクローズすることによって、歴史まで国が歪曲しようとするのは、国民をだますことにほかならない。明治憲法下で情報を操作し、国民を戦争へと引っ張って行った、あの「臣民時代」と国の本質が変わっていないのではないだろうか。国民は今一度誤った情報の鱗が付いてないか確認し、ある場合には目から鱗をとって、国をしっかり監視して、情報「臣民」から情報「主権者」に変わらねばならない。
沖縄返還交渉中の1969年、佐藤首相がニクソン大統領と交わした、沖縄のへの核持ち込みに関する密約についても、先ごろ文書が見つかった。核兵器事故等があった場合に最も影響を受ける沖縄の住民に何の情報も与えられず、国の中枢にかかわる者のみがその運命を握るような形は、住民が捨て石となった沖縄戦と同様である。このような構造が平和憲法の制定された後も続いているということは、一人沖縄だけでなく、今も日本のすべての地域で国民が主権者という扱いを受けていないのではないかという疑問が湧く。
地上戦の始まる前年の1944年10月10日、沖縄では大規模な空襲があった。十十(じゅうじゅう)空襲と呼ばれるが、早朝から数波にわたり、那覇や嘉手納、読谷、伊江島、奄美、宮古、石垣などほぼ沖縄地方全域にわたって攻撃を受けた。前夜、日本軍は宴会を開いて、敵が来るなら蹴散らしてやると豪語しており、沖縄がひっ迫した危機的状況にあることに関して、住民は的確な判断材料を持ち得なかった。こうして、住民は早朝から那覇の中心に向かう攻撃機を見ていながら、それが空襲だとは思わなかったのである。爆弾を投下されても実戦さながらの訓練だと思う者さえいた。あらためて情報の怖さを感じる。だからこそ主権者の知る権利は重要なのである
去った10月10日に、拙著「僕が帽子をかぶった理由(ワケ)」(新書版945円、クリエイティブ21)が出版された。主権者の知る権利に関わる理由ですというだけでは、あまりに少ない情報であるが、副題が「みんなの日本国憲法」ですので、ぜひ情報の重要性を確かめるためにお読み頂けると幸いです。
山口たか(おんな9条の会世話人・日独平和フォーラム北海道代表)
新しい年のはじめにあたり、世界から戦争や、貧困や抑圧がなくなる一年となることを祈ります!
昨年、私たちは、半世紀続いてきた自民党政治に終止符をうち、民主党中心の政権交代を実現させた。
しかし、新政権になって改憲は遠ざかったのだろうか。オバマ大統領は、右手でノーベル賞を受け、左手アフガン増派にGOサインをしたが、今年は日米安保50年である。日本とアメリカの関係性が根本から問われるべきと私は思うのだが、鳩山政権はアメリカとどのような関係を切り結ぼうとしているのかが、わからない。沖縄の普天間基地撤去も迷走している。新政権がどのような方向へ向かうのか、それは、われわれの望むものとなるのか、市民が政治を監視し、発言していかねばならないと思う。自民党政治の終焉は歓迎するが、私たちは、新しい政権に全幅の信頼を寄せるところまでいっていない。
北海道では、昨年「おんな9条の会北海道」が、結成された。平和や人権や脱原発に取り組むなかで出会った女性たちには、男女平等も、生存権も平和が大前提、だから憲法第9条とともに、第24条や第25条もふくめ、どれもゆずれないものとして、活動していきたいという思いがあった。そこで女性にこだわった会をつくろうということで、北海道全域に呼びかけた。釧路、室蘭、旭川、各地から賛同をいただき、100人を超えた段階で、結成記念講演を行った。講師は、作家・評論家の吉武輝子さん。あらゆる病気を抱えながら「病気になっても病人にはならない」と酸素ボンベを持参されて北海道まで来てくださった。ご自身の生きてきた道を振り返りながら、家庭生活における男女平等をうたった憲法24条がいかに、戦後の女性を解き放ったかを熱く語ってくださり、参加者一同、心が震えるような感激を覚えたのだった。特に、「無傷で」憲法を次世代に手渡すために、ひとりひとりが小さなジャリになろう、改憲の歯車を止めるのは、ひとつの大きな岩ではなく、小さい無数のジャリの力だ、との訴えから大きな勇気をいただいた。
「おんな9条の会」は、代表をおかず、世話人が話し合いながら運営していくことにしている。誰でも招集できるし、誰でも、どんな提案でもできることが柔らかな会だ。5月には、改憲の国民投票法が施行されることから、札幌学院大学・清水雅彦教授を講師に、「新しい政権と憲法」シリーズの学習会をスタートさせ、少しずつでも、共感の輪を広げたいと思っている。
私は、今でも心が萎えそうな時、小田実さんの言葉を思い出す。「人間みなちょぼちょぼや」「世界は世直しを必要としている」「9条が基本」と。
新しい年をむかえ、しんどいけれど、踏まれても踏まれても砕けない、ジャリの一粒として、ちょぼちょぼと歩み続けたいと思っている。
小川良則(憲法を生かす会)
自民党の歴史的惨敗を受けて鳩山内閣が誕生した直後の本誌9月25日号で、「小泉改革」による生活破壊に対する民衆の怒りが政権交代をもたらしたものの、民主党の政策にも問題点は多々あり、その最たるものが比例定数の削減であることを指摘した。本稿を書いている12月15日現在、その危険が去った訳ではないが、より緊急の課題として浮上しているのが「国会改革」なるものである。
既に前号の巻頭言でも、「政治主導」の名の下に官僚の答弁を禁じたり、内閣法制局から憲法解釈の権限を奪うことがいかに危険であるか、高田さんから指摘されているが、これと重複を避けつつ、改めてこの問題について考えてみたい。
報道によれば、連立3党間で合意された「改革」案の骨子は、政府参考人制度(官僚による答弁)の廃止と、内閣法制局を政府特別補佐人から外し、同局による答弁を廃止することの2点であり、官僚や内閣法制局には、常任委員会や特別委員会とは別に設けた新たな場で意見を聴取するというものである。しかし、「新たな場」を設けるといっても、質疑・討論を経て成案を形成するというプロセスから切り離されたのでは、そこで出された問題点が結果に反映されないまま、単に「聴き置いた」だけに終わってしまう危険がある。
確かに「政治主導だから政治家同士による闊達な論戦を」と言えば,聞こえはいい。しかし、実態はどうであろうか。例えば、いま最も注目を集めている普天間移転をはじめとする米軍基地の問題では、根本となる資料が外務省北米局や条約局(現国際法局)の奥深くに隠され、大臣にすら見せなかったと言うではないか。担当閣僚の当事者能力の有無の問題はさておき、何も知らされていない人を相手に質問しても議論にはならない。事情を最もよく知る人に証言や説明を求めてこそ議論の前提となる事実が明らかになるのであり、それを踏まえた議論を法案や条約や予算に反映させるのでなければ、国会審議の意味をなさない。別の例で言えば、同じ年金問題を議論する場合でも、人口推計を検証するのと、雇用や医療も含めた高齢化社会のトータルな政策論を交わすのとでは、自ずと議論の相手は変わってくる。要は、質問する側が、この問題は誰に聴くのが最も有効かつ適切かを判断して答弁者を指定すれば済む話であり、法律で一律に決めるべき性格のものではない。
もう一つの問題は、もし、「政治家同士による闊達な議論」という説明を額面どおり受け取った場合、そこでの最大の課題は「闊達な議論」に耐えうる政策立案能力を議員自身が持つということになる。実際にも、野党時代の民主党は、議会スタッフを充実させ、議員の能力を高め、議員立法を増やそうという主張を展開してきた。ところが、政権交代後は、議院内閣制の下では与党と政府は一体だから与党議員は質問も立法もすべきではないと主張しているが、これは明らかに従来の主張と矛盾する。
そもそも憲法上、国会は唯一の立法機関と明記されており(41条)、その構成員である議員が法案提案権を持つことは論を待たない。一方、内閣の方は,予算(73条・86条)、決算(90条)、条約(73条)については提案権が明記されているものの、法案についての明文の規定はなく、72条でいう「議案」の中に法案も含まれるという解釈が学界の多数説であるというに過ぎない。つまり、誰も疑義を持たない議員の法案提案権が、たまたま所属政党が与党なるがゆえに制約を受け、一応は憲法上の議論になる内閣に法案提案権を一元化するというのは逆立ちしている。ましてや,質問も政策の勉強も党中枢に任せ、個々の議員は選挙のことだけ考えていればいいと言わんばかりの主張は、国権の最高機関にして唯一の立法機関である国会の自己否定と言わざるを得ない。
議員内閣制を採る以上、いかなる政権であれ、与党と内閣がある程度一体化することは当然であるが、このことと、政治家である閣僚によって構成される内閣と官僚機構である行政府が一体かどうかは別問題である。両者の間に一定の緊張関係があるからこそ、「政治主導」ということがスローガンたりうるのではないだろうか。それと同時に、院内での与野党間の緊張関係とは別の意味で、立法府全体と行政府との間の緊張関係も厳然として存在するのであり、一方のみを過小評価して一律に制度として規制することには大いに疑問が残る。
そして、内閣法制局による憲法解釈の問題については、既に紙数も尽きたし、重複は避けるが、憲法調査会をコンビで仕切ってきた船田(自民)・枝野(民主)両委員とも、行政の一機構に過ぎない内閣法制局が憲法の有権解釈を独占するのは政治主導に反するから、国会自らが憲法判断をできるようにすべきであるとの主張を展開してきた。そして今、国会には常設の機関として憲法審査会なるものが置かれている。安倍内閣による強行採決の後遺症で、2年半経った今でも始動していないが、もし始動した場合、その委員は議席割によって各党に配分されることになる。つまり、院内多数派が内閣を組織するとともに憲法審査会の主導権を握り、時の政権によつ恣意的憲法解釈に道を拓くことになりかねないのである。ましてや、国連の指揮下での行為は国権の発動ではないから憲法9条の問題を生じないという独自の憲法観を持つ人物が内閣法制局の権限を奪おうとしているのは、海外派兵や集団的自衛権への地ならしともなりかねない。
ことは急を要する。あらゆる手段を尽くし、警鐘を鳴らし、声をあげていこう。
松岡幹雄(とめよう改憲!おおさかネットワーク事務局)
小泉・安倍と続いた明文改憲の動きに対して反改憲の緩やかなネットワークとして発足した「とめよう改憲!おおさかネットワーク」も今年で4年目を迎えます。昨年は、第3回総会と記念講演会で浦部法穂先生をお招きした田母神問題を考える講演会を開催を皮切りに、5月3日憲法記念日には、「九条の会・おおさか」が主催する憲法のつどい成功のためにとりくみ、また2年目となる9条護憲の新聞意見広告運動をとりくみました。11月3日の憲法のつどいは、とめようネットとしては今年で3回目。今回は、広島から浅井基文さんをお呼びし、鳩山政権下での憲法運動の課題をテーマに講演をいただきました。また神田香織さんの関西初となる「哀しみの母子像」の上演とセットで開催し、250名を超す市民に参加頂くことができ大いに自信を深めることができました。そして、今年最後のイベントが、「九条の会近畿ブロック交流会」、メンバーの中で九条の会の運動に携わっている仲間を中心に成功のために取り組みました。交流会は、700余名の参加をえてまずまずの成功でした。よくいうと市民サイドの憲法運動もしだいに定着してきたということですが、もう一回り運動を広げていくことを展望したとき、運動展開や集会企画にも工夫が必要になっています。その点、新聞意見広告運動は、一人一人の声を形にし、発信する運動として地道ながら着実な広がりを感じています。
政権交代が実現し、憲法運動も明文改憲阻止だけを叫んでいればいいというものではなくなってきています。情勢も極めて流動的です。私たちは、9条護憲を揺るぎない多数派にするためにひきつづき憲法9条を守り生かす運動を進めると共に、解釈改憲の動きに対して機敏な取り組みが必要だと思います。とりわけ、内閣法制局の国会答弁を禁止し、時の政権政党が憲法解釈をせんとする国会法改正やアフガン復興支援は大きな問題と言えます。大阪の地でも昨年は、「海賊対処法案」に対して駅頭で数回宣伝活動を行いましたが、解釈改憲への反対の取り組みは不十分な取り組みであったといわざるをえません。この点で、私たちはまだまだ情勢に立ち遅れています。
「普天間基地撤去」の課題は、新政権のバロメーターでもあります。民主党が公約を守り「県外・国外」移設を実現させるには、沖縄の人びとだけでなく、日本中の人びとがアメリカの恫喝に怒りの声を上げて行くことが必要です。今年は、大阪の地からも様々な解釈改憲の動きに対してこれを許さない取り組みを強めていくと共に「改憲手続き法」の施行が近づく中これを凍結・廃止させるために連立政権の状況を生かし運動方向を見定めるために第4回総会でしっかり学習と運動方向を議論していきます。
橋下大阪府知事が、「普天間」の移設先として「関空」を候補地として上げました。大阪府民として怒りがこみ上げます。そもそも日本にある米軍基地は、危険な殴り込み部隊で沖縄からも本土からもそしてアジアからも米軍と米軍基地を撤退させなければなりません。
日米安保50周年の今年、チャンスを生かし、2010年を希望の年とするために大阪の地から運動を進めていきます。
前田かおる(江東区議会議員)
今年の夏、ある生活相談から近くに住むフィリピン人のご家族と知り合う機会があった。お父さんもお母さんもフィリピン国籍で、5人の子どもさんがいるご家庭である。聞くと一番上の娘さんは16才だが地元の中学校の途中までしか行かなかった、という。友だちは高校に行っており、一緒に行けたらいいのに、という本人の希望を聞き、区の教育委員会に問い合わせてみた。
すると「△△さんは中学校の途中でいったんフィリピンに帰った時に、除籍になっています。現在は、学齢を過ぎているので、中学に入ることはできません」との答え。ではせめて、中学生の不登校の子どもたちが学校復帰のために通っている教室には行けないのか、と聞くと「学校復帰と高校への進学が目的の場なので、入れません」との答えだった。学校に入り直そうと思ったら、残された選択肢は近隣区の夜間中学に入りそこを卒業することだ、ということだった。
●夜間中学のいま
江東区は中国帰国者や韓国・朝鮮籍の住民も非常に多く、公立の夜間中学をつくってほしいとの要望が住民から20年以上も出され続けてきた。しかし未だに作られていない。そこで、江東区在住の人も多く通う、お隣の墨田区の夜間中学の授業を、ご本人・お母さん・友人とともに見学させてもらうことにした。
夜間中学に行き私が一番驚いたのは、日本人の生徒はいまや圧倒的な少数であり、中国やフィリピンの若者が大変多く学んでいることだった。全国的にも同じような傾向であるらしい。そのため読み書きだけでなく「会話」も含めて勉強する「日本語学級」が設置されていた。夜間中学の果たす役割も、外国籍の住民の定住化が進むと共に、明らかに変わってきている様子を見る思いだった。
●不就学の子どもたち
その後の彼女の進路はというと、結局通学に片道一時間近くかかることも影響したのか、父親の紹介で働き始めることにしたのだが、彼女のように、学ぶ機会を保障されていない外国籍の子どもたちは他にも多くいるのではないか、という疑問を私は捨てきれず、調べてみた。
江東区では、09年3月現在で、6才~14才の外国籍の子どもたちは総数1,109名いた。そのうち4月時点の区立の小・中学校への在籍は496名、また中華・韓国・朝鮮学校への在籍は119名であり、残る494名について区の教育委員会は「どこの学校に在籍しているか把握していない」とのことだった。この他に、区内には年々規模を拡大しているインド学校やインターナショナルスクールもあり、494名の中にはそこに在籍している子どもたちも相当数含まれていることは事実である。しかし、どの学校にも在籍しない不就学の子もかなりいる可能性を否定できない。
外国籍の住民は子を就学させる「義務」がなく、希望すれば日本の学校に入れる、とされている。教育委員会が実態を把握せず、と言うのもこれが「根拠」にされている。しかし子どもの権利条約にも認められているように、子ども本人には国籍にかかわらず教育を受ける権利が平等にある。このことを見て見ぬふりをし続けてきた結果が、不就学の子どもたちを生み出すことにつながっているのではないだろうか。
もちろん、教育を受ける機会=日本の学校への入学ということではない。家族やマイノリティの中のつながりを維持するためにも、母国語を学ぶ権利、民族教育を受ける権利の保障が十二分に図られる必要がある。
そして制度的無関心の結果というべき不就学の子どもたちが多く生み出されている一方では、タイ国籍を理由とした中学校への入学受け入れ拒否事件や、排外主義グループによる京都の朝鮮学校への襲撃事件など、明らかに人種差別というほかない事件も起きている。
外国籍の子どもたちが誇りをもって安心して母国語を学ぶことができる環境、そして多様な子どもたちを受け入れられる教育現場の整備が早急にととのえられることを願ってやまない。
〔追記〕入稿した後に分かったことですが、インド学校に在籍する生徒のうち、区内在住者は90名でした。
大村 忠嗣(長野ピースサイクル実行委員)
2009年を振り返ると、憲法9条を燦々と!沖縄から基地・安保体制を問う「第12回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流会in沖縄」のことが先ず頭に浮かんでくる。2月13日の講演会、14日のスタディー・ツアー、15日の全国交流集会を通して、日米安保条約がすっぽりと覆い被さって、憲法9条の外に置かれている沖縄の現実をこれまで以上に強く実感した。ここでの3日間は私の1年間の、様々な活動の原動力にする事が出来たと思っている。
それからまもなく、私達が反対した「海賊新法」が、しぶとい麻生首相の下で、強行採決され、海上自衛隊の軍艦は、武器の使用を制限された状態ながら、海賊が出没するというソマリア沖の海に出て行った。それで海賊がいなくなったわけでもないのに、法案が採決されるまで毎日のようにあった海賊出没の話は、今ではニュースにもならない。ここで、私達が忘れてはならないのは、マスメディアの動きも含めた、こうした状況(既成事実)が「派兵恒久法」の土壌にならないように、しっかりと監視し、反対していくことだと思っている。
そして、5月はオバマ大統領による核廃絶宣言が行われた。具体的な核兵器廃絶はまだまだ先になりそうだが、唯一実戦で核兵器を使用したアメリカ大統領の宣言である意義は大きいだろう。しかし、私はもろ手を挙げて喜べない。「核兵器の小型化」や「核の拡散」は今でも続いているし、国の安全保障を軍事力や核抑止力に頼る傾向にストップがかかったわけではないからだ。
そんなことを考えながらも、私達長野ピースサイクルは19年目の2009年夏も「憲法9条の心を世界へ」「すべての核廃絶を」訴え、自治体や市民の150近い広島、長崎、沖縄へのピースメッセージを携えて、長野県から新潟県を自転車で走った。核兵器だけでなく、休むことなくプルトニウムを作り続けている原子力発電や核リサイクルという怪しいエネルギー政策の元で、使用済みの核燃料を再処理する六ヶ所村の核再処理施設の稼働に反対する事も訴えた。2009年も50人近い参加者や支援者が平和への想いを夏の暑さのなかで共有した。
そうした中で、後半いよいよ「政権交代」を迎えたが、生まれたばかりの連立政権の前途は、順風満帆ではなさそうである。たしかに、今までの政権とは違った時代の変化は期待できるし、とりあえず明文改憲をめぐる動きにはストップがかかったのだが、安全保障、アメリカとの関係では不透明で、特に普天間基地の辺野古移設をめぐる動揺と混乱は目に余った。私は緊急に長野出身の北沢防衛大臣への抗議と要請をメールで発信し、賛同者募集に取り組んだ。
話は変わるが、長野県の護憲派の一部に田母神元航空自衛隊幕僚長のような考え方を危惧するあまりに、元軍人栗林忠通(硫黄島玉砕戦の司令官)らを「平和主義者で太平洋戦争に反対した軍人」として顕彰碑を建てようなどという私には理解しがたい運動も生まれてきている。私達はこのような動きに異議を唱えて、行動を起こしてきた。これは、オバマ大統領があるべき世界の姿として非暴力のガンジーやキング牧師を持ち上げながらも、アフガンで武力行使することを正当化(ノーベル平和賞受賞演説)するのと同じような話でいただけない。
「平和を守る、戦争を避ける」といいつつ、憲法9条を変えて、積極的に戦争が出来る体制をつくって行こうとする勢力は、国の安全保障は軍事力しかないと主張し、今の自衛隊の戦力にさえ不満を述べ立て、「海上給油が憲法違反なら、基地提供も憲法違反だろう」と開き直って見せている。(2009年4月の石破茂・小川和久の対談集「日本の戦争と平和」)
政権交代で明文改憲の動きは一時停止したとはいえ、日米安保条約50年の2010年は、憲法9条と安全保障をめぐる議論が大きく起こってくる可能性があると思われる。米軍再編をめぐるアメリカからの圧力だけでなく、軍事力に頼ることを前提とした安全保障政策を主張する勢力が、日米同盟の危機を言いつのって現政権批判を繰り返し、揺さぶりをかけつつ積極的に動き出す可能性があると思う。
そうしたなかでも、私達は一層決意を固め、憲法9条とそれに連なる人権条項を権力者に守らせるための運動、明文改憲はもちろん集団的自衛権の行使などの解釈改憲にも反対する運動を具体的に強めるべきだと思う。そして、日米安保条約という軍事同盟から脱却して、まさに民衆の力で各国の民衆と平和で友好的な関係を築くという平和憲法本来の精神を具現するために奮闘しなければと、2009年を振り返りながら思っている。
中北 龍太郎(とめよう改憲!おおさかネットワーク共同代表)
沖縄基地問題は、安保と改憲の行方をも決していく分水嶺です。
大阪では、こうした認識を踏まえて、「10・12戦争あかん基地いらん関西集会」や「11・3武力で平和は築けない大阪憲法集会」で、沖縄基地問題で動揺を重ねている鳩山政権のその揺らぎを主体的に反戦平和運動のチャンスとしていかし、普天間基地閉鎖・辺野古新基地建設阻止を実現し、そして反戦平和のための本物のチェンジへの道筋を創っていこうと意志一致しました。
鳩山政権は、沖縄県民大多数の基地NOの声に応えて、普天間基地の閉鎖と辺野古新基地建設を中止する責務を負っています。民主党は、鳩山民主党代表が衆院選のさなかに「普天間基地は国外、最低でも県外に移設する」と明言していたように、この課題を公約にしていたからです。公約違反はあってはならないことであり、それは沖縄県民や国民に対するペテン・裏切りだとの厳しい批判は免れません。
海兵隊のベース・普天間基地は世界で最も危険な基地です。普天間基地の撤去は人命問題であり、代替基地建設を撤去の条件にすること自体人命軽視にほかなりません。辺野古に作られようとしているのは飛行場・ヘリ着陸場・軍港が一体化された最新鋭の巨大海上基地です。飛躍的に強化された海兵隊基地が半永久的に沖縄に居座り続けることになるのです。これによって、サンゴとジュゴンの豊かな美ら海は破壊され、周辺住民は新たな基地被害に苦しむことになります。
国土面積にしてわずか0.6%のところに米軍基地の75%も押しつけられてきた沖縄に、基地をたらい回しして新たな基地を押しつけるような国策は、絶対に許されない蛮行です。命は宝という思いから発せられた人殺しのための軍隊・基地はいらない沖縄県民の願いは普遍的なものであり、決して踏みにじらせてはなりません。
普天間基地の沖縄海兵隊は、ベトナム・湾岸・アフガン・イラク戦争で常に先陣を切って殴りこみの任務を遂行してきており、文字どおり侵略の尖兵としての役割を担ってきました。その拠点の強化は、海兵隊の侵略性をより一層強めることになります。
沖縄基地の再編成を要の一つとする米軍再編は、対中、対北朝鮮との戦争を想定して、日本をその戦略根拠地、最前線基地にしていくことを目的に着々と実行に移されています。オバマ政権はこうした野望を強行するために、日本政府に恫喝まがいの強圧をかけてきています。それは、日米安保を根拠に日本を属国化してきたアメリカの対日支配政策の本質をむき出しにするものです。
脱対米従属と言ってきた鳩山首相も、外圧の前に腰砕けになり、辺野古基地NOを明言せず迷走を深めています。鳩山政権も安保の金縛りにあってしまっています。
こうした沖縄の新基地建設の動きは、安保が存在するがゆえに起きています。安保こそまさに諸悪の根源なのです。2010年は安保改定50年の年です。来年こそ、新基地建設の動きの根幹にある安保を根本から問い直す年にしましょう。
普天間基地問題がどのような結末をむかえるかは、これからの日本が戦争か平和か、どちらの道を進もうとするのかを決することにもなります。普天間基地閉鎖・辺野古新基地建設断念は、安保に大きな風穴を開け、米軍とともに戦う体制づくりをやめさせる決定的な転機となります。他方、普天間基地の辺野古への移設は、日米軍事同盟の深化を決定づける契機となります。
後者の道をたどれば、同盟の深化とともに、ともに戦う体制づくりが進行し、集団的自衛権の行使、武力行使を目的とした海外派兵に至る危険性がどんどん高まっていきます。民主党政権がこうした軍事政策を進めれば、自民党はそれを後押しすることは必定であり、かくして本格的な安保翼賛体制がつくられることになります。
そうなれば、9条改憲はまさに1秒前ということになりかねません。その兆候は、鳩山政権が国会法改正によって、内閣法制局長官の国会での答弁を禁止しようとしていることにも表れています。答弁禁止は、「集団的自衛権の行使、武力行使を目的とした海外派兵は違憲」としてきた内閣法制局長の見解を封じ込め、戦争のできる国づくりのための解釈改憲を自由自在にしようする企みといえます。こうした解釈改憲が明文改憲の露払いとなっていくのです。
揺らいでいる鳩山政権を前に、民衆運動がイニシアティブを発揮し、沖縄の人びととともに、基地のない平和な島と安保ではなく9条をいかす未来を選びとりましょう。
池上 仁(横浜市学校事務職員、野庭九条の会)
12月初めは慌ただしく過ごしました。3日には所属する組合(がくろう神奈川)が横浜市教育委員会相手に提訴した裁判の第2回公判がありました。組合員を軒並み昇任から外した組合差別を争点とする裁判です。4日には全学労連・全学労組(共に日教組・全教に属さない学校事務職員・教員独立組合の全国組織)の中央行動に参加しました。全日、文科・総務・財務省、地方6団体、教育委員会連合会、そして文教関係議員への要請、総決起集会、社民党への国会請願、銀座方面へのデモ行進を行い、解散後飲み会に流れるデモ参加者を横目に、市民団体が主催した「市民の目で新政権の教育政策を問う」集会へ。
昨年の議員要請では例外的に実に丁寧に対応して下さり、議員自ら要請に耳を傾けてくださった小宮山洋子さんと、藤田英典さん、保坂展人さんのディスカッション。民主党影の内閣で文部科学大臣を務めていらっしゃった小宮山さんが、政権交代で当然文部科学大臣に就任と期待していたのですが、何故か文部科学委員会からも外れてしまいました。民主党の内部事情は分りませんが、この日の議員要請で民主党議員の対応が押し並べて素気ないものであった(連合―日教組ではない組合だからなのか、陳情・要請の扱いに縛りがかかっているのか)ことに、政権交代という画期的な事態に大きな期待をもって全国から参加した組合員が落胆していたこととあわせ、一抹の懸念が拭えません。広く様々な市民、団体の声に耳を閉ざさない民主党であってほしいと切に思います。
翌5日は全学労連の事務局会議。多くの県で自治体財政逼迫を理由に人事委員会勧告通りの賃金が支給されず、賃金カットされている実態が報告されました。終了後横浜に戻り「ぴーす・めーる」主催の浜矩子さんの講演会に参加。『グローバル恐慌』(岩波新書)の著者です。金融恐慌で破壊された社会を立て直すための3つのスローガンを提起されました。(1)一人は皆のため、皆は一人のため、(2)あなたさえ良ければで振舞おう・・・情けは人のためならず、(3)開かれた小国をめざせ・・・「小国」=本当に小さなコミューンのオープンで風通しの良い小宇宙、その連鎖としての社会。2日間バタバタと駆けずり回っていた疲れが吹き飛ぶような明快なお話でした。
中央行動で私たちは重点的に次のことを訴えました。共に憲法と密接に関わる課題です。(1)教育の完全無料化・・・憲法第26条に義務教育無償の原則が謳われていますが、実際には教材費、給食費、遠足・修学旅行費用など保護者負担は小さくありません。大不況の下、この負担に耐えられない世帯が増大しています。これを救済すべき就学援助制度は、小泉改革の中で国庫負担がなくなり、財政難の自治体では支給額削減、所得制限の強化等、充実どころか後退している実態があります。高校無償化、子ども手当と併せて義務教育の完全無料化を求めます。(ちなみに私は就学援助受給児童・生徒が一定数を超える学校に事務職員が加配される制度で小学校に配置されています。200人程の対象児童がいますが、申請書に添付される収入証明書に不況の影が露わです。この収入でどうやって生活しているのだろう、と暗澹たる思いにかられることもしばしばです。)
(2)非正規教職員の労働条件の抜本改善・・・公務員職場では行革合理化の圧力の下で非正規労働者が激増し、公務員ワーキングプアが問題化しています。とりわけ学校現場が顕著です。総務省の調査でも全国の自治体の非正規労働者数の3分の1を学校関係が占めています。今や学校は非正規教職員の存在なしには成り立ちません。正規職員と全く変わらず、教員であれば学級担任をやり、事務職員であれば大半一人配置の学校で事務を執るにも関わらず、賃金、休暇等の待遇で正規職員との間に著しい格差があり、しかも1年毎の任用で不安定な身分を余儀なくされています。同一労働同一待遇の原則が適用されるべきです。
地元の「野庭九条の会」では12月12日に横浜市教委の無法な自由主義史観教科書採択と採択地区の全市への拡大の問題について学習会を行います。ここでも、何という横浜市教委!「私と憲法」の的確な情勢分析と貴重な講演記録(大変な労力ですね)は私の活動の道しるべになっています。
新たな年を共に奮闘していきましょう。
藤井純子(第九条の会ヒロシマ)
28年間、原発建設絶対反対を貫く祝島
今秋、広島に本社のある中国電力が上関原発建設のため、美しい田ノ浦を埋め立てようとしたが、祝島の人々とカヤッカーたちはなんと3ヶ月以上、阻止をしている。
日本の原子力政策に寄りかかり原発建設を進める大企業に立ち向かう姿は見事だ。田ノ浦には「海のゆりかご」とも言うべき藻場がある。魚たちを育み、希少生物も見られる貴重な海であり、沖合いは山水と黒潮の交じり合う良い漁場である。祝島から3.5Km、目の前に田ノ浦を見ながら島の人々は「この海さえあれば生きていける。
子や孫のために守り続ける」と漁業保証金も受け取らず、28年間反対を貫いてきた。干ダコ、ひじき、ビワ茶、干大根… 祝島ブランドを作り、自立して生きようとする姿に心を打たれる。
阻止行動
9月10日、中電は田名埠頭に新品のブイを用意し、埋め立て着工をすると発表した。昨年10月、山口県が1年以内の着工を条件に埋め立て許可を出したためだ。祝島漁船とカヤック隊は阻止行動を開始し、女性たちも祝島の高速クリニック船に乗り込み「命の海をつぶすな」「原発はイヤだ」と果敢に中電の船を追い返す。苛立つ中電は作業の妨害禁止を求める仮処分を山口地裁に申請した。
10月に入り、中電はこっそりと中古のブイを闇にまぎれて設置した。こんな騙しうちで着工と認める山口県に抗議が殺到した。しかも中電は、「埋め立ても原発も海を汚さない」「漁業や農業だけではやっていけないだろう」・・・ こんな暴言に、地元推進派でさえ怒りをあらわにした。
11月6日、中電は、コンクリートブロックを海に投げ込む本格的な作業を始めた。8日、作業を阻むカヤッカーに怪我人が出た。さすがの山口県も厳重注意をし、それ以来、埋め立て作業は止まったままだ。
12月、カヤッカーたちは阻止行動を止めようとしない。中電は「度を越えた妨害行為」と批判するチラシの町内全戸配布を始めた。その上、原子炉設置の申請をし、抗議行動をする祝島島民2人とカヤッカー2人に約4800万円の損害賠償請求訴訟を起こす暴挙に出た。中電のやり方は許せない。
ヒロシマ市民として
10月8日には「埋め立て着工」に抗議して中電本社に多くのヒロシマ市民が詰め掛けた。翌日からは連日、お昼休みの時間、埋め立てをストップするよう抗議街宣を今も続けている。社員にもチラシを受け取る人もあり、市民から「頑張って下さい」「私もヒバクシャ。原発には反対」と声がかかる。チラシの中電の電話番号やアドレスを見て、ファックスやメールで声を届ける人もあり、中電もピリピリしているようだ。
ピースリンク広島・呉・岩国の海の大好きなメンバーは、「核の海から命の海へ」をかかげて、田名埠頭に2回、平和船団を出した。12月6日、田ノ浦にもボートを持っていったものの大シケで断念。これから冬に向かい、カヤッカーたちは寒さと強風でますます大変になるのだろう。
10月26日、東京に行った際には、臨時国会初日、ロビーイングのエキスパート安達さん、冨山さんの助けで民主党の衆議院議員30人位に資料を持ってまわることができた。地元広島でも、小沢一郎の圧力を感じつつ、議員事務所に「地元の声を聞くよう」要請し、これからも続けるつもりだ。
今、「上関原発止めよう!広島ネットワーク」の再結集を呼びかけている。9月、広島からも数人、田名埠頭に通ったが、今も定期的に田ノ浦に行き、監視活動に参加している。カヤッカーの活躍で広島の若者も動き始めたし、映画上映の計画もある。「放射能の恐ろしさを知る広島の人なら、原発に反対する気持ちを一番理解してくれるだろう」という祝島の人たちに応えたい。
原発に揺れる町では反対派か推進派か、人間関係が壊されたり、はっきり「反対」と言いにくいと聞く。町議会は推進でも、投票率の高い地域で自由に選挙する権利が保障されているのか。自然と共に自立して生きる権利も奪われ、温排水、放射能漏れ、大事故の危険性の中で生存権はどうなるのか? 原発は溜ってくる核のゴミ処理に困り危険極まりないプルサーマル計画を呼ぶ。中電も例外ではない。結局は商業利用の名の下の核拡散となる。政府は原子力政策を見直せ。山口県は埋め立て許可を取り消し、中電は上関原発計画を白紙に戻せ。「核」は原発から始まる。「核廃絶」という時、私が思うことは、決して「ヒバクシャ」をつくるなということであり「上関原発はいらない!」と声をあげ、行動せずにはいられない。(2009年12月16日)
糸井玲子(平和を実現するキリスト者ネット)
★無知の罪から
東京大空襲、真赤に燃える空が迫り来る恐怖。連日の空襲が続く。防空壕に逃げ込み、幼い弟たちの上に被さる。空を覆うB29から爆弾・焼夷弾の雨。地では母と子が呼び合いながら逃げ迷い焼き殺されていった。同じ時と場にいた私が生き残された。敗戦、東京の焼け野原に立って真剣に思った。もう人間は武器も武力も捨てるだろうと。日本国憲法は、日本が起こした戦争によってアジアで2000万人、この国310万人。第二次世界大戦全体で5000万余人の殺された人びとが「このように生きたかった」と希求する無念の嗚咽と、残された人びとに「このように生きて」と遺してくれた愛の言葉だ。愛とは地を這う一人一人を大切にする行動だ。
1970年7月にPTA仲間と翌年度採択用教科書展示会に行き愕然。小学校歴史教科書が「天孫降臨」から始まり、「いざ鎌倉」の忠義な武士、元寇の井芹秀重の物語が登場した。私の大切な息子に何故、今、戦中、私を洗脳したのと同じ教科書を使わせるのか。その年11月の国会で、中曽根防衛庁長官が「自衛隊法の『徴兵制はこれを行えない』との一文を削除した」理由を問われ、「緊急非常事態には徴兵制を行えるようにした」と答弁。学校教育が国策に使われている。戦中と同じだ。子どもたちに一斉に行われる学校教育で、私も「教育勅語」を暗唱し、「君が代」を歌い、「日の丸」を振って出征兵士を見送った。その皇軍達が他国に踏み入って、残虐の限りを尽くした事実を知ったのは、戦後、長い時を経てからだ。子どもだったとしても許されない戦争加担の罪を私も負い続けている。再び無知の罪を犯してはならない。73年に住んでいた杉並区で、市民たちが「公民館講座」を開設、「平和」と題して憲法・教育基本法を軸に教育・社会・政治・経済・環境等、15年間の学習を続けた。ここで学んだ女性の多くが教育・市民運動をつづけている。
★裁判闘争
70年7月17日、教育の右傾化、・軍備増強の暗い世に、一条の光となって「教科書裁判・杉本判決」が輝き出た。「教育の責務は、父母を中心とした国民にあり、国家に与えられる権能は、国民の要請に応える条件整備にある。従って、国家が教育の内容に介入することは、基本的に許されない」。思想・信条・表現・教育の自由・子どもの学習権を格調高く謳う名判決は、魂の自由を求める私たちの行く手を照らし続けている。市民の教育運動が全国へと拡がっていった。家永教授は毎回法廷を守り、傍聴席の私たちは歴史の動きを肌で感じた。教科書裁判は第3次訴訟まで32年間を闘い続け、97年8月、最終最高裁で実質勝訴に輝いた。
「杉本判決」を杉本良吉裁判長の右陪席判事として書いた中平健吉氏はキリスト者としての良心に、より忠実に生きたいと、72年に弁護士となる。16年間続けた「内申書裁判」では「生徒の思想・信条の自由は最大限に保障されるべき。……原告の前記行為は中学生として真摯な政治的思想・信条に基づく」との名判決を得た。「日立就職差別裁判」「青山学院大神学科訴訟」「種谷牧師牧会権裁判」「自衛官合祀拒否訴訟」「日曜日訴訟」「日雇労働者越冬裁判」「米軍住宅阻止裁判」「高森草庵住民訴訟」等々、氏が取り組んだ裁判はすべて憲法が根幹であった。氏の荘厳な闘いに導かれた。その後、「靖国神社訴訟」が続き、私も原告として闘ってきた。
★市民が平和を
平和運動を続けてきた日本キリスト教協議会(NCCJ)が更に広く呼びかけて1999年「平和を実現するキリスト者ネット」が誕生。違憲法大量成立の危機に、憲法改悪に抗する行動を目指した。2000年発行のニュースレター第1号の「国会情報」欄に「憲法調査会始まる」の予告と後半は「許すな!憲法改悪・市民連絡会」が99年夏に発足、12月に全国交流集会開催の記事と宣言が載っている。この辺に私はチョロチョロしていたようで、自然に市民連絡会とキリスト者ネットが連帯している。「平和をつくり出す宗教者ネット」も力強く発足、「宗教者9条の和」へと拡がる。04年、「九条の会」が光り出て全国に九条の会が生まれる。若さ溢れるWORLD PEACE NOW、GPPACも協働し、08年「9条世界会議」開催。5・3憲法集会では子ども達が舞台で「歩こう歩こう未来信じて」と歌った。国会行動、集会、パレードと厳しい運動が明るく続いている。立教女学院の「平和学習」も10年続き、学院のホールには市民運動の活躍の写真紙芝居が展示され、スポットライトで輝いている。憲法の愛の言葉が人々を結び、世界中に行き渡りますように。“はじめに言(ことば)があった。言は神であった。万物は言によって成った。言の内に命(いのち)があった。命は人間を照らす光であった。”(聖書)。
富山洋子(日本消費者連盟)
俳句にいささかの関心を持つものとして、心に深く刻み込んでいる二つの句がある。
その一つが、高浜虚子が詠じた、/去年今年貫く棒の如きもの/である。
「貫く棒の如きもの」とは、何を表象しているのか。私は、この句に込められている大きなエネルギーに沸々とした想いが湧いてくるのだ。
私たち、ヒトが生き暮らしている社会では、1年を、太陽・月と地球とのめぐりに即して区切っているが、そのめぐりは、一度終始符を打って、さて出発というものではない。
今から約45億年前に、ある銀河の周辺部にひとつの惑星、地球が生まれ、やがていのちが息づき、ヒトが出現し、現段階では途絶えることなくいのちは続いている。この連綿としたいのちのつながりを「貫く棒の如きもの」と言い切ったのであろうか。
私たちヒトは、この地球でいのちを授かった一人ひとりの生身の人間として寄り合い、他の生き物と同様に原初の自然に立ち向かい、他の生き物との折り合いをつけながら、生存圏・生活圏を切り拓いてきた。私は、生活圏・生存圏は、仕組み・制度を含めて文化圏を培う土壌になったと捉えており、ヒトが他の生き物と共生しつつ切り拓いてきた生存圏・生活圏、文化圏を包括する地場を「風土」と呼びたい。生身の人間が形成する風土では、自然との関わりが熾烈であったことは想像に難くないが、人間同士の争いも避けがたくあったに違いない。その争いが熾烈になり、武器(武力)を行使した争い(戦争)によって、一人ひとりの「生」が踏みつぶされ、悲しみや怨念が風土に増幅しただろう。生存圏・生活圏の略奪が横行、やがて国家なるものが形成され、軍隊・軍備など戦力を保持し、戦争という最大の暴力が風土を席捲するに及んでは、一人ひとりの、「生」を全うしたいという、いのちの叫びは国家の権力によって弾圧され、埋没を余儀なくされているではないか。
私には、「貫く棒の如きもの」を、連綿と続いてきたいのちの叫びとも受け止められる。
そして、だからこそ、今生きている人々は、「どこでも誰でもみんな仲良く生きる」ことができる平和を希求し智慧を涵養し、不変・不動の意志を固めてきているのではないか。
私は、この不変・不動の意志を万人と共有する「貫く棒の如きもの」として捉えたい。
かかる万人と共有できる意志を、日本の平和憲法には、その前文において、私たち主権者は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」、私たちは、「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と謳っている。更には、第9条の第1項において、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」ことを規定している。そして、私たち一人ひとりが「生」を全うすることを保障する基本的人権については、第11条において「侵すことのできない永久の権利」として将来の国民にも保障されている。
加えて、第97条において、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と念を入れた規定がある。
私たちは、不変・不動の意志・決意と保障された永久の権利に基づいて、第99条を遂行しない関係者たちを糾していく責務がある。具体的には、私たちの、不変・不動の意志を貫いて、変節していこうとする政治を転換させていくことだ。私たち一人ひとりの力の結集で変節する政権、暴走する政権を変えていく。政権は変わるのではなく変えていくのだ。
もう一つの句、加藤楸邨の/死なば野分生きてゐしかば争へり/は、凄絶だが、凄まじく吹いた野分のあとの爽涼感も伝わってくる。この句における「争へり」には、楸邨の生き様が込められているのではないか。
私もまた、不変・不動の意志を貫くことを自らの生き様として、否というべきものに対して、仲間たちと共に果敢に立ち向かいたい。非暴力を掲げた斗いであることは、言うまでもない。