先の衆議院議員総選挙で圧倒的な多数議席を占めた民主党の幹事長・小沢一郎が「政治主導の国会改革」を看板に、国会法の改定にからんだ危険な動きを強めている。いま、小沢幹事長が進めようとしている「国会改革」は、かつて彼が自民党の幹事長だった当時からの積年の主張だが、その主張に権威をもたせるために、イギリス議会政治の視察のための「訪英団」の派遣や、「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)の「政治改革小委員会」の「国会審議活性化の緊急提言」などという小道具まで使って、強引に進めようとしている。そのかたくなな姿勢は議会の基本ルールを定める議論にまったくふさわしくない。すでに国会の各方面や言論界からもこれに疑念が表明されているが、小沢幹事長らの「国会改革」の動きはいまいっそう強められている。この問題は憲法と議会制民主主義の根幹に関わるものであるだけに、事態は極めて重大である。
民主党は11月12日、「党政治改革推進本部」(本部長・小沢一郎幹事長)の全体会議をひらき、会議の冒頭、小沢幹事長は「我々の活動の場である国会が官僚支配のままでは、何が政治主導かということになってしまう。国会論戦を政治家同士の論戦にすることを優先課題として取り上げていきたい」とあいさつ、国会改革の課題として、政府参考人制度の廃止、政府特別補佐人として答弁が認められていた内閣法制局長官の答弁を原則禁止とするなどを確認した。
たしかにこの間の自民党が定着させた国会の議論における官僚答弁は目に余るものだった。閣僚はまったく不勉強で、あらかじめ官僚がつくった答弁書を棒読みし、質問されて答えに詰まると本来は大臣が答弁しなければならないのに、政府参考人として陪席する官僚に答弁させるという、無責任で見苦しい光景が目立った。この「慣習」は民衆の政治不信の一つの要因であった。小沢幹事長らの主張する「官僚答弁禁止」は、こうした人びとの疑問と不満に便乗しようとしている。しかし、問題は「官僚答弁」にあるのではないだろう。閣僚の不勉強そのものにある。問題によっては「官僚答弁」の必要なときもあるのではないか。それを一律に禁じたからといって問題は解決しない。
小沢はこれを恣意的にやり玉に挙げながら、その実、「内閣法制局長官も官僚でしょう。官僚は入らない」というなど、「内閣法制局長官」の答弁を禁止することにこだわっている。
内閣法制局の仕事は、各省庁作成の法案を閣議にかけるまえに憲法や他の法律との整合性を審査し、チェックすることだった。その立場から、国会での論戦においては政府の憲法解釈を独占的に解釈し、答弁してきた。2001年に小泉内閣が土井たか子衆議院議員の質問に対して答えた「政府は、従来から、我が国が国際法上集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えてきている」という、9条と集団的自衛権に関する解釈などはその答弁の典型であった。その意味で内閣法制局は海外での自衛隊の武力行使、戦争加担などに一定の歯止めをかける役割を果たしてきた一方、歴代自民党内閣の解釈改憲の論建てを助け、普通に考えれば違憲にあたる自衛隊の海外派兵などを無理矢理正当化する解釈改憲の本山としての役割を果たしてきたという罪状もある。
しかし、内閣法制局の解釈は憲法の縛りからまったく解き放たれた解釈をすることはできず、その論立ては海外派兵や集団的自衛権行使の合憲化を推進しようとする極右派からみれば、うとましい存在でもあり、憲法調査会などにおいても繰り返し改憲派の議論のターゲットともなってきた。
事実、内閣法制局は小沢一郎が自民党幹事長だった1990年に国連平和協力法案(廃案となる)に関して、自衛隊の派兵条件の著しい緩和に抵抗し、怒った小沢らが長官の罷免を主張したこともある。以来、小沢は内閣法制局封じを自らの原理主義的主張とし、2003年、自由党の党首だった当時には「内閣法制局廃止法案」まで作成したことがある。以降の民主党時代にも、小沢の「権力をとったら内閣法制局をつぶす」「憲法は政治家が解釈する」という主張は彼の独特の持論となってきた。
2007年の雑誌『世界』11月号の小沢論文で以下のように主張したことは有名である。「(私は)国連の決議でオーソライズされた国連の平和活動に日本が参加することは、ISAFであれ何であれ、何ら憲法に抵触しないと言っているのです。……しかし、日本政府(内閣法制局の解釈)はこれまで、すべて日本国憲法を盾に国連活動への参加を拒否してきました。私は、まずその姿勢をあらためるべきだと、繰り返し主張しているのです」と、9条下での海外派兵論を述べた。
このように小沢一郎は国連の決定があれば武力行使を含むものでも自衛隊の海外派兵は違憲ではないという特殊な憲法論を持っている。小沢の国会改革が進めば、民主党内閣のもとで、この独特の憲法解釈を合理化することが可能になる。
「政治主導」などというきれい事には、憲法調査会の議論を6年にもわたって監視してきた筆者はその内容にいささかの幻想ももてない。とりわけ右派改憲派の議員たちの議論では、議論の名に値しないイデオロギッシュで、感情的改憲論が横行していた。これが多数決で憲法解釈を決めることになることを考えれば背筋が寒くなる。
憲法上、違憲立法審査権をもつはずの最高裁判所が事実上、政治権力にお任せを決め込み、「憲法の番人」としての違憲審査を回避している現状自体が大きな問題である。
11月5日、平野官房長官は「憲法の解釈について、現時点では、解釈は従来と変えておりません」という条件付きながら「内閣法制局長官の過去の答弁に縛られない」考えを示し、憲法9条などの解釈は「今後は時の閣僚によって構成する内閣によって判断する」とのべた。鳩山首相も4日、記者会見で「法制局長官の考え方を金科玉条にするのはおかしい」と述べた。また同日、衆院予算委員会では首相は「集団的自衛権という言葉のもつあいまいさを払拭させ、別の考え方で日本自身の防衛の在り方を主張する時期をつくらなければならないのではないか」などとも述べた。
これは憲法解釈をその時々の内閣の政治判断で自由に変えようとするものであり、立憲主義の立場から見ても極めて危険な考えだ。
11月18日、横路孝弘衆院議長はこうした動きに対して「首相が替わるたびに憲法解釈が変わったら憲法は機能しない。過去のいろいろな議論の経緯、解釈について、法制局の機能は必要という意見も各党に強いのではないか」と批判した。
社民党の重野安正幹事長は12日午前の記者会見で、「憲法を大事にするわが党からすれば、政府から独立して憲法観を表現する法制局長官(の答弁)は必要だ」「(民主党が)法制局長官を排除する動機には単純に『はい、そうですか』とは言えない深いものがある」と批判した。福島みずほ少子化・消費者担当相(社民党党首)は17日、小沢一郎が官僚の答弁禁止を盛り込んだ国会法改正案を今国会に提出する意向を示していることに関し、「みんなが賛成する形でなければ成立はできない。慎重に(議論を)するべきだ」と述べ、改正の際は全会一致が不可欠との認識を示し、待ったをかけた。
共産党も連日、厳しい批判を展開している。
しかし、事態は予断を許さない情勢である。国会の内外で今進められようとしている「改革」の美名に乗じた民主党の「国会改革」の危険性について全力で警鐘乱打しなくてはならない。かつて私たちは「政治改革」の美名のもとに自民党やメディアまでが翼賛的になって小選挙区制を成立させてしまった苦い経験をもっている。(事務局 高田健)
李鍾元さん(立教大学教授)
(編集部註)10月24日の講座で李鍾元さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。
ただいまご紹介をいただきました立教大学の李鍾元と申します。先ほども質問をいただきましたが、わたしの名前のふりがなは「リー・ジョウォン」という表記をします。わたしが27年前に日本に来たときに最初に留学したのがICU(国際基督教大学)でした。当時日本の大学でわたしのような人を受け入れてくれたのがICUくらいしかなかったということですが、そこで英語の名前で入ったので英語の表記をそのままカタカナにして、外国人登録の時にもその名前になった。結果的には南でもなく北でもなく国際的かなと思いながら、おそらく日本でもわたしと娘ふたりの3人しかこの表記はないはずです。
自分の大学では朝鮮半島のことは教えてはいないんです。お話をさせていただく機会があるときにいつも迷うのは、マクロな話をした方がいいのか、ミクロな話をした方がいいのかということです。なぜ迷うのかというと、日本で朝鮮半島を論ずるときに枠組みが非常に単線的だったり狭くなったりして、もう少し歴史的なパースペクティブも入れて広く見た方がいいのではないかという感じを日頃から受けています。
わたしは日本に来たその当時からずっといまでもその思いがあるんですが、朝鮮半島、特に北朝鮮を論ずるときに特殊論があまりにも強すぎる。名だたる評論家の方たちも、何か求められると「ああいう国で、ああいう指導者だから」ということで何かを説明したような気になるんです。自己反省を込めて申し上げますと、韓国で日本を論じても特殊論の極致のようなところがあって、別の表現でいえば、それぞれの変化を認めないんですね。日本で朝鮮半島を論じると平気で千年、二千年同じような議論をしますし、韓国から日本を論じてもすぐに豊臣秀吉の話が出る。
この特殊論と社会科学は合わないんですね。特殊論、宿命論では「どうすれば変わるのか」もわからず、ただなくなって欲しいというだけの話になってしまって展望も見えない。そうするとだんだんフラストレーションがたまって、ある種の鬱屈したようなことになる。これは現実のもどかしさもあるんでしょうけれども、認識そのものが閉鎖回路に入ってしまうんですね。おそらく韓国で日本を論じるときも、下手をするとそういう閉鎖回路に入ると出口がないので変なかたちでのものが出てきてしまう。
核危機がはじまってからちょうど20年です。小泉訪朝以来は核に拉致が重なって、朝鮮半島を論じるとき非常に狭い宿命論のような局面があって、いったいどこに政策的出口、解決を考える認識の出口があるのかが見ていて非常に気になる。宿命論をとらないと、例えば北朝鮮の問題である体制がどういう状況のもとで生まれたのか、どう組み替わればどのように変わりうるのか、そう考えるのがわたしたち社会科学が目指そうとしているところです。社会科学だけではなくて世の中を合理的に考えるというのが世の中の営みだと思います。しかし、ことこの東アジアに関しては近ければ近いほど特殊論が強くなるので、なかなか出口が見えない。幸い日本で広い意味での政権交代が行われて社会が変わっていく兆しが見えてきたようです。あるいはその変化の兆しが合流して政権交代につながったのかもしれません。しかしこの閉塞感がどう変わっていくのか、そのためにはまず認識そのものを、もう少し出口があるような認識にしていく必要があるのではないか。
宿命論、特殊論をとらないと、社会科学での方法論は広い意味での比較です。ある現象や体制があるときには、それに似たような例がどこにあるのかを必死で考えてそれを縦の時間軸で比較する。もうひとつの比較は空間の比較です。文字通り横の比較で、いま現に他の国はどういうところがあるのか。これが北朝鮮だけに見られる現象なのか、他に見られるのか、ということです。そういう歴史的なパースペクティブ、空間的な比較を試みながら日本から見た朝鮮半島、特に北朝鮮の問題、これは北朝鮮だけが問題ということではなくて日本には日本問題がありますし、中国には中国問題というそれぞれ立場を変えれば問題があるわけですが、これらを考えたいと思います。
おそらく世界史的に1989年は主にヨーロッパで大きな変化が起きたという意味で記憶されるだろうと思います。いうまでもなく東欧革命、冷戦が終結した。ちょうど20年になります。そのあと波及としてソ連の崩壊が生じましたけれども、ヨーロッパからすると巨大な歴史の奔流のように流れ出して一挙に風景が変わったわけです。先日、坂本義和先生との集まりで、先生はあの米ソ冷戦、世界の冷戦が終わるとは正直いうと想像できなかった、それがあっという間に終わった歴史的な変化に関して「歴史に対する畏敬の念」ということをしみじみとおっしゃった。ヨーロッパにおいては巨大な変化であり、いろんな副作用とかその過程での問題を孕みながらも大きな意味のある変化だろうと思います。なぜ起きたのか、どういう経過なのか、いい面と副作用がどういうものがあったのか。おそらく学問的に学術的にやっといろんな作業がはじまったばかりという印象を持ちます。冷戦の終わり方を研究することは、これから東アジアを考えるときにも必要だろうなと思って少しずつ幅を広げようと思っています。
ほぼ同じ時期、1989年に東アジア、北東アジアに何が起きたのかと考えると、むしろ逆流のようなことが起きたわけです。中国では天安門事件が起きて、ゴルバチョフが訪問して改革に火をつけたようなかたちになり、胡耀邦などが出てきたりして。おそらく体制が危機を感じて、国際世論など関係なく学生に対して強権で鎮圧をした。変化に対する逆流が起きた。中国とまわりの国との緊張が高まった。いまはちょっと変わってきましたが、依然としてくすぶっているところもあるわけです。中国が身構え始めていろんな意味での対立、ある時期では新冷戦と呼ばれたりした。
さらに北朝鮮の核問題がいつからはじまったのか。明確にスターティングポイントを言えないところはあるんですけれども、1989年から一般的にも表面化したのは事実ですね。寧辺というところでいろんな作業が行われているようだということが衛星写真で報道されて、疑惑があることが一般的に関心を持たれはじめた。寧辺の原子炉は1986年から本格的に動き出し、2、3年くらいで原子炉が稼働する。ここから細かい話になるんですが、年に核兵器が1~2個つくれるくらいのプルトニウムがとれるので、1989年頃から原子炉を止めてプルトニウムをとり出すような仕草をしているのをアメリカが衛星で見た。アメリカは危機を感じて当時のソ連と連携しながら、北は核開発をするのではないかと国際社会にリークし、知らせながら、「次なる脅威」というようなことで北朝鮮に関心が集中しはじめる。それが1989年にはじまったと言っていいと思います。
北朝鮮が、これから核兵器を開発しますということを公に外国に宣言したのは1990年です。1990年9月にシュワルナゼ旧ソ連外相が北朝鮮を訪れて、韓国とソ連の国交を結びたいと通告したときに、北が外交メモランダムを発表した。シュワルナゼの回顧を聞くと、自分の外交官生活の中でこんなに冷たい待遇を受けたのは初めてだという、かなり侮辱的な待遇を受けたようです。北から見ると不倶戴天の敵の韓国とソ連が、手を結ぶわけです。その前にハンガリーと手を結んで強烈に北が反発しますけれども、一握りのちょっとしたドルのために魂を売るのかという感じで、強烈に外交のステートメントでハンガリーに抗議しながらソ連を批判した。その翌年でしたか読売新聞が報道して知られましたが、シュワルナゼ、韓ソ国交樹立を通告しに来た人に対して、外交メモランダムの中で北が「こうなった以上はこれまで同盟に依存してきた一部の兵器については自分の力で調達する」ことを明記して、「核開発します」ということで核の傘はなくなり、走り出した。そこを起点とすると1990年ということも言えますけれども、1989年から北がプルトニウムを取り出しながら核をつくるような動きを本格的にし、国際社会で大きな話題になり始めたのが1989年ですので、それを起点にしてもいいと思います。
同じ1989年なのに、ヨーロッパと東アジアは別のベクトルの動きがあったわけですね。一方は冷戦が終わってある種の統合に向かい、東アジアでは逆に冷戦――しかも核を含めた、広い概念でいうと新冷戦的な状況に入って、ある意味では基本的にいまだに続いている。中国の状況は両面を持ちながら、この時期以来中国脅威論もくすぶりながらですけれども、そういうことが非常に対照的に起きました。このふたつの動きがたまたま偶然こうなったのか、どこかに関連性があるのか。比較と関連、このふたつの面で、個人的な興味もありますし、東アジア・朝鮮半島の将来を考えるときにもこのふたつの関連性と比較というか異なる点と同じような点、これをもっともっと考える必要があるんじゃないか、そういう文脈で今の問題を考える必要があるのではないかと思うんですね。
いろんな意味がありますけれども、ソ連と東欧の変わり方、崩壊によって、初期の中国は強烈な危機意識を持ちますし、そのあと中国が孤立意識をもった。天安門事件のあと中国に対する、北朝鮮とは比較にならないほどのある種の経済制裁などが続き、日本もODAを止めました。そのあと、95年だったでしょうか当時の海部内閣だったと思いますが、ヒューストンサミットから日本が音頭をとって制裁解除してODAを再開し、中国を助けて中国との関係を穏やかに引き出していったということがありました。
90年代後半は再び中国の経済が活気を帯び始めて、中国自身が自信を深めて改革開放をどんどん加速して展開していった。中国が強くなったので新冷戦的な中国脅威論が一方にありながらも、もう一方ではかなり不可逆的な相互依存とか統合が米中間にも日中、アジアの間でも進んでいるので単純に中国は孤立しているとはもはや言えませんし、単純な脅威論もとれない状況になりました。そうなったのには中国自体の大きさというポテンシャルもありますけれども、ここで申し上げたかったのは、日本を含めた中国に対する関与、エンゲージが中国を引き出した力がそこには関わっているということです。
その反面、北朝鮮は1989年から絶体絶命の孤立感、危機意識です。ソ連がなくなり、中国自体も変わり、南北の国力の格差は現在では経済だと40:1くらいです。経済の力だけでは全部を比較できませんし社会主義のGNPも基準が違うので単純に比較はできませんが、最新の比較で見ると1/35か1/40なんですね。端的にいうと南は人口が2倍で、だいたいひとりあたりの国民所得は北が1000ドル前後、韓国が2万ドルをいったりきたりなので20倍×2で40倍という線で推移しているんですね。さらに差は広がっていますけれども、そういう圧倒的な劣勢に置かれて孤立状態になっている。
東アジア、朝鮮半島ではヨーロッパと逆のようなことが起きている。ヨーロッパの冷戦はどのようにして終わったのか、なぜ東アジアは冷戦が終わるどころか、朝鮮半島に限っていえばかえって激化したような面もあり、新たな脅威論になっていったのか。これを考えるのがある種の比較になると思うんですね。単純に申し上げると語弊があるかもしれませんが、ヨーロッパの冷戦がどのように終わったのかといったときに国際政治学の議論、学問的、ジャーナリスティックな議論で、特にアメリカに多いのは「冷戦勝利論」なんですね。アメリカがどんどん追い詰めて、しかもレーガンがスターウォーズ計画などで圧迫を加えたのでソ連が崩壊した。だからこれは封じ込め政策の鮮やかな勝利であるというのがアメリカのジャーナリズムだけではなくて学会にも多いパラダイムですね。冷戦勝利主義というアプローチです。
けれども、アメリカの一部やヨーロッパでの議論を見るとそう簡単には捉えない。現実に考えても冷戦は非常に特殊な時代で、例を見ないほど東西のふたつの陣営が重武装した対峙の時期でした。世界を何百回、何千回も破壊できるほどの武力を両方が持った。ふたつの勢力は、正面衝突はしなかったけれども重武装の対立、しかもイデオロギー対立だから、お互いの存在を理念的には全面否定するような対立だった。何人かの国際政治学者、歴史学者は歴史の例を見ると、こういう対立はいずれ世界戦争で終わる、ヘゲモニーが対立して大きな変化が起きるときには、戦争しか方法がないと名だたる人が本を書いたりベストセラーにした。
でも冷戦の本体のヨーロッパでの終わり方を見ると、あのすさまじい軍事的な対立があっけなく見えるほど、体制の変わり方も無血の変わり方であり、その後のヨーロッパの統合を見ると平和的なんですね、戦争がなかったという意味では。冷戦というあのすさまじい武装の時代がなぜこんなに平和的に終わったのか、第3次世界大戦の代替物といわれたものがなぜこのように平和的に終わって、しかもすぐにひとつになれたのか。これはまたちゃんと考えて解明、究明すべきことですね。ヨーロッパでできたことが東アジアでできるのかできないのか。
リアリストたちは東アジアがそうなるためにはヨーロッパみたいに第一次世界大戦、第二次世界大戦の2回くらい戦争しなければいけないという議論をする人がいます。ヨーロッパも戦争をして疲れ果て、反省してそうなったと。ヨーロッパで大きな帝国がどんどん小さい国になっていったので、中国がもっと小さい国になってヨーロッパのように19世紀、20世紀を経て戦争もやって、それで変わるとなるとアジアの将来はかなり暗くなります。
本当にその道しかないのか、別の道があり得るのか。これを考えるためにも、冷戦がなぜあのように平和的に終わったのかを考える必要がある。それを正面からまとめた人はいませんが、ヨーロッパの変化を見ると、1989年に先行する10年20年にどのような変化があったのか。東西陣営といったときにそこにはどのような変化と関係があるのか、これをちゃんと見ることが重要な視点であり、議論だと思うんですね。
60年代から、象徴的意味が非常に強いけれど、東西冷戦の最前線に立たされて、ふたつに引き裂かれたドイツが真っ先に動き出した。西ドイツが必ずしも東ドイツとかソ連に対して寛大な心でやったわけではないけれど、復興を遂げた西ドイツが自分の経済的な利害のためにも、例えば旧経済圏である東ドイツとかポーランドとかソ連に入っていきたいということもあった。今でもベルリンの新しいドイツ首相官邸は東を向いていて、ある種のゲルマンの野心の現れだと悪口をいう人もいます。いずれにせよ冷戦の最前線で分断された西ドイツが、社民主義の政権が成立したときに真っ先に東方政策を展開していった。
そのときにポーランド、ソ連との関係など歴史の負の遺産を逆に突破口、きっかけにして関係を強化していくことを西ドイツが展開した。それは、たぶん西ドイツの良識とか歴史意識だけではなくて経済的戦略的、さまざまな利害をきちんと踏まえたことだろうと思いますが、そういう東方政策を展開しました。それによって最初の土台がまずつくられました。そのときのひとつのスローガンが「接近による変化」、接近を通した変化というドイツ語の表現があって、当時のブラント政権のスローガンだったようです。亡くなった金大中元大統領が大好きだった言葉で、どこかで勉強されてこの言葉をとって、太陽政策を展開するときにも接近することで変化していく、相手を変化させるという意味もあり、自分も変化する、関係を変化させるということでしょう。ドイツ語では和解とか仲直りという意味もあるようですが、近づくことで変化していく、それを土台のコンセプトにして東方政策を展開した。
正式には1975年からですけれども、72年、73年からヘルシンキでCSCE(全欧安全保障協力会議)が開かれた。75年にはヘルシンキ協約を結んで、東西ヨーロッパが共存・交流しながら協力していくことを合意して、それに基づいて東西のヨーロッパが活発に関係を深めていった。当時よく「3つのバスケット」と呼ばれていました。第1のバスケットは政治的な原則で、主権の尊重、内政の不干渉、国境を変えない、つまり現状を認めるということです。ヨーロッパの国境線が戦後相当無理に動かされたことがあるので、さまざまな不満とか、冷戦期には相手の体制を、特に西が東を認めなかったんです。とにかく第1の原則は体制の違いを認めましょう、相手の体制を外から変えないようにしましょう、国境線も含めた現状を認めましょう、政治的には現状維持の相互承認――単純化していうとそれが第1のバスケット。これは東側、ソ連が求めたひとつです。
ソ連、東欧圏がもうひとつ求めたのは経済協力、経済交流です。ちょうど70年代からいわゆるOA革命などで西側の経済が大きく変わって、ソ連・東欧圏がそれに遅れをとりはじめたので先進の技術とか資本を取り入れていきたいという経済交流。このふたつは主に東側の要求です。それに対して西の方がそれを受けいれながら人的次元というか、人権、人道、人の移動を認めさせる、これが第3バスケット。これがセットになっていわば東西ヨーロッパがひとつの大きな、のちのゴルバチョフの言葉でいうと「大きな家」、共通の家をつくるような枠組みがこのCSCEでした。35カ国、アルバニアを除くヨーロッパすべての国とカナダとアメリカが入ったんですね。わたしはヘルシンキに行った機会にフィンランディアというホールに行って感慨深く写真を撮りました。全ヨーロッパの首脳が集まってひとつの枠組みを設定した、その3原則がこの「3つのバスケット」です。
その結果何が起きたか。非常に逆説的ではありますが東側も第1原則、お互いの体制の違いを認めて無理に変えませんという、現状の維持を承認した途端に交流が盛んになった。東側も安心して経済協力を取り入れ交流もしながら、人的交流も部分的に認めながら政治的な安心感、保証されたことで、経済と社会基本権における変化を受け入れたわけです。文字通り接近による変化であり、もっと逆説的な表現をすると承認したから変化が加速された。東側を安心させたので逆に変化しやすかったといいましょうか。
そのあと、当初東側が危惧したことでもあるけれど、75年以後、東欧・ソ連圏に市民社会が急に噴出した。ヘルシンキプロセスで現状維持を政治的に保証したおかげで、ソ連圏・東欧圏の中で、もともとヨーロッパという土台があった市民社会がより成長して浮上した。その時点からソ連・東欧圏の内部がいろんな意味で変わりはじめた。経済改革もどんどん取り入れるので国家の体制も変わりはじめる。その10年以上の変化の蓄積があったので、東欧革命で支配層が取り除かれても、古いかたちの共産党支配が取り除かれても、若干の混乱はありましたが比較的短期間にEUに統合できるようになった。
多くの場合、政治変動が起きるのも大変ですけれど、起きたあとその状況がどうなるかが、より大きな問題です。独裁をなくすことも大事ですが、独裁をなくしたあとにスムーズに民主化していくのか、さらなる混乱が生じるのかというのは、また次の大問題です。ヨーロッパでは半世紀続いた支配が取り除かれたあとも、短期間の若干の副作用を経たあとは立派にヨーロッパの国として再建というか構築できたことは、背景と土台がないとそもそもできない話ですから、それも注目する必要があるのではないかと思います。
より直接的には、10年間くらいのヘルシンキプロセスの中で、ソ連でも安全保障の専門家等を含めて「共通の安全保障」とか安全保障の概念そのものが相当変わり始めた。ソ連の軍事力を強めると、ソ連が安全になるどころかソ連脅威論などで圧迫を加えられてソ連がより不安定になる。国際政治学でいう典型的な「セキュリティジレンマ」です。軍事力を蓄えれば蓄えるほど安全になるかというと、逆にシステムも不安定になり相手も増強するのでさらに軍事的に不安定になる、そういう逆説がいろいろなところで見られます。いま当時のソ連高官たちの証言、資料も出ていて、いろいろな人が回顧録などを集めた研究もあります。非常に興味深いのは1985年後半、冷戦を終わらせていくゴルバチョフのイニシアティブのプロセスで、相当保守派と改革派で議論をしています。
保守派は、古典的な社会主義と古典的なリアリズムに立脚して、やっぱり西側はソ連の体制を変えようとしているので軍事力を強化して対抗すべきだということが、依然として軍部を中心にしてあります。ゴルバチョフを含めた改革派は、そこですさまじい理論闘争、議論をしています。彼らは相互依存とか共通の安全保障という概念を出しながら、ソ連の軍事力だけで安全保障をしようとするとコストの面でも効率の面でも割に合わない、逆に関係改善が必要だ、透明性を高めることが脅威論を低めるためには必要だという。共通の安全保障等で西側があらたな安全保障の概念として打ち出したことを、ソ連の改革派たちがその言葉、概念をそのまま吸収してソ連の内部で議論をしていることが、資料の分析を見るとわかり、今考えると非常に興味深いことですね。こういう議論を経てソ連が内部から急速に変わっていって、ソ連の内発的なイニシアティブのおかげで東欧革命もより促進された面もありますし、副作用が少なく終わったということがあります。
補足すると、ソ連、特にゴルバチョフは、ソ連がどんどん積極的に安全保障、軍縮を進めると西側からの支援があって、ソ連が古い社会主義からよりヨーロッパ的な社民主義に変わっていくような改革を外から支援してもらって、その支援でソ連をより緩やかに社民的にする。そうするとヨーロッパ共通の家のようになっていくと思っていたんだろうと考えます。ビジョンとしてはある種の社民主義へのソフトランディングを考えていたんだと思います。それで「ジブラルタルからウラルまで」と言ったりしたんですが、ゴルバチョフや改革派が期待していたほどの支援がなかなか来なかった。そこでソ連は政治的な改革をしなければ経済が苦しくなり、人々の不安が高まって、いきなりエリツィンのような市場主義の改革に大きく揺れて相当苦労する。ある意味では裏切られたようで、大国のプライドも傷ついた。ソ連がもっと頑張れたのに先に白旗を立てたのでこんなことになったと、プーチンによる若干の反動が来ている感じもします。いずれにしても、ソ連の中でも交流を通して内部の変化があったので、私たちが見ているような冷戦の終わり方が可能だった面があるのではないか、そういう問題、関心です。
そういう目で見たときに、中国はさておいて、なぜ朝鮮半島では核危機がこんなに長期化したのか。この20年の北朝鮮の核問題関連記事を読んでいると、去年読んだ記事と同じような記事がまた出たり、10年前とあまり変わりなかったりする、核実験をした以外は。なぜこれほど長期化するのか。ヨーロッパではソ連、東欧圏が変わったことで冷戦が終わったにもかかわらず、北朝鮮という古い脅威、新しい脅威はなぜそのまま残っているのか。ヨーロッパとの違いということになります。矛盾することを同時に申し上げることになりますが、北朝鮮の世界の中での絶対的な孤立化、危機意識があるので、北朝鮮が孤立して弱いので逆になかなか変わりづらいということがあるんですね。
どういうことかというと北朝鮮は改革するといいながらなかなか変わらない。本来はベトナムも共産主義だし中国も共産主義なのに、中国は看板だけですけれども、そこは変わるのになぜ北はなかなか変わらないのか。答えは非常に単純で、ベトナムには南ベトナムはありませんし、中国が台湾に吸収されると思う人はいません。中国が混乱してどんどん資本主義化しても台湾に吸収合併、統一されると考える人はだいぶ少なくなったので台湾を脅威として考えない。ベトナムは南ベトナムが存在しないので、いくら変わってもベトナムです。北は、資本主義を取り入れて変わると韓国とどうなるのか。韓国に吸収される道になりますし、韓国という巨大な、ある種の敵対国が依然として存在するのでそう簡単には変われないということが構造的にあります。孤立していて弱いので、対外関係でも対内政策でも、自らの力だけでは変われないということがまずひとつです。
表現としては一見矛盾しますが、北朝鮮の体制はかなり強いんです。ヨーロッパの共産主義、社会主義体制ともちがってかなり根を下ろしている。これは広い意味でのナショナリズムだと思います。あの90年代の未曾有の危機にも、ある意味では見事に生き残った。以前は金日成主席が亡くなると北朝鮮は長くて3カ月、短ければ3日で終わると豪語した人もいましたが、北朝鮮の社会主義体制、金日成、金正日体制はいろんな意味での一定の基盤がありそう簡単には変わらない。その基盤とは何か、どこまで変わっているのかというのは大きなテーマです。金正日総書記の健康問題などで指導者が交代しても、それですぐ変わるかというとそう簡単ではないだろうということがあります。そういう意味で強いのでなかなかこちらが希望するようなかたちでの変化は、北朝鮮は非常に孤立した存在なので、力を加えて、プレッシャーで変えようとしてもそこに限界がある。
アメリカのいくつかの政権、特にこの前の政権はかなり圧力によって一定の変化を導き出そうとした。韓国でも金泳三政権は吸収統一論を体系的に取ろうとした。それでも失敗したのは、北朝鮮の内部体制の強固さ、強靱さがあるというだけではなくて、もはや戦争が非常に難しいという現実があるんですね。戦争につながる軍事力の行使が非常に難しいところでは、プレッシャーや圧力という強硬政策はかなり制限される、これがひとつの与件、条件としてあるのではないか。
特にこの10年、20年でいうとそういう印象があります。より貧しくて、わたしが中学、高校時代には韓国はいつでも戦争する気になっていましたし、戦争しても失うものもなかった。しかし40倍の格差があり豊かになった韓国から考えると、戦争が起きると人口のほぼ半分がすぐ戦争に巻き込まれるというのが韓国の現実です。韓国の人口は4800万人で、休戦ラインから100キロ以内に多くが居住している。ソウル、インチョンという大都市がふたつあって、密集地域があるからです。休戦ラインから100キロ以内は、いろんな意味で戦争が勃発すると1日、2日以内に巻き込まれる。ソウルそのものが人質にされている状況です。韓国もGNPの規模では世界11位とか12位になっていて、戦争で失うものがあまりにも多いので強硬策をとりながらも慎重にならざるを得ない。吸収統一を進めようとした金泳三政権期も、クリントン政権が1994年に軍事行動、これは寧辺に対する限定的な攻撃で戦争を覚悟した時期、カーターの訪朝で一応解消されたときですが、そのときに韓国は戦争、軍事行動には反対したようなんですね。
状況は相当変わっているので、朝鮮半島ではおそらく今や戦争は現実的な選択肢ではなくなった。あえていえば日中、米中においては構造的には戦争はもはや現実的な選択肢ではないということだと思うんですね。中東は戦争していいということではなくて、中東はアメリカから見ても戦闘が局地化できます。アメリカにミサイルが飛んでくるわけではなく、すぐに巻き込まれるところではないので、そういう意味では戦争ができるわけです。朝鮮半島はもはや戦場を局地化もできませんし、こういう状況では戦争は現実的ではない。そうすると当然軍事的な圧力には限界がある。強硬政策は土台においてかなり制約があることを考えざるを得ない。それが政策を考えるひとつの条件ではないか。
核軍縮専門家のマザールさんの言葉ですが、核というものは追い込まれた立場に置かれた国々は核とミサイルの誘惑に駆られやすい、今の時代は通常兵器はべらぼうに高いですね。北ですら核実験、ミサイル発射が1億ドルとか3億ドルとか言われましたが、アメリカのF22は1機が1億ドルと言われます。北の核実験どころではない。これは1機、2機では話にならないので10機、20機そろえないといけない。韓国もお金がなくてなかなか買えない。イージス艦をやっと1隻製造できたという状況です。ですから北朝鮮は通常兵器は以前ソ連から仕入れたものをなんとか改良して使っているんですね。安全保障の観点からすると限られた経済財源、資源を核とミサイルという大きな抑止力に投資をする方がコストパフォーマンスを考えると、それが正しいということではなくて、軍事的には合理的な選択になるので走りやすい、走る動機が非常に強くなる。それを圧迫で止めようとすると成功した例がない。
マザールさんが、歴史的な事例を研究しながら核拡散を試みる国に対して大きくふたつのアプローチがあってひとつは対決的な、圧力をかけるというもの(confrontational approach)、もうひとつは動機そのものを取り除く(motivational approach)、ということを書いています。内科的、外科的とも言えるかと思います。この外科的、外からというのは成功した例はあまりない、動機を取り除く方向にやっていかないといけない。このマザールさんという方はリベラルではなくて、合理的リアリストからの結論だろうと思うんです。それで一定程度持っている核能力を発揮できないようにいろいろな網をかける。リアリストというのは個人に対しても国家に対しても善を信じないので、問題のある国が核能力を全部白紙に戻すとは思わないけれども、軍事的に脅威になる水準になくていくのが多分リアリストで、そういう意味ではリアリストの議論には健全なところがあるんです。わたしもまだまだリアリストという言葉には抵抗がありますが、合理的なリアリストは善悪で判断せず、コストとか相手の国が核を100%持っているのか100%放棄したのか、100かゼロと考えるのではありません。15%の核能力だったら当面飛んでこないから大丈夫というような、押されながらも揺さぶりながら別の利害を別の手段で確保する、妥協しながら考えていくというのが古典的なリアリズムだと思うんですね。これはヨーロッパに多くてアメリカになかなかない発想です。
マザールさんもそういう考え方で、そう考えるとすべての疑いのある国がすべての核兵器能力を持たないために目を光らせたり、査察したり、取り除くとか、これが全部できるとなるとすべてがいい国になるか、すべてが占領国になるか、そうでない限りは100%のシロは証明できない。これはリベラル、理想主義者はそれを望みがちです、右でも左でも。現実的に考えると、何がどの程度の脅威なのか、ということを考えると核に関してもすべてに対してconfrontationalではなくてmotivationalにやりながら縮減していく、脅威を削減していくことを取るのがおそらく合理的であろうということです。
国際政治の学問をし、それを教えながら常に感じるのは、国際政治で平和と正義はふたつともいい概念ですけれどもなかなか一致しない場合が多いですね。両立できない。正義のために戦争をする人、国がありますし、正義のためにたたかわなければならないときもあるだろうし、歴史的に理論的にですね。でも平和を考えると不義なものと妥協せざるを得ないところもあり、これをどうするのかは短期的に見るとトレードオフの関係にあり、ある種のジレンマですね。正義を取るのか平和を取るのか。どちらかというと国政政治学は平和を取りたがる面があります。戦争が起きないようにということで。
その文脈で見ると、北朝鮮と仲良くするのは正義に反するんじゃないかということを考えざるを得ないところがあるんですね。これは常に悩まざるを得ない。今のところわたしなりには、抽象的になるんですが、基本的には国際社会でもさまざまな違い、文化の違い、体制の違い、歴史的な背景の違いがあるので、国際政治の基本は異質なものがどのように共存するのか、違うものがどのように共存するのか、これをちゃんと考えるのが第1の柱としてあると思うんですね。悪の代名詞のようになっている主権国家も、多様性の共存のような、宗教の違いによって戦争していたのを、その国がプロテスタントなのかカトリックなのかということをお互いが認めましょうというのが主権国家のもともとの出発ですね。それぞれの領域の中でどういうもので統治をしようがそれは干渉しないようにしましょうというのが主権国家だとすれば、主権国家は多様性、異質の共存の国際的な仕組みのひとつだと思うんですね。
そこでは当然問題が生じます。では国境線の中では何をやってもいいのか、自国民だったらどんどん虐殺してもいいのかということになります。あるいは国境を越えてとなりの国で虐殺したり軍事行動したりする。そういう意味での暴力を内部的に、外部的に、対外的にする場合にはどうするのか。それに対しては第2の原則としては差し迫った、目に見えるような多数に対する暴力の行使は止めざるを得ない、国内においても、国際的な侵略戦争であってもです。これは多様性の共存という原則のかねあいを見ながらも、もうひとつの原則として考えざるを得ない。
ただ、どういうときに戦争、武力に訴えてでも対内的、対外的な暴力の行使を止めるのかというと、基準がちゃんとあって、現に多くのものが実際的な直接的な暴力によって明らかな体制による抑圧、それをいろいろな批判とか外からのプレッシャーを加えながら、もうひとつの原則は内発的に変化すべきではないかと思うんですね。内発的な変化というのはいろいろな意味で変化のあとの混乱等で副作用が起こる可能性が高くなりますし、変化そのものの連続性と正統性の関係からも、彼我の違いがありますので、抽象的な表現的ですがもうひとつの原則として内発的な、内在的な変化、これをできるだけエンカレッジするような、そういうものが必要なのではないかと思うわけです。
この内発的な変化を誘発するのは、そのためにも第1の原則「異質の共存」が必要です。ずっと戦争をしている状況、緊張が続いている状況で、ある国の独裁、抑圧体制が変わりやすいのか、あるいは平和的なときに変わりやすいのかと考えると、わたしは圧倒的に共存して平和なときに、より内部は変化しやすいだろうと思うんですね。
わたしが韓国にいたときに、当時の韓国は日本のイメージでは北朝鮮以上に悪い独裁政権で、日本でも支援活動とか「独裁、けしからん」というような国際的な批判があった。韓国で大学生をやりながら、なぜアメリカや日本は韓国を制裁しないんだろう、もっと追い詰めろ、ということを考えたり、求めたり、もっとプレッシャーをかけろ、独裁政権に何もしないアメリカ、日本はおかしい、ということを考えたり言ったりしたんです。それに対して日本などで支援活動をしている人の活動を知ったり資料が入ったりすると、これはありがたいと思ったりしたわけです。
あるとき船橋洋一さんと「韓国からの通信」の話をしながら、これからは「北朝鮮からの通信」が必要だろうねと話した。つまり国際的な批判とか民主化を促進するようなことが必要だろうといいながら、わたしが韓国にいた時代を含めて考えたのは北朝鮮の対外関係を共存とか平和の関係、今のような戦時的な対立ではなくて、それを緩める内発的な変化をより促進することが必要だということを議論しました。
韓国も独裁政権でしたけれども、すでに当時の韓国は国際的なさまざまな関係を持っていました。北朝鮮以外には戦時的な対立をしていたわけではなく、しかも北朝鮮とも南北の交流などで、米中接近以来は北の脅威は現実的にはほぼなくなっていた時期ですので、逆に内部では話がしやすかった、民主化がしやすかった。共産主義の脅威というのは政権の口実にすぎないということを堂々と言えたわけです。
ちょっと違うかもしれませんが、文革のあと60年代の巨大な核兵器を持った、あの強大な中国がその後現在まで変わってきたのも70年代から日本、アメリカとの関係が改善された。70年代に日米との関係改善という外の変化があったので、内部でも四人組とか保守派、理念派というかイデオロギー派と改革派が争ったときに、外の環境が平和的だったので改革派が勝ちやすかったと思うんですね。もし60年代以来の米中対立とか、ベトナム戦争が続いていたら、中国内部でももっと軍部の強硬派とか保守派などのイデオロギー派が幅をきかせていた可能性が確率としては高いと思うんです。そうするとあの巨大な中国、特に文革期の中国はいまの北朝鮮を何百倍か大きくした、ある種の脅威があっという間に変わり得たのは、外の環境を改善し、それが内部の内発的な変化をどんどん促進したから可能だったのではないか。そうすると共存というものが変化につながるダイナミックスがあるのではないかと思います。
朝鮮半島の現状をどう見るか、時々刻々と変わっていますので、この会場を出たあとにどういうニュースがあるのか、ヒラリー・クリントン国務長官が北朝鮮に行くというかもしれませんし、制裁するというかもしれないので怖いんですが、いまのわたしの見方はこうなんですね。
今年の初めからは北朝鮮は完全に核保有に舵を切ったのではないかと言われました。以前は核カード、交渉用だったものが、いまはなりふり構わず、後継体制との関係もあって北は核開発を本格的に、アメリカとの交渉もせずに進めるのではないかと言われていました。実際の行動もそれも裏付けるような行動でした。この4月、5月の行動は問答無用の一連の矢継ぎ早の瀬戸際行動でした。それでみんなは北の動き方のパラダイム、考え方、状況が相当変わったのかもしれない。そうするとまったく新しい局面で、米朝交渉とか北朝鮮との交渉はまったく意味をなくした。それを裏付けるかのように言われたのが、北の中で去年の後半から後継者擁立を示唆するような動きが非常に多面的に見られました。それに結び付けると、これは大きな状況の変化じゃないかと言われました。
わたしや朝鮮半島をウオッチしていた人たちはそうは思わなかったんです。わたしは、基本的には北はそこまでなりふり構わず核開発を進める総合的な体力はない、という持論でしたから、これは一定程度行くとまた変わると思っていました。今年の4月、5月、6月はどのメディアに出ても、どのメディアと話してもそのことがなかなか理解してもらえないんですね。北はもう走り出しましたねと言われて、わたしは違うと言っても「でも、核保有に向かって疾走し始めましたね」と言われ、そのやりとりで相当苦労したのを覚えています。今振り返って考えると、とりわけ8月から表面化したものを見ると、わたしは北朝鮮が全方位の対話攻勢に鮮やかに転換した、そういう印象、そう見ていいかと思うんですね。それが単なる戦術的な変化なのか、戦略的な非常に長いスパンのものなのかというと、わたしは戦略的な一定の長いスパンを持った大きな変化だと思います。
8月から相次いで表面化しましたけれど、さかのぼれば6月12日に国連安保理の制裁がくだされたあと13日に北朝鮮の反駁の声明が出ました。その声明からトーンが変わっていたんですね。今年前半までの非常に攻撃的なトーンがなくなって、比較でいうと穏やかなトーンになったので、みんな「あれっ」と思って北朝鮮が何か局面転換をしたのではないかということで、6月13日についてはわたしも含めてそういうコメントをしました。実際に6月以降はずっと小康状態が続いたんですね。追加の長距離ミサイル発射はありませんでしたし、小康状態で衝突がなくて、水面下では米朝でジャーナリストの釈放とか韓国の会社員の釈放などが続き、7月頃から本格化して8月にふたを開けてみると一連の鮮やかな対話攻勢がほぼ同時に表面化したわけです。
まずクリントンの訪朝がありました。これは個人の資格と言いましたが、その前後のやりとりをみると、これはハイレベルのホワイトハウスと金正日総書記のやりとりということがわかる。あるいは韓国の玄貞恩現代峨山会長――北に事業を展開している企業で南北関係の窓口になっているところ、そのトップと金正日総書記自身が面談しました。金大中元大統領の北からの弔問団も、ハイレベルの人物を送って韓国大統領と会談したりするなど立て続けに8月以降に展開しました。
間をおきましたけれども中国とも10月に温家宝首相が訪朝して、初めて10時間という時間も明らかになりました。クリントンと食事を含めて4時間でしたか、4時間付き合ったというのは健康を誇示するためだろうと思ったわけです。会談1時間だけではなくて食事も含めてちゃんと付き合いができる、それも1回だけではなくて、その翌週か翌々週には韓国の現代の会長に会って、これも食事含めて6時間くらい付き合っています。長時間の付き合いはいつでもできると誇示し、さらに温家宝さんとは10時間と言っています。
こういうものを重ねながらそこで一貫していくつかの特徴があると思います。ひとつはこの3つの場面ともに金正日総書記自身が自ら前面に出ていることです。クリントンとも玄貞恩現代峨山会長とも温家宝首相とも直接会っている。そう考えるとこれは結構大きな意味があって、健康能力の誇示だけではなくて自分が政策等を掌握していることにもなります。さらに以前の小泉総理の訪朝等を見ても、まだ結果が不透明な、米朝交渉はどうなるのか、南北の関係もまだ入り口でどうなるのか、結果がはっきりしていないところにいきなりトップが出てくるのは一般論でいってもリスクがあるということです。トップが出ていたにもかかわらず、アメリカに無視されたり展開が負ければ完全に最高指導者のメンツがつぶれるわけです。
小泉総理の訪朝の時もそうですけれども1年近く下準備をして最後に判子を押しながら結果を取り付ける、成果を取り付けるときにトップ会談をして成果を演出する、これが外交の定石です。いきなり総理がまだ展望もないのに入り口から交渉するのはどこの国もなかなかやらないことですね。それをまだ不透明な対米、まだ関係が本格的に復活していない南北に自らが出て、最後にかなり重要な政策の転換の言質に言及するということは相当リスキーなことです。どう解釈して受け止めるのかはそれぞれの政府が考えることですけれども、これは普通に考えるとかなりの決断であり、健康の誇示と政策を決断できることを強くアピールする。そういう意味では真剣であるということだと理解しています。
その一貫したメッセージですが、北は去年からトーンを非常に強硬にして、今年に入ってから「核は放棄しません」と言いはじめました。それで核不放棄論ということが日本でもアメリカでも言われた。再び金正日総書記がカムバックしながら核の放棄は変わらない、非核化は変わらないことを、自らの言葉としてアメリカに対しても中国に対しても明言していることは意味があると思います。それとともに最近は北朝鮮では後継論議が若干沈静化しているようです。そうすると去年から内部に不安定があって、金正日総書記自身も不安定だったので、今考えると今年前半までの一連の強硬論と強硬政策は目的を持った短期的、戦術的だったのではないか、という印象がわたしにはあります。
かなり構造的に強硬策に舵を切ったわけではなく、去年8月に明らかに健康に異変があったようですし、それとも関連してアメリカも交渉を控えた。アメリカもブッシュ政権末期で、オバマ政権になっても北に寄ってこない。当然最高指導者に健康不安があるのでアメリカも韓国も状況を見ましょう、ということで「待ちの姿勢」になる。「待ってみよう」ということは北の体制にとって一番厳しいことです。交渉を前倒しに進めるためには、様子を見ようと決めて消極的なっているアメリカ等をより圧迫するためにも強硬策が必要です。まだ核カードが弱いので、そのために核ミサイルなどを短期的に、一定の期間を区切ってカードを増やす、強化する必要があったんだろうと思います。
より大きいのは、去年の健康不安等で相当北朝鮮の内部で体制のゆるみが広がったようで、それをもう一回引き締め直す、体制を強化する。威信を保持するためにも一連の強硬策、本来北はミサイルというより人工衛星、本当に人工衛星で、誇示したかった。その前の月の3月にイランがやったときには誰も何も言わなかったのに、自分が同じようにやったらミサイルだと叩かれたことも北にとってはつらかったと思います。いずれにせよ人工衛星とか核実験で体制を引き締めることもあって、今年前半までは計画的に期間を区切って強硬策をとったのではないか。そのあとに少し強くなった立場でオバマに交渉を突き付けながら、今はまた自ら完全に対話局面に舵を切ろうとしていると思うんです。
北は去年くらいから2012年を明確に目標として提示しはじめました。「強盛大国の扉を開く」ということなので、強盛大国の完成なのか、開始なのかよくわかりません。とにかく大きな局面の転換を2012年に成し遂げよう。2012年という年は金日成元主席の生誕100周年であり、金正日総書記が70歳になるといういろんな意味での節目だろうと思います。北の主張を見ると一昨年あたりからいろんな場面で2012年を目標として掲げています。エジプトの資本で100何階の巨大なホテルで、80年代に建設が止まったものの完成が2012年を目標としていると言っています。いろんなものを2012年に焦点を合わせ区切りを切っている。
北は以前は時間をあまり意識していなかったんです。アメリカと交渉をするときにも、北は政権交代がないので時間を延ばせば延ばすほど政権交代がある韓国、アメリカと交渉がしやすいということで、時間を意識しないパターンが多かった。2、3年前から時間を区切った動きと発想がかなり見えてきた。これは基本的には金正日総書記自らの健康状況を考えたということではないかもしれないとわたし自身は思っていますが、何らかのかたちの次の体制の移行を考えた場合には、自らが元気なうちに掌握力がある中で、大きな転換を成し遂げておかないといけない。本格的に内部の経済を立て直し、それにもとづいた政治体制の移行、これを成し遂げるためにも対外関係を改善しなければいけない。
政治、外交的にはアメリカ、経済的には日本との関係改善、これを成し遂げなければならない。このふたつの国との関係改善という目標は、核危機の20年、1989年以来北朝鮮の変わらない目標として一貫しています。手段はいろいろと破壊的なものも使いますけれども、そのすべての動きを見ると目標は対米関係改善、対日関係改善です。この目標はわたしから見ると一度もぶれたことがない。それを今はより短期的に、2012年までにその土台を築いたあとに、北の内部体制の立て直しと転換をやっていきたい、単純化するとそのようなことになるかと思います。
その中では安全保障では、最後の最後のぎりぎりまで核能力の一部は持ちたい、大きな部分を放棄しても一部は持って、それが抑止力になったり交渉手段になるということで最後の最後まで核保有、持っている部分は維持したい。それとともに自らが対日、対米関係改善のための一番大きいカードはやはり核ですので、カードとしても使わざるを得ない。両面性を持ちながら、かなりの部分をカードに使いながら、一部は保持したい、そのような意味での二叉ということは89年から続いています。これからは核カードの部分はより大きくなるだろうと思いますが、保有の部分も最後の最後まで、できればずっと持っていたいと北は思っているかもしれません。その通りにはならない可能性が高いと思いますが、ぎりぎりのバランスを考えながら、two-trackの戦略を進める。そこで目指すのは基本的には非核化を受け入れながらの関係改善が変わらない目標であって、これを進めるのが結局は6者協議のプロセスに戻ることだと思います。
その交渉、取引の目標自体は包括的にならざるを得ない。6者協議が包括的でしたのでそれを復活させればそれはそれで問題ないんですけれども、その進め方も日米韓でいろいろな批判があり、基本的には段階的になっていかざるを得ません。なぜかというと厄介なのは核の放棄と関係改善、両方を最終的に交換しないといけないことになります。アメリカ、日本も、逆戻りできない核放棄を求めますが、たぶん核の放棄は不可逆的な、逆戻りできないようなかたちはできるんですね。けれども関係改善は不可逆的なことはできないので、つまり不可逆的な核の放棄をしたあとに関係が悪くなるとバランスが取れないんですね。この核の放棄は不可逆的なものになり得るけれど、逆戻りできない関係改善はどういうものなのかという意味合いを持たせることが非常に政策的に難しい。
いろいろな知恵が必要なのでその辺のロードマップづくりが、これも6者協議で大まかな目標は合意されているのでもし再開されたら――わたしは早晩再開されると思います――、今年中は難しいかもしれませんが、来年オバマの非核外交が本格的になる前までには6者協議はアメリカも再開させざるを得ない、北も応じざるを得ない。目標ははっきりしていますがそれに至るプロセス、ふたつの不可逆的なプロセスをどのように突き合わせて段階的にやっていくのか、そのためにはさまざまな政策的な決断と知恵が必要です。6者協議が再開されても、今回は6者協議だけではなくて、温家宝首相がこの前、日中間の首脳会談でも話をしましたが6者協議の条件があって、それは2者、2国間の関係改善であるといいました。
中朝間で話をしている重点は、6者協議を再開させて推進するときにも、米朝、日朝関係など2国間の関係を同時に改善していかないと難しい、これは北の不満でもあったんですね。北の不満は6者協議の中で部分的な核の無能力化とか放棄とかで同意して、ちょっとしたエネルギー支援は得たけれども、アメリカからやっとかろうじて去年テロ支援国家指定解除は勝ち取った。けれども依然日朝関係が進んだわけでもなく、米朝関係自体が進んだわけでもないので、6者の中でいくら核の問題を話してもなかなか北が考える日朝、米朝関係が進まない。これが最大の不満だった。それを中国にも一生懸命説明し、中国もそれを取り入れて、6者協議を再開し進めるためにも米朝、日朝の2国間の関係改善をちゃんとやらないといけないということが、今回明確なメッセージとして出された。日韓とも関係改善する用意があるということも、そういう意味だろうと思うんですね。
そうすると当然「6」だけではなくてさまざまな「2」、それと朝鮮戦争を終わらせる平和協定は「4」です。6者協議が再開されると、この6、4、2をほぼ同時に進めることが必要で、それが不可逆性をある程度担保することになります。朝鮮戦争を終わらせる平和協定等をすると、IAEAの査察だけではなくて平和協定によるさまざまな軍事的なモニタリング、相互査察などを同時に進めていくことができます。現実的に核がすぐになくなるわけではない、完全になくなるということはそう簡単ではないと思うんですね。先ほど申し上げたように、北は完全にいい国になるか占領国なるか、そうでない限りは100%の非核化をどこで担保するのかということも非常に難しくなる。
現実的な脅威になっている核を切り取り、閉じ込め、溶かしていきながら、ちょっと抽象的、比喩的な表現ですが、これを同時に進めることが、それぞれを全部不可逆的にすることになると思うんですね。これは以前からいろいろな国でそれぞれの設計図を議論していることなので、これをどのように突き合わせて一体化するのか。これはおそらくいま行われている作業であり課題であり、もう少し米朝交渉が進めば11月ごろから表面化し、オバマ外交も本格的に核廃絶、核軍縮外交を3月からサミットを皮切りに展開しようとしています。問題はまだくすぶっていますし、そのためにも北問題についてはしっかりした仕組みで立ち上げることが必要です。いまはまだ条件闘争をお互いにやっている段階ですけれど、それが表面化することを期待したいと思います。
わたしが非常に印象的だったのは9月15日、麻生総理が鳩山次期総理候補に会った場面で、鳩山さんに対して北朝鮮問題にわざわざ言及しながら「北朝鮮問題は複眼的な視点で取り組む必要がある」とおっしゃったことです。産経だけに報道されましたが、それを見て「ああ、いいことをおっしゃるな」と、やっぱり複眼的にみるべきだ、もっと早くからやればよかったのにと思うんですね。文字通りその通りなんです。北朝鮮問題は人権、拉致という面もあるにはあると同時に、日本ではすっかり忘れられていますけれども、ちゃんと歴史問題でもあります。また日本の戦略、経済の利害を考えても、北にODAを送ってインフラの整備、民主党政権が直面しているゼネコンの活躍の場は北で見つけるしかないと私は思うんです。
日朝国交が進んで何十億ドルか北に提供されると、中国でも東南アジアの例でもODAのような経済支援はかなりの部分は日本のものです。北がいま必要なのはほとんどインフラの部分ですので、港湾、鉄道、発電、並べると日本では民主党政権でみんな削減されている部分です。北朝鮮さらには中国東北地方、極東ロシアそれぞれの国が開発の巨大なプロジェクトを考えているところです。それを展開するのが21世紀の北東アジアの強大なマーシャルプランと誰かが言いました。北朝鮮問題が落ち着いて日朝・米朝関係が進み、そこで建設の声がこだまし、エネルギー開発などで北東アジアに巨大な開発が進むと、21世紀の50年間くらいは韓国、日本の企業は忙しくてしょうがない時代になるとわたしは思います。開発がいいかどうかは別として。
小泉政権の一時期にはありましたけれども、日本には地域戦略というか地域のビジョンというものはなかなか出てこなかったことが日本外交の一番の問題だったと思いました。国際政治、外交の問題でいろいろな学生と接しても、日本外交そのものの現場を見ても、日本外交は遠いところは得意ですね。アフリカとか、アフリカも得意といっても実際には票にならなかったりしますけれども、遠いところの貢献度は評判もいいし活躍する。けれども近くなればなるほど日本外交は断絶と壁と穴だらけですね。日ロ、日朝、日韓も良くなったり悪くなったり、日中も長期的にはいいけれども依然課題がある。
こういう国もそうはないと思います。外で評判がよくて存在感もある国が、近い国でこんなに苦労する。というのも、長年放置したこともあれば、それを活用、悪用したところもある。今の政権は、最初はただの作文かなと思いました。わたしもびっくりしましたけれど、岡田外相も以前から北東アジアの非核化の勉強会を主催されていて、私も呼ばれたこともあるんです。鳩山総理も自らの哲学、概念、ビジョンを打ち出すことにわたしは非常に勇気づけられましたし、日本外交にとっても大きな局面の転換になり、それがさらに中身のあるものになっていく、その文脈で朝鮮半島問題も当然関連付けて考える問題ではないかと思います。
ご清聴ありがとうございました。
11月14日~12月11日 東京・新宿武蔵野館で公開中
キャスト 長谷川初範(深澤晟雄) とよた真帆(深澤ミキ) 加藤 剛(深澤晟訓) 大鶴義丹(太田祖田)
宍戸 開(佐々木吉男)
映画「いのちの山河――日本の青空Ⅱ」(製作委員長の小室晧充さんのお話は、本誌98号に掲載)の劇場公開が東京ではじまった。前作の「日本の青空」では、民間の憲法研究者・鈴木安蔵と憲法研究会による憲法制定過程をテーマとしていたが、「いのちの山河」では、すべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を保障する、憲法25条をテーマにしている。1960年に、全国に先がけ65歳以上の高齢者医療費を無料化した岩手県沢内村の深澤村長が主人公だ。深澤晟雄村長は「人間尊重・生命尊重こそが政治の基本でなければなりません」と村長選挙で訴えて、村政に実現していった。深澤の村政は「生命行政」に徹し、「生命村長」と呼ばれている。
岩手県の沢内村といえば乳幼児死亡率ゼロを全国ではじめて達成し、高齢者の医療費無料化と徹底した予防検診により、結果として医療費を低く抑えたことで知られている。これを生み出したのが半世紀も前からの「生命行政」を基礎にした努力の積み重ねだった。
この目的を実現するために、深澤晟雄は信念を堅くして村政を進めていく。映画ではその目的に向かって深澤が村民の声を集めていく場面がさまざまに出てくる。戦後、新憲法に強い希望を見出した村の青年たちが憲法を学んだことは、仲間をつくり、村政を進める核を作った。
社会教育を深めるために婦人会を組織した。広報誌の発行に力を入れた。ここでは深澤は分かり易い文章表現にもずいぶん気を配っている。村民の健康診断も、医者や保健婦などの医療関係者だけでなく、地区毎に保険委員を置いて、きめ細かい活動を支えている。
医療費無料化を決める村議会の長い場面はなかなか面白い。村の財政状況を圧迫するとして、議員の意見は始めは反対が多い。賛成、反対についてさまざまな立場からの意見が出されていくうちに、村長の決断が求められる。このとき深澤は姥捨て山のことを話し、「生産能力がないからと粗末にする。そんな風潮が家の中に漂うようでは、村は無秩序の状態になりかねません。いずれ、みなさんも、おとしよりになりますから、今から準備してもいいのではありませんか」と話し、全員の賛成で決定する。
こうしたことを見ると、沢内村の村づくりに「主権在民」が生きていることがわかるし、深澤は「地方分権」を実践してきたともいえる。村民を村づくりに組織し、助け合い、協力し合う村を作り上げている。
「すこやかに生まれる」「すこやかに育つ」「すこやかに老いる」という沢内村の地域包括医療計画の目標は、憲法25条の目標と重なる。それは過去の課題ではなく、まさに今求められていることだ。「健康」とは、「文化的」とは、そして「最低限度」とはどういう姿なのか。かつて韓国の労働者が、解雇撤回の闘いは生存権をかちとることだと語っていた。
憲法25条を軸にして、私たちが人間らしく暮らすことができる要素を、さまざまな方面からいまこそ明らかにしていく必要があるのではないか。
テレビなどでよく見る長谷川初範だが、この映画がはじめての主演だという。大鶴義丹や宍戸開なども、こうした社会派の映画の出演したことも記憶したい。
なお、沢内村は2005年に合併し、現在は西和賀町になっている。
第25条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
【あらすじ】
美しいが、深く雪に埋もれた山間をはしる馬橇。必死に馬を操る馭者。雪で一歩も進めなくなった橇から降り、深澤晟雄と妻のミキは雪にまみれながら峠を越え、徒歩で生家に辿り着く。病気になっても医者にかかるのは、埋葬のために死亡診断書をもらうときだけという無医村の沢内村。晟雄は父から医者になることを期待されて大学に行ったが、法学を学び、40歳を過ぎて敗戦後帰郷した。その晟雄に対して、父は「村を良くする医者になれ」という言葉を残して亡くなった。
農業をしながら、晟雄は村の青年会で憲法の学習を受け持ち、若者たちと新憲法を熱く学びあった。請われて高校の教師になった晟雄は、教え子たちの家でいまも赤ん坊が死んでいる村の現実を知る。
教育長になった晟雄は、まず女性の力を生かそうと婦人会づくりに手をつける。青年会の中心で寺の住職をしている太田祖田を誘い、村の女性たちを一軒一軒尋ね、話し合いを重ねる。広報誌を創刊・編集し、社会教育に力を注いだ。また農協の佐々木吉男は、なめこ栽培を発展させるために、なめこ協会づくりの相談を晟雄に持ちかける。これも村民との話し合いで結成にこぎつけて、なめこ栽培を普及させた。
晟雄は村長選挙で「生命行政」を掲げて当選し、三悪――豪雪、病気、貧困の克服にとりくむ。まずブルドーザー購入の予算を決め、道路を除雪して冬季にバスを開通させた。
大学医学部との協力で村民の定期健康診断を実施し、保健婦に働いてもらい予防医療に力を注ぐ。いよいよ医療費の無料化にとりくむ。県や国から健康保険法に違反すると言われる。しかし晟雄は憲法25条をもちだして、「少なくとも憲法違反にはならない。国がやらないのなら私がやりましょう。国はあとからついてきますよ」と国や県に反論し、「訴えられれば最高裁まで争う」と断言する。こうして老人と乳児の医療費の無料化を実施した。
1962年には全国ではじめて乳児死亡率ゼロを達成する。1965年、晟雄は59歳で亡くなる。「生命行政」の村政は太田祖田らに引き継がれる。
「いのちの山河」は「日本の青空」と同様に製作協力者を募って作成にこぎつけた。今後の上映予定や、各地での上映のとり組みについての問い合わせ先は以下のとおり。
【上映問い合わせ先】
〒104-0045 東京都中央区築地2-10-4築地ミカサビル8F
(有)インディーズ内「日本の青空Ⅱ」製作委員会
℡03-3524-1565
http:/www.cinema-indies.co.jp/aozora2/
このところ、「民主党政権のもとで、憲法はどうなるか」というタイトルでの講演の機会が多い。
いま多くの人々がこの問題に大きな関心を寄せている。
90年代に始まった明文改憲運動はその頂点となった安倍政権の崩壊を経て、今回の鳩山連立政権の成立をもっていったん挫折した。改憲を巡る攻防は潮目が変化し、その新たな段階にはいったと私は考える。
この段階の特徴は、連立政権の「政策合意」にもあるように9条明文改憲を直接の課題にしていないところにある。2010年の改憲手続き法の「凍結解除」もさまざまな理由で実質的な意味をなさず、明文改憲への一里塚にはなり得ない。たとえ2010年の参院選以降、民主党が参院でも単独過半数を占めるにしても、同党がこの選挙に際して明文改憲を公約にして臨むことはないだろうから、少なくとも次期総選挙までは明文改憲の企ては与党としては出て来ないと思われる。
私たちのこうした主張を「楽観的すぎる」という人びとが一部にいる。そうだろうか。誰もが認めるように鳩山内閣と安倍内閣の憲法に対する対応は明らかに異なる。その違いの意味を運動の側からも明らかにしなくてはならない。これらの人びとはいつも「心配だ、大変だ」と言っている。これでは運動を大きく前進させることはできない。安倍内閣の企てが失敗した理由を明らかにし、そこから確信をつかみ取り、力に変えることこそ重要なのだ。「楽観論」「悲観論」の2項対立にとどまる議論はとどのつまり、観客民主主義、傍観者の議論だ。私たちには歴史を段階的に見る視点こそ必要なのだ。
9条明文改憲の可能性は当面極めて少ない。問題は民主党中心のこの政権が、9条について、それを日米同盟からくる「現実の必要」を理由に「再解釈・再定義」し、それによって憲法との矛盾・緊張関係を解決しようとする可能性があることである。実際、新政権が打ち出す政策には憲法9条に触れるものが次々に出て来ている。
臨時国会にかけられている船舶検査法、日米核密約の露呈と関連して非核3原則の帰趨(非核2.5原則への変換という違憲の登場など)、麻生内閣において強行された自衛隊のソマリア沖派兵の継続、米国から要求されているインド洋での給油の中止に代わるアフガニスタン支援のあり方、沖縄の米軍基地の再編強化と日米同盟の強化、次期防衛大綱のあり方などなど、新政権のこれらの動向は予断を許さないものがある。
加えて、小沢民主党幹事長が自民党幹事長時代以来執心してきた「国会改革」にまつわる内閣法制局の国会答弁禁止と憲法解釈の「政治優先」という主張である。これに従えば、従来の解釈で禁じられていた集団的自衛権の行使などの憲法解釈も内閣ですすめることになる。小沢幹事長はもともと国連決議のもとでの自衛隊の海外戦場への派兵は違憲ではないという特異な憲法解釈を持っている人物である。この主張にそった9条を残したままでの海外派兵の危険が迫っている。
まさに明文改憲の動きがないからと言って9条問題で安心は出来ないのである。この時期に私たちの課題は2つの方面で重用なものがあるだ。1つはこの時期を安倍内閣に対したような「改憲反対」ではなく、憲法12条の精神のように「憲法を生かす」というより積極的な課題への挑戦の時期とすることである。いま1つは、ここで指摘したような多様な形で生じてくる解釈改憲に反対する課題にぬかりなくとり組むことである。
かつて私たちは安倍内閣の明文改憲の企てを阻止することが出来た。あの闘いで発揮されたエネルギーは歴史的なものであった。今、再度、立ち上がってこうした2つの課題にとりくむことが「護憲勢力」にはもとめられているのではないか。 (T)