私と憲法101号(2009年9月25日号)


総選挙後のあたらしい政治情勢と私たちの課題

第45回総選挙は大方の予測どおり、民主党が圧勝するという「政権交代」選挙となった。多くの有権者が「自公政権NO」の審判を下した。戦後の日本の政治の特徴であった自社両党が争う「55年体制」は1993年の非自民細川連立政権誕生で終わり、94年の羽田内閣を経て、自社さの村山政権が成立、以来、橋本、小渕、森、小泉、安倍、福田、麻生とすべて連立政権だったが、これらの時代にあっても自民党は国会の第1党だった。今回は自民党は300議席から119議席に激減して、55年体制成立以来はじめて第2党になり、民主党が308議席の単独過半数をとった。老舗の保守政党自民党はいま崩壊の危機に直面した。

しかしながら参議院は民主党が単独では過半数を持っていない。その結果、民主、社民、国民新の新連立政権が発足することとなった。この不自由さからの脱却を狙い、民主党は2010年の参院選で単独過半数を確保しようとするだろう。

9月8日に確認された「連立政権合意」と「政策合意」(10項目)では、その大部分が小泉政権以来の新自由主義「構造改革」路線のもとで犠牲になってきた庶民の生活の再生のためのものであり、この実行は切実な声だ。

【連立政権政策合意の積極面】

「政策合意」の9番目の「自立した外交で、世界に貢献」とする諸項目と合わせて、10項目の「憲法」では、「唯一の被爆国として、日本国憲法の『平和主義』をはじめ『国民主権』『基本的人権の尊重』の3原則を確認するとともに、憲法の保障する諸権利の実現を第一とし、国民の生活再建に全力を挙げる」ことを確認した。これは今回の選挙での民主党のマニフェストとくらべて、より明確に「憲法3原則の遵守」をうたっている点で特徴がある。世論を背景にした社民党の連立交渉における奮闘の成果だ。「憲法遵守」は立憲主義下での政権の当然の責務であるとはいえ、小泉・安部政権をはじめ歴代の自・公政権が憲法を改悪しようとして軽視してきた経過を考えれば、憲法3原則遵守を掲げたこの「合意」には画期的な意義がある。

とりわけ、2000年1月に憲法調査会が発足して以来、自公政権与党は明文改憲を目ざして動いてきた。それは06年の安倍内閣の登場で頂点に達した。これに対して全国各地の市民は「九条の会」などさまざまな改憲反対の運動を組織して反撃に立ち上がった。この運動は憲法に関する世論を大きく変化させた。政権政党や、それに同調するマスメディアのさまざまな努力にもかかわらず、「9条改憲を望まない」という声が世論の圧倒的多数になり、改憲派に打撃をあたえ、福田内閣、麻生内閣は公然と9条明文改憲を叫ぶことはできなくなった。

【国会での改憲派の凋落】

今回の選挙ではこの間の自民党の改憲運動でもっとも象徴的人物であった中山太郎前憲法調査会会長、船田元、保岡興治などの憲法調査会における改憲派の主だった人々が落選したことだ。これらの人びとは改憲発議の前提条件である両院における3分の2以上の賛成をめざして、憲法調査会で一貫して民主党の抱き込みをはかってきた人びとだ。この結果、改憲派は自民党が目指す今後の憲法審査会の始動の際のリーダーを失った形だ。安部内閣の改憲策動の支援のために07年に拡大再編された改憲議員同盟(中曽根康弘会長、鳩山由紀夫首相はこの同盟の顧問)はより深刻だ。加盟国会議員139人中、86人が落選し、再選は53人のみ。会長代理の中山太郎、幹事長の愛知和男をはじめ、山崎拓、中川昭一、島村宣伸ら札付きの改憲派が相次いで落選した。

『毎日新聞』が行った候補者アンケートのうち民主党の当選者の憲法に対する態度を調べると、「9条改憲反対」190人(61.7%)、「集団的自衛権見直し反対」178人(57.8%)。「自衛隊のアフガン派兵反対」196人(63.6%)だ。『共同通信』の調査では民主党の当選者の35.6%が「9条以外の改憲」賛成、「9条を含め部分改憲」が13.1%、「全面改憲」が8.0%で、「9条改憲は」21.1%でしかない(しかし、これは民主党議員の56.5%が何らかの改憲を望んでいるということでもある)。民主党内でも全体として改憲志向の議員が少なくなったが、傾向としては新人に「9条改憲必要なし」派が多く、当選回数の多い議員に比較的9条改憲派が多いのは、それらの多くが同党内での幹部であるだけに無視できない。明文改憲の動きを表面化させないためには、民主党に対する院外からのロビーイングなどを含めた運動の強化が不可欠である。

【2010年5月18日の意味】

2010年5月18日に改憲手続き法の凍結部分(改憲案の審議など)が同法成立後3年を経て解除になる。しかし、この間の経過と国会議員の構成などからみて、すぐに改憲論議が始まると見るのは早計だ。この凍結期限解除をもって、「狼(明文改憲)が来る」式の「危機アジリ」で運動を進めるやり方は妥当でない。なぜなら改憲手続き法は、現在、07年に同法を強行採決した当時の想定通りに「凍結解除」できる状態ではない。法成立後3年の「凍結解除」までに解決すべき課題とされた同法の「附則」(3条、11条、12条など)は未処理であり、同法が参院で採決された時の「附帯決議」(18項目)も未処理のままだ。憲法審査会「規程」が今年、衆院で強行採決されたが、参院では議論にもいたらず、衆議院でも委員の選出もできないまま、始動していない。

これらはこの間の国会内外におけるねばり強い運動の成果だ。改憲手続き法の強行採決にあたって、私たちは法案阻止という点では敗北したが、与党と民主党の重大な亀裂をつくりだしたことなど、改憲がより困難になった点に於いて、政治的には勝利したと総括したことがある。まして、今回の民社国新連立与党下では、一部に憲法審査会の始動は時間の問題でやむなしと言う声もあるが、与党全体の動きを総合的に見て「憲法審査会の始動」はより困難になったと言って良い。私たちは07年に自公両党が民意に背き強行採決した欠陥法案である「改憲手続き法」の抜本的な再検討と同法の廃止を要求して闘わなくてはならない。

新しい情勢のもとで、自民党や公明党などの改憲派や右派メディアはひきつづき明文改憲を目指してさまざまに動くに違いないが、ただちに9条明文改憲の動きが強まるという危険は遠のいたとみてよい。

【必要な「改憲の伏流」への警戒】

しかしながら、私たちは民主党内にあるさまざまな問題での解釈改憲容認の傾向を軽視できない。鳩山由紀夫首相自身がかつて「新憲法試案」(PHP出版 2005年)という著作を持つ明文改憲派であり、小沢一郎民主党幹事長も自ら04年の「小沢・横路合意」という枠をはめつつも、明文改憲論者であった。この2人ともその政治的立場を否定してはいない。今後、米国や財界などは懸命に連立政権に圧力をかけて来るであろうし、そのもとで生じてくる可能性がある自衛隊のさまざまなかたちでの海外派兵の動きや、北朝鮮のミサイル攻撃などを口実にした軍備増強、あるいは米国が要求する沖縄をはじめとする米軍基地再編・強化など、解釈改憲の危険に対応しなくてはならない。この点で連立政権の政策合意の9項目めに「国際貢献=国連平和維持活動」が確認されていることなどは警戒しなくてはならない。臨時国会ではインド洋・アフリカ東海岸からの自衛隊の撤退、それにかわる海賊対処、アフガン支援の非軍事民生の在り方などが問題になると同時に、民主党が公約している「北朝鮮貨物臨検特措法」が問題になるだろう。過去の日米密約の公開や沖縄の基地の縮小や新基地建設なども大きな問題だ。歴代政権による環境破壊を止めさせる問題も大きな課題になる。

自民党や民主党の一部から、9条以外の項目の改憲など、迂回した形での明文改憲の攻撃が出てくる可能性もある。先の毎日新聞の調査でも「9条以外の改憲」の声は民主党の当選者の3分の1強存在する。

さらにいえば、民主党のマニフェストで総選挙における「比例定数削減」がうたわれている点は重大だ。歴代の悪政に反発して無駄遣いや行政改革、政権交代を要求する声に便乗して、こうした方向で選挙制度を改悪する動きは容認できない。今回の総選挙においても得票数と獲得議席数には、大政党に有利な乖離がある。マスメディアがいう小選挙区制度による「2大政党制」は多様で多数の民意を反映しない不合理な制度であり、比例区を削減することは少数政党の切り捨てに直結する。財政の視点からは、政党助成金の再検討を含め、国会議員の政治活動の在り方についての再検討こそ必要だ。

これらの動きに警戒を強めながら、私たちは気をゆるめることなく、あたらしい情勢を生かして、さまざまな解釈改憲の動きの芽生えを許さず、9条をはじめとする平和憲法を生かし、実現する運動を強化しなくてはならない。(「私と憲法」101号所収)

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WORLD PEACE NOW 9.19

武力で平和はつくれない
アフガニスタンに緑と生命(いのち)を
ペシャワール会現地報告会
中村哲医師
於:社会文化会館ホール
司会:チョウ・ミス(ピースボート)
※WPN=WORLD PEACE NOW

司会:ただいまごらんいただきました映像は、2006年NHK教育テレビで放映された映像でした。それでは改めましてみなさんこんにちは。今日はジクバーウィークという5連休の初日にこんなにもたくさんのみんなさんがお越しくださいまして、本当にありがとうございます。改めてただいまより「武力で平和はつくれない アフガニスタンに緑と生命(いのち)を ペシャワール会現地報告会」を開催いたします。私は本日司会進行をつとめますピースボートのチョウ・ミスと申します。どうぞよろしくお願いいたします。

まずプログラムに移ります前に司会から少しお願いがあります。今日の会は中村哲さんをお招きしての講演会となっておりますが、会全体を通して映像の撮影はご遠慮ください。またフラッシュをたいての撮影もご遠慮くださいますようお願いいたします。

それでは早速プログラムのほうに移りたいと思います。
2001年の9月、みんなさんご記憶にまだあると思います。アメリカを襲った同時多発テロ、そしてその1ヵ月後に起こったアフガンの攻撃。それから8年間経った今、現状、国際情勢はどうなっているでしょうか。テロの撲滅という名目で行われた空爆攻撃によって、今どうなっているのかということをニュースでたくさんお聞きのことと思います。あれから8年経ちアメリカにもそしてこの日本にも新しい政権が生まれ、これから大きく情勢が変わろうとしています。今日この日を迎えて現地アフガニスタンでの現状をお聞きし、これから私たちが武力によらない平和をどうやってつくっていけるのかということをみんなさんで考えられる1日にしたいなと思っております。それでは報告会に移ります前に、今日この会の主催でありますWPNから代表しましてご挨拶を申し上げたいと思います。基地はいらない女たちの会代表の芦澤礼子さんをお招きしてご挨拶とさせていただきます。それでは芦澤さんよろしくお願いいたします。

芦澤:本日は秋の連休初日というお忙しい中、WPN主催の「アフガニスタンに緑と生命(いのち)を ペシャワール会現地報告会」にお越しいただきましてありがとうございます。私は基地はいらない女たちの全国ネットの芦澤と申します。実行委員会を代表してみんなさまにご挨拶を申し上げます。WPNは2002年末に始まりました。もう戦争はいらない、イラク攻撃反対、非暴力アクション、そして日本のイラク攻撃協力にも反対を加えた四つの賛同点に結集した政党・宗教・市民団体などの枠を越えたネットワークとして、今まで7年近くにわたり活動を続けてまいりました。

初めてピースパレードを行ったのは2003年1月18日のことでした。そのときは約7000人の方に参加していただきました。そのときの呼びかけ文を改めて振り返ってみました。

「私たちはいま一緒に行動したい。国境・民族・宗教・人種・思想・性別・年齢・言語・主義主張の壁を越えて、暴力、争いに代わるものをみつけるために。もう戦争はいらない。力を合わせて世界を平和を。私たちはイラク攻撃に反対します。アメリカのブッシュ大統領はイラクへの総攻撃を全力で準備しています。小泉政権も自衛隊などによるアフガン戦争への一層の協力の拡大などをはじめイラク戦争への協力を進める構えです。一人の人間としていかなる理由であれ、殺人・人権侵害・環境破壊を引き起こすこの攻撃は見過ごせないものではないでしょうか。1月18日、ワシントンDCを中心に大規模なアクションが予定され、国際的に呼びかけられています。イラク戦争NOの声をさらに盛り上げ戦争を止めるために日本でもより大きな万単位の規模のピースアクションを起こしこれに連動したいと思います。」

今、最初のピースパレードの呼びかけ文の抜粋を朗読させていただきました。あのときイラク攻撃を止めることができたらWPNはその時点で終わっていたかもしれません。たぶん終わっていたでしょう。しかし、2003年3月、イラクへの攻撃は始まってしまいました。何万人という人々が失わなくても済んだはずの命を奪われていきました。

あれから6年半が経ちました。アメリカでも日本でも政権交代が起こり、時代は変わりつつあります。この世界にこれから本当の平和は訪れるでしょうか。私たちWPNは、武力で平和はつくれないということをずっと訴えてきました。新しい指導者たちにそして日本に世界にこれからも訴え続けていかなければならないということを、今改めて決意しております。

本日はアフガニスタンで長年支援活動を続けていらっしゃるペシャワール会の中村哲医師をお迎えしました。今フィルムでもご覧になられたように、過酷な事業をずっと続けておられます。体調も万全ではないというふうに伺っておりますが、今日お越しいただいたことを心から感謝申し上げます。アフガン情勢はいまだ混迷を窮め今年8月20日の大統領選挙の結果も、なかなか確定しないという状況です。9月4日には駐留外国軍の空爆でまた多くの民間人が犠牲になったと報道されています。しかし、本来アフガニスタンは豊かな文化と自然を持った国であり、その豊かな大地を取り戻すためにペシャワール会は地元の人々とともに用水路を堀り木を植えてきました。昨年8月に亡くなられたペシャワール会の伊藤和也さんも、地元に溶け込んで農業技術を教えるワーカーをされていた方でした。その死は悔やんでも悔やみきれないものです。

今年の8月3日、全長24キロメートルのマルアリード用水路が完成し水が通りました。まさに大地を潤す命の水です。中村哲さんにこうして今日、直接現地のお話を伺えるのはまたとない機会です。武力で平和はつくれない、ならばどのように平和はつくれるのでしょうか。アフガニスタンの現状を知り、平和をつくり出していくために私たちに何ができるのか。中村さんのお話を伺いながらみんなさんとご一緒に考えていきたいと思います。本日はどうもありがとうございました。

司会:芦澤さん、ありがとうございました。それでは早速中村さんの講演を開始したいと思います。本日お招きしているペシャワール会医療サービス総委員長の中村哲さんをお招きしております。

ペシャワール会は中村医師のパキスタンでの医療活動を支援するために結成され、1984年から現地活動を開始しております。以後、活動の拠点をパキスタンそしてアフガニスタンにも移し、現地の人々とともに活動をし続けて来られました。パキスタン・アフガニスタンでは医療活動やまた農業支援などを通して現地の人々と一緒に本当の国際支援、国際化というのは何かというものをずっと中村先生は説いていらっしゃると思います。
それでは中村先生に講演とさせていただきます。それでは中村哲さん、よろしくお願いいたします。

中村:みなさんこんにちは、中村です。先ほどは、体調を崩したというご紹介がありましたけれども、噂というのは恐ろしいもので、私は元気でございます。日本に帰ってちょっと風邪を引いたのがどうやって伝わったんでしょうかね。似たようなことがいろんな情報、特に国際情報の中にあるということを改めて痛感いたしましたが、私は大丈夫でございます。今日は、また似たような話ですけれども、今アフガニスタンで何が起きつつあるのか、何が起きてきたのか、これを私たちがしたこと、見てきたこと、聞いてきたことをそのまま紹介してみんなさんの判断に委ねたいと思います。質問の時間もずいぶんとってありますので、何でもいいですから、怒りませんので何でも聞いてください。早速ですけれども、現在私たちが行っている用水路事業の最新の映像がありますので、退屈でしょうけれども、先にご覧いただきます。よろしくお願いします。

DVDの映像が流れる。

中村:これは5月、今から3~4ヵ月前に撮った映像ですけれども、現在マドラッサはほぼできあがりました。それから水路も8月2日に開通いたしまして、現在ガンベリー砂漠、映像にあったガンベリー砂漠の開拓が進められております。初めて来た方も多いと思いますので、私は医者です。医者がなぜこんな土木工事をしなくちゃいけないかと。ほとんどこの7、8年ですね、聴診器を手に持ったことはありません。いばる必要はないですけれども、現場監督として働いてきました。それがどうしてなのか。話せば長くなりますけれども、簡単に説明したいと思います。スライドの映像をお願いします。
  私たちの活動は、名前がペシャワール会となっておりますが、ペシャワールというのはパキスタンの北部にあってアフガニスタンと隣接する国境沿いの町です。一応乱暴な言い方をしますと一応パキスタン領内ですけども、文化的にはアフガニスタンと一体のところであると考えて差し支えない。それでもってわれわれは自由自在に北西辺境州、アフガニスタンの東部と行き来を繰り返しておりました。実際、住民も東部の住民は北西辺境州、ペシャワールを自分の国の一部と思っているというぐらい一体感が強いところなんです。それでペシャワールというのはパキスタン領ですけれども、アフガニスタンに展開して活動をせざるを得なかったということも地図から理解できると思います。現在、医療関係が数十名、はっきりしませんけれども、約30名前後、それから水利事業関係が百数十名、合計約170~180名の人々、職員が作業員約700名、約1000名弱の人々が私たちとともにこの事業を推進しております。

 いつも言いますけれども、アフガニスタンという国は新聞には時々載るでしょうけれども、よくわかってもらえないのは、アフガニスタンという国に生きている人々の生活。まずアフガニスタンという国は山の国でありまして、国土の8割以上がヒンズークシ山脈という非常に高い山に覆われておって、国民の8割以上、遊牧民を入れると9割以上が自給自足の農村生活を送っている人たちであります。この膨大な人口を養っているのがこの白い山の雪でして、アフガニスタンの諺をいつも言いますけれども、アフガニスタンでは、「金がなくても生活できるけれども、雪がなくては生きていけない」という諺があります。まさにそのとおりでありまして、この冬に降り積もった白い雪が夏に溶けだしてきて大地を潤す。その水で農業が成り立つという自給自足の山岳地帯の国家であると考えてほぼ間違いないと思います。

もう一つ話の前置きとして知っておかなくていけないのは、先ほど映像でありましたように、アフガニスタンという国民すべてが非常に、いい悪いは別として宗教的な国民でありまして、イスラム教というイスラム教を基に文化的な基礎を築いておる国であると。どこの町や村に行きましても必ずモスクというのがあって、ここを中心に人々の生活が行われるということであります。゛

さらに、最近ますます著しい傾向というのは、都市部に行けばいくほど貧富の差が甚だしい。特に9.11ですか、ニューヨークのテロ事件の後、米軍が入ってきた後、この貧富の格差はどんどん広がってくる。現在、日本でもこの貧富の格差ということが問題になっているようですけれども、現地の貧富の格差は問題にならない。方や数十円のお金があくて薬が買えなくて死んで行く人は数知れないかと思えば、ちょっとした病気でニューヨークや東京やロンドンに簡単に飛んで行って診療を受けることができる人たちということで、医療上も非常に格差が大きい国でありまして、私たちが気をつけなくちゃいけないのは、アフガン情勢がどうのこうの、アフガン人がどうのこうのというときに、往々にして私たちが犯しやすい過ちというのは、こういった一握りの人々の声が国際社会に入りやすいという構図になっております。一般のこういった映像に出ている人は、流暢な英語をしゃべって外国人と接触する機会はほとんどない。極端に言いますと、一握りの裕福な人々の意見が国際社会それから日本の世論に反映されやすいという構造的なものを持っているということも頭に入れておく必要があると思います。

私たちの活動は、私がちょうど25年前です。ペシャワールにハンセン病撲滅計画といのがありまして、それに参加するということから始まりました。初めは本当に何もなかった。本当に日本では想像できないような環境で診療を行いました。

努力の結果、ハンセン病に関するものなら外科的な手術も含めましてほぼうちでこなせるというふうになりました。と言うのは簡単ですけれども、いろいろと苦労いたしました。

一番今でも気をつかうのは、いかにして患者の気持ちすなわちその地域で暮らす人たちの気持ちを理解するかと、あるいは生活を理解するかということなんですね。これも外国人が犯しやすい過ちというのは、自分の目に慣れないものを見ると、すぐに善悪で、自分たちの尺度で善悪を決めつけてしまうということがあるんですね。たとえば、この女性のかぶりもの。人権団体から言えば、女性差別の最たるものだと非難されましたけれども、これはこの地域、そういう地域なんだという地域を理解するというよりは、まず先進国側が自分の物差しでこれを文化の善し悪しまで決めつけるということがなかったとは言えない。私たちとしましては、こういった地域の習慣につきましては、一切これをいい悪い、あるいは優劣という目で見ないということで、その地域に合わせた特に臨床医学というのは、人権を主張しても始まらない。病人が治らないとこれは何も言えないわけで、たとえばこういった女性に対してもかぶりものをとらないとあなたたちは幸せにならないよ、なんてなことを言わずに、ともかく病気を治すということに徹してきました。

そこで女性を診るには女性なら診れるわけですね。女性が特に若い女性がかぶりものをとって医者の前に出るということは、田舎ではほとんどないことでありますが、女性スタッフであれば、これを自由自在に診ることができるということで、多くの女性ワーカーが日本から送られました。こうして私たちの活動は、もちろん賛成できない習慣もありますけれども、それは私たちの考えであって、ともかく現地の文化を尊重するということを一つの大きな柱としてきました。

私が行ったのは、1984年の5月。アフカン戦争の真っ只中。当時1979年12月、当時のソ連ですね、崩壊したソ連がアフガニスタンに侵攻する。それから何と10年近く、ソ連軍がアフガニスタンの中で戦争活動をするということで、私たちも医療の立場からこれに巻き込まれていきました。

初めは細々と難民キャンプで治療をする程度だったですけれども、さらに進んで難民キャンプにやってくる患者を診ていたのではこれは埒があかない。しかもハンセン病コントロールとともにこれをするというならば、患者の住んでいる所、そこに出かけて行って最寄りの診療所で投薬をする体制がないと、とてもじゃないけれども、定期投薬もできないというのが私の判断でありまして、活動はしだいにアフガニスタンの内部、内戦下のアフガニスタン内部に及ぶようになってきました。

当時、まだソ連の軍隊が健在なころでありましたんで、峠を越えてみんな足であるいて越えるんですね。私は頭はともかく足だけは強かったので、自由自在に行き来しておりました。

これはヌーリスターンのアフカニスタンでも最も山奥と言われるヌーリスターンと呼ばれる山岳地帯の一つですけれども、こういうみんなさん、医療事情を言うとですね、日本の医療事情は欠陥はあるとはいえ、アフガニスタンを見ると沈黙せざるを得ない。無医地区というけれども、アフガニスタンでは医者がいるところを探すほうがまだ早い。こういうところに行って、ここに着くのにペシャワールから徒歩も入れると1週間以上片道かかるわけですね。患者たちはこういうところから来ておったわけで、ここで診療所を出すというのは夢のような話だと。しかし1990年頃から私たちの活動は活発化いたしまして、次々と診療所をこういった山村部に建てていきました。

どこに行ってもアフガニスタンという国全体が親日的な国でありまして、どこに行っても日本人であるからということで歓迎されたんですね。このヌーリスターンという山の中に行ったときに、フランス人かと聞かれたのでびっくりして、「いやそうじゃない、日本人だ」と言うと、掌をを返したように態度が変わる。そしてまるで自分の国の人間を扱うように扱ってくれるということはまれならずというか、それが普通でしたね。なぜ日本がそんなにもてるのかと言いますと、彼らが連想するものが日本について三つある。一つは日露戦争。日露戦争について言うと、当時極東の取るに足らぬ小国であった日本が超大国ロシアに対して負けなかった。勝ったとまでは言わないまでもこれを撃退したということができる。それに対する当時アフガニスタンはアジアでも数少ない独立国の一つで、日本とタイ国とこのアフガニスタンぐらいがまあまあ独立を保っておる中で、中国をはじめ半植民地あるいは露骨な直接植民地だったわけですね。その中で日本が勝ったということは、非常な好意をもって語り継がれまして今に至っておって、相手がどんなに大きくとも屈しない、不撓不屈の日本というイメージ。それからさらに大きなのは広島・長崎。やられてかわいそうにという同情だけではなくて、その後あの廃墟から見事に日本は技術大国として再生する。そして現在に至っている。だいたい羽振りのいい国というのば、戦争するもんだけれども、彼らはよく知っているんですね。日本だけはあれだけの繁栄を築きながら、その繁栄という中身の受け取り方は様々でしょうけれども、外から見てるとたしかに繁栄としか言いようがない。あれだけ繁栄をしておきながら、いっぺんも外国に軍隊を送らなかったということが、平和でしかも強い国、やろうと思えばやるんだけれども、それをあててしない国だということで、非常に好感を持って迎えられるという状態で、私たちも仕事が進めやすかったんですね。ところが今、それが逆になりつつあるということは知っておいていただきたいことの一つであります。不撓不屈の日本が、弱い者には居丈高になり、強い者にはペコペコするような日本。それから経済的な利益のためならば、多少戦争に協力しても躊躇しない日本というマイナスのイメージが次第に広がりつつあるということは、私は長い目で見て、日本の安全保障という点から見ていいことではないんじゃないかというふうに思います。

そうこうしているうちに、ソ連軍が1989年になって撤退を開始します。あの当時私は思いました。世界中でソ連軍が撤退ということを予告した人はほとんどいなかった。どこの評論家を聞いても、これは英字紙でも日本でもそうですが、ソ連という国はいっぺん手に入れた領土は二度と手放さない。アフガニスタンも属国になるであろうというのが、一般的な見方だと。ところが地元の人は違ってまして、いやアフガニスタンというのは、何千年も独立国であり続けて、ここで支配者になった例はないと。彼らは帰る、と断言していました。そのとおりになったわけでありまして、89年になってソ連軍が撤退を開始する。それに伴って権力の空白が生じまして、軍閥同士の抗争が起きる。しかし、アフガン難民にとってはまたとない帰るチャンスでありまして、1990年になって爆発的な難民帰還が自発的に始まります。

われわれもその波に乗って、アフガン難民とともに彼らのふるさとのあちこちというか3ヵ所に次々と山の中に診療所を建てていきました。

そうこうするうちに15年が過ぎまして、活動から15年が過ぎて、どうも先が長そうだと。ペシャワールに永久的な基地をつくろうということでペシャワール病院というのを建設いたしました。これによってその後展開するいろんなアフガニスタン内の活動もここを基地として保証されるようになりましたけれども、最近の動向はと言えば、今度は戦火がペシャワールに及んでくるという事態になりまして、現在ペシャワールを中心にして北西辺境州がほぼ内乱といっていい状態になっています。これを日本では詳しく報道されておりませんので、ご存じないかもしれませんけれども、これはかなり大きな出来事で、パキスタン国家がいずれ分裂するかもしれないという状態に立ち入っておりまして、ここの病院も一時引き揚げをせざるを得ないということを2年前から検討しております。引き揚げると言ったって活動が止まるという意味ではありませんで、一時的により安全な地域に拠点を移さざるを得ないというところに立ち入っております。

この病院を建てた直後、さあ今からというときにアフガニスタンを襲ったのが世紀の大干ばつでありまして、正確には1999年夏。さらに激しくなったのは2000年の夏からでありまして、アフガニスタンの村々が次々と砂漠化していく。砂漠化とわれわれは言うのは簡単ですけども、本当に何もない状態になっていく。それも1年、2年という単位で急速に起こるものですから、村人たちは行くところもないまま、まずは最寄りの大都市に流れる。そこで食えなければ再びパキスタンのほうに流れていくと。流民化して人々で当時溢れておったわけでありまして、当時のWHO(世界保健機関)の発表では、飢餓に瀕するものが約300万人から400万人というふうに発表されました。その時期でありました。

私たちは診療所でいくら診療しても虚しいと思ったのは、最も多かった死因は子どもの下痢症、これは赤痢、腸チフスを含めたいわゆる腸管感染症というやつで、清潔な水、それから十分な食べ物、栄養失調の子が多かったですね。この自給自足の村がほとんどだと言いましたけれども、それを支えておったのは白い山の雪の雪解け水で、これが枯れてくるという事態に直面して、食糧生産ができない。アフガニスタンは当時これもWHOの発表で100万人が飢餓線上ではなくて餓死線上にあるというふうに報告されました。われわれとしましては、病人をいくら診療活動を拡大しても、飢えや乾きだけは薬では治せない。そんな魔法みたいなことはできない。まず清潔な飲料水の確保が先であるということで、井戸を掘る事業を始めたんですね。

診療所の回りが本当に何もない状態でありまして、一時は数軒を除いて全部難民化するという状態の中で、残った村人たちを集めて飲料水源を次々と確保し続けました。これは昨年まで続いておりまして、全体で約1600ヵ所の井戸が掘られ数十万人の人々がこれによって村を離れずに済むという事態になったわけであります。

さらに栄養失調と言うけれども、それ以前はどうやって彼らは食っておったのか。自分たちで耕してその作物をほとんど自分たちの口に入れて、余った分を出荷して生計を立てておったんですね。その農業用水の確保ということが次の課題となりますが、アフガニスタンで多いカレーズと呼ばれる灌漑法ですけれども、要するに地下水を導く横井戸ですね。これを延々数百メートル、数キロメートルと延ばしまして灌漑を行うわけですが、この水そのものも枯れてくる。すなわち地下水さえも枯れてくるという状況に直面して新たな戦略を立てざるを得ませんでした。

そのために灌漑井戸を掘ったりしましたけれども、この灌漑井戸の水そのものが落ちていくという中で、このままでは地下水に頼る灌漑農法、せいぜい飲み水ぐらいだろうというのがわれわれの判断です。

私たちとしましては、この用水路事業に発展していくわけでありますが、そうこうするうちに、2001年にニューヨークでテロ事件が発生いたしますと、もう翌日から当時のブッシュ大統領が、アフガン報復爆撃などということを言う。われわれとしましては、一体テロリストはどこにいる。テロリストを匿っただけだと。証拠を見せれば逮捕してさしあげようという当時のタリバン政権の言い分のほうが私は正しいと思いました。ところが、アフガン報復爆撃。罪もない人、しかも百万人が飢餓線上というところに、食べ物の雨を降らすならともかく、爆弾の雨を降らして、さらにご丁寧に被害者を増やしていったというのが実態ではないかと思います。あの当時ですね、先ほどの映像でも多少出てきましたけれども、日本中と言わず世界中が何かにとりつかれたようでおかしかった。テロ対策と言えば何でもとおるようなそういう風潮が日本中に蔓延しておった。私は恐ろしいと思いましたね。こうやって戦争というのはみんなの納得を得ていくもんなんだなというふうな気がしました。こちらが中立的な意見を述べても、それも一つの見方ですねというふうにして相対化されてしまう。そして何といっても現実的に見て戦争以外にないなという論調が世界中を覆っていると。その中でわれわれが訴えたのは、まず人々の生命を保障することだということで、空爆下ですね。先ほどありましたけれども、カーブルに集まっておった数十万人がおそらく生きて冬を越さないだろうという中で日本中にカンパを呼びかけまして、約1800トンの小麦粉と10数万キロリットルの油を送って、なんとか20数万人の餓死寸前の人々の口に届けたというのは、嘘のような本当の話であります。当時の話をすればきりがないですけれども、これもアフガン人スタッフ、死ぬかもしれないというので、家族の了承を得まして20人職員を送り込んだ。われわれがかろうじてできたのは、これを3ヵ所に分宿させて、一発の爆弾で全滅しますとこれは食料配給できないですから、たとえ1チームがやられても残る二つのチームは任務を継続するようにと。それは軍隊の論理ではありませんかという批判も受けましたけれども、そうでもしなければ、あの数十万人の餓死寸前の人が救えなかった。そういったアフガン人の活躍というのがあまり知らされませんでしたが、このわれわれの活動を中核になってしっかり支えてきたのは、この自分の命も惜しまずに、と言えば誤解を招くかもしれませんけれども、我が身の命さえも省みずに協力した勇敢なアフガン人たちでありました。

その後、北部同盟と米軍がカーブルに進駐し政権が交代します。日本でもアフガン復興会議というのが開かれて、言わばアフガン復興ブームというのが起こりますけれども、これが2002年の春頃まで続きましたけれども、2002年の3月頃でしたか、サッカーのワールドカップが始まる頃にはもう忘れてしまっていて、日本人というのは忘れっぽいですね。次はイラクのほうに話題が移っていくという状態で、私が予言していたのは、アフガン問題は忘れさられるだろうと言いましたけれども、アフガニスタンはこれで三度忘れ去られたわけであります。何が起こっていたか。みんなさんが映像で見たアフガン復興というのは、前向きの話ばっかりだったんです。そこで途切れている。学校が建つ、インターネットカフェができる。それは悪いことではありませんけれども、飢えた人々はますます増えていく状態。アフガン解放、悪の権化タリバンが倒されて絶対の不朽の正義を持つアメリカが日本占領を見習って、アフガニスタンに立派な政権をつくろんだという触れ込みで、解放という言葉が盛んに使われましたけれども、この映像に映っているのは芥子畑。同時に持ち込まれたのは、それまで芥子はほぼ絶滅の状態だった。ところがアフガン解放と同時に解放されたのは何かと言うと、芥子畑、芥子づくりの自由が解放される。さらに女性が売春する自由。貧しいものが餓死する自由。豊かな外国人におべっかが上手で豊かなアフガン人がますます豊かになっていく自由。これが解放されたと言って、もしこの中にアフガン関係の人がおれば、反対しない人はいないと思います。これが実態であります。

私たちは、何事もなかったかのように私たちの方針を変えずに継続してきました。

試験農場ですね。ともかく国の基は農業にある。特にアフガニスタンのような農業立国、自給自足の農業立国は緑の回復。すなわち食料自給。そして失業者を出さない。こういった基礎は安定の基盤は農村の回復であるということを訴え続けて用水路を始めると同時に、こういった試験農場で乾燥に強い作付けなども研究してきました。

これは元は豊かな畑だったんですけれども、この干ばつですっかり荒れた大地になっている。こういうところが次々広がっていったわけですね。私たちは井戸水では間尺に合わないということで、大きな川、大河川からは用水路をひき、中小河川については無数の溜池をつくってこれを対処する以外にないということで、まずは大きなプロジェクトの一弾として2003年の3月19日、ちょうどイギリス、アメリカの■■(テープ裏へ)■■の日に用水路工事が着工いたしました。

第一期工事は13キロメートル。第二期工事を入れますと24.3キロメートル。これが1ヵ月前、8月3日にようやく完成して、全部で6年4ヵ月の工期を要したことになりますが、ともかく6年前、これが始められたわけであります。

 と言っても何もない。何もないというのは、土木工事といったって日本のようにお金があるわけじゃなし、機械があるわけじゃなし、頼りになるのは地元の人々の手作業。これを、もちろん重機も使いましたけれども、手作業を中心につくられた用水路であります。というのは、外国人がいくら立派なものをつくってもそのメンテナンスとなるととても日本のようなコンクリート三面扁平の技術というのは地元の人には補修できないということで、できるだけ人の手を使ってつくった手作りの水路であるということができると思います。

これはジャ籠というもので、こういった金網の籠に石をつめてつくる護岸法ですけれども、かつては日本でも盛んに行われましたけれども、鉄筋コンクリート技術が拡大するにつれてすたれていった技術でありますが、こういった古い技術が現地で大活躍をいたします。

これは6年を経た最初の頃の用水路ですけれども、柳の木が芽吹いてジャ籠の裏に細かい根っこを生やして、浚渫するときに柳の根っこがちょうど水路を包むように覆っている状態が観察されます。こうしてこれは何度か土石流に見舞われて埋まりましたけれどもびくともしなかった。非常に強靱なもので、改めてご先祖様の偉大さと言いますか知恵に驚嘆したところであります。

この取水堰も工夫をこらしまして、結局モデルになったのは日本の古い、江戸時代につくられた九州に山田堰というところがありますけれども、いわゆる斜め堰が基本的な構造になっておりまして、これも日本の水利技術、それも江戸時代に完成された日本の水利技術が現地で大活躍しております。このすごさというのは、春夏秋冬、だいたい一定した水量がとれるということで、この水路で生活する現在約20万人の人々の命綱の入口だと。これも昔の人の知恵を頼りにできたということですね。

とは言っても素人ですので、改修に改修を繰り返し、これは5年間改修を繰り返してやっと一昨年できあがったものであります。これもご先祖様のおかげだと思っております。

護岸もこれもやや規模は大きいですけれども、日本の護岸法をモデルとした石出し水制という農法。それ以外に打つ手がなかったと言えばそれまでですけども、これは70メートルの石出し水制ですが、日本でもかつては石出し水制によって護岸を行うということがありましたけれども、これを積極的に採用しました。というかそれしか方法がなかったんですね。これによって見事に自然の猛威を遠ざけたというか仲良くできるようになったわけであります。

あんなところに行って危険ですね、とよく言われますけれども、昨年、実際ですね、職員の一人が強盗に襲われて死ぬという事件がありましたけれども、私たちはその件を除けば一度も地元の人から攻撃されたことがない。攻撃をするのは一番怖いのは米軍でありまして、人がいるところならやみくもに、集団で集まっているところにやみくもに爆弾を落としてくる。ひどい場合は、モスクとか学校に爆弾を落とす。それが日常茶飯事になっておりまして、学校といって子どもがみんな集まっているんですね。モスク付属の学校で学ぶ学童たちをタリバンという言葉で呼んでいますから、欧米軍としてはタリバンがあそこで何十名集まっている、何のことだ、子どもが普通にモスクの学校に通っているところを誤爆する。誤爆と言いますけども。そしてタリバン何十名殺傷というふうに盛んに報道されました。結婚式場を爆撃して女性子どもが死ぬという事件が後を絶たない。われわれの作業地域でも、米軍が機銃掃射をしている。なぜだと聞くと、君は発破作業なんかするほうが悪いんだと言うわけですね。ダイナマイトをわれわれは使いますから。しかし、確認の上攻撃するのが軍隊。いくら軍隊とは言えど、たしかに敵だと言って確認して攻撃するのならまだしも、彼らに言わせると攻撃してから確認すると。あのときはっきり言われました。とんでもない話で、われわれとしては米軍のほうが恐ろしゅうございます。みんなさん誤解されているようですけれども、あそこで反政府勢力がはびこって、治安が乱れているから復興が進まないので軍隊を送っていると。これはまったく逆でありまして、私が見る限り、それまで何でもなかったところが、米軍が進駐すると、そこがごたごたしてくる。そして戦場となっていくというパターンでありまして、今後、アメリカ軍の増兵が続けば続くほどアフガニスタンのこういった誤爆といいますかむやみやたらな殺傷行為というのは拡大していくだろうというふうに私は思っております。実際、最近ですね、アフガニスタン北部で誤爆によって100名が死亡するというニュースが入りましたけれども、最近になってなぜこれを問題にするのか。ごく最近までこの誤爆が日常的であったのに、報道機関は何も報道しなかったじゃないか。ということは、初め12000の軍隊が7万人に増やしても8万人に増やしても治安は軍隊の数に比例して増えている。悪くなっている。テロ活動も活発化する。当然のことでありまして、不審に思ったのはですね、テロ行為とかテロ活動とか言いますけれども、米軍に対する攻撃までテロ件数に入っているんです。米軍が明らかにテロ戦争と戦争という言葉を使っている。攻められてきたほうとしては、敵を倒すのはいいことではないでしょうけれども、当然と言えば当然のことで、戦闘員が戦闘員を殺すというのはテロとは言わないわけですね。戦争なわけです。それまでテロ件数と称してテロの発生率が上がったというのは、外国軍の死傷者がそれだけ増えれば増えるほど増えてきたということで、この戦争ももう先が見えてきたという気がいたします。

私たちはこういった、もう世の中は何を言っても私はもう悟りまして、本当のことは伝わらないんだと。アメリカもそのうち帰るさと。アフガニスタンを永久に占領できる国なんてこの世に存在しないから疲れるまで待っておこうということで、何事もなかったかのように水路の建設を続けていきました。

これは水道橋ですね。

この苦労話をすればきりがないげすけれども、やっとこの第一弾の灌漑にこぎつけたのは水路着工から3年目の2005年でありました。これ以後、次々と乾燥地帯が緑化していきます。

これも元砂漠だったところですね。それから小麦を植えられ、最近では水田になっているという状態で、砂漠が水郷になると。奇跡的なことを目の当たりにして、水は本当にアフガン人が言うとおり命の源だと私は思いましたね。

何といっても自然の猛威とわれわれは言いますけれども、われわれが無理して進もうするから自然は猛威をふるうわけで、なんとかこれと妥協する道を探りながら水路を延ばしていきました。これは土石流の谷でありますけれども、ものすごい土石流がくる。ここの横断水路というのは、パイプを使って潜らせる。サイフォン方式で行いました。

これは120メートルのサイフォンを土石流の川底に通しまして、こうやって工夫に工夫を重ねて、去る8月2日に全線が開通したわけであります。

これは横断路ですね。

第一期工事が終わったのは2年前の4月でありまして、みんな喜びましたね。続いて第二期工事に入りました。これはおそらくアフガン戦争はもっとひどくなってくるだろうと。まず完成して、小さい仕事は後でもできる。まず大きな仕事を片づけておけば小さいことは戦争中でもできるからということで、用水路建設を急いだわけであります。

こういった干渉地と言いますか土石流が多いんである程度の急激な増水があっても、これを吸収する溜池がいるということで、用水路のあちこちに溜池が造成されました。

こうやって水色に書いてあるところが灌漑地ですけれども、こういった乾燥地帯、砂漠地帯に水を送り、8月2日の時点でこの用水路によって海外されうる面積、された面積されうる面積は約2500ヘクタール。既存の用水路に水を送って水供給が保証できる農地が約3000数百ヘクタールということで、地域の文字どおり生命線となったわけであります。

この砂漠が今どうなったかというと、これが同じところであります。

これも同じところなんですね。かつて何もなかったところにこうやって緑化が進むということが起きてきました。

 これもあるいは湿地帯ですけれども、湿地帯の上に盛り土をしまして約1キロメートルにわたって盛り土をして十分締め固めをした後、転圧をした後ですね、水路を掘るという方式で、だいたいここは安定してきました。

マドラッサモスクについては先ほどの映像にあったとおりでありまして、これは地域の共同体を束ねる要でありまして、ここまでしないとわれわれの活動は完成しない。農村の回復と言うけれども、これは単に食い物を与えればそれで済むというものではない。彼らの精神的拠り所。人間というのは食えればそれでいいかというと、そうではない。何かの精神的な拠り所がないと生活ができない。これはアフガン農村では端的に言ってイスラム教というのが人々の精神的な拠り所であって、それを基調として共同体が成り立つという構造。これはこの日本人にはわかりにくいかもしれませんけれども、これがないとたとえば町に溢れている孤児を吸収するのは決して孤児院と呼ばれる日本で想像される施設ではなくて、こういった伝統施設なんですね。ここで孤児たちが自由自在に食べていけるということがあります。それに注目いたしまして、そういった福祉的な機能、それから何といっても村同士の揉め事を解決する機能。これが魅力的でありまして、われわれはこのマドラッサ建設。しかもですね、これは外国団体の方針で、宗教的に中立ということもあったんでしょうけれども、決してモスクとマドラッサだけは建設してはならないという規定がある。規定というか暗黙の合意があって、人々が欲しているものがなかなか建ててもらえないということがあったんで、それじゃ誰も建てないのなら建てましょうと、その代わり運営は村自身が行うわけであります。こうしてみんな喜びましたね。ここが地域の中心なんだということで、単に食えるというだけではなくて、こういった地域共同体の和、平和の和ですね。和をもたらすという意味ではこれは不可欠のものだったと思います。

現在、これは私が設計して建てたものですが、日本の建築基準でやってますので、地震にはおそらく強いんじゃないかと思います。こうして地元は希望をもって生き生きとみんな生活し、難民たちも帰って来れるという事態が起きつつあるわけであります。

最後に行き着くガンベリー砂漠。これは先ほどの映像でもありましたけれども、とてもやわなところではない。われわれは砂防林を植えまして、人が住める居住区をつくりまして、これをペシャワール会の領地と言えば語弊がありますけれども、われわれ自身が領有と言えば失礼に当たりますが、われわれ自身が地主となりまして、ここに今まで6年間われわれと辛い労働をしてきた人たちをここに住まわせて、というのはほとんどの作業員となって働いたのはほとんど近隣の農民でありまして、しかし水路の恩恵に浴した農民たちは自分の畑に水が来ますと作業員として来なくなるんですね。最後まで残ったのはこの水路の恩恵に浴せなかった村の人々でありまして、彼らは6年間われわれと一緒に仕事をしてきているんで、だいたいの小さな作業はできると。彼らをここに定着させればおのずと補修作業だとか簡単な改修であれば自然に引き継がれていくだろうということで、現在約200数十ヘクタールの土地を確保いたしまして、ここに居住区を設け、そして開拓団をここに置いて今後ここを半永久的な彼らの居住地として一つの村をつくり、かつ水路の保全に当たらせる。言わば屯田兵に相当しますけれども、自分で食ってくれと、その代わり水路の保全に力を尽くしてくれということで、現在この開拓が進んでおります。

みんな必死ですね。ガンベリー砂漠というのは暑いところで、今年の夏はひどかった。53℃というのが最高記録。しかも水がないということで脱水症で倒れる人が続出するという中を作業員たちははりきって働きました。これは希望があるからなんですね。これを突き抜けさえすれば、われわれの生活が保証されるという希望が彼らにあるからで、彼らの働いている姿というのは過酷なようですけれど幸せな顔をしていました。幸せ自身というのは目的になり得ない。われわれは何かの建設的な目標に進んでいるとき、そのことが一つの幸せではなかろうかと私は思いました。

岩盤回りのこれは難工事でしたけれども、溜池の連続の水路をつくり、さらに砂漠横断水路が完成したのが8月2日のことでありました。

これは8月2日の通った瞬間ですけれども、みんな喜びましたね。飛び上がって喜びましたね。これで自分たちも安心してここで食えると。この水路の下流にあるところは、わずかな水を頼りに農耕が行われておりましたけれども、人口が増える難民は帰って来るでとても食わせる状態ではなかった。そこに用水路が開通したもんですから、そこの村は大喜びだと。お祭騒ぎ以上のものがあったみたいです。

早速その水が通った翌日からわれわれの開墾地では開墾が始まりました。現在、これは少しずつ開通いたしておりまして、私が戻る10月の初めまでにはこの地域の約半分が小麦畑として使えるように開墾されておるはずで、これは次々と増やされております。

こうやって私たちはこの水の事業を初めて7年間の様子を振り返ってみますと、この地図はジャララバードという町の北に当たる地域ですけれども、ほぼジャララバードの北部の山間部の農村のほとんどは、わたしたちの用水路とそれと枯れた、先ほど映像でありましたように枯れた既存の用水路の再生によって、約140平方キロメートルの農地が確保され、そこで当然難民がたくさん帰ってくるということで、地域の人々は非常に喜ぶ以上のものがあったと思います。

話が長くなってきましたが、最後にこの25年間、どこでも誰にでも言い続けてきたのはこの一枚の写真。暗い話ばっかりしましたけれども、だからこのみんな暗い顔をしてうつうつとしているかというと決してそうではない。日本から助っ人にやってくる若者たちの顔のほうが暗いということで、水路が通ると子どもたちと牛が集まってきてまず喜ぶ。生き生きしていんですね。これを考えますと、われわれが幸せと思うものは一体何なのか。今度日本でも総選挙があって政権がずいぶん変わるそうですけれども、やはり心しなくてはいけないのは、人間にとって最後まで失っちゃいけないのは何なのか。これはなくったって済むものはあるんじゃないかということをアフガニスタンにいるとおのずと実感するわけであります。情けは人のためならず、と言いますけれども、何も私たちはお前らを助けてやる、援助してやるというのではなくて、これによって自分たちも精神的な糧を得てきたと、そういう気がするわけであります。話が説教染みてきましたのでこのへんで終わりたいと思います。どうもご静聴ありがとうございました。

司会:中村哲さん、この25年間のペシャワール会の歩みを写真を通してたしかな活動を現地報告をしていただきました。もう一度中村さんに大きな拍手をお願いいたします。本当にありがとうございました。この報告を聞きまして、写真でいっぱい砂漠地帯だったアフガニスタンの大地が緑の絨毯が少しずつ敷かれている様子を私も初めて見ました。中村さんの話では非常にユーモアを交えてたんたんとした口調でお話いただきましたが、そこにどれだけの汗と苦労と現地の人たちの希望が折り込まれていたのかと想像しますと胸が熱くなる思いです。おりしもつい先日新政権をとりました鳩山政権で次の新テロ特措法についてもう打ち切りと、延期はしないというような方向を示したときに、オバマ政権のほうではもし給油活動をこれで打ち切るならば代替案、代替国際貢献案を出せというようなことを申したと言います。ここにまさに武力によらない丸腰の国際貢献の仕方が日本にはあるのではないかと、そういった話を伺えたと思います。本当にありがとうございました。

司会:後半の質疑応答の時間に移りたいと思います。再び中村さんに登場していきただきます。
  ……重ねて質問が多かったものを選んでお聞きしたいと思います。

質問:女性と子どもについての質問がいくつかありました。まず、女性たちがほとんど見られませんが彼女たちはどうしていますか。モスク、マドラッサでは女の子も学べるのでしょうか。それからアフガンの子どもたちが好きな遊びは何ですか。また大人たちは自由な時間に何をするのが好きですか。というような質問なんですが、女の方々がどのように過ごしているのか質問があります。

中村:これは日本の昔の女性の立場と近いものがありまして、アフガニスタン全体が一種の男性社会でありますけれども、この保守的な男性社会を背後からしっかり支えているのが女性たち。だからたとえば、以前食料配給、空爆下で食料配給したときに、本人は爆弾に当たれば当然死ぬわけで、奥さんは大丈夫なのかと聞くと職員のドクターでしたけれども、言うには、「いやー、私は命が惜しいけれども、家内が、あなたそれでも男かと言って■■……」。「よく自分たちは誤解されていて、女性虐待ということを言われるけれども、とんでもない。男性虐待だ」という話をした思い出もありますけれども、それはかなり当たっていて、社会の仕組み全体があたかも男だけで回っているようでありますけれども、女の人がその背後にあって操縦しているというのかこれは疑いない。たとえば復讐の習慣にいたしましても、男は一般に妥協的なんですね。そけんことまでせんでも、というところにもって奥さんは、あなたはそれでも男かと言ってけしかけるのは奥様方。女の人というのはどこにいってもこわいものだという気がします。その証拠に、この水路をつくってまず喜ぶのはおかみさんたちなんですね。これは意図的にそうしていることもありまして、というのは農村女性の労働で何がきついかと言えば水を運ぶ仕事。これはときには何キロも水瓶を頭にかついで家を往復する。そのためににごり水であれば川の水汲んできますから、にごり水であれば一昼夜沈殿させてうわ水を料理に使うという生活。ところが水が来ると家の前で汲めるわけですね。ときどきお茶だとかごちそうが届けられる。子どもが持ってくるわけです。お母さんが「あの人たちに届けてあげなさい」。われわれは「しめた」と。選挙ではありませんけれども、女性が喜ぶ社会というのは、これはいい社会だというふうに思いまして、一般に男性もそれに応じて支持を広げるということなんですね。ただ、表に出ない。お客さんが来ても徹底してまして、子どもが出るわけですね。子どもが「いらっしゃいませ」と言ってお茶やお菓子を持ってくるのも子どもたちということで、客の接待はもっぱら男性。それも子どもが家の中では行います。

それから、楽しみは何かと言うと、これは何といってもおしゃれ。よそに行かないのによく見せる必要があるのかと思いましょうが、これはやっぱり本能的なものなんでしょうね。おしゃれなんですね。おしゃれをして楽しむということもありますし、それから村の中の楽しみは結婚式のときに歌や音楽を自分たちの間で楽しむ。男ばっかりの集まりというのはお白くないんですね。行ってご飯を食べるだけ。女性たちの結婚式の様子というのは、本当に楽しそうにやっている。だからそう日本と変わらない。ただ小道具が変わっていると。電気もないし何もないということですけれども、それでも子どもは遊び方を見つけます。水路が通ってくるとやってくるのがまず子どもと牛。牛は水飲みに、子どもは水遊びにということで、どこにおっても子どもというのは遊びを見つける。われわれも小さいときに野山を駆けめぐって竹とんぼをつくったりいろんなことをしましたけれども、それを考えるとそう変わった人たちではないというふうな気がします。

質問:この水路の開通、この技術はどこから来てますか。現地の伝統的な技術はありますか。せっかく苦労の結晶であるこの水路がまた米軍の爆撃等で破壊されるようなことはないのでしょうか。用水路の水源が枯れてしまう心配はないのでしょうか。

中村:もっともな疑問だと思います。技術的なことを言えば、これはあの用水路の形は私たちの独創的と言えば独創的なもんですけど、すでに江戸時代から日本で護岸として用いられたジャ籠という技術があります。これを選挙区的に採用したものですけれども、24キロメートルにわたってジャ籠で水路ができるのかと。それを実際やったわけですが、これは現地の日本では昔石工が活躍した。石を扱う大工さんがいたんですね。石を削る専門の職人がいたんです。ところが現地では、農民が石扱いに非常に手慣れているという事実があります。日本でもそうだったんですけれども、畑の垣根だとか家の礎石だとかすべて石でやる。それも自分たちの手でやるんですね。そのために石を扱うのが日常でありまして、ちょうど日本人が、われわれ板なんか見て「きれいな板だなあ」とか言って、「木目がいいな」とか言ってさわりたくなるような、そういう感覚をアフガン人は石に対して持っている。石を割るときも石の目を見て、こことここを割れば割れるとか本当に職人みたいに割ってしまうんですね。こうして石と非常になじんだ一つの農村の文化がある。そこにジャ籠というのを持ってきて石をつめるだけですから造作無く彼らやってしまうということで、正確に言うとアフガンの伝統的な石の文化、それから日本の治水技術が融合して現在のような形をつくったと思います。

それから水路が壊される心配ですか。ありうると思います。ただですね、米軍もそこまでばかじゃないんで、おそらく実際、米軍は他に民生局を持ってまして、PRT=地方復興チームというのを持ってます。そこがしばしば接触に来ますので、われわれの素性は知れているので爆撃される可能性は少ないと思います。ただ、最近でこそ誤爆が報ぜられるようになりましたけれども、あれは無人機を使ってコンピュータで解析してやるもんですから、人が群れているところはあたかも兵隊が集まっているように見えるらしくて、よく落とされるのが結婚式場。そのために女性や子どもが多数死ぬという事件があちこちで頻発してきました。さらに最近では、ガンベリー砂漠、われわれの作業中の近くで空爆があったもんですから、「おかしいな、あんなところでないはずだが」と思っていたら、死んだ羊が何百頭か、羊の群れまで戦闘集団というふうにコンピュータは誤認するんですね。700人も作業員がおりますから、もしこれが戦闘員だと誤認されれば飛行機が飛んで来ましょうけれども、その点はPRTの米軍側に伝えてありますので、おそらく大丈夫だと思いますけれども、考えなくそんなふうにやってしまうというケースを見ると、恐ろしいですね。そういう意味でも早く平和になってほしいなという気がします。米軍のPRT=地方復興チームというのは、これは実際は米軍の一部、付属機関ですから米軍の評判を良くするための、一見建設活動。これとは何べんも争ったことがあります。争っても反米的な傾向を持つ団体ではあるけれども戦闘要員は持っていないということはわかっておりますので、おそらくやられる可能性は少ないんじゃないかと。やられれば20万人が黙っていませんよ。あの地域全体が米軍にとっては、まる通過できない地域になってくると思います。

質問:水源が枯れることはないのでしょうか。

中村:これも大事な点で、たしかに温暖化と言いますか、昔に比べると年々気温が上昇してきて、冬に降り積もった雪がいっぺんに溶けてしまう。そのために洪水が起こる。川の水が減ってしまうということがありますけれども、降雨量、それから降雪量は絶対的な数字はそんなに減っていない。ということは、雪解けの時期が、収穫が起きる水が必要な前にどっと溶けてしまって流れ去ってしまうということですから、これをうまくコントロールしようとしたのが私たちの計画で、おそらく高山の雪、7000メートル級の山の雪は向こう数世紀は枯れることはないであろうということ。しかも洪水は起きているわけですから、洪水時に発生する多くの雨水をどこかで貯水する。あるいは急に下ってくる水の速度を落とすということでアフガニスタンは生き残れるんじゃないかということで、われわれがまずそれを実証しようということで始めたのがこの水路だったわけですね。だから高いところの水が枯れる可能性というのはありますけれども、それが起きるのは数世紀後。たとえ起きたにしてもある程度の処置を施して、階段状に落とすだとか速度を落とせばおそらく生き延びれる状態というのは再現できるんじゃないかと私は思っております。

質問:農地の所有は村単位の共同の所有なんでしょうか。それとも個人で所有しているのでしょうか。また生活燃料、現地の方々の生活燃料は何ですか。

中村:土地所有の形は様々で、日本に昔ありました地主制度、それから自作農。これは大きさによって様々です。さらにあらゆる時代の制度が見られるわけで、封建領主、殿様に近いような地主もおります。様々でありますけれども、共通しているのは大家族制度でありまして、高い塀を一族を取り囲んで一緒に暮らすという形はどの部族、どの体制でも、自作農、大地主問わず同じなんですね。そういうことで様々な人たちが、民族も違うという場合もありますので、村の中の調整役をするのが長老会というのがあって、これがいろんな人々の利害調整をする。その中で領主だとか地主の発言力が大きいこともありますけれども、さらにそれを行政が監督するために、ちょうど幕府の代官のようにして派遣されておる群長、なんとか群の単位で警察署長とその地域の代官を兼ねた人たちが派遣されて行政と長老会の仲立ちをするという仕組みになっております。ということですが、わかりにくいと思います。要するに、小作農から領主に至るまで様々な土地所有形態があって、これをまとめるのが容易ではない。逆に古い伝統的な形の長老会は貧しい農民の利害も代弁しうるという能力を持っていて、これが力を持っている間は、ある程度の平等性が確保されてた。それがいわゆる近代化というんですか、米軍の進駐によってバランスが崩れるという現象がありまして、これもわれわれの一つの将来どうするのか、長老会が力を失ったらどうするのか、というのは私たちの一つの課題です。たとえば、水の分配を巡っていろいろ争いがある。各村がどうしても余計とろうとする。余計送ってやると今度は湿害を起こす。取りすぎになってしたの村に影響を及ぶわけですね。かといって現在の政府はほぼ無政府状態に近いわけで、行政の言うことをきかない人がほとんどであります。それで結局、行政側と地元農民とわれわれと話し合って、水の管理はPMS、あのグループに任せようということで、私たち自身がこの地域の水管理を行うことにしております。取水量の調整からどこどこの田んぼにどれだけ配るという調整はわれわれがやる。そしてまた各村に水番というのがいるんですね。水番と連絡をとって朝の何時ごろはこっちに流すから午後はこっちに流せという指示を出すということで、全体にまんべんなく水がわたるように配慮しております。

燃料はほんどは薪です。それと家畜をたくさん飼っている山岳地帯では牛のふん、家畜のふんも燃料に使います。大半は木を切り倒してつくる薪ですね。これが燃料の主力です。水路が通りますと、みんな木をすぐ植えるんですね。植■ジュウ■好きというのは単に好きというものではなくて、生活に欠かせない。木がないことには生活できない。燃料もとれる、それでフルーツがとれる。家の建材にもなるということで、木を大切にするというのも現地の気風に一つであります。

質問:現地で地元の軍閥に賄賂が流れてしまうと聞きました。そのようなことがあるのでしょうか。

中村:これは全体がどうなのかは知りませんけれども、われわれが接触する範囲で見た形というのは、米軍の民生局が方針を変えて、初めは兵隊が出てきてワクチンをやったりだとかしてましたが、最近ではこれを委託業者に任せるという形ができあがってます。しかも行政を通じて委託業者がある。たとえば100万ドルの金を使うのに、これこれの目的に使うということを行政側が業者と一緒に謀りまして援助金をもらう。そして一応やりましたという証拠だけ残して援助金のほとんどを山分けしてしまうという形が一般化しておりまして、たとえばわれわれが直した取水、よその村の取水堰も、こちらが3年も4年もかけてやっとつくったところに突然バラッと石が置かれているので、そんなこと誰がしたんだ大変だ、「いやPRTだ」と言うんですね。業者が農務省とつるんで、これこれで水が必要ですと。書類審査といいますか学力テストみたいなもんで、書類だけ見てプロジェクトを評価するんです。そのために、ああそんないいプロジェクトならということで、作文が上手な人が利益を得るという構造になっている。そのために不正にお金が使われるということがほぼ日常化していて、おそらくこういうことが癒着というのかなあと思わせることがあります。逆に言うと、それだけ人々は信用しなくなるわけでありまして、みんなが望まない無政府状態がこの汚職によって政府の信用はないですから拡大してくるということはあるでしょうね。

質問:オバマ政権になってからの米軍の増兵が現地にどのような影響を与えているのでしょうか。また、現在アフガニスタンでの大統領選挙の結果が報道されていますが、その後オバマ政権になってアフガニスタンは一層恐怖政治が行われているようですが、NGOの活動などにどのような影響がありますか。そしてオバマ政権下でのアフガン攻撃に対して私たちがそれを止めるために何かできることがあるでしょうか。

中村:これは先ほどどなたかの質問に答えましたように、まず何をしたらいけないかということをわれわれ考えなくちゃいけない。日本人はせっかちで、じゃあ給油をやめるなら他に何をやるんだと。何をもって貢献策だ。待てよとそこで、してはいけないということは、まず人殺しをしてはいけない。人殺しの手伝いをしてはいけない。じゃあ何をするかということは、じっくり考えればいいと言いましたけれども、あわてると先ほどの質問のような、せっかくお金を出しても官僚と業者のポケットに大部分のお金が流れていって、下々まで行き渡らないということがしばしばあるので、これは用心してやったほうがいいんじゃないかと思います。

オバマ政権になって変化したのは……。私も政権が代わればおそらくいいふうになるんじゃないかと思っておりましたら、オバマ大統領が、テロの主戦場をイラクからアフガニスタンに移すと聞いたときはびっくりしまして、テロの主戦場というのは、本当はアメリカ国内であり、欧米、ドイツ、フランス、イギリスなんかのいわゆる先進諸国内部の病理がアルカイダという国際テロリズム運動を生んでいるというのが、私たちというか一般的なアフガン人の見方で、「ドクター、見てください。この姿、そしてわれわれパシュツゥン語しかしゃべれないけども、この言葉でもってどうして飛行機が乗っ取れますか。たしかにアフガニスタンに敵が来ればわれわれはやっつけますよ」。「ライフルは私たちのほうが腕は上ですから」と言いますけど、「われわれがニューヨークまで言って流暢な英語をしゃべってコンピュータを使いあげな面倒くさいことはよう仕切れません」というのが、普通のアフガン人。これは反政府側も含めましての感覚なんですね。となると、テロの主戦場という言葉自身、どうもおかしい。あそこにテロリストがうようよしてテロの訓練しているというけれども、どういう訓練しているのか。あそこでライフルの撃ち方なんて、われわれの上手。覚えたって、それをアメリカに渡ってカラシニコフ銃で誰かを倒すというのはどうも考えにくい。ということは、私はこの戦争はインチキだと思います。こんなインチキなことを、たしかヒットラーという人でしたか、本当のことでなくても大衆というのはばかであるから、なんべんも同じことを言っていればその気になるんだ、と言ったそうですけれども、今起きいているのはまったくそれと似たような状態。あんなところでテロが育つはずがない。タリバンというのは一般に国粋主義運動に近い。一方のアルカイダと、国際テロ組織というのは、かつての過激な共産主義運動に近いと私は思います。どうもテロとの戦いをアフガニスタンに移すということ事態、どうもまゆつばである。あそこが本当にテロの巣窟だとは思えない。まずそういった投げやりな心情にある、あるいはテロ行為を殺人を正当化するような病理というのは、実はわれわれの中にある。日本社会の中にもある。その証拠に、これだけの宗教団体がなぜあるのか。ものが豊かになったからといって人の心まで豊かになるとは限らない、ということでありまして、この病理というのは先進国の中にあると思います。とすれば、それに対してわれわれができることは何かというと、まず殺すな、盗むな、これを忠実にあるいは戦争の手伝いをしてなんとも思わない根っこを引き抜くことですね。そうしないと、この暴力的な形でのある種の鬱屈したものの発散というのは、戦争協力となって現れる。あるいはテロ組織の結成となって現れる。これがわれわれの中にある病理ではないかと。決してアフガニスタンのせいではないと私ははっきり言いたいと思います。

オバマ政権に期待していたのはまさにその点で、漸次撤退でもいいからともかく撤兵をと思っていたら、イラクは引き揚げるけれどもアフガニスタンは増加するということで、みんながっかりしたというのが本当じゃないかと思います。ただ最近、空爆で一般市民が死ぬと問題にされるようになった。1週間ぐらい前ですか、クンドゥーズというアフガニスタン北部でドイツ軍の空爆、NATO軍の空爆で100の犠牲者が出た。普段なら100人のタリバンを殺したという発表があるけれども、今回はなぜか市民の犠牲を強調している。ということは、米軍のほうに動きが、何らかの戦略の変換がありうるのかなあと期待しておるわけであります。オバマさん、まずは大統領の職を手にするためにある程度産軍複合体の企業を説得するために、そういう戦略を打ち出し、大統領になったら本格的に撤兵を実現しようとしているのか、そのへんはよくわかりません。胸の内はよくわかりませんけれども、もう行き詰まりというのは誰が見ても明らか。こんなインチキが続けばお天道様が西から上がる。この嘘ばっかり言って、テロという言葉を使いさえすれば何でもまかり通るようなこんなインチキはそう長続きしない。そのほころびを見ますと、オバマ政権に代わったというよりも事実がみんなの前に明らかになってきて、そしてNATO軍をはじめ及び腰になってきておるというのが実情ではないかと思います。

この中でさらにおめでたいのは、日本の政府。アメリカの手伝いをしておけば何とかなるだろうと。これは非常な弊害を日本の社会にもたらすのは必至だと私は思っております。じゃあ代わりに何をすれば良いのか。答えはわかりきっている。そこに生きている人たちがさらによりよい生活ができるような援助をする。これにつきる。それをどうしたらいいかという各論について議論するのは大いに結構ですけれども、給油法案をやめたから代わりに何をするかという、そういう問題の立て方自体がおかしいと私は思います。そのことは昨年の衆議院で何かありましたですね。防衛委員会、みんなに言ったとおりです。まずしてはいけないことをやめると。これだけでも説得力があると思います。そして日本の底力というのは、決してこの戦前の軍部の力ではなくてこの平和な方法でやってきたそのことが大きな力になっているわけですから、この国の掟を簡単にねじ曲げるようなことはすべきではないと、こういうふうに私は思っております。

質問:もし新政権から協力依頼などの話があったでしょうか。ペシャワール会は新政権、鳩山政権のODAの援助を受けますか。

中村:私たちはいつも言ってますが、ペシャワール会の原則というのは、われわれ三無主義と言っております。三つの無いがある。まず、特定の政治思想に偏らないという「無い」がある。第二に、誰からでも金をもらうと。無節操。無節操と無駄、無思想と、これを三無主義とわれわれは呼んでおりますけれども、言うと誤解を受けますので、冗談のわかる人にしか言いませんけれども、無思想というのは、以前、内閣は自民党でしたけれども、大使館を通じてODAを受けたことはあります。これはその政権になったらすべてが良くなるかということではなくて、限られた体制の中にあっても良心的にやっている人はたくさんいるわけで、私たちは自民党であろうと民主党であろうと、良心的な人とは誰とでも仲良くしてわれわれに寄付する人はいい人だと、やっていきたいと思う。ただし、じゃまをするなら、米軍であろうと社民党であろうと容赦はしないということであります。無節操に誰からでもいただく。いつも乞食の話をしますけどやめましょう。行ってすぐの頃ですね。私は言葉ができなかったんで、現地のパシュツゥン語というのを一生懸命勉強してた。しかしやっぱり町の人と話すのが一番いいんですね。それで服装を変えて話してたら、乞食がいたんですね。向こうの乞食は堂々としていて、日本のようにこそこそしていない。金を出せという言い方をする。神様は喜ばれる。私はよくわからなかったんで、乞食にしては態度が太いんじゃないか。よく見るとうちの患者なんですね。病棟をこっそり抜け出して乞食している。聞くと、「あなたはイスラム教徒ではありませんが」。「そんなことはどうだっていいじゃないか」と言うと、「それなら説明してやる」ということで聞いて、私も暇だったんでしょうね。聞いてますと、「神様はあなたの喜捨に対しておほめをくださるんだから、それはあたにとっても徳になる」と言うわけです。それで私も、「日本という遠い遠い東の国から来てハンセン病患者のためにがんばっているのも、それはあなたの言う喜捨ということにならないのか」と言うと。なるというわけですね。「それならあなた私に寄付しなさい」と言うと。その乞食が全部寄付してくれたんですね。さすがにこれは私も言いすぎたかなと思って、それぐらいある意味で宗教的というかまじめな人たちなんですね。神様を引き合いに出してこんな冗談を言うものではない。それ以後、無節操に乞食からでも財閥からでも、誰からでもお金をただくという態度にしておりますので、新政権になりましても、存分にいただきたく思います。

司会:引き続きカンパを受け付けておりますので、みなさんよろしくお願いいたします。

質問:中村さんご自身の健康はどのように確保されていらっしゃいますか。

中村:健康に二通りあって、心身ともにという言葉を使いますけれども、まずは身体の健康から言うと、まずよく働いてよく眠ること。これが身体にとっては一番いい。日本に帰るとメタボ症候群などいろいろいいますけども、腹八分に医者いらず、早寝早起き、汗を垂らして働くこと、これが何よりも健康の秘訣じゃないかと思います。身体はまだ使えそうですので、あと10年ぐらいはがんばれると思います。心のほうも、やはり日本に帰ると、なんか初めは勢いがよくても、何となく自身を持った発言ができなくなるというのは、なんか精神的にのしかかるものを感じるんです。それが何なのかはっきり言えませんけれども、まず私は愛煙家と言うんですか、非常にたばこを吸う人間なんで、どこに行っても喫煙場所がないというのが一つの例証。これに象徴されるように、日本は規則づくめで国民が縛られていると、そのわりにあまり豊かな、自分たちが豊かになったという満足感が持てないでいるという状態。これが何となく、人がせっかく一生懸命働いて苦しい苦しいと言っているのを「まだあなた現地よりはましだよ」とは口が裂けても言えないわけですね。そんなこと言うと募金も減るし、その中で暮らしている人にとっては一つの貧しさを象徴するものなんでしょうね。たとえば福祉のことにしましても、現地は福祉制度なんてない。先ほど大統領選の話が出ましたけれども、私はこれがインチキだと言うのは、だいたいアフガニスタン全体の人口も、1500万人から2000、3000万人まであって、どれが本当かわからない。だから選挙人名簿なんて、まずつくるのは不可能。しかも自分の年齢がわからない。日本のように65歳になったら定年退職して、あとは悠々自適のということはアフガニスタンの社会ではありえない。本人が気分が若くて本当は65歳であっても、「私は50です」と言えばそれまでです。それから15歳の少年が、もう自分は一人前の大人だと言って「私は20歳です」と言えばそれまでなんですね。私は患者診てて、患者のカルテに患者の年齢を書きますけれども、まず最近では年齢を聞かないことにしている。普通、歳聞くと、おいくつですかと聞くと、2~3秒考えて、20です、25、30、35、不思議と5刻みで言うんですね。どう見てもこの人は50歳は過ぎている女性だろうなと思っても本人が「いや、40です」と言うと、そのとおりに書かれる。聞かないですね。見ていくつぐらいの人だなということで、カルテにこっちが判断している。そのような状態で、果たしてまっとうな選挙ができるかということ自体が疑問でありまして、私がインチキというのはそれもあるんですね。

いい加減と言えばいい加減ですけれども、ある意味では、過度に厳密さにとらわれないほうがいいと、日本に帰ってひしひしと思うわけで、しかしあいづちをうってないと相手は怒りますので、「ああ、そうですか」と言いますけど、だいたいどうでもいいことのほうが世の中多い。どうでもいいことをどうでもいいことでないかのようなしないと、あまり深刻にならないというなもんですね。心の健康を保つ上で必要なことではないかということで、正直言って私は現地にいるほうが気持ち、心身ともに安らかであります。

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わたしたちの求めるもの-それは「平和に生きる権利」
報告-2009平和のための戦争展

星野正樹

平和のための戦争展は1980年の第1回から数えて、今年で30回を迎えた。
今回は例年より会期を延長し8月12日から16日の5日間にわたって新宿駅南口の全労済会館「スペースゼロ」を会場に開催した。

メインの展示は写真家落合由利子さんによる特別写真展「いのちつなぐ-戦争を生きてきた人の肖像」。沖縄や広島などへ戦争を生き抜いた人たち訪ね、話を聞き、写真を撮影することを継続してきた成果がフィルムに焼き付いている。クローズアップで撮られたそれぞれの顔に刻まれた「戦争の記憶」に向き合うことで私たちが生きている「いま」があらためて問われる作品だった。

今年は「わたしたちが求めるもの-それは『平和に生きる権利』」というテーマのもとでさまざまな企画を行った。写真パネルの展示では、憲法の制定から現在の米軍再編、ソマリア派兵までの歴史をたどるとともに地域や生活に密着して「平和に生きる権利」をもとめて活動する個人やグループを取り上げた。小金井市で憲法9条を守るための署名を続けている蓑輪喜作さんにはお宅までお邪魔をして9条署名にかける思いを聞き、その姿をパネルにさせていただいた。また米陸軍第一軍団司令部移転がなされようとしている座間の「バスストップから基地ストップの会」から写真をお借りし、日常的で粘り強い活動を紹介することによって具体的でしなやかに行動している人々がいることを訴えた。

「…順を追って見てきて、最後に『たったひとりの九条署名』を見たところでなぜか目頭が熱くなりました。最近、在特会の動きなどでうんざりしていましたが平和を希求する日本市民ってやっぱり素晴らしい」(在日朝鮮人の方のアンケートより)
戦争展では会期中毎日戦争体験者の証言を行っている。今年も被爆者、東京大空襲被害者の証言、日本軍兵士として中国での加害体験を持つ方などから話を聞いた。どの回も満席だったが、特に三光作戦の体験を持つ坂倉清さん、元軍医で生体解剖を行った湯浅謙さんの時には狭い会場に100人以上が参加し、入りきれない人も熱心に耳を傾けていた。

証言以外では新聞労連委員長の豊秀一さんに「戦争とジャーナリズム」というテーマで話をしていただいた。豊さんは新聞労連で制作した「平和新聞」を使いながら、戦争中の反省に立ってジャーナリズムはどうあるべきなのかということを率直に語ってくれた。

さらに今年は30回を迎えるにあたって、特別企画として会場近くにあるカタログハウスのセミナーホールで3日連続の講演会を企画した。

1日目は元中帰連の金子安次さん、高橋哲郎さんの戦場での加害体験と戦犯管理所での生活、加害責任の自覚から反省に至った経緯のお話、元撫順戦犯管理所職員崔仁傑さんのビデオ証言を受けて、高橋哲哉さん(哲学者)に「なぜ加害体験を聞くのか」というテーマで話していただいた。高橋哲哉さんは戦争当時の靖国神社に関するDVDを上映し、テーマとは逆に「日本人の中で加害体験が聞かれなかったのはなぜか」という問題をたて、「『国のための死を美化し靖国神社に『英霊』として回収してしまう靖国のイデオロギー」を指摘した。2日目は小森陽一さん(九条の会事務局長)による「憲法を私たちの力にするために-8月15日に考える」というテーマでの講演。小森さんは日本国憲法をアジアや世界の歴史の中であらためてとらえ直す重要性と「憲法9条」が世界を動かす可能性を強調した。3日目は湯浅誠さん(反貧困ネットワーク事務局長)が「現在の貧困と平和」というテーマで派遣村などでの経験を踏まえたお話をしてくれた。湯浅さんは最低限の生活が破壊されている現状の中で9条と25条を結び付けて考える重要性を指摘し、政府に「貧困率」の測定を求めていくことを提起した。どのお話も「平和に生きる権利」をわたしたちがどう考え、行動すべきなのかということについて重要な視点を与えてくれた。定員150人の会場で3日とも参加者は180人を超えた。今年はカタログハウス発行の「通販生活」に告知されたこともあってか、「初めて参加した」という人が非常に多く、「侵略戦争の実態を初めて知った」という人も多かった。30回やっても日本の加害の事実を十分に伝えられていないということは課題として残ったが、しかし「このままではいけない、何かをしなければ」という感想をアンケートに書いてくれた人もたくさんいた。そういう人たちとあたらしい出会いをつくっていかなければいけないと思った。

今年の来場者はカタログハウスでの企画の参加者約600人を含め5日間で2000人以上だった。最後に、私にとっては市民連絡会の活動を通じて、蓑輪喜作さんや座間の人たちとつながれたことが何よりうれしいことでした。ご協力いただいたことにこの場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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「私と憲法」で~す。お話し聞かせてくださ~い。

市民協働条例を活用し、広める、平和へのとりくみ
平和憲法を広める狛江連絡会代表・小俣眞智子さんを訪ねて

狛江市駄倉保育園の園児と卒園児による民舞「荒馬踊り」がステージいっぱいにはね回る。思わず微笑んでしまうオープニングで、今年5回目となる「こまえ平和フェスタ2009」が8月2日の午後にはじまった。「平和のために、戦争を忘れずに語りつごう」というメッセージが集会のサブタイトルになっている。これまでフェスタを準備してきた小俣眞智子さん(平和憲法を広める狛江連絡会代表)に、開催へのとりくみや苦心談をうかがった。

フェスタの主役子どもから戦争体験者まで

毎年「こまえ平和フェスタ」は、狛江市役所の近くで、狛江駅前にあるエコルマホールで開催してきた。今年は園児の民舞のあと玉田恵美子実行委員長が開会挨拶をした。つづいて矢野ゆたか市長と道下勇市議会議長が出席し、挨拶をした。この「フェスタ」は、こまえ平和フェスタ2009実行委員会と狛江市が主催しており、どの挨拶にも力が入っている。「フェスタ」には650名が参加した。

狛江高校弦楽合奏部による「崖の上のポニョ」などの演奏の後、井上孝さん(狛江市文化財専門委員)が「私の戦争体験」として、銀座での空襲体験や戦時下の有様をリアルに話した。作家の早乙女勝元さんは「語りつぐ平和の思い」と題して1時間ほど講演し、早乙女さん自身が体験した東京大空襲の実態と、過去から学ぶことの大切さを語った。

「狛江市平和都市宣言」が狛江高校演劇部の男子生徒により朗読された後、平和フェスタそーらん隊によるロックソーラン、平和フェスタ合唱団による「ぞうれっしゃよはしれ」などの合唱や和太鼓などがつぎつぎと演じられた。

最後に全員で狛江市の歌「水と緑のまち」と「世界に一つだけの花」を全員で合唱して終了した。

ホールの広いロビーでは、戦争当時の狛江の様子を描いた紙芝居、東京大空襲やヒロシマ・ナガサキの原爆の写真展示や折り鶴コーナー、丸木位里・俊さんの「原爆の図」、市民の絵手紙、平和図書コーナーなどもつくられている。

これに先立つ7月27日から31日まで、昨年同様、市役所のロビーでも展示された。
保育園児から高校生、高齢となっている戦争体験者など、多くの市民が幅広く出演しフェスタを作り上げた。

ひろくみんなのものにしたい

2005年に第1回の「平和フェスタ」を始める前、小俣さんが代表をしている「平和憲法を広める狛江連絡会」は、映画や演劇、講演などを組み合わせたイベントを「市民発平和フェスタ」として催してきた。小俣さんは「憲法9条とか平和とか、憲法問題を直接言っても人は来てくれないから、映画や演劇とセットすることで広く伝えられる」と考え、「それを『市民発平和フェスタ』と名付けた」。公民館で開いていたが、「こういうものを“市”の主催でやればもっと多くの人が集まるだろう」と思った。そこで狛江連絡会の人たちと、狛江市周辺で市の主催する平和のとり組みに参加してみた。そこで地人会台本による朗読劇「この子たちの夏」に出会った。

何と都立狛江高校の演劇部有志と卒業生が、お隣の町田市で市民といっしょに朗読劇に出演していたのだった。さっそく狛江での出演を申し入れてみたが町田市の市民からは断られてしまった。「1地域でイベントにとりくむだけでも地域の事情などさまざまあって、コラボレーションは大変なものです」。小俣さんたち会の人たちは狛江市との協働を考えていた矢先だったので、何とか狛江で実現しようと模索していった。

市と市民が協働して

ちょうど2003年3月に「狛江市の市民参加と市民協働の推進に関する基本条例」がつくられていた。小俣さんはこの市民協働条例をつかって、市に企画を提出することにした。地人会台本による朗読劇「この子たちの夏」を狛江市民と狛江高校生が共演する企画で、これを市と共催する可能性を検討してもらおうというものだった。「基本条例を活用する企画を立てようとしたことがキーポイントになりました」と小俣さん。

さっそく企画書や予算などをつくって狛江市に提出。「実現したのは1年後でした」。

通常は演奏会も行える狛江市の大ホールであるエコルマホールは、使用料が高くてとても市民には手が届かないが、2004年11月そのホールを「フェスタ」開催のために狛江市が仮押さえした。狛江市が主催の側になったことで「こまえ平和フェスタ」にGOが出た。

人と人をつなげよう

一方で狛江高校の先生に知り合いがいたことや、修学旅行が長崎だったことなども幸いして、高校への出演依頼も進んでいった。「こまえ平和フェスタ2005」に向けて、朗読劇参加者の公募が始まった。市の公報にも載せられ、実行委員会が動き出した。「平和フェスタ合唱団」も新たにつくられて、これも公募がはじまった。

しかし実際にはなかなか公募にのってくる市民は少なかった。小俣さんは「市内の劇団や朗読をしている人などつぶさに電話しました」。その中で公民館で朗読をしている団体が応募してくれた。朗読や合唱の出演者も公募だけではなく、「人から人、友人や知り合いをつなげて集めて『平和フェスタ』をやることができました」。

市内に住んでいるプロのピアニストやバイオリンニスト、それから劇団民芸の箕浦康子さんや南風洋子さん、元劇団民芸の松尾敦子さんなども指導にあたってくれた。狛江市で30年以上の歴史をもつ狛江市音楽連盟の協力も得られ、2005年7月21日、参加者700名を集めて「平和フェスタ2005」が大成功した。終了後に来年の開催を希望するたくさんの感想がよせられた。

市も本気になって取り組んでいる

この「平和フェスタ」は参加費を無料で運営している。収入の主なものはチラシやプログラムに載せる広告収入と任意の協賛金だという。ボランティアに頼っているといっても、ウーンなかなか財政はきびしい。

しかし、チラシやプログラムの印刷は市が行ってくれる。それに市の公報でもしっかり伝えている。公立の小中学校の生徒には学校を通して全員にチラシを渡してくれるのも、若い人たちに伝えるという点でも大切なことだ。

市の担当職員も親身になってすすめている。展示物のパネルの準備などにも土日を返上して当たってくれているという。第1回目の参加者アンケートの分析は、市の職員がすすめてくれ、実に今後に役立つ結果が示された。

「準備するのは大変なことだらけだけれど、これを読むとまたやらなくては、と励まされ後押しされるんです」と小俣さんはいう。

日頃は「9の日行動」も

「平和フェスタ」を支え、すすめている小俣さんと連絡会の方たちだが、日常の行動も続けている。毎月「9の日行動」として9日と19日に狛江駅前でチラシ撒きと署名をしている。署名は「九条の会」の呼びかけへの賛同や、時々の憲法の課題で集めている。その他、年に2回程の講演会も行い、年4回程のニュースレターも発行している。

東京の新宿駅から私鉄で15分ほど、世田谷区と隣り合わせている人口7万の狛江市。文化都市でもあるが人のつながりも入り組んでいる。「1年がかりの準備は大変」という小俣さんの言葉に、考え抜いて行動している小俣さんの、熱意と苦労が同居しているように感じた。
(土井とみえ)

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