第45回衆議院総選挙は最終盤である。間もなく、麻生首相の自公連立政権への審判が下されるが、結果は民主党を中心とする新政権が成立すると大方のメディアは予想している。
大きな変化が目前に迫っている。私たちの関心事は新政権が憲法にどのように対応する政権であるかである。今回の選挙のもたらす結果を、日本の民主主義と市民運動を発展させる重要な契機として積極的にとらえ、いっそうの前進をはかりたい。私たちは本誌前号で次のように述べた。この基本的立場は現在も変わらない。再録しておきたい。 (事務局・高田健)
小泉内閣以来4代の政権は、米国のブッシュ政権に追従し、改憲と自衛隊の海外派兵の道をおしすすめ、規制緩和や郵政民営化の新自由主義的な 構造改革路線を推進して、社会に貧困と格差を拡大してきた。(中略)
私たちはこの総選挙で、9条をはじめ、日本国憲法の3原則(主権在民・民主主義、基本的人権の尊重、平和主義)を擁護し、それを生かし、社会に実現する方向で活動する政党と国会議員が一人でも多く当選するよう奮闘したい。この3原則の対極にあるのが、自公連立政権と改憲派議員たちである。
私たちはこの選挙において、自公与党が過半数割れを起こし、参議院と共に衆議院で、これまでの与野党が逆転する状況を目指したい。そして、その中では社民党、共産党などの護憲派の政党の前進と、民主党内の改憲反対派勢力の前進を期待する。選挙後、これらの勢力が国会外の民衆の運動と連携して、憲法3原則を実現していくよう奮闘できる状況をつくらなければならない。
この総選挙で与野党逆転が実現した場合、新政権は民主党が第1党の連立政権になるだろう。だが、民主党はそのマニフェストをみても不安で、不徹底な要素が多くある。私たちはこのままの民主党に過度の期待を持つことはできない。(中略)
私たちは与野党逆転の新政権の成立を歓迎したうえで、それに対して院外からさまざまな大衆的行動をもって、良い政策は積極的に支持し、悪い政策には批判し、断固闘うというスタンスをとることになる。これらの努力の中で、改憲反対勢力の共同行動の輪をできるかぎり拡大し、強化しなくてはならない。この間、 多くの人びとと共に勝ち取ってきた「九条の会」や「5・3憲法集会」などでの広範な共同行動と組織は、そのための重要な橋頭堡である。いま、これらのさらなる発展が求められている。
自公政権の打倒は私たちがねがう憲法3原則が実現する社会に向かっての長い道のりの、重要ではあるが、第一歩にすぎない。私たちは一歩一歩とその道を歩みつづけるだろう。
憲法12条はこういっている。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」 と。
田中みのるさん(ジャーナリスト)
(編集部註)7月18日の講座で田中さんが講演した内容を編集部の責任で集約したもの。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。
わたしは防衛利権の構造について取材をしています。今日準備した資料は自分の足で稼ぎ収集した資料を基につくったものです。
2007年11月に発覚した、いわゆる守屋防衛事務次官を中心とする防衛省疑獄事件のご記憶があると思います。守屋事件のときに、実は大変な日米にまたがる防衛利権の闇がいったんは垣間見えた。ところが当時東京地検特捜部は、もうひとつの、防衛商社の山田洋行元専務の宮崎元伸さん、この2人を中心とする非常に個人的な脱税事件案件にきり縮めてしまった。私どもも不満でしたが、守屋事件の背後にはさまざまな日米の軍事官僚の構造的なゆがみと腐敗構造が存在していたわけです。今日は山田洋行という非常に小さい小さい防衛商社の事件、ここで垣間見えたさまざまな問題を思い起こしながら日米の、私がずっと取材しているミサイル防衛を巡る防衛利権についてお話ししたいと思います。
山田洋行マネーリストといわれたものがあります。これは山田洋行がいわゆる防衛族議員に対して資金提供をした―パーティー券購入ですね―お金の一端を示す 資料です。この資料は、元の資料をわたしが山田洋行関係者から実際にいただいたものです。その後一部メディアにも出ましたが、結局、掘り下げたレポートは出なかったんですね。
このリストを見ると、いま「バカタロー解散」をやろうとしている麻生さんもいます。秘書の問題で事実上失脚をした元民主党代表の小沢一郎氏、それから久間章生さん―この防衛省疑惑事件の本丸ともいわれた方で元防衛大臣。それから額賀福志郞さん、玉沢徳一郎さんという防衛庁長官経験者と続いています。このリストは一応違法性という面はそれほどないと思いますけれども、基本的に政治家の資金集めパーティーの時に「パー券」を買ってあげるお金です。昨日も西松建設の元社長の判決が出ましたが、この事件と同じ構造ですね。非常に広くお金をばらまいて、贈収賄なりがなかなか立件しにくいわけですが、うすく幅広く資金を渡すという点では、山田洋行のマネーリストの問題と西松建設の問題と非常に似ているとわたしは思います。
東祥三さんという方がいます。この方は今度民主党から出馬しようとしていますけれども、元公明党、そして山田洋行の顧問になった方です。この人などもさまざまな党派を変えながら来たわけですが、山田洋行の顧問として水面下でうごめいた人です。
また日米文化振興会、現在は外務省所管の社団法人日米平和・文化交流協会の専務理事をしている秋山直紀という人にもお金が渡っている。この秋山直紀氏は、マスコミではフィクサー、ロビイスト、防衛ロビイストといわれています。さまざまな装備品調達を巡って政・官・業の裏側でパイプ役として動いた人物です。この人物にも山田洋行からお金が渡っていた。ある面では西松建設問題と同じように、ひとつひとつこのお金の主旨を掘り下げていくと、必ず防衛装備品調達の職務権限などの政策に突き当たると思います。
いま防衛予算は年間4兆8千億円、約5兆円近くです。そのうちの中央調達の装備品が2 兆数千億円ですね。その2兆数千億円の調達品の受注を巡って防衛族議員、こういう者たちがさまざまなかたちでうごめいている。そして防衛商社なり三菱重工 などの軍事企業の裏側で、さまざまなかたちで暗躍しているという構図の一端を示すリストだと思います。
守屋事件をもう一度振り返ってみると、当時は守屋武昌氏のゴルフ接待事件とか「おねだり妻」とかワイドショー的な報道ばかりが先行しました。実はこの山田洋行そして守屋武昌防衛事務次官の事件は政・官・業の癒着を示す非常に象徴的な事件なんですね。そもそも守屋武昌氏は防衛事務次官として4年間勤務した、市ヶ谷の中では「天皇」とまで言われた実力者です。その「守屋天皇」がなぜ、こういうかたちで事件に巻き込まれていったのか。ひとつは山田洋行という防衛商社の内紛、内ゲバなんですね。内紛の裏側には旧住友銀行、いまの三井住友銀行の不良債権処理を巡る金融犯罪があったわけです。
山田洋行と日本ミライズが分裂します。宮崎元伸という人はもともと山田洋行の専務でした。この山田洋行に1960年代からずっといて、山田洋行の黒字化を続けて、非常に小さい防衛商社ではあるけれども機動力があるといわれた。宮崎氏のセールスマンとしての能力は非常に大きかったわけです。ところが山田洋行のオーナーである山田正志さん、山田グループというのは防衛商社だけではなくて不動産を主体としたグループです、山田地建とか弥生不動産、レイク相模カントリークラブなどゴルフクラブ、ゴルフ場建設を主体としたグループ企業です。その中でただひとつ防衛商社を営んでいたわけです。
この山田正志さんは、いまの日本郵政社長の西川善文氏と非常に懇意な関係でした。西川さんが旧住友銀行の丸の内支店長時代からのつきあいでした。二人が知り合った時期はいわゆるバブル絶頂期で、バブル経済がはじけた後さまざまな不良債権が出てきました。例えばイトマン事件とかですね。旧住友銀行は多額の不良債権を抱えていた。山田正志氏は住友銀行のいわゆる緊密先、不良債権のかぶり役、とばし先になったわけです。安宅産業なりの不良債権の部分的なものを山田グループも各企業に負わせて、その結果として山田正志氏の抱えるグループ企業は多額の負債を抱えてしまったわけです。
RCC(整理回収機構)に負債を償還させる、その取り決めの数字では山田グループは100数十億円の負債が残っていた。その負債をRCCに持ち込んで、そのうちの47億円を放棄していただくという約束を取り付けて、そのかわり、すべての、山田洋行も含めた黒字企業の売却をすすめた。この時に山田正志氏という人物は大変な資産を隠しておりました。取材からも明らかですけれど、当時アメリカに多額の株式を抱えていて、RCCがそのことをろくに調べもしないで不良債権の処理を決定してしまった。山田正志氏がRCCに持ち込んで不良債権をある面ではチャラにしてもらった、その背景には多額の資産隠しという金融犯罪があったと思っています。
そういうオーナーの山田正志氏が、旧住友銀行の不良債権のかぶり役というかたちで動いたために、防衛商社である山田洋行の株式を売っぱらってしまおうとした。それに反発したのが元専務の宮崎元伸さんなんですね。宮崎元伸さんはオーナーに対して株式を売らないで欲しい、そのかわりMBOを提案して従業員が株式を買い取るから会社を売るのはやめて欲しいと交渉した。山田正志氏はそれを拒否をしました。そこで対立して宮崎元伸さんは日本ミライズという会社を立ち上げたわけです。
防衛事務次官の守屋武昌氏は、宮崎元伸さんとは数十年のつきあいがある非常に深い関係で、守屋氏が宮崎元伸元専務の側についた。このときに山田洋行は次期輸送機――約1千億円とも言われる、さまざまな商権を持っていたわけです。その山田洋行の持っていた商権の奪い合いになります。日本ミライズ対山田洋行のどちらがその商権を取るのかという熾烈な争いが展開された。
守屋氏は日本ミライズ側につき、山田洋行側には久間章生氏がつきました。久間氏は秋山直樹という防衛フィクサーと一心同体の関係で、内部文書によると彼らは山田洋行から工作資金25万ドルを受け取るという激しい対立構図を描いています。そのときにジェネラル・エレクトリック社(GE)やノースロップ・グラマン社の商権を巡って奪い合うんです。内部文書によると、そこで仲介に立ったのがアメリカのシュナイダー国防長官顧問、それから民主党のコーエン元国防長官と記載されている。この2人が久間氏からの依頼を受けて商権を日本ミライズにやらないで欲しいと頼まれたとされる。山田洋行対日本ミライズ、そして久間章生対守屋武昌という激しい撃ち合いの構図の中で、いままでお目にかかれないような機密文書が出てきてしまったわけです。
守屋事件に至るまでに、さかのぼると防衛問題というのはさまざまな防衛利権の司令塔が歴史的に存在してきました。そこには政界、内局の人間、制服組、それから現役の政治家、軍事企業、そういう政・官・業のサロンが延々とあった。古い話では、1980年4月に発足した日本戦略研究センターというのがあります。所長は金丸信さん・元防衛庁長官、幹事として現在の総理大臣・麻生太郎さんもいる、顧問として瀬島龍三さん・伊藤忠商事顧問-もともとは旧日本帝国軍の作戦参謀ですが、この瀬島龍三氏が必ず防衛利権の構図の中に出てくるんです。この日本戦略研究センターという団体が、装備品調達をやる場合にはここを通さないとやりにくいという存在だった。当時は防衛利権の司令塔とマスコミで言われていました。
この日本戦略研究センターは、東京佐川事件が1992年に起きて金丸信さんが失脚すると小沢一郎さんが引き継いでいく。そしてここにも瀬島龍三さんほかの面々、制服組がいます。そしてそのキーマンとして参議院議員の田村秀昭さん、この方はもともと金丸さんから参議院の比例代表の順位を上げていただいた。その資金を提供したのが山田洋行のときの宮崎元伸さんです。順位を引き上げてもらって当選に至ったという報道がされていました。このように80年代から92年、93年までは日本戦略研究センターという司令塔が存在していました。
ところがそのあと1993年に細川連立政権ができました。このときに小沢一郎氏は一度下野した後、細川連立政権で与党になったわけです。日本戦略研究センターは自民党国防族を主体とした利権の司令塔だったので、細川連立政権によってこの日本戦略研究センターは雲散霧消してしまいました。防衛利権の司令塔が不在になってしまったわけです。そして1999年に似たような団体ができました。日本戦略研究フォーラムです。同じく瀬島龍三さんも入っていますけれども、ただこの団体は利権がどうした、装備品がどうしたという生臭い話はあまりしない団体です。どちらかというと学究肌といいますか、そういう団体です。
1993年に日本戦略研究センターがなくなったあと、その間は司令塔がなくなったんです。そこで浮上してきたのが、あらたな防衛利権の司令塔であるふたつの団体で、ひとつは超党派の国防族議員の団体である安全保障議員協議会(現在もあります)。これはどういう団体かというとメンバー表を見ると一目瞭然です。政党は問いません。自民党、民主党、国民新党、公明党、幅広く防衛利権に関わる議員が揃っています。
守屋事件が飛び火したときに秋山直紀という人物がいました。昨年、脱税事件で逮捕されましたが、この秋山直樹氏が安全保障議員協議会の事務局長を務めており、活動資金を一手に握って動いていたわけです。安全保障議員協議会は、ミサイル防衛、MDを推進するひとつのロビー活動、国会でMDの導入を推進する役割を果たしてきました。あるいは憲法が禁止している集団的自衛権の行使を実行させる、いま問題になっている武器輸出三原則、非核三原則の見直し、こういうことに血道を上げた国防族集団です。
もうひとつの団体が外務省所管の社団法人日米平和・文化交流協会です。もともとの名前は日米文化振興会で、名前のとおり日米の文化を主体とする社団法人でした。けれども、いつの間にか平和がくっつきまして日米平和・文化交流協会という名称になりました。その理事の面々を見れば目が飛び出るほど、冗談みたいな国防関係者、どこが文化だと思いますけれども、名だたる悪名高きみなさんが並んでいます。
この利権の構造ですけれども、安全保障議員協議会という国防族議員集団は、疑惑の本丸である久間章生氏が副会長です。民主党で言えば前原誠司さん、民主党の中でのタカ派と言われています。そして社団法人日米平和・文化交流協会、実はこのふたつの団体は国会の近くにあるパレロワイヤル永田町という、これも悪名高きマンションで金丸事務所も入っていた、ここの1104号室という同じ部屋にありました。わたしはこの1104号室に取材したり調べたりしていました、いまから5年くらい前からです。
そのパレロワイヤル永田町1104号室は何かおかしいぞ、変な会社がいっぱい入っているということで、そのひとつがアドバック・インターナショナル・コーポレーションというアメリカの会社ですが、登記簿を取ってみると確かに登記上は存在している。アドバック・インターナショナルという会社は登記簿では日本の社長がワイズマンという人です。インターネットで検索するとワイズマン氏という人はだいぶ前に亡くなっています。亡くなった方を代表にしている会社というのもちょっとおかしいなと思っていろいろ調べているうちに、ここにどうもさまざまな日米軍事企業の怪しげなお金が入っているのではないか、わたしの最初の見立てはそうだったんですが、それがずばり当たったわけです。
お金の流れでいいますと、これはロンダリングなんですけれども、最初の見立て通り東京地検特捜部がここの事務局長の秋山直樹氏を逮捕して関係資料を押収した結果、やはり日米の軍事企業がアドバック・インターナショナル社を介してコンサルタント料を入れていたことが明らかになりました。秋山直樹氏の第一回の公判は来月以降だと思いますが、今の段階で警察が押さえた資料によりますと神戸製鋼、日立、山田洋行、この3社からお金が入っている。実はこの3社以外の、大手の日本の名だたる企業、三菱重工ですけれども、その辺の名前もすでに出ています。
アドバックにお金を入れていた本丸は、日米の巨大軍事産業です。日米の軍事企業がなんでこういうお金を入れるのかというと、ミサイル防衛ですね。日本にミサイル防衛システムを購入させたいということです。アメリカは非常に高い開発費を払ってつくったPAC3やSM-3の開発費を回収したい。ですから日本に買わせて、20兆円ともいわれているお金を将来的に回収したい、そのための仕掛けなんですよね。これだけがMD利権の本丸ではありませんけれども、これはそのひとつ、ミサイル防衛の裏金を証明するひとつの切り口にはなると思います。
日米の軍事企業がいったんアドバック社、CNS、JACSというふたつの団体にお金を入れます。そして外務省所管の社団法人に寄付というかたちで入れます。今度は外務省所管の社団法人から国防族議員集団に活動資金として渡すわけです。支援をするというかたちです。1回、2回、3回ロンダリングしています。日米の軍事企業が直接国防族議員集団に資金を渡すと、いろいろな疑惑を招きかねないということで、巧妙な、二重三重の安全弁をつけて資金をロンダリングして、そして国防族議員集団のみなさんにミサイル防衛を推進していただきたいというロビー活動をやらせたわけです。とんでもない、八百長なんです。
それでは安全保障議員協議会のみなさんはどういうことをやってきたのか。小泉内閣がミサイル防衛の導入を決定したのが2003年12月19日です。小泉内閣は、このときに国民になんのおうかがいも立てずに、国政選挙を経ずにMDを導入しました。小泉内閣がミサイル防衛を導入する同じ年の5月に第1回の日米安全保障戦略会議が開かれています。日米安全保障戦略会議は安全保障議員協議会も参加している日米のフォーラムです。安全保障戦略会議の議論は、日本にミサイル防衛を導入しなければいけない、集団的自衛権の行使を実行しなければいけないという論調です。小泉内閣がミサイル防衛を導入する直前の11月20日、21日に憲政記念館で第2回の安全保障戦略会議が開かれています。そこではミサイル防衛の実物を展示したりして非常に露骨な商戦を展開しました。
国会での審議では、民主党の議員がMD促進の誘導質問をしています。2004年5月に民主党の末松義規という議員が衆議院武力攻撃事態特別委員会でミサイル 防衛のABL(航空機搭載レーザー)開発を石破防衛庁長官に求めました。これに対して石破長官は末松議員の質問に対し、よくぞきいてくれたと言わんばかりに答えている。こ のように安全保障議員協議会には与野党の議員がおりますので、パレロワイヤル永田町1104号室の密室で話し合ったことが、国会審議をやる前から打合せが できているわけです。八百長というかマッチポンプの質問をお互いに繰り広げています。
その結果、官房長官談話でミサイル防衛のラ イセンス生産について、武器輸出三原則は緩和しなければいけないということを出した。この安全保障議員協議会は、ミサイル防衛を日本に導入させるために国 会でマッチポンプの質問をしたり、促進役としてうごめいた団体であることは証明できると思います。この安全保障議員協議会を影で操ったのは日米の巨大な軍 事企業、そしてロッキード・マーチンやレイセオンといったアメリカの軍事企業との指摘もあります。コンサルタント料がロンダリングされて、結局は日本の国防族 議員集団を動かしていった構図を垣間見ることができます。
具体的にどういう活動していたのかということですが、2006年5月にワシントンで行われた日米安保戦略会議の訪米団リストがあります。国防族議員集団が7人います。それに随行した面々が名だたる軍事企業、そして山田洋行の2人もいます。こういうかたちで軍事企業と一体化して訪米します。訪米して何をするのか。2006年4月27日から5月7日まで行われた、安保戦略会議の訪米団の日程表で、問題は午後から夜の部です。例えば4月30日は、18時30分からロッキード・マーチン社主催のブリーフィング夕食会です。これはロッキード・マーチン社の接待です。5月1日はボーイング社・アルボー副会長主催の夕食会、5月4日の夜はノースロップ・グラマン社主催の夕食会。このように接待攻勢が行われています。
わたしは日米交流、日米の議員が安全保障政策を勉強、交流することはとがめることはないと思います。しかし、このように夜の部で接待を受け、しかも最大の利害関係者、ロッキード・マーチン社にとってみれば日本の防衛省なり日本の国防族議員は大変なお客様、利害関係者ですね。ミサイル防衛を導入してもらえれば、多額の開発費を回収することができる。ですから夜の部のこういう接待攻勢というのは行き過ぎがある。この10日間くらいの行動のさまざまな経費も日米の軍事企業が最終的には負担をしています。
これもひとつの物証ですが、1枚のFAXがあります。これはある国防族議員の秘書から「田中さん、こんなのがありますよ」ともらったんです。ゴルフコンペの案内です。案内状にもあるとおり安全保障議員協議会と社団法人日米平和・文化交流協会の合同による第3回定例ゴルフコンペと銘打っています。参加したのは久間章生さんを含めた議員と、社団法人に加盟している企業の取締役クラス、あるいは本部長など部長クラスですね。こういうゴルフコンペが日常的に行われているとも突き止めました。利害関係者が、防衛装備品の調達に関して職務権限を持つ議員とそこから利益を得るであろう軍事企業の幹部がゴルフコンペで同席する。
わたしが言うまでもないことですが、グリーンに一緒に立つということはそれだけで仕事になるわけですね。あのときは久間さん、暑かったですねと言ってニコッと笑うわけです。利害関係者がグリーンに一緒にのるということは、それだけであうんの呼吸が出来上がります。ですから、この装備をお願いしますね、という具体的な話ではなくて、一緒に汗を流す、料亭でメシを食べる、そういう行為は渾然一体となるわけです。そして利害を分かち合っていく。例えば三菱重工の幹部から、久間さん、今度はこれをお願いしますと言われたときに断れない、ずぶずぶの関係、どうしようもない癒着の関係ですね。それをあらわす1枚のFAX用紙です。
かと思います。腐敗の構図の中で武器輸出三原則の緩和、というより見直しの問題ですが、武器輸出三原則は、1967年4月21日に佐藤栄作首相が衆議院決算委員会で答弁したのが最初です。そのひとつは共産圏諸国向けの場合、2番目が国連決議により武器輸出が禁止されている国、3番目が国際紛争の当事国又はそのおそれのあた企業に天下りを押しつけてきたという、どうしようもない腐敗の構図が連綿と続いてきたわけです。ある商社マンが言っていました。「これはどこの商社もやっている、大手商社はもっと巧妙にやっているんだよ」と。
防衛予算5兆円、中央調達2兆数千億円のお金が何の精査もされていない。契約もチェックせずにメーカーや商社の言い値で支払っている。そのことをメディアも国会もきちんとした追及をしていません。それは国防族議員がうごめいていて、国会でも追及できない実態があるかと思います。腐敗の構図の中で武器輸出3原則の緩和、というより見直しの問題ですが、武器輸出3原則は、1967年4月21日に佐藤栄作首相が衆議院決算委員会で答弁したのが最初です。そのひとつは共産圏諸国向けの場合、2番目が国連決議により武器輸出が禁止されている国、3番目が国際紛争の当事国又はそのおそれのある国には武器輸出はしない、というのが当初佐藤栄作首相の唱えた武器輸出3原則です。
1976年2月27日、三木武夫首相が衆議員予算委員会で答弁し、武器輸出3原則を拡大した。どう拡大したかというと、佐藤首相の3原則が対象にした以外の国と地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」の輸出を慎むものとする、となっています。この三木首相の答弁と、共産圏や紛争当事国に武器を輸出してはいけないということをトータルで、いまは武器輸出3原則「等」と「等」をつけて呼んでいます。武器輸出3原則は、言うまでもなく日本にとって非核3原則と並ぶ骨格的な原則ですが、武器輸出3原則が非常に邪魔でしょうがないのがいまの軍事産業ですね。
今月の14日に日本経団連が「わが国の防衛産業政策の確立に向けた提言」を発表しました。この中には武器輸出3原則の見直しが明記されています。日本経団連は2005年7月にも提言を出していますが、この時は3原則について「再検討する必要性がある」と書いていて、見直しとまでは踏み込んでいないんですね。今回のこの提言は明確に「武器輸出3原則等を見直すべき」であるとなっています。見直すべき具体的な内容についてはこう述べています。生産装備品をライセンス提供国の取得ニーズに応えて日本から輸出すること、例えばミサイル防衛のPAC3の技術はアメリカのロッキード・マーチン社のもので、日本の三菱重工がライセンス料を払います。ロッキード・マーチンが特許を持っていますから、ライセンス料を払って日本で生産するわけですね。これがライセンス生産です。そのライセンス生産したものをもう一度他国に輸出したいという、そういう願望ですね。見直しというかなり踏み込んだ提言が日本経団連から出されています。
これよりもちょっと先に、自由民主党国防部会の防衛生産検討小委員会が同じように武器輸出3原則の見直しを出した。自民党の国防部会は日本の軍事企業から要請を受けてこういう提言を出した。武器輸出3原則の見直しは、佐藤栄作首相時代の3原則が確立した直後から、ずっと日本の軍事産はすきを狙ってきたわけです。いままさにその好機であると日本の軍事産業は見ている。自民党の国防部会が見直しの提言を出し、民主党の影の防衛大臣である人物もかなり理解のある人だと言われています。浅尾氏ですけれども。ですから政権が変わったとしてもこの武器輸出3原則の見直しは実現してしまう可能性があります。今後、特に民主党政権になった場合も注意が必要だと思います。
これらと並んで宇宙軍拡の問題について、防衛利権との関係で話します。MD開発、特に、いま3基まわっている情報収集衛星の配備基数を増やしたいといっています。この情報収集衛星は何か役に立っているのか、あるいはこれは何なのかといいますと、まず予算はこれまでに6931億円が支出されています。これは今年度予算までです。わたしは情報公開で予算書を全部入手して調べました。そうするととてつもない中間搾取があった。
情報収集衛星の予算は内閣官房から出るんです。実際につくるのは三菱電機です、メルコという。予算が流れていく間に、総務省、経済産業省、文部科学省、それから天下り団体のCRL、NEDO、JAROS、JAXA――これらはまだ実体はありますけれど――ほとんど実体がないような独立行政法人を間に挟み込んで予算を中間搾取していくことを突き止めました。わたしの試算では、この情報収集衛星予算の約3割から4割が中間搾取されていました。これはおそらく天下り先の資金として使われていたんでしょう。ですから情報収集衛星に巣くっている利権も莫大ですね。
この情報収集衛星は、北朝鮮が「光明星1号」、通称テポドン1号が発射された1998年8月31日からわずか3カ月後に、小渕恵三内閣が導入を閣議決定に持ち込みました。当時は、素早い、日本政府は何でこんなに素早い対応をしたのかと驚くくらいだったんですが、実はこれには水面下で動いた人物がいました。これが三菱電機の当時の社長である谷口一郎さんです。この谷口一郎さんは北朝鮮のミサイルが発射される前から自民党の国防部会で手回しをしていたということが明らかになっています。
当時もこの情報収集衛星を国産化するのかアメリカ産にするのか議論がありましたが結局は国産になった。国産というと三菱しかありませんので三菱電機の手中に収まった。北朝鮮のミサイル発射に何か機能できたのか、何かの画像を入手したのかどうかはいっさい記者ブリーフをしていません。普通の国ではあり得ないんですね、7千億円近いお金を使っておきながら、その成果について何も記者発表しない、国民、納税者に対して何ひとつ説明責任を果たさないのは犯罪行為だと思うんです。
そしてあろうことか、今年4月5日の北朝鮮ロケット発射の前後に麻生首相が本部長をつとめる宇宙開発戦略本部が、早期警戒衛星のためのセンサーの研究計画案を盛り込みました。早期警戒衛星というのはMDシステムのひとつですね。早期警戒衛星の実際の配備を考えますと、情報収集衛星以上の予算がかかります。この早期警戒衛星が配備されたころに北朝鮮の体制はどうなっているかわかりませんが、将来的に早期警戒衛星を開発し配備を図るんじゃないでしょうか。その間に数兆円のお金が消費されていきます。これだけのお金がかかる話を、北朝鮮のロケット発射を奇貨としてやった。1998年の情報収集衛星のときもそうです。今回も手口も同じやり方です。危機、危機という幻想をあおりまくって、そして宇宙軍拡、それはつまり三菱グループの犯罪がかくれています。
日本のミサイル防衛予算の推移を見ると、ミサイル防衛は小泉内閣の2004年11月に閣議決定してから7909億円が費やされています。アメリカの共和党系のシンクタンク、ランド研究所の試算によると6兆円が必要です。そして技術開発をしていきますから将来的に20兆円もかかると言われているんですね。ミサイル防衛で将来的に20兆円使う、そして早期警戒衛星で数兆円とりあえず使う、情報収集衛星は配備基数を増やしていますから、これもまた10兆円なりかかってくるんじゃないでしょうか。
こんなにお金がかかる話を、北朝鮮の、ある面では幻想、それは「危機」ではあるんですけれども、それをあおることによって宇宙軍拡利権に結び付けていくという構造的問題。ミサイルでミサイルを迎撃して平和が守れるというのは、幻想だと思いますし、技術的にも予算的にも無理なんですよね。アメリカが、スターウォーズ計画以降突き進んできたミサイル防衛にかけた開発費を取り戻したい、という動きの中で日本が巻き込まれている構図だと思います。
日本には憲法9条という、非常に大切なものがあります。ですから平和外交でリードする以外にないんですね。対北朝鮮も平和外交以外にないんですね、具体的には。それが一番コスト的にも現実的です。ミサイルで平和を守れるという幻想、妄想の果てには国家財政が破綻して、日本という国家がなくなってしまいます。ミサイルを持つことで平和が守れるという妄想を捨てて、原点に立ち返って平和外交をする以外にないと思っています。
まもなく総選挙がありますが、このMD導入の是非については国政選挙で一度も信を問われていません。小泉内閣が2003年12月19日に閣議決定で決めました。このときは、ミサイル防衛でどれだけお金がかかるのかを具体的に国民に対して明示していません。小泉内閣は2005年の郵政解散でも、選挙では審判を受けていないんですね。ですから今度の衆議院選挙では、ミサイル防衛という国家財政が破綻しかねないものについては是非を問う、あるいは次の内閣で導入を撤回することも可能性としては十分にあります。
実際にカナダ政府はMDの導入を拒否しました。カナダ政府はアメリカとミサイル防衛の共同開発をしていたにもかかわらず、結局財政問題を理由にアメリカに対して拒否をした。日本もこれだけ福祉予算が削られ、社会保障、セーフティネットが切り刻まれている中でそんな予算の余裕はないはずですね。ですから日本政府は財政を理由にして、アメリカにMDの導入の撤回をすることは次の内閣でできるはずです。市民運動やさまざまな平和運動に関わっている方々が争点にして、ミサイル防衛という妄想に満ちたものに莫大な税金を使うことはもうやめようという議論を、この選挙を通じてやるべきだと思っています。そうしないと間違いなく破綻していきます。
去年の5月に宇宙基本法が強行されました。これもまた問題で、宇宙の平和利用については軍事利用しないという基本的原則がありましたけれど、自民党、公明党、民主党の3党の合意によって強行採決されました。これまでは1969年に宇宙平和利用という原則の国会決議もありました。それがあったがゆえに軍事企業も大手を振って宇宙の軍拡ができなかったんですね。ところが自公民の強行採決によって、いまや宇宙の軍事利用を政府を上げてやっています。危険な時代に突入してしまった。
宇宙の平和利用は、武器輸出三原則以上に大切な原則だったにも関わらず、たった数時間の国会審議で、しかも自公民の国防族議員のマッチポンプの中で決められた。 2009年7月という今は、非常に危機的な状況にあります。特に安全保障、防衛問題についていままで静かにしていた防衛産業がうごめきだした。田母神氏のような人も口を開けだした。守屋氏が腐敗の極みであるとすれば、憂国気取りを振る舞っているのが田母神氏ですね。ふたつの現象が一気に吹き出してきたということで、2009年はそういう動きに対してそのままにしておいてはならないと思います。
ミサイル防衛を巡っては、さまざまな綱引きが行われていました。軍事産業の中でも、政界の中でもそうです。そして市ヶ谷のシビリアン、内局の中でもそうです。綱引きの本質は、このミサイル防衛でどれだけの利権が得られるのかについて非常に慎重派もいたし、もっとお金になる、儲かると推進した派もいました。
例えば三菱グループでは、ミサイル防衛推進派は、当時三菱重工会長の西岡喬さんを中心にとしたグループでした。いまも三菱重工顧問にいる西山淳一さんは武器輸出三原則の見直し、ミサイル防衛推進の中核的な存在です。このふたりが三菱重工の強硬派でした。そこに手を貸してきた三菱商事の元副社長・相原宏徳さんと後輩の佐藤達夫さんの二人を足して、この4人がMDを強力に推をしてきた強硬派です。
これに対して、いまの三菱商事は、特に守屋事件以降、さまざまな汚職事件に発展する可能性が出てきたということでMD路線からいったん手を引きました。このように最大手の三菱グループの中にもさまざまな駆け引きが展開された。結局は合従連衡しながら前に進んでいくわけですが、その過程では一歩後退し二歩前進する、何かあれば撤退する、そして世間が騒がなくなればまた三歩踏み出す、そういう巧妙な動きを展開します。
政界もそうですよ。MD推進派の石破茂、久間章生、額賀福志郞、前原誠司、末松義規、こういった議員も守屋事件のときには、世間の目が防衛疑惑に行くときはぱっと身を引くわけですね。日米平和・文化交流協会の会員としても身を引いた議員がいます。その疑獄に世間の目がいかなくなるとまた元に戻ってくるという、その繰り返しです。
MDを巡るさまざまな軍事企業、そして日本とアメリカの政界の動きもあります。アメリカで言えば、アーミテージも、ラムズフェルドもそうです。さきほどいったシュナイダー、コーエンが防衛利権の具体的なところに名前が上がってくる人物です。一昨年の守屋武昌防衛事務次官の汚職事件にはこのような動きがありました。
守屋事件は2審になっていて、高裁の公判が8月にも開かれる予定です。秋山直紀氏の初公判は8月以降に開かれる予定です。秋山直紀氏は公判前整理手続きでかなり抵抗し、公判が遅れていました。弁護士を替えて徹底抗戦の構えなので、容疑を否認して法廷の場で何らかの暴露をするのではないかともいわれています。守屋氏も2審で弁護士も替えてたたかう姿勢を見せており、本音は執行猶予を取りたいのかもしれませんが、何らかのものが出てくる可能性があります。つまり事務次官としてはオレだけじゃないよ、おいしいことがあった人間はもっと市ヶ谷にいるではないか、という議論をする可能性もあります。
東京大空襲訴訟の原告・千葉利江さんを訪ねて
東京東部・押上駅からほど近いビルの1階に東京大空襲訴訟団と東京空襲犠牲者遺族会の共同の事務所がある。千葉利江さんは原告団のなかでいちばん若く、事務局次長として訴訟勝利に向けて行動している。
千葉さんのお母さんは39歳で突然なくなった。お母さんは生前「天涯孤独」という言葉を残して、戦争のことは何も話さなかった。千葉さんにはおじいさんもおばあさんも親戚もいなかった。「祖先とのつながりがない自分は何だろう、自分のルーツを知りたい」。そんな気持ちを持ちながらも、弟妹が小さかった20歳の千葉さんは生活することに精一杯だった。お母さんが亡くなった後、東京の空襲や犠牲者のことが気になりながら、直接話しを聞く人がいなかった。
千葉さんは、結婚してからも保育士として働きつづけ、子育てと仕事におわれた。「母のことが気がかりだったが、そこまでなかなか到達できなかった」千葉さんだが、職場の組合活動で基地や平和の課題にもふれた。戦争遺児や東京大空襲についても少しずつだが理解をすすめていった。ときには戦争体験者を招き東京大空襲の話を聞く講演会にとりくんだこともあった。しかし千葉さんはお母さんと空襲との繋がりがわからなかった。
戦後50年の年に千葉さんは、自分の気持ちを整理したいと伯父さんに会った。その伯父さんにはじめて東京都慰霊堂に連れて行かれた。
「東京大空襲の慰霊の場が、狭くて押し込められたような場所でした。広島、長崎、沖縄とのあまりの違いに大変ショックをうけました」。「東京大空襲のことが広く知られていないことや、被害がなぜ慰霊されずにきているのかふしぎでした」。
その後千葉さんは、おじいさんが3月10日の空襲で亡くなったこと、おばあさんも戦災後まもなく亡くなり、当時15歳だったお母さんと10歳と5歳の弟たちが残されたことを伯父さんから聞いた。
千葉さんはこの頃から東京空襲犠牲者の方たちと知り合い、直接体験を聞いたり、お母さんの住んでいたところを訪ねたりして、気持ちを共有できる人たちに出会っていく。
「15歳で孤児となり39歳で死んだ母はどんな気持ちだったか」「母が残した『天涯孤独』という言葉を、親とともに過ごした時間が少なかった自分の弟妹に、直接の体験がないから、自分の言葉で伝えられないもどかしさ」。そんな気持ちが「体験者の話を聞いてほぐれていった」のだった。
なかでも千葉さんが強く感じたことは「幼児や子どもが何でこんなにひどい目に遭わなければならないか」ということだ。敗戦時に3歳や5歳だった戦災孤児の多くは、親戚で差別され、虐げられ、働かされ、虐待された経験を持つ。ところが「この方たちは、自分がどうして母親がいないのかを知ったのが、大人になってからだった人がたくさんいるんです」。また「常に人の目を窺って生きて来ることを強いられた。それがどうしてなのか分かったのが大人になってからだった」。
このように戦争の時代に生きていても、自分の境遇を理解することに苦しんでいた人がいたことを知った。同時に、千葉さん自身も東京大空襲の実相や被害者の体験を知り、過去の歴史を知ることで自分自身を確立し、しだいに無力感を払拭していった。
戦後60年を期に東京の六本木ヒルズで6日間に渡って行われた「東京大空襲展」は予想を上回る入場者を集め成功し、メディアでも紹介された。千葉さんはこの企画に加わったあと、提訴が具体化する中で裁判に加わった。直接の被災者ではないが、遺族として原告の資格があるとして受け入れられた。
千葉さんが裁判に関わったのには政治状況も影響している。90年代からの改憲の動き、PKO法や自衛隊の海外派遣などがあった。また国旗・国歌法ができたころ、お子さんが高校に入学した。「それまでも入学式や卒業式で『君が代』がうたわれるときには着席したが、苦痛な時間でした。それが先生たちに強制され、学校の職場が息苦しいものになった。東京都への抗議にも通いました」。こういう状況の中で「東京大空襲の原告団をつくってやっていこう、という気持ちが固まっていきました」。
千葉さんは保育士を退職して、裁判に関わることを決めた。
「戦争で国民がどんなに苦しんでも戦争の損害を我慢しなければいけないのか。こういうことがまかり通っていることが納得できなかった」。
民間人の戦争被害へ国がどのように補償するかについては、1987年に名古屋の判決でも是認された「受忍論」が国の立場になっている。戦争の被害は国民が等しく受忍すべきものだ、という「受忍論」。以後空襲犠牲者が裁判をやりたいといっても受ける弁護士がいなかった。
その後20年。中国や韓国、朝鮮から日本政府に対し戦争被害救済の裁判がいくつもおこされた。また戦争被害と補償への国際的な環境も変わってきた。最近は原爆被爆者や中国残留孤児にも、不十分だが救済措置がとられるようになった。また、憲法研究者のあいだで憲法の平和的生存権に基づき「受忍論」にもの申す人たちがでてきた。こうした人びとが関わり、ようやく提訴が出来る環境が準備された。
戦争への保障についてはドイツをはじめ欧米諸国は軍人と民間人を平等に保障している。「『受忍論』を認めれば、命までも我慢しなければいけないのか、という怒りがあります」という千葉さん。東京大空襲訴訟では国の「受忍論」を変えることができるかが大きな課題となっている。
2007年3月9日、112名の原告団と110名の弁護団で東京大空襲の訴訟が始まった。翌年には第2次提訴の原告20名が加わり、原告団は132名で闘っている。
被告の国側は「事実審理の必要はなく、法的にも意味がない」と主張している。これに対し原告団は東京地裁に事実審理を認めさせ、10回の口頭弁論を闘った。法廷では原告の証言とともに、作家の早乙女勝元さんや野田正彰さん(精神科医・作家)、池谷好治さん(歴史研究家)、内藤光博さん(憲法学者)などが証人として意見陳述をしている。
原告の被害をいちばんに裁判長に訴えようと、提出した300頁に及ぶ準備書面のなかで被害概要が100頁にも及んでいる。天涯孤独の生活を強いられた孤児、空襲で障害を受けた苦しみだけでなく、後遺症によって人間関係を結ぶことができない苦悩、仕事に就くことができない人生など、その苦しみは今も続いている。
原告の被害を明らかにすることを通じて、空襲被害の実相を明らかにし、犠牲者氏名の記録や慰霊などをすすめることも期待される。原告団は3月に1000人の大集会を成功させ、その後も署名や集会を続けている。5月21日に地裁の審理が結審し、秋の判決を予想している。
千葉さんは、裁判をとりくみ平和的生存権や憲法9条の意味をかみしめている。なかでも、憲法14条でいう「法の下の平等」について、「ああ、こういうことが法の下の平等」なんだ、これまでは「自覚していなかった」という思いを強くしているという。
「これまで政府は軍人・軍属という人たちには、年間1兆円、合計すれば48兆円を超す金額を年金や補償として支給してきました。いまでは孫やひ孫の代にも及んでいます。それなのに民間人の被害には何の国家補償もありません。欲しいということではなく、それだけ差別を受けているのに、自覚していなかったということです」。「それほど差別がまかり通っていて、当たり前のこととして差別を感じなかった」。
「裁判をやって“法の下の平等”はこの事か、と感じました。よく憲法を暮らしに生かすといっているけれど、普通に暮らしていればそんなに自覚されません」。
「差別は人の心の中に潜んでいて公にしにくいものです。それが行政で制度化されています。“戦争だから仕方がない”と受け入れてしまう国民の意識が、憲法をないがしろにしてしまっていると自覚しました」。
だから千葉さんは、戦争の被害と実際を「今更」といわれながら、いろんな人に伝えていこうとしている。とくに戦後に生まれた、受け入れる下地のない若い人にどう伝えていくか。
「みんな忙しい生活の中で今を夢中で生きている。戦争は突然起こるのではなく、今を暮らしている中で戦争の準備がされていることを伝えていきたい」と語った。
“国民の不断の努力”が重ねられている。 (土井とみえ)
蓑輪喜作
拝啓
国会請願では大変お世話様になりました。いよいよ梅雨もあがって夏本番となりましたが、8月を前にこれから取り組みでお忙しいことと思います。
その後の署名ですが、体調に注意をしながらつづけていますが、今日18日、三鷹市大沢の九条の会に頼まれ、小金井市の隣ということもあって、行ってきました。話は1時間ぐらいということでしたが、書いた原稿をはみ出し時間も少々延びたようですが、その後、高田さんへの報告として、またコピーを送らせていただきます。(中略)。では暑くなりますが、お互い健康に注意してゆきましょう。
2009・7・18 蓑輪喜作
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みなさんこんにちは 私が小金井から来ました蓑輪喜作です。
私の半生は新潟の山村の学校の用務員で、おしゃべりは大好きですが、こういうあらたまった場所でお話をすることなどあまりなかったので、さぞお聞き苦しいことが多いと思いますが最後までよろしくお願いします。
さてこの大沢ですが、署名をはじめた頃は私と同じ蓑輪姓のおおいところで、大沢の蓑輪と関係があるのですかと聞かれたものです。こちらに来た頃は妻と二人でときどきこの大沢まで足をのばして、まず昔懐かしい水車小屋や茅葺きの家に高砂の爺婆のような品のよいお年寄りが粉をひいていた姿、そして水芭蕉に小金井で見られなかった田んぼとカワセミなど、また有名な近藤勇の墓等。署名をはじめてから来られなくなったのですが、ずいぶんとたのしませていただきました。
そして署名ですが、公園では大沢の方にも沢山いただき、ジーパンをはいた若い女性に「九条署名の一年」という本も買っていただいたこともあり、あらためて大沢のみなさんにお礼を申し上げたいと思います。
さて私の九条署名ですが、今日現在で22,667筆になり、いつのまにこんな数になったのか、やっているうちになってしまったということで、自分でも驚いています。こちらの今日の私の紹介のチラシに「署名のその極意」などと書かれてありますが、そんなものはなにもございません。それで今日は与えられた時間がかなり長いので、用務員という自分史が強くなってしまいますが、こんなことが出来たことを、署名をはじめてからの3年7ヶ月を振り返ってみたいと思います。
いまではたのしいことの方が多いのですが、始めた頃は大変なことも沢山ありました。それでは最初からですが、05年11月6日に小金井でも500名の会員で「9条の会・こがねい」が発足して、12月から署名に入りましたが、会をたち上げたときには私は自分の不注意で足の骨折をしていて動けず会員の獲得は30名ぐらいでした。無党派の女性ですばらしい活動家がおりまして、一人で100も集めるなど、私の心中はおだやかでなく、胸のうちでは「そのうちに」とひそかに期するものがありまして、署名用紙が出来た12月から署名に入りました。
私のところは小金井の坂下の野川の側で交通の不便なところで、ミニバスを通して欲しいという運動もありました。そのときに署名に廻った町内を廻ったのですが、ミニバスのときは350筆いただいたのですが、「九条」署名はそうはゆかず110筆でした。そんなことで1月に入って事務局に届けましたが、その時点では私のもののみで、私のものを受けて会の代表であられる弁護士さんが自分の周りを廻って30筆と聞いております。
さきにも申しましたように期するところがありましたので、マンションを除いた一戸建てをピンポンを鳴らして廻りましたが、1ヶ月に50、よくて100、あまりいいものではありませんでした。それでも10ヶ所の町内を廻っていましたが、5月に入って暑い日が続いて体がもたなくなって、自分の家の前の公園にきりかえたら、そうではなかったということです。そんなことであまりはかばかしくなかったのですが、それでもお茶を入れてくれた家、励ましてくれた少年や女子学生、署名はしていただけなかったが、自衛隊員の奥さんとの長い話しなど沢山の応援もありました。
またこの頃の署名は、私が各地の歌会などで小金井の9条の為にということでいただいたものも入れてやっと350で、つくる短歌も次のような義務感の強いものでした。
そしてこの頃のある集会で、市全体の署名の半数以上が私のものと知って思わず「自分のもの(署名)ぐらい出して欲しい」と言ってしまい、「大変失礼だ」ということで物議をかもしましたが、以来、人のことは言わず、わが道をゆくでこんにちまでやってまいりました。しかし今ではみんな暖かい目で見て下さるようになり、お励ましの言葉もいただき有難いことだと思っています。
さて公園にきりかえたことで人も増え、情勢も北朝鮮問題、教育基本法の改正、国民投票法の問題等々、みんなの関心は高く、とくに若者の間では「ぼやぼやしていると持ってゆかれるのではないか」と危機感もありました。バーベキュー広場などでは自分たちで署名板を廻してくれたり、バーベキューも食べさせてくれたり、私と同郷の新潟出身者がおれば十日町小唄などいっしょに歌い、大変楽しい日が続きました。
作る歌も義務感から楽しいものに変わって来ました。 次に、出版した本にない歌を紹介します。
またここは外語大やアメリカンスクールなどもあって沢山の外国の方からも署名していただきました。とくに中国・韓国・東南アジアの方たちは日本と違って歴史はきちんと教えられていて「どうして日本人歴史認識がないのか」と泣き出す中国青年もおりました。
そんな日が続くようになって私の健康を心配していた妻も「父ちゃん署名にゆくと元気が出る」と言うようになり、医師も翌日に疲れが出なければやってもよいと言ってくれるようになりました。さてそんなことで署名も多く、新聞も「朝日」「毎日」が2回づつ、それに「赤旗」「北海道新聞」その他新聞・雑誌等も取りあげてくれるようになりました。また一昨年の「九条の会」の全国交流会でも報告させていただき、全国からのお励ましのお便りや電話など、またわが家に来てくれる人もおり、あわただしい日が続きました。
そして昨年の4月5日、ついに1万筆を突破したのです。公園は2つの公園「むさし野」「野川」とも2年間も続けると、土地の人は殆どいただくようになって、土日には新しい人が来るとしても一つの壁につきあたりました。そこで考えたのが毎日新しい人の来る東八道路のところの自動車運転試験場前のバス停でした。最初は運転試験場前のバス停ではじめたのですが、警官に自動車の出入りが多いので気をつけて下さいと言われ、歩道橋を渡っての多摩霊園側の2つのバス停にきりかえ今日まで来ています。
ここは公園と違ってバスの待ち時間だけで時間が短く、公園ほどおもしろくないのですが、次々と新しい出会いもありまして、署名もうなぎのぼりに増えました。9月に入ると15000になり、毎日新聞の取材も受けました。
この間、8月にはリアリズム写真集団に所属する女性が1ヶ月近く私についてくれて写真もとっていただきました。またあとでわかったことですが、私の近所の女性が8月の月には暑いのに蓑輪さんが今日も無事でありますようにと、毎日お祈りを続けておられたということを知り大変驚き感謝しています。先日は、東八道路のバスの運転手さんが、待ち時間に車から下りて私に礼を言い励ましてくれました。
そして今年に入っての5月4日、これは公園のバーベキュー広場ですが、ついに2万筆を越し、回りにいた幾組かのグループからいっせいに拍手をいただきました。また一昨年になりますが公園で知りあったのが縁で、ある私立学校で私の署名おじさんも登場する演劇があり、友人たちと観に行って来たこともありました。
ほんとに沢山の人に励まされ、ささえられての署名でした。そんなことで少しこまかくこれまでの署名について振返ってみたいと思います。
さていただく署名の半数は若者で次に40代から50代のお母さん方で、いちばん少ないのはまだ退職されたばかりの男の方で、会社人間になっていて視野がせまく、奥さん方に「うちの主人はね」と笑われています。
今までに5万人近い人に声をかけたのではないでしょうか。その半数が署名してくれ、1割の方が個人情報のことで署名できないが国民投票になれば守ると言ってくれています。そして2割ぐらいの方が北朝鮮問題でゆれており、まったく反対だという方は1割ぐらいだと思います。
それから私のことを次のように言ってくれる人もいます。
人を選ばない、そしておしつけないと。このことは、まだ署名までゆけない人達には国民投票にはまだ日もあるので、図書館に行けば本もあるので、自分たちの将来のことですからよく勉強して下さい。そして国民投票のときにはこんなじいちゃんがいたということを思い出して下さいというと、みんなはいと答えてくれます。また反対の人でも争うようなことはさけて、次につながるような別れ方をしています。
署名での私に対するいやがらせですが、最初の頃右翼と思われる中年の男にブッ殺すぞと3度ぐらい言われ、署名板をとりあげられ、個人情報にかかわるので必死に取返したこともあります。またもうあなたは歳なのだから、こんなことをやめて長生きを考えて下さいという泣き落とし戦術もありました。バス停に移ってからは、こういうところで署名をやるには許可証がいるのだが持っているかと言うものもあり、「持っていませんが、警察の方に交通事故に注意してやって下さいと言われています」と言うなどありました。私はいつも年寄りをいじめないで下さいとやわらかくかわして来ました。そんなことで攻撃は少ないのではないかと思いますが、それは周りの人達に支えられているからだと思っています。
それから北朝鮮問題についてですが、さきの私の出した本の中にも書きましたが、私はよくみなさんに「山手線はなにによって動いていますか」と話しますと、かならず「電気」という答えが返ってきます。その電気ですが、昨年川の水の取り過ぎで問題になっている私の(故郷の)新潟の信濃川の発電所から来ていて、大正の初めの電源開発で朝鮮の人が沢山死んでいるのです。当時は60キロのセメント樽で、それをかついで一本橋の丸太の上を渡り、落ちるとそのままコンクリートを流して、いまでもダムの中には朝鮮人の死体が入っているのだと。これは当時、管轄の十日町警察署の隣の料理屋に勤めていた私の母の話で、また今日も、という言葉を聞いたのだそうです。戦後問題になりましたが、日本中いたるところにこういうことがありました。
たしかにいまの北朝鮮は悪いのですが、かつて日本は朝鮮という国を国ごと拉致したのだからと、閔妃(みんぴ)事件という皇太后暗殺事件なども話し、この問題は日朝百年の歴史にさかのぼって制裁でなくこの憲法9条こそ前面に出して謝罪すべきところはきちんと謝罪する。拉致問題や核の問題など糺すべきところはきちんと糺してゆかねばならないと言うのですが、この問題については弱いように思われます。以前、拉致被害者家族会の事務局長をやっておられた蓮池透さんという方がこのほど「拉致――左右の垣根を超えた闘いへ」という本(かもがわ出版)を出しておりますので紹介をしておきたいと思います。
私が人を選ばないということについてですが、次のような話しをさせていただきます。
その方のお宅を見れば大地主で近寄りがたかったのですが、ビルマ戦線に参加したので、戦争はもうこりごりだと署名していただきました。
また、私の党では署名しないことになっているのが、私は「九条」は守らなければならないと思っていますのでと、署名してくれた人もおりました。
若者に対する署名ですが、一口に言って誠実にそしてだんだんと自分という人間をぶっつけてゆき、これは私でなくあなた方自身のこれからのことですと、命の大切さ、どんな戦争もやってはならないことを、15年戦争を経験した者として話します。沢山の人の居るときには特に声を大きく力をこめて話し、一人二人書き出すと10人ぐらい続いて書いてくれます。
「こんなじいちゃんが嘘つくはずがない」と言ってくれるものもいます。また私がこれからはあなた達だ、たのむぞと言うと、まかしておけと握手してくる者もいます。若い女性には考えこむ人もいますが、断っても5~6分経ってから書かせて下さいと来る人もおります。公園ではかなりの距離を走って書いてくれた女性もおりました。それから最近では、小金井で署名を持って国会に行きましたのでその時のことなども話します。どうしても個人情報にこだわる人には国民投票になったら守って下さいと言うと、みんな笑顔でそうしますと言います。
そんなやりとりの中でいつしか若者と私の間に距離はなくなっています。署名も私は愛だと思っています。できるだけ笑顔で接するようにしています。そしてよく私はあなた方の人生はこれからで、いろいろのことにぶつかるだろう、そんなときにこんな老人がいたということを思い出して下さい、とも言います。
次に、その署名をする力はどこから出るのかということです。さきの私の「九条署名の一年」という本の中で小金井の九条の会の事務局長の小出荘司さんは次のように書いています。
――先日、氏の前著「山間豪雪地帯に生きる――1960年代新潟県松代町農村労働組合のたたかい」(光陽出版2003年発行)を読ませていただいて、氏の原点をそこに見出すことが出来た。豪雪との日々のたたかい、僻地の学校での44年間の用務員生活、そのなかでの戦後教育の情熱に燃えた青年教師たちとの出会いと生活綴り方運動。出稼ぎにたよらざるを得ない貧しく保守的な村の青年たちとの自力での農労働組合結成……。その情熱がそのまま、今日の9条署名の不退転の継続にまっすぐつながっているのです」と書いてくれています。
私自身も2年前に次のような歌を作っています。
○五米の雪にいどみし日のありて「九条」署名七千にとどく
署名の帰り道などに浮かんでくるのは故里のことで、あの44年の用務員人生があったからこそ、あの15年戦争をまるごと生きてきて、日本の教育の良くなっていく過程、悪くなってゆく過程を見てきたからだと思います。母一人、子一人。2年間に4人の人がやめた。その頃なりてのなかった学校用務員、まだ小使いと呼ばれていて、おまえこそ長く勤めてくれよ、で始まった16歳の春。
その頃のことですが、私が退職したときにみなさんにお配りした「学校用務員のうた」の中から少し引用させていただきます。
――しかしいまとちがって小使いは昼も夜も勤める24時間勤務であり、敗戦のインフレのなかではなによりも食えない職業で、いつやめようかの毎日でした。だがやめることは出来ませんでした。母一人、子一人。百姓村に生まれて鴉にぶつける土さえ持たない私たちであり、その前の東京大空襲のなかで、それまで私たちの経済援助をしていた叔父も失っていました。
「きさく」「きさく」と廊下ごしに呼ばれる。山羊とあだ名の満州帰りのあごひげを長くのばした若月先生の声が60歳になるいまでもときおり幻聴として聞こえて来ます。
私と同級生の村の助役の娘のYさんが教師として赴任して来るまでは先生にも生徒にも「きさく」と呼ばれていました。いまのように「おじさん」と呼ばれるようになったのは25歳頃からです。
戦争からやっと解放されて、次々と出てくる新しい言葉。やせ衰えておっても目だけはきらきらと輝いていました。「民主国家」「民主教育」「平和憲法」「教育基本法」の制定、「児童憲章」の制定で、私も含めた全職員の前で熱っぽく語る関谷藤四郎校長先生の姿が浮かんできます――
その中の短歌も少し紹介させていただきます。
さてここで先日私の家に来ていただいたときに、こちらの呼びかけ人であられる今井さんに言われた、教師の話はなかったですか、ということです。いままで誰にも話さなかってことで、私とともにあの世ゆきと思っていたのですが、若き日のノートの中にあった「私にも教員の話が」の一文を紹介してみます。1963年3月6日とありますので32歳ぐらいのときだと思います。
―― 今日の2時間目でした。教務室のストーブに一人で手をかざしておられた校長先生が、突然石炭をくべていた私に「おじさんは頭がいいのだが教員になる話しはなかったのかい」と聞かれた。あの頃はたしかにそういう機会もあったわけだがと。私はあまりに突然のことなのでいささか狼狽もしたが、いままでこんなことは自分から話したことはないので黙っていたが、「はい高等科2年卒業のとき一度師範学校を受けましたが、その時は戦時中で学科試験はなく体操一本やりの試験だったので駄目でした。しかし受かっておっても援助を約束してくれていた東京の叔父が翌年なくなったので、1年ぐらいで退学しなければならなかったでしょう」と答えた。もともと体はあまり丈夫な方ではなかったが、ここ5、6年不規則な生活ばかり続いて休みがちな私を見てか、しばらく考えておられた校長先生は「けっきょく体が弱かったということだったなあ。1年でも出ていたら準訓にでもなれたろうに」と言われた。しかし「いいえ、それもありましょうが、私にはなんのうしろだてもなかったということです。私の定時制の同級生にも……」と言いかけたところは、授業を了えた若い先生が入ってきたので私は口をつぐんでしまった。
ただただ専検への道(いまの大学入学者資格検定試験)、そしてその頃出来た定時制高校へ、10年前のことが走馬燈のように私の頭の中をかけめぐった。たしかに定時制でもあの頃は、私たちのような山の中では教員も不足だったので、父親が村会議員だったS君、それから父親が教員だったK君、定時制の事務員だったSさん、みんなそれぞれに村の中学校、小学校の本校、分校の助教諭になり、村役場の助役の娘だったYさんは私のいまのこの学校の中学校助教諭として来たのだった。それから2年、彼女が嫁にゆくまで同じ学校を出て、同じ学歴で、同級生でありながら私は小使い、彼女は教師。お互いに腹の中では遠慮しながら毎日を送ったのであった。
定時制時代は、それまでの何年間か専検をめざしていたこともあって、成績は人よりも悪くはなかった。私に同情して友人たちが運動してくれ、それが表面化したときに私は役場の教育長に呼ばれた。
それまで私の母と同じ部落出身で幼友だちということもあって、いつも母一人子一人の私にやさしい言葉をかけてくれていたのだが、そのときは例の眼鏡をかけた鼻の頭をひくひくさせながら、「あの人達(教師になった同級生)とは家が違うのだ」とはっきり言われた。
私はそのときに旦那様の貧乏人に対するたんなる哀れみがどんなものか、それがある一線を越えようとしたときに、身のほどしらずと押しつぶされることを知ったのでした。
その頃より私は次第に文学好きの青年になっていて、それはまた当然のなりゆきとして社会科学の本なども読むようになっていました。校長先生はよく私の話を“こくがある”と言われるが、それは決して定時制時代の勉強のなかから学んだものではなく、いま述べたようなことから社会科学の勉強をするようになってからだった。
旦那様と貧乏人、地主と小作人、資本家と労働者、それから教師と小使い、そしていまの自分、それを作り出している社会的背景を、大きい小さいの差はあるけれど、取り巻くものは同じところから来ているのだと考えるようになっていた。
そして私はストーブを囲む教師たちとの雑談のなかから、きっとこの校長先生とももっともっと話し合えるように、そして教師になれなかったがゆえに、人より先にものごとの根っこのようなものを知ることが出来たのだと、その善意の校長先生の霜降り頭を見つめていた――
とにかく私だけでなくみんな貧しく、その上、一軒一軒家に格というものがあって、人の呼び方まで違っており、昭和40年代に入っても私の学校の中学生は48名ぐらいの卒業生だったが高校進学というと7、8名であった。
小金井の用務員は給料に差別はないと言うのを聞いたことがあったが、私の場合は給料表は別で、新卒の教師も3年経つと私を追い越し、44年勤めた最後の俸給も私の2人の息子よりも少なかった。しかし私の人生は、それゆえに金銭では変えられない沢山のものを学んだと思う。
それからいま一つ、その頃は山の中ではどこでもそうだったのではないかと思うが、学校火災ということについてふれておきたい。どの火災も用務員の火の不始末ということになっているが、実のところは宿直の若い教師、多くは地元の有力者の子弟でなにがしかの涙金で用務員が肩代わりさせられたことを知っている。それも村役場も警察も暗黙の了解だったらしい。
そんなことで私はよく夜中に、要注意の教師の宿直になると学校に行った。寝煙草や飲酒で蒲団を燃やす者も居て、校長にわからないように蒲団カバーを買ってきてつくろったこともあった。またその頃の電気ポットはまだ自動でなく、アメのようにとけて危機一髪ということもあった。そんな中でよくものごとを見る、考える、なにが大切か、そしていま自分に出来ることはなにかを学んでいった。
これはその頃を歌った一首です。
やがて戦後教育の中で学んだ青年たちと作った、農民自身によるはじめての闘う組織、農村労働組合はまさに村の夜明けであった。失業保険の改悪反対で始まったのだが、みんなの諸要求はなんでも取りあげ、やがて地元新聞ものせてくれ、組織は隣の町に、県下に、全国に広がっていった。
そんな頃、県連の委員長だった人がはじめて県議選に出たのだが、それまで共産党の票が50票ぐらいしか出なかった私の町で1000票を越え、隣の町で候補者の地元では自民党を大きく上まわり世間をあっと言わせた。
やがて26歳の青年書記長が、昔から保守一色の町にはじめて革新の候補として町議選を戦った。部落では両陣営とも親兄弟、親族を分けてのたたかいであったが、以後町村合併になるまで40年、革新の議席を守り通した。その黒幕が私だということで、部落や村の有力者からの攻撃はあったが、町役場や校内からはなく、私を擁護してくれた校長もおりました。
そして44年の用務員を退職したとき、学区のみなさんにお配りした「学校用務員の歌」は、私を攻撃した人達も喜んでくれ、離村のときは選別までいただきました。
退職してから20年ですが、いまも故里には多くの友人がおり、学校も校長、教頭から40代の現職教師との交流もあり、ここ小金井まで来て下さる人もいます。それから、いまの「九条」署名で故里の6月14日付の『新潟日報』に、戦後私の学校の教師であった同年配の方から-「9条おじさん」見習い頑張る-の一文がのり、何人かの方からその切りぬきを送っていただきました。
最後にいまひとこと、今回の私の九条署名で新潟長岡市の大先輩に、蓑輪流と言われ、最初はよくわからなかったのです。考えてみるに、故里に居たときの農村労働組合にしても、いまの九条署名にしても、はじめから勇ましく華やかにやっていたとしたら、どうだったろうか。おそらくいまのようにはゆかなかったろうと思います。そのときどきに自分の身の丈にあったやりかたでやって来たからではないかと思っています
私はよく若い人達に「うすらうまく、そう言っても大切なものは失わないように。いくらそのことが正しくとも、つぶれれば終わりだから、あせらず、つぶれないように少しずつ力を蓄えてゆくことが大切だ」といっているのです。これが蓑輪流で、用務員人生で学んだものではないかと思っています。
農村労働組合のときも、いまの九条署名でも名前が大きく広がったときには、少々のことではつぶされない、つぶれないものになっていたということです。
さてもう一つ私のいいたいことは、なにごともそうですが、どれだけ多く普通の人に訴えてゆくかということです。
九条を守るたたかいも、いよいよ今年・来年が正念場ではないかと思っています。それぞれが自分の出来ることをせいいっぱいに、あのときの戦争体験者が居て、なぜもっと動いてくれなかったかと、後世の人達に言われないために頑張ってゆきましょう。
最後まであまりうまくない話を長々とさせていただき大変有難うございました。また歌ですが、歌集の中からもう一首をあげ、終わりにさせていただきたいと思います。
今号は記念すべき第100号だ。
あらためて2001年6月発行の第1号を読んでみた。それまでの「FAX通信」からの「改題第1号」である。巻頭言は内田雅敏事務局長の「本誌の改題と再出発に際して」という文章である。
内田さんはその文書で、この年から始まった「5・3憲法集会」で内田さんが行った開会挨拶について触れている。そのなかで、99年来始まった新ガイドラインに反対する集会、日の丸・君が代に反対する集会、盗聴法に反対する集会などが基礎になって、この統一集会が実現した経過を語っている。弁士は加藤周一さん、澤地久枝さん、土井たか子さん、志位和夫さんで、今日の「九条の会」を彷彿とさせるものがある。
内田さんは挨拶の最後でこう述べたと書いている。
冷戦終結後のいまこそ、憲法の非武装、戦争の放棄、戦力の不保持の原則はますます現実味を持つものになってくる。こういう言葉があるそうです。理想は星だ。手はとどきはしない。だが、船を導くことができる。憲法9条は21世紀におけるこの地球号を導く星となると思います」と。
以来、9年近くを経て、本誌は100号を迎えた。振り返れば、私たちの事業は確実に進んできたことを確認できる。市民連絡会の運動は今年12回目を迎えた「全国交流集会」の継続の中で進んできた。
直後に9・11があった。市民連絡会は懸命に反戦の活動をした。そのなかで、WORLD PEACE NOWも生まれた。国際的な反戦の共同行動が展開された。やがて「九条の会」が生まれた。そして昨年の「九条世界会議」の大きな成功があった。
9年間の内田さんの話は少しづつ実現してきている。100号にいたる中で、実に多くの皆さんのご協力があった。お互いに健闘を称えたい。200号のとき、本誌はどうなっているだろうか。(T)