2005年5月3日憲法集会

スピーチ(2)小林武(愛知大学教授)

今日は風薫る5月3日、憲法記念日であります。

この憲法はご承知のことでありますが、第2次世界大戦敗戦の後、明治憲法のありようというものを根本的に直されなければならなくなったその時、つまり明治憲法の天皇主権のありようを国民主権、民主主義のありように変えていかなければならない、これが不可避となったその時、であります。当時の政府、公権力担当者たちはそれを大いに嫌いました。抵抗いたしました。そういう中のことでありますが、結局のところ政府は、この国民主権憲法をいやいやながら受け容れることになった。1945年から46年にかけての話でございます。そのときに活躍されたベアテ・シロタ・ゴードンさんのことについて三木睦子さんもおふれになった、そういう時期の話であります。1946年、昭和21年でありますが、そのときの選挙は女性選挙権を初めてこのわが国社会に実現して、女性のみなさんが選挙し、また立候補するという活発な選挙によって衆議院が構成されたわけであります。その衆議院で憲法論議も活発におこなわれ、重要な修正も加えられた、そういう経過もございます。

そういう中で、時の総理大臣吉田茂は、実は1947年の2月11日を、2月11日、今では建国記念の日、つまり紀元節でありますけれども、この日を憲法施行の日にしたかったのであります。そのためには憲法の仕組みからいって憲法の施行、つまり実施というのは公布から半年後ということになっていますから、公布の日を1946年の8月11日に設定しなければならなかった。しかしこの衆議院の議論が非常に活発でありまして、憲法が国会、当時の帝国議会を通過したのが10月のことでした。そこで総理大臣吉田茂は、今度は公布の日に意味をもたせようとして、帝国議会を通過したのが10月でありますから、公布の日を11月、そして11月3日に設定したのであります。11月3日というのは明治天皇の誕生日、いわゆる天長節であります。そういたしますとその6ヵ月後でありますから、翌年47年の5月3日というものが施行の日となった、多くのみなさんご承知でありましょうが、こういう経過がございます。

それが物語っておりますことは、当時の政府は民主主義の憲法を受け入れざるを得なくなってもなお、こうした天皇主権のありようを、つまり天皇に因んだ日を公布の日や施行の日に選んでいくという態度であったわけであります。

このことから考えて当時の政府が、この憲法の誕生を祝ったのは、ほんの2、3年でありまして、その後はもっぱら、この憲法を祝賀する、支えるのは国民の手に委ねられたという経過がございます。

政府は、その後この憲法を嫌悪いたしました。機会があれば変えようというそうした戦後の歴史を政府は送りました。そうでありますから、政府はそれが国民の反対によってできないとみるや憲法の方を政治にあわせるべく解釈によって歪めまして、政治を優先させてきた。ということからすれば、今日政府が、あるいは政府を支える改憲の立場にたっている各政党が、さまざまな憲法の提案をいたしているといたしましても、それは決してこの憲法を何か国民のためによくする、あるいは理想に向かって改正をしていくということでは決してない。この憲法を嫌悪し、憎んできたこの政府が、今、時来たれり、とばかりに改憲に乗り出してきているということにすぎないと思います。

憲法と申しますのは、これもご承知のとおりに、国民の権利を守り、権力の手を縛るというところに憲法の本義、心がございます。これを立憲主義というふうに普通よんでいるわけであります。この立憲主義のありようを模範的に実現しているのがわが国の憲法であります。したがいまして、この憲法は権力に対しては極めて厳しく、国民に対しては格別に優しい憲法であります。そうであるがゆえに私たちは半世紀以上にわたってこの憲法を支持してまいりましたし、またこの憲法を私たちは守ってきたのであります。これを今日の憲法改正と申しますか、改憲の動きは根底から変えようとする、つまり権力の手をしばる憲法というものを国民を管理する法典、国民の行動を管理する指針、ルールに変えようというところにあります。これが中心なのではないのかというふうに思います。

今日、私たちの憲法99条というところには、天皇という言葉から始めて、「天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員」という言い方で、公職にある人たちが憲法擁護の義務を負うということを定めております。国民にはこの義務はありません。それは国家が勝手な解釈をした憲法を国民に押しつけるという、政府が勝手に解釈した憲法への忠誠を国民に強制する、こうしたことがないようにした極めて大切な条文であります。これを改憲諸党、改憲各党の案は国民が憲法の遵守義務を負うという、そうした形に変えようということが共通し、重大な問題としてあります。つまり国民が憲法への忠誠を義務づけられるということになります。その憲法というのは、私たちが優しい憲法と考えている、そういうものでなく、国民にとって怖い存在となっている憲法、その憲法への忠誠を私たちに義務づけるという考え方であります。これが根底になっていると思います。

ご承知のとおり、衆議院、参議院双方にそれぞれ憲法調査会が設けられています。これは2000年から始まって、5年をめどにして活動するというそういう機関であります。その5年が満ちて先月、4月の最終報告というものを出しました。憲法改定の必要を説いている内容であります。またこの任務が終わったにもかかわらず、次には文字通り憲法改正の仕事をする機関へのリレー、引継ぎということまでうたっている報告書であります。しかしながら憲法調査会というのは国会法にもとづいて設置されたものでありまして、その国会法には憲法調査会の任務は、「日本国憲法について広範かつ総合的に調査をおこなう」というふうに定められております。加えて2000年に出発するにあたって、憲法調査会は自ら議案提出権がないことを確認して発足したわけであります。

この憲法改正の提案をしないといういわば自己拘束、自らに拘束を課して誕生したわけであります。少し法的に立ち入って恐縮でありますが、このようなわけでありますから、憲法改正のための調査ではないのであります。憲法改正のための調査をする機関ではありません。そうすると調査のための調査という役割をもった機関としてこれが誕生したといわざるをないと思います。さすればこうした機関が、果たして必要であったのか。誕生当時護憲の立場に立つ政党、共産党や社民党は、それであれば通常の委員会において憲法論議がなされるわけであるから、それで必要かつ十分ではないかという議論をしておりました。そちらがもっともな議論であります。ともあれこのような出発をしたのにもかかわらず、実際の活動が始まってみますと改憲各党は、これを憲法改正のための委員会として運用してまいりました。

ともあれ、当初予定の5年を経まして改憲を方向づける報告がだされたわけであります。このように調査会を設置している根拠規範、そこから逸脱をしておりますから、調査だけができるにもかかわらず、改正の提案の方向に進みましたから、この報告は無効であります(拍手)。法的に報告書の作成、議長への提出、それに加えて本会議での報告をしておりますけれどもこれらの行為は無効であって、国会の他の機関を拘束しないことはもちろん、国民に対してもなんら強制的な効力というものはもちえない、方向づけるような力も持ち得ないというふうにいわざるを得ない。法的にいえば無効の存在であります。

ただ、事実上はもちろん大きな政治的影響力をもっているわけであります。ただ、事実上のことを申しましても、むしろこれらをつくった調査会、一つの機関、その機関のメンバーとしての委員、その責任がきっと問われる。具体的にどのような問い方があるかということはたいへん難しい問題でありますが、客観的にはそのように問われなければならないということであります。こうしたことを国会がやっている限りは、国会自身が自らの根拠規定に反しているということになれば、そういうことが新しい憲法を仮につくったとしても、その憲法が国会によって守られるはずがないではないかという、国民の大きな不信をまきおこすことは当然であります。たいへんな法治国会、法治主義の値打ちを貶めた行為だと私は思っております。

しかしながら、この総がかりの改憲の力で日本国憲法を変えてしまうということに対しては多くの人びとが憂えています。深く憂慮しています。その憂慮の声を広く結集しつつあるのが「九条の会」であると思います。

私事で恐縮ですが、私の恩師との憲法との出会いを短く紹介させていただきます。私がいただいた中学生の、中学校時代の恩師であります。兵役を終えて復員なさった方です。国語の先生であります。次のように言っておられます。「復員して学校に勤めて、初めて憲法九条を読んだとき、いままでどのような感動をうけた書物にもまして大きな感動を受けた。涙をはらはらとこぼしたことを思い出す」というふうにこの先生が手紙のなかでいってくださっています。こうした出会いというものがそれぞれの方にあって、それを思い出し、今、憲法を選びなおすということが大切なのではないのかと思います。

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