2005年5月3日憲法集会

スピーチ(1)山崎朋子 ノンフィクション作家

私の父親は帝国海軍の職業軍人でありました。太平洋戦争が始まります直前のこと、私が8歳でございましたが、イ号67潜水艦、帝国海軍を代表する、総力を挙げてつくった大型潜水艦の艦長を務めておりましたが、行方不明になって帰ってこなかったのでございます。そのことを報じました新聞が出ましたときに、小学校3年生。学校へいきましたら、友だちも先生も近所のおじさん、おばさんも誰一人口をきいてくれなかったんです。帝国海軍の、日本というお国の、大切な潜水艦を行方不明にしたということは不名誉なことであると。そのころ非国民という言葉がはやっていました。私は非国民の子どもに今日からなったのだなあと観念いたしました。でも3週間ばかりたった時、同じ新聞が、全国の新聞が、新聞紙面3分の2を割いて1面トップで、「イ号67潜水艦 東京湾南方において名誉の殉職せり」と報じました。学校へまいりますと、先生もお友達も近所のおじさん、おばさんもみんながちやほやしてくれました。「あなたは栄えある軍国の遺児だから弱虫なんかやめてお父さんの名に恥じない立派な子どもになるんですよ」と励まされました。私は少しもうれしくなんかなかった。心の底から怒っていました。私は生涯非国民の子と呼ばれ続けてもかまわないから、お父さんが生きて帰ってきてほしい、そう願い続けて大人になり、今にいたっています。

さて、私ども一家は、たぶん母はいたたまれなかったのでしょう。広島に転居いたしました。でも母子家庭ですからとにかく疎開しなさいというお勧めで、福井県の山の中の母の実家のもとに身を寄せました。すぐ広島に帰ってくるつもりだったのです。ところが疎開して2ヵ月後、あの広島に原子爆弾が落とされました。私の13歳のクラスメートのほとんどが核爆弾の光に焼かれたのです。私は今も思っています。「ごめんね、朋子だけエスケープして」「あなたがたどんなにつらかったでしょう。ごめんね」とこう思っていました。これが私の考えによりますと日本国憲法、とりわけ9条というものを生み出したのは、この惨憺たる戦争犠牲者の力が憲法を、9条を生み出したのであると思います。

さて、9条は生まれたけれども現状はどうか。今日の現状についてはたくさんのお話がありましたので、ちょっと時代をもどしてわが体験にもとづいてお話をしたい。

1954年、私は福井県の農村から1人で上京してきました。この東京に。そこで本日の5月晴れとも勝るとも劣らない透明感を全身にたたえた青年にめぐり合いまして、なんとすばらしい人だろうと思って、結婚いたしました。この人はですね、あの東京大学法学部の―主任教授まだご健在です、稀に見る秀才。卒業なすったのにどこにも就職先がなかったのです。なぜか。彼が朝鮮人だったからです。私が田舎にいましたときにも、どうして朝鮮、中国の人を日本人は低く見ているのか不思議でならなかったんです。でも漠然とそういう差別というものを感じているよりも、ともに暮らすということはほんの一部でも、その痛みを分かち合えるものでございます。「そうだったのか」と思いまして、昼と夜、2つの勤めを持って働きました。2つ働かないと食べられなかったのです。でもとにかくそうやって一所懸命働くことが、日本で暮らすこのアジアの隣国の青年と自分の暮らしを支えるんだ、とはりきっていました。

クリスマスの日のことです。お店でケーキを売りました。おいしそうだな、それで私はいつも楽天的で困るのですが、奥さんもご主人も本当によくして下さるから、あのケーキを1個か2個くださるにちがいないと思っていました。案の定、奥さんが「朋ちゃん、お掃除終わったらちょっと2階にきてね」といわれました。「当たった」と思ってね、どんなにおいしいだろうと思い、2階の急な階段を上っていったんです。そしたらそこに奥さんだけでなく、ご主人もおられてこう言われました。「朋ちゃん、明日から来ないでね」と。「どうしてですか」と。首になったら食べていけないわけです。日の当たらない台所もない6畳1間、家賃も払えないじゃありませんか。「どうしてですか」と聞かずにいられない。返ってきた答えは「あんたねえ、朝鮮人と暮らしてるっていうじゃないの。タメ、タメ、イケナイ。絶対にいけない。首!」とこういわれました。そのとき始めて私は自分の顔をあげて、おふた方の顔を拝見して申し上げました。「そうおっしゃいますけど、あなた方お2人だって朝鮮人じゃありませんか、本当は」と。そのあとに返ってきた言葉は生涯私の瞳が開いている間は忘れることがありません。「いえぼくたち絶対に朝鮮なんかじゃない。日本に帰化したりっぱな日本人よ。あんたいけない、やめてもらう」とこういわれました。もちろん日本国憲法、基本的人権を高々と掲げた憲法がとっくに公布されているその時においてなお、日本国においては隣国の人たちにこのようなことを言わせないと生活させなかったということです。人間にとって大切なものは、食べ物、衣服いろいろありますが、私は人間としてのプライド、これが最も大事だと思います。アイデンティティなんてむつかしい言葉もありますが、その人間としての尊厳の根底を日本国憲法のもとで奪っていることに気づかない日本人とはなんであろうか、と私はわが身をふくめて深く反省をいたしました。

その朝鮮青年とは、余儀ない事情がありまして、2年間くらしをともにした後、別れざるを得なかったのです。身のまわりのものだけをまとめて、彼の前から姿を消しました。消しました後、私の胸に一つの問いが芽生えました。私は無知な女の子だったけれども、日本はこれまでアジアの国、アジアの人びとにたいしていったいどのような関係をもって今に至っているか。アジアの人たちからみると日本人はどのように見えていたのか、気になってならなくなりました。どうにか1つの勤めで自分のくらしを支えることができたものですから、本屋へいったり、大学の先生の講座に通ったりしてこの問の答を得ようと思いましたが、一般的な人間にもわかるそうした本、教えてくださる先生はいらっしゃらなかったんです。けれども私はあきらめませんでした。

それで、新聞の広告の裏に〝アジア〟と書いて、〝交流〟、「交わり流れる」と書き、そしてせめて近代日本女性史の中だけでも拾ってみたいと願ったものですから、間に〝女性〟というのをいれて、一番下に歴史の〝史〟と書いて、〝アジア女性交流史〟と。これを知るために、もちろん物書きのような大それた仕事ができるなんて思いませんでした。でも自分の生きてきた人生のなかでそのことを考え続けたいということにすぎないのですが、おかげさまでそのテーマで幾冊か本を送らせていただいております。

さて、アジア女性交流史。トップバッターとして登場するのが「カラユキさんと呼ばれた人たち」で、私は3冊の本を書きました。ありがたいことに欧米、今月はドイツ語訳がでますし、中国、韓国、タイなど5~6ヵ国の言葉に訳されて、みなさんが講演によんでくださいます。

その後に登場するアジア女性交流史、「大陸花嫁」、「従軍慰安婦」。全部「かっこつき」とお考えください。「内戦結婚」、いくつもございます。日本のこれまでの女性は近代以後、エリートとして生きることを許された女の人たちは、その教育、生活様式ふくめて女性解放思想にいたるまで欧米の影響をうけて今に至っている。ところがその真反対に底辺女性をふくめ、一般民衆として生きた日本女性は、アジア諸国の国ぐにに、そういう教養なんてなまやさしいものではなく、わが肉体を架け橋として交わって今に至っているということに気づきました。わたしにとっては大きな発見でございました。

9条こそ私どもの命でございます。

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