冒頭に高田さんから話もありましたし、そのあと、二人の講師の方からも話がありました。日本国憲法は五十三歳にして大きな岐路にさしかかっている。存亡の危機にさしかかっている。国会という国憲の最高機関に憲法調査会が設置されて以来初めての憲法記念日で、憲法調査会がこれからどういう方向で進んでいくのか、これとの関連でマスコミや国民の間で、あるいは各政党の間で改憲論議がどういう形で進行していくのか、私たちとしてはたいへん憂慮しながらこれを注目していかなければいけない段階にさしかかっている。一口に改憲論議と言っても、今日の改憲論議は一九五〇年代の改憲論議と少なからず様相を異にしてきている。私はあとでお話をしますが、改憲論の主流をなす部分の議論は、五十年代以来の改憲論と本質は代わらないと思います。
今日の改憲論には、たしかに五十年代に見られた議論と装いを異にした議論も提起されている。いまでている改憲論議をおおまかに分類すれば、みっつほどの流れ、あるいは傾向に分けることができると思います。ひとつは端的に自民党、自由党、あるいは保守党のサイドからだされている改憲論で、一九五十年代以来の改憲論の主流をなしてきたものです。この改憲論の特徴は、ひとつはさきほどらいでていますように、押しつけ憲法論をその柱のひとつにする。二つ目は、もちろん九条改憲論を中心的な眼目にする。この自民党や自由党、あるいは保守性利欲の改憲論者もかつてとは若干違った迷彩をほどこしている。それがたとえば新しい人権論の導入です。 一九九四年の読売の第一次改憲試案がだされた時点で、すでに環境権とかプライバシー権の規定を導入すべきであるという提唱がなされた。本日、読売新聞に発表された第二次改憲試案を見ると、さらに知る権利といったものもはっきりとした条項として書きたいとうたわれている。
ところが、この保守的な改憲論がたとえば新しい人権ということを言う場合には、あきらかに九条改憲を容易にするための迷彩でしかないと断定せざるをえない。しかも、新しい人権論ということを一方で言いながらも、そのような人権が言葉の真の意味における人権として保障されるような手立てをはっきりと憲法レベルで施しているかといえば、実はそうではない。規定上では新しい人権というものを書きながら、憲法規範としての実効性をなくするような別の手立て、装置をはっきりと用意している。そういう意味合いにおいて、五十年代の改憲論と本質的に変らない。あるいは明治憲法時代の人権感覚とかわらないような議論がそこに流れている。
たとえば昨年に文芸春秋誌に発表された小沢一郎氏の改憲論では、環境権や知る権利などの新しい人権論も導入されてしかるべきだと言っている。ご誌用地のように小沢氏は人権の総論的部分で、この憲法の保障する基本的人権はすべて公共の福祉、および公共の秩序に従う。公共の福祉および秩序に関する事項については法律でこれを定めるという形で、人権よりも公共の福祉、ならびに秩序が優先する形になっている。新しい人権を仮に規定したとしても、それは公共の福祉ならびに公共の秩序の下位のものでしかない。具体的に公共の福祉、ならびに公共の秩序をどうするかは、法律でいかようにも定めることができるのだ。
結局、この感覚は明治帝国主義きな、臣民の権利の感覚と同じだともいってよいと同じだと断定せざるをえない。本日発表された不読売の第二次案、この中に新しい人権と言われているプライバシー権、環境権、知る権利が書かれている。新聞を言求められた方は、第一面の見出しから、公の秩序重視を明示と書いてある。これは明らかに人権の内在的な製制としての公の秩序とは違った意味合いにおいて公の秩序、国の安全が使われ、そういうものとの調整に服する形で結果的には新しい人権ももちろん、従来の憲法で保障された人権も、国の安全と公の秩序によって制限されると書いてある。
もちろん読売の新聞を見ると、国の安全とか公の秩序を引き合いにだすにおいては、現行の公共の福祉の概念があいまいだからとか、国際人権規約をみても、人権制約のひとつの基準としてそういう言葉が使われているからと、国際人権規約を憲法に生かすために、そういう規定をもうけたと書かれている。
改めて国際人権規約を見ましたが、たしかに国際人権規約にも、そのような人権制約基準が書かれている。しかし、それは国際人権規約の中の、個別具体的な人権条項の中にかかれているのであって、国際人権規約のA規約、B規約の総体を制限する根拠基準として国の安全とか、公の秩序が書かれているわけではない。あきらかにそこで国際人権規約についての、おそらくは意識的に、意識的でないとすればこれを書いた人は国際人権規約のなんたるかについて無知だといわざるをえない。
まちがったもちい方をすることによって、このような人権制約基準が、まちがっていないのだ、国際的な動向にも見合っているのだという説明の仕方をしている。これは明らかに新しい人権の導入を言いながら、現行の日本国憲法よりもさらに後退させる形をもたらそうとしていると考えざるをえない。
さらにこの第一のグループに属する議論は、一方で新しい人権を言いながら、現在の憲法は権利の規定が多すぎる、義務や責任の規定が少ないということをかならず強調する。たとえば桜井よし子さんが「憲法とは何か」ということを書いていますが、ここで桜井さんは次のような言い方をしている。桜井さんも環境とか、知る権利など国際的な新しい権利について、憲法に書いてないのはけしからんといっています。その上で桜井さんは、日本国憲法を読んでみても、権利・自由という言葉がおのおの十六回と九回でてくるのに対して、責任と義務は四回と三回しか登場しない、文言からも日本国憲法は権利と義務を強調し、責任と義務を総体的に拒否しているのが見えてくる。学校や社会の崩壊の根本にはこのような憲法の歪みが影を落としているのではないでしょうか。そう言ったうえで、桜井さんの第七章のタイトルは「いまこそ十七条憲法、明示憲法の精神に学びましょう」というものだ。つまり新しい人権、環境権を憲法に入れましょうと言っている根っこには、実は明示憲法の精神に学びましょうということです。これが現在の主流派改憲論の本質です。かれらが新しい人権論というのを言ったとしても、それは単なる迷彩でしかない。その本体は旧態依然たる人権観念だし、欧米諸国ではすでに二百年前に明らかにされた、権利の保障こそが憲法典の中身だという考えからはほど遠い発想に彩られている。
そういう人権観念と同時に、結局は九条を変えることにねらいがあると考えざるをえない。これが現在の改憲論の主流をなしているということをはっきりと私たちは認識する必要があると思う。
今日の改憲状況を若干、複雑にしているのは、現在なされている改憲論議はこのような議論ばかりではない。二つ目の改憲論の傾向は、たとえば民主党の鳩山氏の改憲論がそれだと思う。民主党の人たちは憲法調査会での議論をみてもわかるように、自民党や自由党の人たちほど押しつけ憲法論を強調はしない。それはあまり言わなくてもいいではないかと、スマートになっている。しかし、九条は改憲する。それから新し人権の導入とか、首相公選論を積極的に言う。そして九条改憲について言えば、それなりのシビリアン・コントロールをそこに導入しようと言うし、新しい人権の導入についても、第一の主流派改憲論とは若干、異なった議論をする。鳩山氏が文芸春秋に発表した改憲試案は、「私は基本的人権は保障されなくてはならない第一番めのものであり、公共の福祉はそれにつづくものだと考えています。この点が総保守対ニューリベラルの端的な違いなのであります」と言う。
たしかにこの違いはある程度違いとして認識することが私たちも必要だろうと思います。
三番めの、あえて言えば市民派改憲論と名付けますが、ある種の改憲論の意見がある。今日、ここにご参加の中にも、心の中には自分もそうかも知れないと思う人がいるかもしれません。もちろん、この人たちはいまさら押しつけ憲法論などというナンセンスな議論に付き合うつもりはない。そして九条は生かしたい、護持したい、九条改憲は反対だ。それでいてやはり新しい人権は導入することが必要なのではないか、さらに言えば首相公選制ももろもろの直接民主制度も、国のレベルでも導入すべきだ。もし可能なら、第一章の規定も削除したい、そういう改憲論を提起したいというのが、第三の議論でありうる。
ここ数年来の世論調査で、「あなたは改憲に賛成ですか、反対ですか」という形で言われた時には「賛成です」と答える人が増えている。九条の改憲には反対だという人が多い。最近では「通販生活」などでもそうです。しかし、改憲には賛成だという人たちが少なくない。たまたまけさの日経新聞の世論調査では、改憲すべきだという意見が過半数を超えている。
その中身を見ると、環境権やプライバシー権など時代の変化に即した規定がないというのが四八%で、半数をしめている。ところが戦争放棄などを規定した九条が現実に合わないから改憲すべきという意見は二二・一%です。つまりこれがだいたいの現在の世論動向だと思います。
やはり新しい人権規定を導入すべきだという考え方は、半分近くの人がそういう改憲はいいのではないか、だけど九条の改憲は反対だとして、八十%近くの人は九条改憲に賛成はしていない。
分類した三つの潮流が、それぞれ違ったトーンを響かせながら、アンケート調査の場合は、結果的には全体として改憲に賛成というこたえを出してしまっている。そういう憲法状況に置かれていることを、私たち自身がきちんと整理しておく必要がある。
あえて言えば、第一に私的したいことは、改憲論のメインは第一の類型に属する改憲論だ。仮に新しい人権が導入されても、この第一の改憲論の前ではしょせんは公共の福祉による制限が広範にかぶるような人権にならざるをえない。そういう時に、私たちは、あるいは第三の潮流に属する改憲論者はどういう対応をすべきかということを私たちははっきりと自問自答しながら訴え続けていかなくてはならないと思います。
それに対して、憲法研究者の中にもいないわけではないし、一般国民の間でもありうるのですが、第二の改憲論がある。これは真面目に新しい人権を導入しようと考えている。しかし、同時に九条も変えたいというもの。第一よりはまだましではないかということですが、この種の議論について私たちが検討すべきことは、九条と新しい人権のバーターが果たして本当に日本にとって、国際社会にとってプラスになるバーダなのか否かを考えた時に、決してプラスになるバーターではないといえると思います。まいなすだと思います。そもそも私ども憲法研究者の立場からすれば、環境権であれ、プライバシー権であれ、知る権利であれ、現在の憲法を生かす形で解釈運用すれば、すでに保障されている。それを生かしてこなかった人は誰だったか。それは既存の政権担当者とそれに支持を与えてきた保守勢力の人たちではなかったか。とすれば、私たちはむしろ現在の憲法を基礎にして、新しい人権を法律なり、現実の運用のレベルで、さきほど新崎盛暉先生や角田由紀子さんは日常の場においてとおっしゃったが、そういう場で環境権、知る権利、プライバシー権を生かす運動を展開することによって、日本国憲法の中身をより豊かにすることができる。改憲をしないでも、そのように営みを真摯に行うことで、さらなる人権の拡充を行うと同時に、九条を維持し、生かしていくことを考える。新しい人権を憲法に置くがために九条を改憲しなければならないという必然性はないと思います。
それにたいして第三の考え方は、九条も、新しい人権もという考え方です。これはたしかに理想的にはそういう議論は十分に成り立ち得る。机の上ではそのような議論は十分、成り立ちうる。
ただ問題は現在議論されている改憲論議は、机の上で私たちが理想的な憲法とはどういう憲法かという議論、そのためには今の憲法をどういう条項を変えたり、付け加えたりすればよいか。そのレベルの議論として展開されているわけではない。具体的な政治状況の中で、第一、第二の改憲論議はそれぞれの国際的国内的な思惑をもったなかで、展開されている。その中に第三の改憲論議をぶつけて行った場合にどうなるのか。それは全体としての改憲論の合唱のパートを受け持つ役割を果たさざるを得なくなってくる。そして結果的には世論調査では、過半数の改憲賛成の中に客観的に位置付けられざるをえない。そしてそれらが増幅した形で、マスコミを通じて国民の中に伝わっていくという役割をはたすということをはっきる認識することが必要だろうと思います。しかもまた、この第三の形の改憲論は、ここ数年の間に、第一、第二の改憲論とまともに勝負をして、第三の改憲論が勝利をする現実的な可能性がいったいどこまどあるかということについても、私たちは冷静に考えておくことが必要です。そう考えますと、今日の時点で私たちが行うべきことは、現在の改憲論議にたいして、総体として「ノー」という、憲法改悪反対という声を結集し、そして人権保障や民主主義の問題は、いまの憲法をベースにした形で、現実の運動のレベル、法律や行政のレベルにおいて生かしていく努力を内外において全力をあげて展開していくことです。
角田さんもさきほどおっしゃったように、十四条について展開されたようなさまざまな営みを、二十一条とか、十三条とか、その他の人権規定を通して、やはり展開していくことが今日の大きな憲法的な課題になってくると思います。
問題は九条についてです。九条改憲論を積極的に展開する側の議論は大きくわければふたつある。さらにいろいろと分けることはできますが。
ひとつは北朝鮮脅威論を喧伝することによって、自衛隊の膨張化をはかり、それを正当化するための九条改憲論。
あとひとつは国際貢献論ないしは人道的介入論で、九条改憲をはかろうという議論です。しかし、北朝鮮脅威論について言えば、最近の石原都知事の「三国人が騒擾事件を起こすことが想定されている」という発想と、その根はったく同じです。客観的な事実に根ざさない形で脅威論をあおり、日本人の中にある民族主義を鼓舞し、結果的にはアジア侵略を彼のうならしめる役割を持つ。そのことが言葉の本来の意味でのアジアの平和や国際貢献に役立つのかといえば、決してそうではないということをいま一度確認することが必要です。
人道的介入論についてはさまざまな議論が可能ですが、たとえば集団殺戮や民族浄化について言えば、一九四八年に国連総会で採択されたジェノサイド条約が国際刑事裁判所の設置を定めています。法的な形でこの種の問題を解決する道筋をつくろうというのが、条約の中身です。そしてたしかに一昨年、国際刑事裁判所は条約で取り決められましたが、これに断固反対した、批准がなお容易でないのはどうしたのか。それはかたや武力による人道的介入論を展開している、とうのアメリカです。そこに人道的介入論が今日もっているギマン性が示されている。二十一世紀を戦争と殺戮がない平和な世紀にし、すべての人びとが恐怖と欠乏から免れて、平和に生きる権利を保障するためには、まさにそのことをうたった日本国憲法を維持し、これを内外において発展させることが、最良の課題だろうと思います。
私は憲法前文にある「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生きる権利を有することを確認する」という規定は、世界のどの国の憲法と規定しても、まさるともおとらない、もっともすぐれた人権規定だと思います。九条ももっともすぐれた平和条項です。
私はこのような形で二十一世紀の世界に貢献していくことこそ、私たちの最大の貢献策だろうと思います。そのような貢献をなしえなくするような九条改憲には断固反対し、同時にこれを生かしていくことを進めなくてはならない。
また結果的には九条や前文の改悪に利用されるような、それが主観的には善意ではあれ、改憲論に私たちは組することには十分に注意する必要があると思います。