この集会は四回目だと思いますが、私はずっと参加していますが、今日くらい人が集まったのは初めてだと思います。それだけ皆さんの危機感が強いのだろうと思います。
沖縄の状況を中心にお話をしますが、去年、一昨年は市民投票とかの直接民主主義と憲法を絡めながら話をしました。今日はできるだけ最近の状況をお話ししたいと思います。
沖縄ではいつ憲法記念日ができたかと聞いたら、どれだけの方がご存じでしょうか。たぶん、一桁くらいの人ではないかと思います。七二年に日本に復帰してからと思う方もいるでしょう。沖縄の憲法記念日が設定されたのは一九六五年です。当時、沖縄には琉球住民の祝祭日に関する立法がありました。これは六一年くらいにできました。この時に国民の祝日に関する法律と歩調をあわせる形で、琉球住民の祝祭日が決められた。その時に沖縄にだけあって日本にはないものがひとつ、それは慰霊の日です。もうひとつ、日本にはあって沖縄にないもの、それは憲法記念日でした。
つまり憲法は沖縄を抜きにして成立しました。憲法を審議する衆議院の選挙法が改正されて、男女同権で女性にも選挙権が与えられた、その選挙法改正の時に、沖縄選出の議員の議席が奪われることになった。一九四五年の十二月です。したがって憲法を審議する議会には沖縄選出の議員はいませんでした。しかも憲法それ自体が、象徴天皇制という形ではあれ、天皇制を維持することと、戦力の放棄が結びつき、それと沖縄の米軍支配が密接に結びつくなかで成立したと私は考えていましたし、いまでは一般的になりましたが、三十年くらい前に私が主張していた頃はあまり一般的ではなかった。
そういう中で日本国憲法は成立し、したがって琉球住民の祝祭日の中には入っていなかった。六五年に立法改正によっ憲法記念日が入りました。それは沖縄にはまだ日本国憲法は適用されていないけれども、平和憲法下への復帰をめざす沖縄の住民としては、当然、到達目標としての憲法記念日を設定すべきだという世論が大半をしめ、全会一致で決定されました。
同時にこの一九六五年は沖縄からふたつの違憲訴訟が提起された年でもあります。ひとつは原爆医療法、沖縄に住んでいる被爆者にたいしては原爆医療法の適用がありませんでした。もうひとつは渡航拒否に対する問題、沖縄は米軍の管理下にありましたから、沖縄からでたり入ったりする場合にはかならず米軍の許可が必要でした。つまりパスポートが必要でした。これは憲法違反だとして、ふたつの訴訟が提起された。
つまり憲法のない状況で憲法を自らのものとするために具体的な運動が起こされた時と、憲法記念日が沖縄に設置された年が一緒だったということは決して偶然ではない。
なぜふりかえって話をしているかというと、言うまでもなく憲法の問題はそれを自分たちがどう生かすかということと密接に結びついて初めて、意味を持ってくるだろうからです。
残念なことに、そういう沖縄の独自の歴史をふまえた権利の主張とか、そういうものを軸にして日本の在り方そのものを変えようとする動きと、日本の大きな流れの中に埋没していく、あるいは中央からの締め付けの動き、これが常に沖縄ではせめぎ合っている状況がある。
去年、私が直接民主主義や市民投票について話した時には、沖縄の独自性の主張がある意味では大きな可能性をもって提示されている段階でした。ことしはややそういう状況が逆転しているというか、やや押され気味になっている状況があるということを、残念ながら認めなければならない。これと日本全体の動きはパラレルになっている。沖縄は日本の縮図であると言われましたが、いい意味でも悪い意味でもいろんな問題点が濃縮されて見えるところがありますが、それが非常に顕著にでてきているというところもあります。
実はいま総理大臣になっている森喜朗が幹事長だった時代、つい最近の三月二十日頃、石川県の後援会の集まりのなかで、こういう話をしました。天皇即位十年の記念式典の中で、沖縄出身の歌手・安室奈美恵だけ君が代を歌わなかった。知らないわけではないだろうが、おそらく学校で教わっていないから歌えないのだろう。沖縄はいろいろ特殊な歴史を抱えているものだから、教組も共産党に支配されており、沖縄タイムスと琉球新報という沖縄のふたつの新聞も共産党に支配されているから、政府のやること、国がやことにはすべて反対をするというようなことを得々と話をした。それを朝日新聞が報道して、それが沖縄に伝わっていろいろと反響を呼んでいるし、森発言にたいする批判や反発の投書はいまなお、琉球新報や沖縄タイムスにつづいて載っています。またそれとは別な形の連鎖反応、森発言に呼応する動きが沖縄の中から起ってきました。
今日は一枚の資料を配ってあります。陳情書と書いたものです。これは「県の外郭団体など、あらゆる県の機関から一坪反戦地主などを役員から排除すべき件」という陳情書です。これについても朝日新聞などは報道していますから、こういう問題があったということはご承知だと思います。つまり沖縄県議会が三月三十日、この陳情を多数決で採択をしました。この持つ意味は、いま沖縄の問題を考えていくときに落とすわけにはいかないと思いました。これまでも各地の地方議会などが、君が代斉唱とか日の丸の問題とか、あるいは戦争責任の問題などについて、右翼団体等の陳情書を採択した例はかなりありますが、おそらく特定の思想信条、政治的立場に立つ人間を公的立場から排除しろという陳情書が採択されたのは、これが初めてではないかと私は思います。つまり、これまで沖縄はだいたい民主的・進歩的・革新的事例の先端を切ってきましたが、これはまったく逆の事例の最初のものになっているのではないか。
問題はいろんなところにあります。この陳情書そのものはよく読めばまともな文章になっていないようなものですし、陳情書はわざわざ憲法の十二条と二十九条を引用している。憲法を改正するのではなく、一坪反戦地主ねなどは存在そのものが憲法違反だと言っている。
これが県議会でなぜ採択されたのか。もちろん、採択したのは自民党、沖縄新進、県民の会という保守三派です。社民、社大、共産、結の会という市民団体的な組織、それに公明が反対している。ただ、こういう陳情書がだされたこと、それが企画総務委員会で三月二十四日に採択されたのですが、それを私たちが知ったのは三月二十九日でした。そしてこういう問題を知っているかと新聞に言ったら、新聞が資料を提供してくれという話になって、本会議が行われる日の朝刊は両紙とも一面トップに、この判然地主排除の陳情が採択されるだろうということが載った。問題は二十四日に採択され、二十五日の一面トップに載るべき記事が、五日間、寝ていたということです。
その企画総務委員会には公明党はいませんでしたが、社民党も、社大党も、共産党もいた。しかし、こういう問題が委員会を通って本会議で採択されるであろうという危機感をもって大衆的にアピールした政党、あるいは県議が一人もなかったということです。おまけに日本の新聞の中ではある意味でもっともましな新聞と言われている琉球新報、沖縄タイムスが、まったくこれを報道していなかったということです。ここにはおそるべき緊張感の欠如があるといわなければならないと思います。
この陳情書は去年の九月二十日に出されている。これを出しているところの会長と名乗っているひとは、しょっちゅう、こういうことをやっている。君が代斉唱だとか、日の丸を掲げろだとか、これを半ば仕事にしている人です。ときどきは選挙にもでて、何十票かを獲得するという人物です。おそらくこれ以外にも、こういう陳情書はたくさん出されているだろうと思いますが、少なくとも採択されたことはなかった。
採択されたあとで、いわゆる革新側の人びとは、こんなものが採択されるとは思わなかったと弁明しているわけです。三月二十三日まではそれでよかったかも知れないが、二十四日には委員会で採択されたわけですから、次は本会議だということはわかるわけです。無視できない状況だというのはわかるのに、なぜかぼんやりしていたということは間違いない。九月二十日というのは、ちょうど沖縄で平和記念資料館の展示内容を現在の県知事以下、県の幹部が改編しようとして大問題になって、結局は元に戻すということで、一件落着になる。そういう問題で県政批判がピークに達っしていた時期です。
この陳情書には「保守県政等リコールを企てたり」という言葉があったり、「平和記念資料館監修委員」などを具体的に上げて、そういうところから一坪反戦地主を排除しろといっていることからもわかるように、民衆運動に対する一種の危機感からこういうものが出されているわけです。
それが問題にされないできた。ところが、三月二十四日に突如として息を吹き返した。陳情書に賛成していた人も、実は十分に理解していたわけではない節がある。というのは、一坪反戦地主会などが本会議の日に、各会派を回って、こういうものに賛成するのかという話をした時に、これから検討するとか、よくわからないと言った人が自民、新進などの中にもたくさんいた。多くの人がなんとなく付和雷同で賛成した。ただ、中心的にこれをいま採択しようとして動いたひとが間違いなくいる。それは暗黙の連携か、明確な意思一致なのか。森発言と連動する動き、少なくともそれに触発された動きだと考えています。自民党の中で急遽、これを採択しようと動いた人は、一九六十年代にパスポートをもって沖縄から防衛大学校に入ったということを自慢にしている自民党の議員です。森発言などと連動させて、沖縄の大衆運動が低調になってきた時に、それに追い打ちをかける意図でだされたことは間違いない。
それにたいして受けて立つ側の緊張感がきわめて足りなかったことは明快なことだ。本会議で採択された時に、賛成討論はひとつもありませんでした。反対討論は一件だけでした。結の会の伊波洋一という議員がこれにたいして反対討論を延々とやった。彼ひとりです。なぜ社民党も、共産党も、社会大衆党も反対討論の申し入れをして、そこに立たなかったのか、そこが私が問題としているところです。
企画総務委員会で採択された時から、なぜ大衆に呼び掛けなかったのか。こういう事態になりつつあるということをアピールすれば、もしかしたら、その多数派も確信を持っていたわけではないから、これほどデタラメな決議が通ることはなかったかも知れない。一週間の世論形成の期間があったのに、それをみすみす見逃してしまった。新聞もまた、これを取材しておきながら、この中身の重要性を感じることなく、企画総務委員会で採択された陳情書を十把ひとからげにしてその中にひとつ入れていた。それが長すぎて、整理の段階でシッポのほうに削られ、見えなくなってしまったという話です。
われわれがそのことをやっと知って、これでいいのかと言ったら一面トップの記事になった。つまり問題があるぞといわれれば一面トップの記事にしなければならないような内容の記事であるにもかかわらず、取材段階では自主的に判断できなかった。
いまそういう事態が起ってきています。この決議が非常にバカバカしい内容であると同時に、たとえば石原都知事の「三国人」発言も荒唐無稽であるといえば いえますし、森幹事長の沖縄部別発言もそうですが、そういうものが罷り通るという、通してしまう社会の緊張感の欠如ということを私たちはいまもういちど自らが点検し、憲法の問題とは憲法の改正とか、憲法調査会の問題だけを問題にするのではなくて、われわれがいま日常に生活しているあらゆる局面でこういう問題がでてきているからこそ、憲法改悪の問題などが浮上してくる。その身近なところで問題をとらえ返す必要がどうしてもあるのではないかと感じています。
ある意味で、これは沖縄の恥をわさらすような話です。去年までは自慢をするように話をした。しかし、今日はわざわざマイナスの面で日本の縮図である側面を沖縄がもっているということを、わざわざ東京でみなさんの前に話をしている。自分たちの力量の足りなさを表明しているようなものですから、あまり私自身としても気持ちのいいものではありません。しかし、その縮図を通して、みなさんにも見るべきものを、一緒にみていただきたいという思いがあるからです。
もちろん、こういうものに対しては、われわれとしてはこれからきちんと反撃していかなければならないし、こういうことを見過ごしてしまった政党の緊張感の欠如を批判しながら、一緒に戦線を組なおしていかなければならないと思っています。
そういう事態がもしかしたら、いま日本のあちらこちらである。これは沖縄的な表れ方です。一坪反戦地主に、森首相の言う共産党と同じレッテルを貼ることで排除しようとする動きが沖縄で表面化してきたということを通じて、ぜひみなさんにも、われわれの日常の場から、われわれの体制を建てなおしていかなければならないということを呼び掛けるひとつの材料として、提供させていただくことにしたわけです。