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雑誌『世界』三月号に作家の辺見庸氏(以下敬称略)が「抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか 閾下のファシズムを撃て」という論文を書いている。
辺見は現在進行しつつある「戦後史上最悪の首相とその好戦的な取り巻きども」による「この国の戦後のなりたちを根本から崩す一大破壊行為」ともいうべき重大局面に対して、「抵抗」の側がその思想性においても、形態においても、規模・数量面においても、はるかに「釣合っていない」ことを嘆き、この一年余り繰り広げられてきた「WORLD PEACE NOW」などの新しい反戦運動を「私たちのファシズム」として指弾している。その危機は人々の「怒り悲しみの基となっていた人間的『固体知』のようなものが、埒もない『メディア知』のようなものに修正されたり閉めだされたりしている」故だとする。そしてこの「メディア知はおそらく国家意思に重なる。両者には共犯の関係がある。…マスメディアという閾下の犯罪装置に私たちの識閾が連なっている」と表現する。
そこで辺見は「覚めてあやかしの閾を撃て」といい、撃つための方法は「メディア知や国家意思(国家知)を徹して疑う。怒りの内発を抑えない。一人ひとりが内面に自分だけのそれぞれに質の異なったミニマムの戦線を築く。そこから街頭にうってでるか。いやいや、街頭にうってでるだけが能ではなかろう。どこにも行かず内攻し、内攻の果てに自分の日常にクラックを走らせるだけでもいい。この壮大な反動に見合う抵抗のありようを思い描かなくてはならない。ときに激しい怒りを身体で表現する」ことであり、そうしたら、いつかまた(一九六八年の国際反戦デーのデモのように=引用者)路面がゆらゆらと揺れる日が訪れるのだろうか」という。
辺見はかつて自らも身を置いたマスメディアの世界に絶望して退職し、作家となった。それゆえ彼のメディア批判は激しいし、正当性が多くある。しかし、それにしても虚仮おどしの難解な用語を駆使して、今日の「抵抗」運動を頭から否定したうえで辺見が提起した対案がこのように単純で素朴なレベルのものに過ぎないのはどうしたことだ。
この現在行われている反戦運動の否定と、辺見の素朴な対案の間をつなぐ思考として語られるのは、以下のような辺見一流の驚くべき思想的退廃とニヒリズムによる絶望でしかない。
「なんの意味もない言い方だけれども、戦後と一緒に生きてきた。私もこの国も、本気では一度も自省せず、真剣には一回だって自己変革せず、なにかばかげたことを何度も何度も繰り返してきたような気がする。このばかげたことの<果てのない繰り返し感>が、体内の疲労感や徒労感にそっくりそのまま重なる。暗愚の拡大再生産。智慧の縮小再生産。この飽くことのない繰り返しのなかで、齢六〇になんなんとする私は、このまま私自身でありつづけることにも、正直、何年も何年も前から飽き飽きしている。そうした自分へのそこはかとない蔑みの気分が年中抜けない。それ以上に慎みも節操もなく変容しつづける世界への侮蔑の念がどうしてもぬぐえない」「赤錆だらけの私と言う廃船の最後の仕事として、壊れるまで闘っていいはずだ。それは自明である。だがかならずしも私はそうなってはいない。たしかに私は怒っている。しかし、憤死にはほど遠い。たぶん歳のせいではなくなんとなく大儀なのである。…どこか他人事のような、そして怠惰な思考のプロセスの帰結として、余儀なく怒っているふしがあるのだ。いわば、私は自身を折伏し、あるいは自己に命じてしぶしぶ怒っているようでもある」
「徒労感」と「なんとなく大儀な」「怠惰な思考」などなど、辺見はここまで卑屈に自己を貶めて自らへの反批判に対する防御線を張った上で、「一方…」という。「自衛隊派兵への怒りは、本稿執筆の時点で、よそから(引用者…具体的には「どこから」だろうか)私のところへかすかな波動としては伝わってきてはいるが、勢い盛んな弾性波としては伝播してきていない。なぜなのか」と再度、運動の現状批判に転ずるのだ。
読むに耐えないような辺見の文章を長々と引用した。また同様の文章が都下の某市の市民集会での講演要旨として、社民党の機関紙『社会新報』二月十八日号の最終面全面を使って掲載されている。
実はこのような辺見の論調は、辺見と同様に六〇年代後半から七〇年代初頭の日本の反戦闘争を闘った経験をもつ、運動圏の周辺の一部の人々の気分を捉えている。これらの人々は現在の反戦運動を見て、辺見と同様に過去の「栄光」の思い出に浸りながら、「辻褄が合わないな、なんだか間尺に合わないな」と愚痴り、あるいは非難する。いわく、「あの時代の経験が受け継がれていないのはなぜだ、これは問題だ」と。これらの人々は怒りや不満はあるが、自ら行動するのはなんとなく大儀で、いらだっている。
辺見は「マスメディア」も「私もあなた」も「怒り」を失ったことが問題だと指摘しているように、「怒り」はこの辺見論文のキーワードだ。だがこの指標は決定的にずれている。問題は「現実に対して怒る」かどうかにとどまるのではなく、先人の哲学的警句に従えば、肝心なのは「現実を変革するための努力」なのだ。辺見にはこの立場が欠けているだけでなく、ちょっとポーズを取りながらそうした努力を冷笑するだけだ。
この辺見の「怒り」の意味するところは次のような言葉で明瞭となる。「暴言、妄語、傲岸不遜をとったら何も残らないような人物だから、きわめて不快ではあったけれども、石原慎太郎がそう語ったという事実に私はいちいち驚きはしなかった。私が驚愕したのは、知事の妄言にマスメディアも世間もさほどには怒らず、この希代未聞の暴言者が依然胸を反らせて公職にとどまっていられるということであった」と。ところどころで辺見は「私もあなたも怒りを失った」ことが危機だと申し訳に書いているが、その実、問題は「私」にはなく、「世間」の愚かさにあるという鼻持ちならないことを言っているにすぎない。
辺見のこうした論調は実はこれが初めてではない。昨年はじめ、イラク攻撃に反対する反戦運動がようやく、全国各地で生まれ始めた頃、辺見は週刊誌『サンデー毎日』(二〇〇三年二月九日号)で、今回の『世界』の論文とまったく同様の文章を書いた。
そこでは昨年の1・18で日本海側のどこかの町で辺見の友人が「たったの百人も来ない」デモに参加し、公園で「犬の糞を踏ん」だままデモにでた、「シュプレヒコールをするでなし、ジグザグ行進をするわけでなし、ジョン・レノンだかだれかの曲をスピーカーから流して歩道をただそぞろ歩くだけの、うそ寒く、しょぼくれたものだった」という手紙をもらったことに関連してこう書いた。
「(私も昨年来、有事法制反対のデモなるものに何度か参加したが)」示威行進のはずなのに、怒りの表現も抗議のそれもさほどではなく、なぜだか奇妙な陽気さを衒う、半端な祭りか仮装行列のようなおもむきのものが少なくなかった。児戯、滑稽、あほらしさ、恥ずかしさ、むなしさ……。いっそ隊列から抜けだしてしまいたい衝動に何度もかられた」「それにしても、昨今のデモのあんなにも穏やかで秩序に従順な姿、あれは果たして何に由来するのであろうか。あたかも犬が仰向いて腹を見せ、私どもは絶対にお上に抵抗いたしませんと表明しているようなものである」「なぜあそこまで『健全で温和な市民』を装い、非暴力と無抵抗を誇る必要があるのか。武断政治を旨とする巨大国家の途方もない暴力を前にして、ジョン・レノンやらP・P・Mやらのそこの浅い感傷など米英列強の暴虐にたいする別の意味の肯定のようなものですらある」「ばかげたお焼香デモにもつきあう。私はそのなさけなさをぽくぽくと食う。すると、陰熱(ひどく冷めた殺意に似た心意…辺見)が静かに体いっぱいに広がるのだ」と。
辺見とその友人は、それまでほとんどデモもなかったであろう街で百人のデモが行われたことの意味が分からない。有事法制反対を掲げて陸海空港湾労組二〇団体や宗教者、市民の共同行動が成立して、何波にもわたるデモが組織されたことの意味を辺見は考えようともしない。
そしてこんなものは米英の暴虐の肯定だとまで悪罵を放つ。
しかし2・15の千万人以上の全世界のデモが起きると『サンデー毎日』三月九日号では「予感は大いにあった。だが、いざはじまってみれば、まさに無量無辺、気もかすむほど限りのない人間の大海原であった。…もっともたしかな流れ、それはジョージ・W・ブッシュとその追従者たちに、もはや未来はなくなったということだ。じつによろこばしいことではある」とのべた。もっとも辺見は「いまさらたまげて、私が翻然これまでの悲観を悔い改めたのかといえば、まるでそうではない。何千万人がデモをしようとこの世の有為無常が終わるわけでもない」と付け加えたが。そして「一般的反戦のお題目程度なら子どもでも唱えている。きょうびちょっと気のきいた犬やブタは『イラク攻撃反対!』くらいはほえてみせるのだ。つまり、反戦なんてだれにでもいえる。…やはり、デモの『量』を」やみくもに競うのではなく、試行錯誤しつつひたすら反戦の『質』を求めてこそ思想の世界は開けてくるのではないか」とつけくわえるのだ。
ああいえばこう言うの類で、反論は必要ないと思う。
しかし、その後、三月二一日の五万人集会を頂点に急速に高揚した市民運動を前に、辺見はなぜかこの手の批判を控えるようになった。一方、昨年夏から秋にかけての反戦運動は「実際に米英軍のイラク攻撃を止めることができなかった」こともあって、国際的にも、また日本でも一定の停滞期に入った。
これがようやく秋から冬にかけての段階で国際的には米英軍などのイラク占領反対の課題を柱に、日本では自衛隊のイラク派兵反対の課題を加えて再度、反戦運動は高揚し始めた。そして一月二五日には日比谷公園にWORLD PEACE NOWによる六〇〇〇の人々を結集した集会とパレードが行われた。辺見の今回の文章はこれに参加した経験をもとに書いている。さらに二月十三日には明治公園に労組や市民、宗教者などによる実行委員会が呼びかけで一二〇〇〇の人々が結集してイラク派兵反対、有事法制反対を叫んだし、三月二〇日、米英軍のイラク攻撃から数えて一年目の国際同日行動には、全世界の人々に呼応してさらに大きな規模の集会が開かれようとしている。
そしてこの3・20の行動はWORLD PEACE NOWなど市民運動が呼びかけて、きわめて初歩的ではあるが、この国の労働組合運動の業病であるナショナルセンターの違いを超えて労働組合や政党系の運動なども市民運動と同一会場に結集するという、この一年余、実現できなかった画期的な反戦行動として組織されつつあるのだ。
辺見は「九二年くらいだったか、私は(PKO法)反対デモに参加したことがある。記憶する限り、道が揺れることはまったくなかったが、いまよりはよほど緊張感のあるデモではあった。人々の足取りに憤慨があった」という。しかし、このPKO反対闘争の時期を含めて、日本の反戦運動は長期の困難な停滞期の中にあった。これにソ連・東欧圏の歴史的崩壊が重なった。これらの時期を通して、共産党系などの組織動員による集会があったことは否定しないが、この間、マスコミが表現した「個人参加のフツーの人々」が大規模に参加するような運動局面は現実問題として作れなかった。反体制の左翼運動と、民衆の平和運動の長期的な停滞期だった。
この傾向はあの「9・11」以降の運動にも引き継がれた。
この三〇年弱の期間、反戦平和運動や新左翼、旧左翼運動への青年層の参加はきわめて少なく、年配者たちは集まればそれを嘆きあった。帝国主義として世界の富を収奪するこの国は、国内の人々の意識にすでにそのような状況を作りつつあったのだ。辺見が「私もあなたも、怒りをつかさどる感官が機能不全に陥っているのではないか」などと問う状況は、表現は別として今に始まったことではない。しかし、これは嘆いても始まらない。問題はこの状況をどのようにして克服し、巻き返すのか、帝国主義の中にあってその足元を掘り崩すための具体的な道筋づくりと展望の提起なのだ。
9・11以降、そのすさまじさに衝撃を受け、これまで反戦運動とはほとんど無縁だった一部の若者たちが、インターネットを駆使して連絡をとりあい、「ピースウォーク」を渋谷などの街で組織した。その若者たちはCHANCEと名乗った。その斬新さに魅力を感じ、自らのアフガン反戦の意思を表明する場として、一時期、若者を中心にかなりの人々がここに集まった。従来の反戦運動の系譜とはまったく別のところから登場したこの若者たちが、そうした経験を持たないが故に、パレードを組織するときに、都の公安委員会と警察の指示するデモの許可条件をかたくなに遵守しようとしたり、警察の誘いに乗って食事をしたことなどがあとで運動圏の一部から問題にされるということも起こった。
一方、九〇年代に厳しい環境ながら反戦運動を堅持してきた市民や宗教者も少数ではあれ行動を続けていた。運動圏の一部には9・11を「ジハード(聖戦)」とか、「反米民族闘争」として評価した部分もあったが、市民たちはこうした観点とは一戦を画し、「(無差別の)テロにも(ブッシュによる)報復戦争にも反対」というスローガンを掲げ、「市民緊急行動」と名乗って直ちに行動した。九月十七日には国会に向けたデモが組織された。これは「9・11」に衝撃をうけ、足がすくんでいた(当時、日本共産党すらしばらくは態度表明ができなかったほどだった)一部の人々を励まし、行動に立ちあがらせた。
しかし、こうした市民によるアフガン反戦運動は東京では最大でも二千人程度の規模にしかならなかった。
ソ連を倒して世界の単独覇権者の地位に立った米国の支配と権威は9・11で大きな打撃を受けた。あせったブッシュ大統領は自らが勝手に名指しした「悪の枢軸国」への「先制攻撃戦略」という、国際法を無視した西部劇的帝国主義の論理で、その「反テロ・報復戦争」の戦火を世界に広めようとしていた。日本の小泉首相もこれに従い、「日米同盟堅持」を掲げて不戦の憲法の枠を突破し、海外派兵と米軍戦闘支援という事実上の集団的自衛権の行使に踏み切りつつあった。
米国の先制攻撃戦略とこれに追従する小泉政権の危険な政策に対抗する「新しい反戦運動」の構築は緊急の課題であった。その課題は「戦争をとめる」ことだった。これまでの反戦運動が、起こった戦争に反対する運動であったのに対し、起こされようとしている戦争をとめるという新しい運動だった。
従来の市民運動の潮流と新しい市民運動の潮流は違いを乗り越え共同する必要性で一致した。二〇〇二年十月二六日、わずか七〇〇人の規模ながら、「市民緊急行動」と「CHANCE」による初めての共同行動が渋谷の街で実現した。共同するなかで二つの潮流は互いの「流儀」の違いも改めて知りながら、以降、会議やインターネットでの議論を重ね、互いに学びあいながら合流していった。WORLD PEACE NOWはこうして生まれた。
WORLD PEACE NOWには、現在、従来の反戦運動や9・11以降の反戦運動、国際的なNGO、宗教者、環境団体など分野や世代の違いを超えて四七団体が緩やかなネットワークを作り参加している。共通点は(1)もう戦争はいらない、(2)イラク攻撃に反対、(3)小泉内閣がこれに加担することを許さない、(4)非暴力の行動、などだ。
付記しておくが、ここで掲げた「非暴力の行動」という原則は、「(この行動においては)互いを誹謗中傷しない」という約束とともに九〇年代後半に労働組合や市民運動で組織された「周辺事態法」に反対する「戦争協力を許さないつどい」の一連の共同行動のなかで基準として確認されてきたもので、それはその後の「有事法制反対」の市民や労働組合の共同行動の原則にも引き継がれていた。そこでは警察の挑発に対する不必要な反撃行為や、集会に集団としてヘルメットなどをかぶって示威的に参加することなどもご遠慮願うことにされた。WORLD PEACE NOWの申し合わせはこのながれと、CHANCEなどの非暴力行動原則が一致してできたものであり、いわゆる「非暴力主義」とは次元がことなるものだ。この間の経過を知らない人の一部が、「WORALD PEACE NOWは、非暴力抵抗の思想の何たるかも知らず、矮小化している」などと説教するのはピントがずれているのだ。
WORLD PEACE NOWは「イラク攻撃をとめたい、日本政府の加担を止めさせたい」という思いで切実であり、その可能性を真剣に追求した。当時、戦争が始まる前に戦争を止めようとの思いをもって全世界の人々が立ちあがったが、期せずしてWORLD PEACE NOWの運動はそれにぴったりと呼応していた。別様にいえば、あらかじめ想定されたことではないが、全世界の反戦運動の高揚の日本における受け皿となり得たのだ。内ゲバ主義の後遺症から立ちあがれていない日本の青年学生運動の停滞、労働組合の分裂と後退およびそれへの市民の不信感、政党の党利党略による運動の引き回しへの不信などによって、これとは一線を画すという欧米とはかなり様相を異にする条件にあった日本の反戦運動ではあるが、ともかくも受け皿が成立した。そして二・十五〜三・二一をはじめ国際的な共同行動に呼応する日本での反戦運動が登場したのだ。
当時も、そして現在もマスコミや一部の人々の間では、日本の反戦運動の規模が欧米のそれと一桁規模が違うのはなぜかなどという論議がある。まじめに語るのならいいが、往々にしてそれらの多くはタメにする議論だ。
過去の栄光を懐かしがる世代の人々の一部や、辺見のような論者には不満であろうが、WORLD PEACE NOWに結集した若者たちは、反戦運動への参加者の裾野をいかに広げるかにかなりの比重を置いて心を砕いた(こういうと辺見などは「数だけを追っている運動は間違いだ」などというのだが。「数だけを追っている」のは間違いだとしても、数も追わなければならないのは確かだ。とても「数も追わない」者が言えることではないのではないか)。デモを「パレード」と言い換え、シュプレヒコールの形態も、スローガンも工夫した(たとえば防衛庁への抗議行動の横断幕には「自衛隊さん、イラクに行かないで、殺さないで、死なないで」と書いてあったという具合に)。プラカードはなるべく参加者個人の意思を表明するよう、手作りを推奨した。横断幕をバナーといい、ビラをフライヤー、集会をトークラリー、デモの「梯団」は「連」という「造語」を使った。表現の仕方も工夫し、ミュージシャンや美術家、舞踊家などの参加も求めた。イラク戦争反対の意思を持った多くの人々の目に触れるようにと、なけなしの資金をはたいて新聞広告などにも何度も挑戦したし、マスコミ対策をも工夫した。元日には明治神宮や渋谷のハチ公前でパフォーマンス付の宣伝もしたし、駅のプラットホームで反戦のプラカードを掲げる若者も出てきた。「玄関でたらピースパレード」を合言葉に、街や電車の中でも時間を惜しまずに反戦のアピールをする人々もでてきた。ポスターやワッペン、バッチ、Tシャツなどもたくさん作られた。インターネットを駆使し、宣伝の領域を大胆に広げた。
「こんなデモ(主催者は、デモの語感は不穏だとでもいうのか、ことさらに『パレード』と称していた)に加わったこと自体、軽率過ぎた気さえしてくる」とも書いている。「なぜデモといわないか?」こんな簡単なことは主催者に聞いてみればわかることだが、辺見は聞くつもりもない。そして勝手に「不穏だから」と思わせる。
主催者の多くは、別に「デモ」であることを否定はしない。すでに述べたように、長く使われてきて一定のイメージができあがっている「デモ」という表現によってではなく、人々に訴えたいと言う意欲がある。この間、ピース・パレード以外にも、ピース・ウォークとか、ピース・マーチとか、ピース・アクションなどさまざまな表現が各地で試みられている。
それは辺見が意図的に使う「不穏」の故ではない。従来のデモのなかにあった一種の独り善がりの傾向から脱却し、できるだけ反戦の意思を持った多くの人々が一緒に行動できる表現にしたいという努力の一環だ。実際のところ、「デモ=示威行進」ということで、少数のデモ隊が、街を「戦闘的」にジグザグ行進などをすることで、街の人々との間に高い壁を作ってきたことはなかったかという反省もある。]
現在の反戦運動の行動形態に関して言えば、世論の過半数以上者反戦の意思を、いかにして行動に合流させうるかということだ。二〜三〇〇人のデモが、ジグザグ行進したからと言って、しない場合より質的な違いがあるとは思えないからだ。巨大な人々の「戦闘的デモ」はその量的規模からくる普遍性によって、街の人の共感を獲得するかもしれないが。
繰り返すが、この工夫は辺見のいうような対権力の問題のためなどではなく、世論の多数をしめる人々といかに結びつくかの真剣な努力だった。運動者なら誰でも考えるが、しかし、その困難性や慣れが妨げ、おざなりにしかやられてこなかった問題への挑戦であった。
辺見はこの運動を罵倒するのに、よほど気に入っているのか「犬の糞」を小道具として使う。『サンデー毎日』でも『世界』でも「犬の糞」がでてくる。そしていまの反戦運動は「犬が仰向いてやわらかな腹を見せて、絶対に抗いません、どうぞ自由にしてください」というような、「なぜそんなに平穏、従順、健全、秩序、陽気、慈しみ、無抵抗を衒わなくてはならないのだ」と攻撃する。
辺見によればこうである。「行進する人の群れのなかには、茶色のミニチュアダックスフントとともに歩く若いカップルもいた。犬は長い腹に『NO WAR』と記された腹巻きをしていた。その犬が突如、道端に糞をした。群集が笑った。優しく笑った。カップルも笑った。幸せそうに笑った。糞をビニール袋に始末し、カップルはいつの間にか犬ごと消えた。まるで最初からここにいなかったようにすっと消えた。消えても、この行列の景色は少しも変わらなかった。減りも増えもせず、軽くも重くもならず、私としてはただ終始気だるく、ひどくきまりが悪いのであった」。ここで辺見が言いたいことは何だろうか。そしてこうも言う。「交叉点の信号が赤になり、行列が止まった。じつに率直なものだ。『私たちはイラク派兵に絶対反対します』と書かれた最前列の横断幕も歩みを止めた。その前で、皆が笑顔で記念撮影している。互いに携帯電話で撮りあい、その写真をすぐに誰かに送信したりしている。だれもが自己身体の部位の一部のように携帯電話をも持っている。…あれほど携帯を難じた私もまた。…政治の三百代言にも簡単に騙され、慣れ、欺モウにもさして怒らない体質になりつつある」と。これは長いパレードの一部で実際に在ったことかもしれないし、作家の辺見が創作したことかもしれない。それ自体はどうでもいいことだが、この日の参加者を『世界』では三〇〇〇人と書き、『社会新報』では五〇〇〇人と書く作家の辺見のことだから、創作のにおいが強くする。問題は辺見がこのパレードを「犬が糞をする行為」になぞらえていることだ。
そしてさらに七〇年代のデモがたいていは新左翼党派の「指導」によってその大衆的普遍性を失い、一部は意見の相違を暴力で解決しようとするいわゆる内ゲバに突き進み、その結果、一〇〇人を超える死者とこの何倍もの重軽傷者を出したという悲劇的な歴史がある(一部の拠点学生自治会がこれらの誤りを清算しきっていない党派によって牛耳られていることが、学生の反戦運動の低迷の一因であることは否定しきれないだろう)。さらに一部の者たちは誤った前衛主義による「武装闘争」に突き進み、凄惨なリンチ殺人事件まで引き起こした。辺見が「この時代、いずこにあっても議論、争論、激論のたぐいが、まるで忌むべき病のように避けられていることも知っている。怒りでも共感でも同情でもなく、嘲りや冷笑や、せいぜいよくても自嘲が話に常につきまとい、議論の芯のところをすぐに腐らせてしまう時代であることも知っている」などと言うとき、自らは「争論」「激論」のたぐいが内ゲバまで突き進んだというこの悪しき歴史にどのように立ち向かうのかを明らかにする責任がある。「冗談ではない」という文句は辺見に熨斗をつけてお返ししなくてはならない。少なくとも筆者が知っている辺見庸にはその責任があるし、これについての辺見の真摯な総括的な発言のあるのを寡聞にして知らない。私は辺見と同時代を別の「世界」で生きてきたが、この歴史の清算の責任の一端を引き受けるつもりだ。
辺見もそうだが、他にも今日の若者の間で「議論が少ない」のを嘆く年配者がいる。それらの議論の大方はまじめに日本の反戦運動の状況を考えている。
たとえば辺見論文が掲載された『世界』の同じ号に国際問題評論家の北沢洋子氏が「世界は地のそこから揺れている」と題して、世界社会フォーラムの報告を書いている。
その結びに近いところでこう言っている。
「世界を揺るがしている反グローバリゼーションのデモ、地球を一周したイラク反戦の波、そしてマンモスの世界社会フォーラムは、すべてインターネットによって組織されている。しかし、このインターネットは、なぜか日本を素通りしている。…なぜ、日本はこのように世界の現状に取り残されているのだろうか。なぜ日本の市民社会はおとなしいのだろうか。私は、七〇年代以降、日本の市民社会が、自ら考え、議論し、行動することを止めたところにあると思う。それまで、市民社会の代弁をしてきた左右の政党も機能停止状態に入ってしまった。…私は、このような目を覆うような悲惨な状況を変えるためには、今『議論を起こす』ことが必要であると思う。ムンバイでは、世界中から一〇万人が集まって、六日間も議論をした。今からでも遅くない。日本中で議論を巻き起こそう」と。
北沢氏が「波が日本を素通りした」というのは承服できないが、すでに述べたので省略する。北沢氏の危機感と同様のものは私も持っている。だからこそ微力を尽くしてきたつもりだ。そして市民社会だけでなく、野党の中の対立と、党利党略などによる市民の側からの政党不信の問題もこの間の努力で徐々に解決の方向が見えてきている。
「議論を起こす」ことは賛成だが、そこに生じた意見の違いを暴力に訴えると言う過去の歴史に決着をつけることなしに、北沢氏がいうような「議論」の成立は容易ではない。どうしても「実力部隊」を持って恫喝する人々との論争を正常に行うことは困難だ。この下では議論がいびつになることは避けられない。
「議論」を提唱する人々は、まず第一に真剣にこの内ゲバという問題の解決のために闘わなくてはならないのではないか。それは「議論」における最低限のルールつくりだろう。ましてこの問題は単に過去の問題ではなく、一部のグループは依然として現在も生きた方針として引きずっている問題なのだ。
加えて「日本の運動の停滞」を論ずるとき若者たちの「優しさ」を年配者がなじるのは見苦しいかぎりだ。その過不足は論ずる余地があるにしても「優しさ」を否定したり、嘲笑する反戦運動、市民運動、民衆運動は自己矛盾であることについて説明が必要だろうか。辺見のような皮肉屋にはわからないかもしれないが、私は戦争への怒りと人への優しさは比例すると考えている。徹底したやさしさを持つものが徹底した反戦主義者なのだ。「優しさ」をどのように表現をするのがいいかの議論と実践的な試行錯誤は必要だが、これを世代論で切って捨てて「いまの若い者は」などといって納得するのははやめたほうがいい。いまの運動に議論が少ないと年配者は嘆くが、第一、どこを見ての話か。第二にはたしてそれは「優しさ」の故か。「冗談ではない」。少なくともWORLD PEAC NOWに関して言えば、その批判は正当ではない。インターネットでの議論も簡単に否定してはならないし、会議などでも、それ以外の場でも熱心な議論がされる。要するに、これらの批判者の言は「自分の関心事」「自分が議論したいこと」での議論があまり盛り上がらないことの不満に過ぎないのではないか。
ともあれWORLD PEACE NOWの反戦運動はごくフツーの人々、これまでは反戦の意思表示をしてみたいとは思いつつも、なんとなく敷居が高く躊躇していたような人たちを含めて、二〇数年ぶりに東京の市民運動の場で数万の人々を集めたのだ。辺見は前出の『社会新報』で「先日、日比谷野音の集会は五千人くらい集まっただろうか。主催者の一人が参加者数について非常に満足げに話していたが、私は全くそう思わない。一ケタ、いや二ケタ違うと感じる」などと言っている。言うだけなら簡単だが、昨年春の五万から、夏には六〇〇になり、秋に二〇〇〇となり、暮れの教育基本法反対集会が四〇〇〇、そして一月十一日が一二〇〇と変化してきて、ようやく一月二五日に六〇〇〇人の結集となった。これをどうするかなのだ。主催者は誰もこの規模で満足していない。
辺見が悪罵を放っているように、「権力に対して寝転んで腹を見せたい」のではない。同じ反戦の意思を持つ多くの人々との間の垣根を低くし、それらの人々に参加を呼びかけたいのだ。運動の形態は巨大な民衆の流れの中で発揮される総合的な意思で決まるだろう。それと離れて、ことさら形態を先鋭化する必要もないし、ことさら穏健化する必要もないのだ。一部から非難されているデモの公安委員会の五列縦隊一車線という規制の受け入れにしても、WORLD PEACE NOWに特有のものではなく、この三〇年来の運動の過程での彼我の力関係の結果に過ぎない。これに関連して、よく言われるのは「なぜ、六〇年安保のように何万ものデモで国会を取り巻くような方針を出さないのか」という非難だ。当時と異なり、現在では国会包囲デモは公安条例などで禁止され、請願行進(六〇年安保全学連はこれを『お焼香デモ』と揶揄したが、一般論では言えない。人々が求めており、突破を可能にするような主体的条件があるならともかく、そうでない場合、これは実力による突破を回避した上で考えられた智慧なのだ)しか許されていない。
そうした法令の不当性を確認することと、目前の方針(いわゆる戦術的判断)で、それを拒否するかどうかは全く別のことだ。その行動によって何を獲得したいのかと言う冷静な判断が必要なのだ。一部の人々が攻撃するCHANCEなどの若者たちの多くは、運動を積み上げてくるなかで学び、すでにこのような理解に達していると私は思っている。
パレードの「明るさ」の批判についても言っておく必要がある。辺見は時代劇の役者のようにいつも苦虫を噛み潰したかのような、あるいは「糞を踏んづけた」ような深刻な顔をするが、そればかりがいいとは思わない。若者たちの反戦の行進が明るいのは、いまこの隊列のなかで思いっきり自己の反戦の意思を表現できていることへの満足感や、道路で支持してくれる人々への連帯感の現れでもあるのではないか。それともイラクで人殺しが行われているのに、微笑んでいる場合じゃないよとでも説教するのだろうか。一般に「明るさ」は若者の特性であり、年配者がそれゆえに非難することではない。
WORLD PEACE NOWの運動がこの先、どこまでの地平を切り開くのかはわからない。しかし、これが全世界の人々のねがいである戦争も抑圧もない社会に向かって、その一翼としての日本の反戦運動に一ページを刻みつつあることは疑うべくもない。
たしか、こんな寓話があったはずだ。エーゲ海のロードス島からきた者が、自分はロードスにいたときはとても高く跳べたと自慢するので、それを聞いた人が言った。「跳べ、ここがロードスだ」。
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