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民主党枝野議員への公開質問状

民主党衆議院議員枝野幸男様

許すな!憲法改悪・市民連絡会

「憲法改正国民投票法」に関する質問

日頃のご活躍に敬意を表します。
貴下は民主党内だけでなく国会においても憲法問題で重責を担っておられますが、今年はその役割はさらに重大になることでしょう。そこで、1月20日に開会される通常国会を前に、私たちは当面の焦点となっている「憲法改正国民投票法案」について貴下のお考えをお聞かせ願いたく、以下の通りお尋ねいたします。
ご多忙中とは存じますが、1月31日までに文書で下記連絡先までご返事戴ければ幸いです。ご返事は私たちのネットワーク(全国各地の草の根の市民グループなど約200団体が参加)を通じて各地の市民団体に紹介したいと考えております。

※2月7日に枝野議員から解答の返事を頂き、2月15日に私どもは議員にその解答に対するコメントを返信いたしました。
 その解答(青色)とコメント(赤色)も合わせて 掲載いたします。 3月5日付記

  1. 民主党憲法調査会が05年10月31日に発表した「憲法提言」では、憲法改正の理由として、「その時々の政権の恣意的解釈によって、憲法の運用が左右されている」「いまや『憲法の空洞化』が叫ばれるほどになっている。いま最も必要なことは、この傾向に歯止めをかけて、憲法を鍛え直し、『法の支配』を取り戻すことである」との認識が語られています。
    そうすると、「憲法の空洞化」をもたらしたのは、恣意的解釈によって憲法を運用してきた時々の政権と、それを許してきた国会に第一義的な責任があると思われますが、その責任を糾さずに憲法のほうを変えることによって「法の支配」が取り戻せるのか、はなはだ疑問です。どんな憲法を作っても、それを政府と国会が守らないのであれば、「法の支配」は実現しないのではないでしょうか。この点はいかがお考えでしょうか。

    民主党「憲法提言」では、新しい憲法を論議する第一の理由として、日本国憲法の基本理念の深化・発展という方向のなかで、新しい時代にふさわしい「未来指向の憲法」を構想する必要があるという立場を表明しています。憲法の空洞化に歯止めをかけ、「法の支配」を取り戻すということも、その具体的要素の一つであると位置づけています。
     この点について、貴団体のご質問状では憲法を変えるよりも恣意的解釈を行ってきた政府やそれを許してきた国会の責任を糾すことが先決であるとのお考えを表明されているようです。もちろん、私たち民主党は、国民から立法権や国政調査権を委ねられた者として、多数党や政府の暴走を監視し歯止めをかけることを、とりわけ野党第一党である自らの重要な使命と認識しており、その使命を果たすために日夜奮闘してきました。しかし、最終的には、現在の情勢のもとで憲法そのものが政府の行為についての明確な歯止めになるように、その条文を見直していくべきだと考えます。同時に、違憲審査制度のあり方などを見直し、しっかりとした憲法保障の仕組みを憲法の中に組み込んでいくことも必要だと考えます。


    枝野さんの回答にある「日本国憲法の深化・発展」とか「未来指向の憲法」という抽
    象的な言葉では、現憲法を変更すべき必然性はまったく明らかでありません。なぜ現憲法では主権在民、基本的人権、不戦非武装の原理を深化・発展させることができないのか、理由を具体的に示すべきであろうと思います。
    また「法の支配を取り戻す」のは民主党の「憲法提言」が強調しているように、憲法を守り生かすべき政府・国会・裁判所の責務であります。権力者が憲法を遵守しないことを理由に憲法の方を変え、「法の支配」をとりもどそうとするのは本末転倒ではないでしょうか。憲法に対する権力者の姿勢がそのままなら、いくら「政府の行為についての明確な歯止めとなるように」すると言っても、解釈改憲(巧妙あるいは悪質な解釈による運用)がくりかえされることになるでしょう。したがってこの点の枝野議員の説明では憲法を変えなければならない理由になっていないと思います。


  2. 憲法改正問題が浮上してきたのは、国際社会や日本の政治・社会の変化に現憲法が適合しなくなったからだという主張がありますが、本当にそうなのでしょうか。むしろ、政府・自民党などの恣意的解釈による憲法の運用が限界に来たこと、いわゆる「護憲派」とされる社民党や共産党が大きく議席を減らしたこと、最大野党となった民主党が憲法改正に積極的な立場をとったことなど、日本の政治構造の変化によることが大きいと思われます。
    実際に、憲法改正の最大の焦点とされる「9条」問題では、国民の多くは9条を変える必要性を認めておりませんし、いわゆる「新しい人権」は現憲法下での立法や施策で具体化・保障できるものばかりです。民意や立法・行政の責任を度外視して憲法改正を唱えることは、立憲主義の原理からも大きな問題だと思いますが、いかがお考えでしょうか。

    「国民の多くは9条を変える必要性を認めておりません」とありますが、このことは新聞等の世論調査によってではなく、憲法制定権者たる国民自身による憲法改正国民投票によって決せられるべきものであると日本国憲法は定めています。国会はその改正案を発議する権限を憲法によって付与されておりますので、一般論として、なぜ改正が必要か、どのような改正を行うべきか等について政党や国会が国民に提案し、国民との対話を活発に繰り広げていくことは当然であり、「立憲主義の原理からも大きな問題」だというご指摘はまったく当たらないものと考えます。
     また、人権諸規定をめぐる問題についても、質問状は「いわゆる『新しい人権』は現憲法下での立法や施策で具体化・保障できるものばかり」だと切って捨てています。しかし、課題は個々の「新しい人権」規定の創設だけではありません。多数党や政府が「国家・公共対個人」という対立図式を前提にした「国民の義務」論を声高に叫ぶなかで、これに代わる新たな公共哲学をどのように構築していくかは、「公共の福祉」概念の再定義や違憲審査基準の明確化とあわせて、きわめて重要な憲法的課題だと考えます。


    もちろん、ご指摘の通り、憲法を変えるかどうかは世論調査によるのではなく国民投票によらなければなりません。またそのためには国会が改憲案を発議することが必要です。これは憲法96条の規定から自明の理です。
    しかしさまざまな世論調査が明らかにしているように、現在、国民の6割以上が反対している9条改憲を、「国民の代表」である国会(議員)が発議しようとしていることは、その代表性を無視した行為だと言わざるをえません。「自分たち(国会議員)には発議権があるのだから、国民の多くの意思に背いて発議しても問題ないのだ」ということでは、立憲主義の原理が崩されてしまうのではないでしょうか。
     また人権規定に関して、「多数党や政府が『国家・公共対個人』という対立図式」から「国民の義務」論を叫ぶのに対して、「『公共の福祉』概念の再定義」などが重要と述べていますが、民主党の「憲法提言」にある「国、地方公共団体、企業・中間団体、家族・コミュニティ、個人の協力」による「共同の責務」論は、その「社会的権利の公共目的による『合理的な』制約」をどう規定・解釈するかによって自民党の「国民の責務」論(安保=国防は「最高の公共の福祉」)に限りなく接合する可能性もあります。だからこの「共同の責務」論も、私たちはにわかに賛成することはできません。

  3. 「憲法改正国民投票法」の問題は、自民党などの憲法改正の要求から浮上してきたもので、決して「憲法改正に中立的」な問題ではないと思います。そもそも「憲法改正国民投票法」は、憲法改正を求める人びとにとってだけ必要なもので、現憲法を守り生かすべきだと考えている人びとにとっては必要ないからです。

    近年の国民投票法制をめぐる議論が、主に自民党などの憲法改正論の一環として浮上してきたことは否定しません。しかし、議論のきっかけは何であれ、国民投票法制はもともと日本国憲法の附属法典として整備されることを予定されていたものであり、日本国憲法下で立憲主義が真に機能するための不可欠の手続き法の一つであることは間違いありません。むしろ、「多くの国民は国民投票法がないことによって何らの権利侵害や損失を受けていない」から憲法改正国民投票は必要ないのだ、という論法こそ、「立憲主義の原理からも大きな問題」だと言わざるを得ません。
     民主党は、立法府や行政府にどのような権限を委ね、どのようにこれをチェックさせていくかということに国民が不断の関心を持ち、日々その権限を行使していくということが立憲主義の核心であり、そのための不可欠の前提が憲法改正国民投票法制の整備であると考えます。


    憲法上、憲法を改正する場合は国民投票が必要となるという意味において、その限りで国民投票法制の整備が「予定されている」ということはできます。しかし今、その整備がないと「立憲主義が真に機能」しないというのは牽強付会でしょう。国民の大勢が9条も含めて憲法を変えたほうがいいと考える場合に、はじめて現実的な「立憲主義の上から不可欠の前提」となるのであって、現在の国民世論のあり方は国民投票法を必要としておらず、立憲主義の機能に何の障碍もないのではないでしょうか。

  4. 以下、議論されている「憲法改正(等)国民投票法案」の具体的内容についてお尋ねします。
    1. 投票権者の資格年齢について
      自公案は「20歳以上」とし、民主党案は「18歳以上(内容に応じ年齢要件を下げることができる)」としています。憲法は、一般の法律や4〜6年間の議員などの選挙と違って、国のあり方や人びとの自由・人権という根本原則を長期にわたって規定するもので、その改定はあらゆる世代に大きな影響を及ぼし、特に将来の日本を支える若い世代の運命を決すると言っても過言でない問題です。
      したがって、憲法改正の是非を問う国民投票においては、一定の判断能力を持つ国民はできるだけ多く選択権を保障されるべきです。現実の立法や一般的な社会生活においても、就職(義務教育修了=15歳)、少年法の刑罰適用(14歳)、婚姻(女性16歳)などとされており、市町村合併に関する住民投票で中学生(12歳以上)が参加している例もあります。この点では民主党案は自公案よりは進んでいますが、18歳よりも年齢要件を下げることができるのは「未成年者の人権に関わる場合など」と限定的で、憲法についてはさまざまな権利・義務、社会生活を認められている若い世代のかなりの部分を除外してしまうことになります。この点はどうお考えでしょうか。

      国民投票の投票権者資格年齢については、諸外国の多くの例も踏まえると、18歳とすることが妥当だと考えます。民主党は、選挙権年齢についても18歳に引き下げることを提案していますが、選挙制度はあくまでも憲法という土台の上に構築されているものであり、その土台そのものの是非を問う憲法改正国民投票について、必ずしも同一の年齢資格によるべきものとは考えません。未成年者の人権に関わる憲法規定の改正など、個々の改正のテーマによっては、両議院の議決により年齢要件を下げることができることとしています。

      ここでは枝野さんは民主党案の説明をくりかえされただけです。民主党案が投票の資格年齢を18歳以上とし、それより若い人の投票は「未成年者の人権に関わる」場合などに限定しているのは、法的にも事実上も社会生活を営む若い世代の選択権を奪うことになるのではないかという質問には答えていません。15歳以上という問題を含めて、今後の真剣な検討を望みます。

    2. 国民投票までの期間について
      国会の改憲案発議を受けて国民投票が行われるまでの期間は、単に「周知手続き」や「投票事務」に基づくのではなく、国民が改憲の是非、改憲案の意味内容を熟慮し、議論・検討するために十分な余裕があるものでなければなりません。その意味では、発議から「60日以後180日以内」とする民主党案は、「30日以後90日以内」という自公案より長くしているのは一歩前進ですが、日常の生活に追われる一般の国民が自ら考え、確信できる判断をするには、まだ短すぎるのではないでしょうか。
      まして多数の条項にわたる改憲案が発議された場合、最大でも180日というのは、議論・吟味が未成熟なまま投票を強いることになりかねず、憲法への信頼や安定性からも禍根を残しかねません。まして、この法律の下で日本は初めて国民投票を体験するわけです。また枝野さんは国会の審議の中でも、たびたび低投票率に終わらせてはならないことを強調されておられます。その意味からも十分な期間が必要でしょう。「60日以後180日以内」とされた理由は何でしょうか。

      ご指摘の通り、国民が憲法改正の是非、改正案の意味内容を熟慮し、議論・検討するためには十分な期間が必要です。また、周知期間は、一律に決めるべきものではなく具体的テーマごとに検討する必要もあります。他方、憲法という国の根本に関わる法規範について改正が発議された場合、国政にも少なからぬ影響を及ぼすものと考えられます。特に、改正が発議されながら長期間にわたって結論が出ないという状況が続く場合には、国民生活全般にも影響が生じる可能性もあり得ます。これらの事情を勘案し、民主党案では発議の日から60日以後180日以内で国民投票の期日を定めることとしました。

      枝野さんは「十分な期間が必要」と認めながら、「60日以後180日以内」とした理由は、「改正が発議されながら長期間にわたって結論が出ないという状況が続く場合には、国民生活全般にも影響が生じる可能性もあり得る」としています。しかしスイスの有権者の署名による憲法改正発案制度では、署名登録から18カ月(1年半)の期間が定められ、発案が成立してからも投票まで5年をかけています。イタリアでは、憲法改正法案は各議院で少なくとも3カ月の期間を置いて、引き続き2回の審議での議決が必要とされています。このような期間をとっていても、スイスやイタリアで「国民生活全般に影響が生じ」たという話は聞きません。民主党案が自公案の「30日以後90日以内」より長くとっているのはよりマシといえますが、最長でも「180日」に限る説明にはなりません。まして今回は私たちが初めて体験する国民投票です。1年の期間があっても長くはないはずです。

    3. 国民投票公報の作成について
      民主党案では,「国民投票公報の作成」「憲法改正案の要旨及びその解説資料の作成」「周知・啓発活動」にあたる機関として,国会に委員6人で構成する「国民投票委員会」を設け,このうち発議に反対した者は「2名以下」としています。また,これとの関連で,貴下は昨年,慶応大学で行われたシンポジウムで,国民投票公報には「反対意見も3分の1の分量で載せることも保障してはどうか」とも言及されています。
      これは,発議の議決が3分の2以上の賛成でなされることとの関係から,「国民投票委員会」の構成も公報のスペースも賛成と反対の割合を2:1にそろえたという点で公平を期したかのように見えます。しかし,発議を受けて判断し,投票する国民にとって何よりも重要なのは,判断材料としての正確な情報がきちんと提供されることではないでしょうか。
      あらかじめ紙面構成に差をつけた場合,国民に予断を抱かせ,一定の方向に誘導することになりかねません。票決の多寡とは切り離して,それぞれの考え方を公平かつ客観的に示し,その判断・選択を投票権者である国民に委ねるべきではないでしょうか。
      また,「公正・平等・中立」という観点からは,「国民投票委員会」は発議の当事者である国会ではなく,中立的な第三者機関に置いた方がふさわしいのではないかという意見に対しては,どのようにお考えでしょうか。


      民主党案では、憲法改正案の発議に反対した議員があるときは、「国民投票委員会」に「反対の表決を行った議員」のうちから各議院「二人」を超えない範囲内での委員を選出しなければならないとしています。これは、憲法改正案については、国民に判断材料としての正確な情報が提供されるために、反対議員が一人でもいる場合には、国民投票委員会が行う周知・啓発活動に賛否両論の意向が反映されるようにする意図です。
      国民投票委員会をどこに設置するかについては、日本国憲法が改正案発議・提案の権限を国会に付与しており、会計検査院のような憲法上の独立機関を設けることとしていないこと、発議案をめぐる賛否それぞれの当事者が直接その周知・啓発にあたることができることなどから、国会に置くこととしたものです。


      公報を作成する委員会に発議案に反対の意見を持つ者が「2人以下(3分の1)」しか選ばれないということが、どうして「賛否両論の意向が反映される」ことになるのか、枝野さんの回答は説明になっておりません。国会が改憲案を発議した場合は、たしかに反対意見は少数(3分の1以下)ですが、国民投票は選択権を持つ国民が賛否を決めるのであって、その国民に配られる公報に載せられる意見が初めから「改憲賛成2:反対1」の割合で作られているのでは改憲の発議者の方に投票を誘導することになり、まったく公平・公正ではありません。
      いわゆる「立法不作為」論も、多くの国民は国民投票法がないことによって何らの権利侵害や損失を受けていないのですから、私たちは憲法改正を求める人びとが改憲プロセスを進めるための口実として持ち出しているものにすぎないと考えざるをえません。この点はいかがお考えでしょうか。

    4. 内閣の関与について
      一部には、内閣にも改憲案の提出権(発案権)を認めるべきとの意見がありますが、主権者の代表である国会が改憲案を発議し、主権者である国民が投票によって是非を決するという憲法制定権力の行使にあたって、行政機関である内閣が関与したり主導権を握るようなことは許されないと思います。したがって発案権はもとより、国民投票運動への内閣の関与・発言は厳しく禁止されるべきだと考えますが、いかがですか。

      民主党案では、内閣による憲法改正の発案を認めていません。また、国民投票の実施に関する事務についてのみ中央選挙管理会、都道府県・市町村の選挙管理委員会が行うものとしており、国の行政機関や地方公共団体の執行機関が改正案の内容について意見・論評を発表してはならないものとしています。

      内閣の発案や国・地方の行政機関の意見・論評を禁じるのは当然です。

    5. 投票用紙及びその様式について
      「投票用紙及びその様式」について、自公案は「発議の際に別に定める法律」に委ねていますが、これでは国民の選択権を大きく制限し、事実上否定することになる「一括投票」方式の可能性を排除していません。この点、民主党案は「個別投票」を原則とし、「憲法改正の議案ごとに」投票用紙を調製して、「内容的なまとまりごとに、それぞれ一の議案」としているのは、かなり合理的です。
      しかし「内容的なまとまり」とは何を基準に決めるかによって大きく変わります。例えば9条に関連して、自衛隊(自衛軍)を憲法に明記するかどうかということと、その自衛隊(自衛軍)がどのような活動をどこまで認められるかということには異なる判断が成り立ちうるので、国民はそこまで立ち入った選択権を保障されるべきではないでしょうか。また「新しい権利」についても、「知る権利」「プライバシー権」「環境権」「犯罪被害者の権利」などが挙げられていますが、これらはそれぞれ別個の権利であり、「新しい権利」と総称されるからと言って「内容的なまとまり」があるとは言えません。
      「内容的なまとまり」の判断基準についてご説明ください。

      民主党案では、投票用紙を国会の発議に係る憲法改正の議案ごとに調製しなければならないとしており、投票実施事務を行う機関が「内容的なまとまり」を判断して投票用紙を調製するものではありません。
      なお、憲法改正案の発議にあたっては、国民がこれに対する賛否を適切に判断できるよう、内容的なまとまりごとに、それぞれ一の議案として議決することを発議機関である国会に対して義務づけることとしています。したがって、何をもって「内容的なまとまり」と判断するかは、法律の立法趣旨を踏まえて発議機関である国会が適切に判断すべきものと考えます。「内容的なまとまり」の判断基準としては、例えば、「当該条項のみの改正によっても改正目的が達せられ、かつ他の条項と齟齬を来すこととならない最小単位」と言えるかどうか、「改正目的が相互に密接に関連し、同時期に一体として国民に判断を求めることが合理的」と言えるかどうか、などが挙げられるものと思いますが、いずれにしてもこれらの判断は法律の規定とその趣旨を踏まえて国会が行うこととなります。

      私たちは、投票実施事務を行う機関が「内容的なまとまり」を判断するのではなどという誤解はしていません。枝野さんが「内容的なまとまり」の判断基準として例示する「当該条項のみの改正によっても改正目的が達せられ、かつ他の条項と齟齬を来すこととならない最小単位」というのは理解できますが、「改正目的が相互に密接に関連し、同時期に一体として国民に判断を求めることが合理的」というのは抽象的で解釈の幅が広く、判断基準としては不十分で危ういものです。結局は「いずれにしても判断は国会が行う」というので、多数党の過半数での議決で「内容的なまとまり」が決められることになり、とくに9条問題でいくつもの選択肢が「一括」にされる危険性があります。

    6. 投票の方式について
      投票の方式について、自公案は「発議の際に別に定める法律」に委ねていますが、その原案とされている議連案では「○又は×」を記載し、民主党案は「憲法改正(案)に賛成するときは投票用紙の記載欄に○の記号を記載」することになっています。この点、「○の記号以外の記載又は何らの記載もしていない場合」、自公案はそれらの投票を「無効票」として除外するのに対し、民主党案はそれらを「反対票」とするのが大きく異なっており、民主党案の方が合理的です。
      これは絶対に譲れない原則とすべきだと思いますがいかがでしょうか。

      憲法改正国民投票は、国民の積極的な賛成意思を基準に考えるべきです。よって、記載欄への○印以外の記載は、反対票とされるのが妥当だと考えます。

      「○印以外の記載は反対票とされる」というのは、他事記載票や白票を「無効票」とする自公案より優れています。ただ、それでも投票にあたって現行憲法との比較ができない投票方式(投票用紙の形式)では国民に十分かつ公正な判断を保障できるかという問題が残ります。

    7. 過半数の「分母」問題について
      「過半数の賛成」について、自公案は「有効投票の過半数」とし、民主党案は「賛成投票の数が投票総数の2分の1を超える場合」としています。民主党案の方がより広い「分母」を採っていることは認めますが、それでも改憲という重大問題の決定には適切とは思われません。投票率が低い場合、ごく少数の賛成票で憲法改正が成立することになりかねないからです。
      原理的には、「投票権者の2分の1を超える賛成」とすれば、この問題は解決できるでしょう(あるいは少なくとも「投票権者の4分の3以上の投票で国民投票が成立し、その2分の1以上の賛成で改憲案を承認」などと投票率を高く設定すれば、かなり「投票権者の過半数」に近づけられます)。国民の大多数が参加しなかった投票で「国民の憲法」が決まるなどは、何としても避けるべき事態でしょう。
      この点を制度設計にインプットするかどうか、ご意見をお聞かせください。

      法律的に投票率50%未満の場合は国民投票自体が成立しないという規制をかけると、改正案反対派の不戦勝になるという弊害が考えられます。そもそも国会は投票率が50%を超えないような発議はすべきでないですし、投票率が50%未満の場合は、発議者が政治的責任を負うべきだと考えます。

      「投票率が50%未満の場合は国民投票自体が成立しない」とした場合、なぜ「改正案反対派の不戦勝になるという弊害」だと考えるのでしょうか。投票率が50%未満になってしまうということは、投票権者の過半数が国会が発議した改憲案にソッポを向いたということを意味しており、その場合に国民投票自体が成立しないとするのは道理に合っています。枝野さんは「そもそも国会は投票率が50%を超えないような発議はすべきでない」と言いますが、事前に投票率を知ることはできないのです。また枝野さんは「投票率が50%未満の場合は、発議者が政治的責任を負うべきだ」と言いますが、どんな政治的責任をとるのか、とれるのか明らかではなく、投票が終わってしまった後の抽象的な責任論では意味がありません。

    8. テレビ広告について
      「国民投票運動」に関して、自公案が設けているメディア規制は自民党側が緩める姿勢を示してきていますが、これは当然です。一方、「運動の自由」原則は、宣伝・広告・費用などについて無制限ということにもなります。
      その際、最も懸念されるのは、例えば「テレビ広告」も無制限でいいかという問題です。テレビ広告には多額の費用がかかりますが、影響力も大きく、資金力の豊かな側が朝から夜中まですべての(あるいはほとんどの)広告時間を買い占めた場合、国民は心理的にも偏った判断に導かれかねません。「運動の自由」が国民の自由で自主的な判断をもたらすための基本原則だとすれば、テレビ広告の独占はその逆の結果をもたらすことになりえます。スイスがテレビ討論は認めても、テレビ広告を禁止しているのはそのためでしょう。
      この問題について、いかがお考えですか。

      テレビ広告については、例えば人の顕在意識を通り越して潜在意識に繰り返し働きかけるような、いわゆる「サブリミナル効果」などを狙ったスポット広告などの問題があることは認識しております。しかし、テレビ広告一般について一律の法的規制を行うべきかどうか、そもそもどこまで有効な法的規制が可能か、などについて十分な検討が必要と考えます。

      私たちは、「サブリミナル効果」的なテレビ広告だけを問題にしているのではありません。その種のものだけでなく、莫大な資金を投入して多数回、長時間のテレビ広告をうつこともありうるのが問題なのです。「十分な検討が必要」という説明なので、結論を待ちたいと思いますが、公平なテレビ討論の実施とテレビ広告の禁止というスイス方式が合理的ではないかということも踏まえてもらいたいと思います。

    9. 運動規制について
      国民投票運動に関して、自公案にある「公務員・教育者の『地位利用』禁止」条項は、拡大解釈・適用の恐れが大きく、数百万人の公務員・教育関係者の「個人としての運動」を大きく萎縮させる効果を持つことになるでしょう。その点で運動は原則自由でなければならないと思います。 そもそも「地位利用」とは何を指すのか、どのような行為が禁止・規制の対象になりうるのか、公職選挙との異同は何かなど、具体的に示されなければならないと考えますが、いかがですか。

      民主党は、基本的に刑法や国家公務員法等、他の法律で刑事制裁が定められている行為類型については、国民投票法制のなかで加重類型などは設ける必要はないと考えます。また、例外的に運動を規制する場合は、政治的表現の自由を不当に制限する運用がなされないよう、十分な歯止めを設ける必要があると考えます。

      「刑法や公務員法等で刑事制裁が定められている行為類型には加重類型を設ける必要はない」ということですが、それだけでは最近多発しているビラ配布弾圧事件のような政治的表現の自由を否定し、逮捕する公安警察・検察の不当な行動はとめられません。枝野さんは「十分な歯止めを設ける必要がある」と言いますが、どのような歯止めで、どれだけ有効なのでしょうか。もっと具体的な説明が必要だと思います。

    10. 定住外国人の意見表明権などについて
      自公案は「外国人の国民投票運動」を禁止するとしていますが、少なくとも定住外国人は長期にわたり憲法とそれに基づく法令で権利・義務を付与され、それに従って生活しています。これら「日本の住人」にとって、憲法が変わるかどうか、またどう変わるかということは、彼らの権利・義務と生活にとって大きな影響を及ぼします。それに対して「意見表明」さえ禁止することは、日本の社会を国際的に開かれた多様性あるものにしていく必要に逆行するのではないでしょうか。
      実際、例えば外国政府が日本の憲法改正について言及・評価することはこれまでもあったし、これからも避けられず、それが瞬時かつ大々的に日本社会に伝えられるのですから、「国内の外国人」だけに意見表明を禁止することは無意味です。民主党案には具体的言及がありませんが、この問題はどうお考えでしょうか。
      また、一定の要件を満たす定住外国人には、国民投票に際しては「国民とみなして」投票権を付与すべきだとの意見についても、お考えを聞かせてください。

      特定候補者の当選を目的とする選挙運動と異なり、憲法改正問題について政治的な意見表明と国民投票運動の切り分けはほぼ不可能と言わざるを得ないことから、民主党案では、運動規制は基本的に「規制ゼロ」から考えることとしています。定住外国人はもちろん、外国報道機関や外国人旅行者であっても政治的な意見の表明、政治的意見にわたる論評を行う権利は通常保障されるべきですので、これらの者について特別な規制は困難であるし、設けるべきではないと考えます。
       一方、投票権については、日本国憲法を基礎づける国民主権原理に照らして、その制定・改廃権限が日本国民に属しているものと考えるのが適切であり、永住外国人等にこれを付与する考えはありません。


      「運動規制は基本的に『規制ゼロ』から考える」とし、「定住外国人、外国報道機関、外国人旅行者であっても政治的な意見の表明、政治的意見にわたる論評を行う権利は通常保障されるべき」というのは合理的です。ただ永住外国人への投票権付与の問題は、民主党の言う「未来指向の憲法」という考え方からも、はたして切り捨てしまってすむことなのでしょうか。再考していただきたいと思います

    11. 訴訟提起について
      「国民投票の効力」あるいは「成否の効力」の無効、または「効果発生の停止」などの訴訟について、自公案は「30日以内に東京高裁に提起」とし、民主党案は「○日以内に東京高裁に提起」としています。これら訴訟は憲法改正の成否をめぐる重大な訴訟ですから、主権者たる国民が訴訟を提起するのに十分な時間と適切な条件を保障すべきです。
      そもそも「30日以内」に提訴に必要な証拠や書類を整えるのは不可能に近く、事実上、国民の提訴権を認めないに等しい規定ですが、貴下はどの程度の期間を考えておられるのでしょうか。その理由も含めてお聞かせください。
      また提訴先を「東京高裁」に限定したのはなぜでしょうか。どの地方に住む国民にもアクセスが容易になるように、少なくとも「各高裁」としないのはなぜでしょうか。


      出訴期間を何日かにするかは、国民投票の効果の早期確定の要請と出訴準備に必要な時間的余裕を踏まえ、検討していくべきだと考えます。
      国民投票無効等の訴訟は、中央選挙管理会を被告として提起することとしていること、個々人の利害に基づく紛争ではないことや、別に定める投票効果停止決定の手続きとの関係などからも、東京高等裁判所1か所で集中的に審理させることが適当であると考えます。

      出訴期間については「検討していく」ということですから、その結論や考え方を見守りたいと思います。ただ、東京高裁に限定する理由として「中央選挙管理会を被告として提起」とか「個々人の利害に基づく紛争ではない」ということが挙げられていますが、「国」を被告とする訴訟は全国で行われており、また個々人の利害を超えた裁判もまれではありません。この問題も再考を求めたいと思います。

以上について、できるだけ分かりやすくご返事いただければ幸いです。

許すな!憲法改悪・市民連絡会
事務局長  内田雅敏
事務局次長 高田 健

日本消費者連盟 富山洋子
日本YWCA 毛利亮子
ふぇみん婦人民クブ 山下治子

連絡先/許すな!憲法改悪・市民連絡会事務局
東京都千代田区三崎町2−21−6−301市民ネット内
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