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民主党憲法調査委員会は05年10月31日の総会で、「憲法提言」を決定した。当初、3月に予定されていたが半年以上遅れ、自民党が10月28日に「新憲法草案」を発表したのに対抗し、とりまとめを急いだものだ。
全体の構成は5部に分かれており、「未来志向の憲法を構想する」、「国民主権が活きる新たな統治機構の創出のために」、『人間の尊厳』の尊重と『共同の責務』の確立をめざして」、「多様性に満ちた分権社会の実現に向けて」、「より確かな安全保障の枠組みを形成するために」というタイトルがつけられている。しかし言葉の「美しさ」とは別に、その内容は「改憲必要」論を否定するものばかりであり、9条については不戦・非武装の平和主義を生かさず、破壊してしまうものになっている。
まず、日本国憲法が「平和国家日本の確立・持続」と「人権意識・民主主義を根づかせる土台となってきたことを認識し」、「それらを強化・発展させる」という立場から、「憲法論議が盛り上がってきている状況を歓迎」している。そこから「未来志向の憲法構想」「新たな時代にふさわしい『新しい国のかたち』」を唱えている。しかし、なぜ「強化・発展させた新しい憲法」が必要かという理由は、次に見るように、きわめて薄弱か、そもそも根拠になりえない。
「提言」は、「曖昧さのつきまとう憲法解釈が、国際社会の要請や時代の変化に鋭く反応をする気概を人々から喪失させているのではないか」と懸念し、「時々の政権の恣意的解釈」による「憲法の『空洞化』」に歯止めをかけ、「憲法を鍛え直し、『法の支配』を取り戻す」と言う。とすると、問題は政権による憲法の恣意的解釈や空洞化であって、憲法に欠陥があるわけではない。憲法の規定は、ある程度抽象的な「原則規定」であって、罪はその規定の精神に背く恣意的解釈や空洞化をしてきた政権にある。したがって必要なのは、憲法の規定と精神に忠実な政権・国会をどうつくるかということにある。そうでないと、どんなに「未来志向の憲法」をつくり「憲法を鍛え直し」ても、恣意的解釈や空洞化はなくならないからだ。民主党の論法は、改憲の根拠になりえない説明を持ち出すという誤ったものだ。
「提言」は、「民主党が5年間の憲法論議を通じて獲得した価値」として「新しい憲法の5つの基本目標」を示している。「国民が参加し責任を負う新たな国民主権社会の構築」、「普遍的な人権保障と併せて『新しい権利』を確立」、世界に『環境国家』への道を示し、国際社会と協働する『平和創造国家』日本を再構築」、「活気に満ち主体性を持った統治機構の確立と、民の自立・共同に基礎を置いた『分権国家』の創出、「伝統と文化の尊重、個人・家族・コミュニティ・自治体・国家・国際社会の重層的な共同体的価値意識の形成」の5つ。
しかしこれも、現行憲法は「国民主権社会の構築」の障害になってはいない。普遍的な人権保障も「新しい権利」も現行憲法で可能で、むしろそれは現行憲法の最大の価値であり目標である。「環境国家」は現行憲法で可能であり、「平和創造国家」は憲法9条の目的であり、9条を生かすことこそ実現の道である。「主体性を持った統治機構」の意味は不明だが、これが「対米主体性」や「大企業・圧力団体からの主体性」なら政府・国会の問題である。「分権国家」は現行憲法で十分に可能である。 「伝統と文化の尊重」「重層的な共同体的価値意識の形成」の内容は不明確で、このようなあいまいな「価値観」を憲法の目標や規定にするのは問題である。
「提言」は、「官主導の統治制度と決別して、民主導へ」を掲げている。その内容は、「首相主導の政府運営」、「国会の行政監視機能の拡大強化」、「違憲審査機能の強化、憲法秩序維持機能の拡充」となっている。しかし、それらの具体的内容は、むしろ危険性をはらむか、今後の検討課題とされていたりしており、「官から民へ」は看板だけだ。
民主党の「首相主導の政府運営」とは、行政権の主体(憲法第5章)を「内閣」でなく「首相」とし、行政機関を指揮監督し内閣を統括する「執政権」を首相に与えるというもの。現行憲法でも、内閣(閣僚)に対する首相の任免権、行政機関への指揮監督権は明記されているが、「連帯責任」を負う内閣が行政権の主体とされていることで、「首相独裁」への歯止めの意味を持っている。「官益・省益」を抑えようとするなら、それは閣僚の資質の問題であって、権限の問題ではない。官僚の抵抗や判断から自由に政策を進めたければ、首相はそれにふさわしい閣僚を任命し、また官僚を指揮監督すればいい。だから、これは憲法を変える理由にはならない。逆に、多数与党を前提としている議院内閣制の下では、首相の暴走・独裁を止める不信任の議決はただでさえ困難だから、憲法でその首相に全権を与えるようなことは危険である。「政治任用の柔軟化」も、「取り巻き政治」や「イエスマン任用」を強めかねない。「提言」は、これらの危険性について吟味しているとは思われない。
国会の下または第三者機関として「行政監視院」のようなものを置くことは、現行憲法下でも国会が法律をつくれば、かなりの程度可能である。それを追求しないで、あるいは自民党の抵抗をそのままにして、それを改憲の理由にしようというのは本末転倒である。また国政調査権の行使を少数でもできるようにすることは当然だが、それは現行憲法で可能であり、問題は多数与党の拒否していることにある。衆参の役割分担論は、それが議会の活性化につながる保障はない。また選挙制度も、どこまで、どのように憲法に書き込むか不明で、そもそも民主党は「民意を反映する選挙制度」に反対して小選挙区制を支持してきた政党である。「政党規定」を憲法に置こうというのも要注意である。
最高裁の違憲判断が少ないことを理由に、また内閣法制局に憲法判断を許さないとして、「憲法裁判所」の設置を求めている。しかし最高裁の問題は、政府・国会に対する最高裁判事の「政治的考慮」の姿勢であり、そのような裁判官を内閣が任命してきたことによる。また内閣法制局の憲法解釈は、政府と国会の多数が憲法を無視した法律をつくる上で、それを理屈づけ正当化する役割を担ってきたのであり、それを許してきた国会に責任がある(たとえば「自衛隊合憲論」)。集団的自衛権の行使が違憲との解釈は、自衛隊合憲論の代償・歯止めとして政府・自民党が利用してきたが、今ではそれすら政府・自民党にとってじゃまになってきており、それが内閣法制局の判断排除という主張になってきた側面が強い。民主党の主張は、自らの責任を棚上げしつつ、その動きに乗ってしまうものである。憲法裁判所をつくっても、その判事が同様の基準で選ばれ、同様の判断しかしないなら、どんな立法・政策も「合憲」とされてしまうだろう。国会の憲法調査会で議論されたように、国会多数派を代表する議長などが構成員になるなら、憲法裁判所は政府・与党の「侍女」にしかなるまい。
「公会計・財政に関する諸規定の整備・導入」は、すでに現行憲法に規定があり、それに基づいて国会が法律を整備すればできるもので、これも憲法ではなく国会の責任である。
重要課題についての国民投票制度は、現行憲法では「憲法改正国民投票」と「特定地域に関する立法での住民投票」を除いて規定はない。しかし「諮問的国民投票」やその「尊重義務」は、国民主権の原理に沿うものだから、現行憲法でかなりの制度が可能である。これも問題は憲法にあるより、政府・自民党などの反対にある。
この項は、民主党の「憲法提言」全体の約3分の1を占めている。いわば民主党の改憲論の「セールスポイント」である。しかし、「生命に対する権利」「人体統合の不可侵性」「プライバシー権」「生殖医療・遺伝子技術の濫用からの保護」「生命・生活の自己決定権」「個人的・社会的暴力の禁止」「犯罪被害者の人権」「子どもの権利」「教育への権利」「外国人の人権」「信教の自由・政教分離」「差別の禁止」「人権保障のための第3者機関設置」と羅列してある項目を見ると、いずれも現行憲法の基本的人権の規定から導きうるものばかりである。新しい技術や条約、社会的必要の出現に対しては、現行憲法の諸規定を生かして立法すれば保障・対応できる。国会でそれをしないでおいて、「憲法に書けば保障できる」という論法は誤りであり、責任転嫁である。
「共同の責務」として、「地球環境保全・環境優先の思想の言及」「自然環境の維持・向上への国・企業・中間団体・家族・コミュニティ・個人の責務」「未来への責任」「公共のための財産権の制約」などが提案されている。これら自体は必要かつ重要であるが、現行憲法でそれができないものではなく、国会でしかるべき立法を行うべきだ。さらに「公共の福祉」概念を、「人権相互の調整原理」と「社会的価値の実現・確保のため」とに区分するという「再定義」の主張になると、危険性さえ加わる。後者は自民党の「公益・公共の秩序」論につながる恐れがあり、「公権力の恣意性の排除」より、人権保障の除外規定になりかねない。
「新しい人権」論でも、まず立法で保障しようという姿勢が見られない。「知る権利」「情報社会に対応するプライバシー権」「リテラシー(読み解く能力)確保と対話の権利、学習権」「労働の権利、職業選択の自由の再定義」「知的財産権」などは、現行憲法下で立法・行政で拡充すべき課題であり、その意味で立法・行政の怠慢の問題である。貧弱で問題が多いが、すでにこれらに関する法制度が現行憲法下でいくつか存在してきているのは、それが可能であることを示している。なお「知的財産権」については、グローバルな貧富の格差、技術格差の面から再検討が必要とされていることを付言しておく。「国際人権法の批准」は当然であり、改憲とは無縁の問題である。「憲法に『国際人権法』の尊重」や「適切な国内措置を講ずる義務」を明確にするというが、すでに現行憲法に「条約遵守義務」の規定(98条2)があり、批准した条約の履行に必要な国内措置をとることも定着している。それが遅れていたり不十分なものがあるのは、したがって憲法の問題ではなく、国会・政府の責任である。
現行憲法が地方自治の原則的規定を定めているにもかかわらず、「自治体の組織・運営・財政の全般にわたって国の法律によるがんじがらめの統制が行われてきた」との認識は正しい。とすれば問題は、「国のがんじがらめの統制」を打破する法律・行政への改革を進めることである。
「コミュニティ→基礎自治体→広域自治体→国」という原理の明確化とその実現も、そのような立法(地方自治法や地方分権基本法などの充実)によって可能であり、現行憲法はそれを否定していないどころか、「地方自治の本旨」(91〜94条)に沿うものである。「自治体の立法権限の強化」「住民自治に根ざす多様な自治体のあり方」「財政自治権・課税自主権」も同様である。
「提言」は一応、現行憲法の「平和主義」を高く評価し、「今後も引き継ぐべき」だと言う。しかしその「平和主義」には憲法9条2項の「戦力不保持・交戦権否認」の規定は言及されていない。一方で、「日本は、一国による武力行使を原則禁止した」「国連憲章とそれによる集団的安全保障体制を前提と している」ことを強調することで、集団的安全保障体制への参加論につなげる姿勢がほの見える。
「提言」のポイントは、「国際法の枠組みに対応した『制約された自衛権』の明確化」「国際貢献のための枠組みをより確かなものに」という議論である。は個別的自衛権の行使だけでなく、集団的自衛権の「制約された行使」をも含もうとするもので、は国連や国際機関、または自民党が主張する「国際協調活動」をも含みうる表現になっている。
「提言」は、「わが国の安全保障に係る憲法上の4原則・2条件」を掲げている。4原則とは、平和主義の「基本精神を土台とし」「国際社会の平和を脅かすものに対して、国連主導の国際活動と協調してこれに対処」、国連憲章51条による「緊急避難的な活動に限定される『制約された自衛権』」、「国連の正統な意志決定に基づく安全保障活動(国連多国籍軍やPKO)への参加と武力行使の自主的選択」(それ以外は参加しない)、「指揮権の明確化と『民主的統制』(緊急時の指揮権の発動手続き、国会の承認手続きなどシビリアン・コントロール)」の4つ。しかし国連憲章51条には集団的自衛権の行使も含まれており、個別的自衛権とともに、もともと「緊急避難的な」「制約された」ものとして設けられた。それが米国などの大国によって51条も「自衛権」も恣意的に解釈され、先制攻撃の根拠にまで拡張解釈されてきた。その現実に照らせば、民主党の「制約された自衛権」論は事実上、実効性のない「言葉」にすぎない。「国連多国籍軍やPKOへの参加」と「武力行使の自主的選択」は、拡大されてきたPKO協力法以上に武力行使に踏み込むものだ。それらに「民主的統制」を加えても「首相の指揮権と国会承認」が法定されるだけで、日本が海外で武力行使する道を開くことに変わりはない。「2条件」として、「専守防衛の考え方と必要最小限の武力行使」、「憲法附属法としての『安全保障基本法』を持ち出している。しかし「専守防衛」や「必要最小限の武力行使」という言葉が、ほとんど何の歯止めにもならなかったことは、近代史を見ても現代の世界を見ても、自衛隊の世界有数の「戦力」への増強と日米共同作戦体制の強化を見ても明らかである。
このような議論をする民主党には、国連と米国、5常任理事国との関係、国連そのものの安全保障機能のあり方が問われており、日本が非軍事・文民による国際協力で大きな役割を果たしうることについての認識がまったくない。その結果、古い「普通の(軍事的)国」論に陥っている。特にアジア地域について、日本が積極的に「非同盟・紛争の平和的解決、協力と共生の地域システム」を創り出すという最も重要で未来志向の発想はない。そしてこれらは、憲法9条を変えるのではなく、9条を生かす道として開かれている。このように民主党の安全保障論は、9条の「平和主義」の否定と破壊でしかない。
[2005.11.8 憲法を生かす会・筑紫建彦]
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